容庚がまとめた金文解読の集大成としての金文文字の辞書が金文編である。
中華書局出版刊
現在知られている最古の漢字は、牛の肩胛骨や亀の甲羅の腹側に 占いの内容を刻んだ甲骨文です。 殷の都が殷墟、即ち現在の河南省安陽市に置かれていた、 だいたい紀元前14世紀から11世紀にかけて用いられていました。 金文は甲骨文からやや遅れて、殷墟中期頃から使われますが、 文字構造は甲骨文によく似ています。 鋭角的な甲骨文に対し、金文は円やかですが、 それは甲骨文が硬い骨の上に刀で刻んで書かれたのに対して、 金文は筆で書いた文字を特殊な技術を使って器の鋳型に写し取るというように、 書写技法の違いによるものなのです。 殷が滅び、西周時代 (B.C. 11世紀頃〜B.C. 770年) に入ると 甲骨文は姿を消し、金文の全盛時代となります。 殷代の金文は短いものばかりですが、 西周時代にはかなりの長文の金文が作られるようになります。 西周の終り頃に作られた「毛公鼎」という器には、 497字にものぼる文字が鋳込まれています。 今回紹介する「大克鼎」も西周中期に作られた器です。
春秋戦国時代 (B.C. 770〜222) になると、 群雄割拠の動きに呼応するかのごとく、文字は各地で独自の発展を遂げ、 分裂の様相を呈します。秦 (B.C. 221〜B.C. 207) の始皇帝が天下を統一すると、 地方色の強い文字の使用を禁止し、 秦の文字である篆書や隷書を 全国隅々まで使用するように強制しました。 これは秦が文書による行政を重視しており、 文字が不統一であると行政に差障りが生じるからなのです。 漢代 (B.C. 206〜B.C. 7) 以後の文字は この隷書の基礎の上に発展していきます。 我々の普段使う楷書とは、 もともとは筆画を揺るがせにしないで書かれた隷書をあらわす言葉でした。
ところで、秦の都咸陽は陝西省の西安付近にあり、 この一帯は周王朝の中心地でもありました。 そのため、秦の文字である篆書や隷書は、 西周金文の字体をもっとも忠実に継承しています。 秦の文字統一は、このような文字を後世の文字発展の基礎に据えたという点で、 極めて重要な意味を持ちます。 もし、文字統一が秦ではなく楚や斉などの他の国によって 成し遂げらていたならば、我々の使う漢字も違った形になったでしょうし、 甲骨文や金文の解読もいっそう困難であったに違いないのです。
とはいえ、金文は3000年近くも前の文字であり、 その解読は容易ではありません。 既に前漢の時代には、金文は普通の人には読めない文字になっていました。 このような金文をどのようにすれば読めるのか、 「大克鼎」を見ながら説明したいと思います。
「大克鼎」というのは西周中期、孝王の時代に、 克という人が作った鼎です。 高さ93センチ、口径76センチ、重さ200キロに達する大変大きな器で、 同じ克の作った別の鼎と区別するために、大の字を付けて呼ばれています。 鼎は食物を煮るための3本足の鍋です。 現在も福建省あたりには、鍋のことを「鼎」と呼ぶ方言があります。 しかし、このような青銅製の鼎は、実際は物を煮るためではなく、 既に煮上がった肉などをお供えも盛りつけるために使われたのでしょう。 この器は。1890年頃陝西省扶風県で掘り出され、 現在は上海博物館に収められています。
金文を解読するには、後漢 (25〜220) の許慎という人が著した 「説文解字」) (略して「説文」) という字書が欠かせません。 「文」とは「文」や「子」のような単体の文字、 「字」とは「字」という字が「宀」と「子」から構成されるように、 二つ以上の部分からなる文字を指します。 つまり、「説文解字」とは、 単体の文字についてはその意味を説き、 複合体の文字についてはそれを分解して解説するという意味なのです。 「説文」は篆書9353字に対し、 その文字構成と字義とを解説した現存する最古の字書です。 前に述べましたように、篆書は金文をかなり忠実に継承している字体なので、 「説文」を手がかりに金文を篆書に同定する作業が、 金文解読の基礎となります。 このような研究は、宗の時代に始まり、その後中断を経て清代に盛んになり、 その成果は容庚という人の「金文編」 という字書に集成されています。 収録字数は解読されているもの2420字、 未解読文字および図章のようなもの1132字です。 従って、この二つの字書が、 金文を読むためのもっとも基本的な書籍ということになります。
こちらでは、 「大克鼎」に記録されている各文字と、 「説文解字」及び「金文編」の対応する箇所とを関連付けて 表示していますので、ぜひ参考にして下さい。
「大克鼎」の 2行目第3字 |
「金文編」の 該当箇所 |
「説文解字」の 該当箇所 |
まず簡単な例から見てみましょう。 これは篆書と字体が似てますが、2行目第3字は「心」です。 この字は「説文」に金文とほとんど同じ形の篆書が収録されています。 篆書のこの字が「心」であることは「説文」から明らかですから、 金文の字体を「説文」の篆書に同定することにより、 「心」という字であることがわかるのです。
「大克鼎」の 1行目第3字 |
「金文編」の 該当箇所 |
「説文解字」の 該当箇所 |
次に、1行目第3字「穆」を見ましょう。 これは篆書と字体が似てますが、全く一致するわけではありません。 そこで、この字を「穆」に同定するには、もう少し理由が必要になります。 この字の右下に二本短い横線があるのがお分かりでしょうか? この記号は重文符合と呼ばれ、この字を繰り返して読むことを表します。
そして、この文字の下には
即ち、「文という謚号で呼ばれている私の先祖師華父」という人名が来ます。 実は、「穆穆」+人名 というのは、 中国最古の詩集である「詩経」にも出て来る言葉で、 「穆穆」は人を誉め讃える言葉であると考えられています。 つまり、金文のこの字の用法は、古典に於ける「穆穆」と非常に似ているのです。 このことによって、この字を「穆」に読むことが裏付けられるのです。
釈文を作るには、文字を構成する個々の部分を正確に認定することが必要です。 4行目第9字は、左側に道をあらわす「彳」 (てき) 、 右側は上に足の象形文字である「止」、その下は「衣」の中に「口」があり、 さらに、その下に「止」という文字があります。 左側の「彳」と右下の「止」の組み合わせは、 後に「しんにょう」になります。 「衣」の中に「口」があるのは「哀」と言う字で、 更に、その上に「止」が加わると「袁」になります。 つまり、「しんにょう」+「袁」で、「遠」と釈されるのです。
前にも述べましたように、 金文の総次数は未解読の文字を含めて3000字程度ですから、 全ての言葉を表すことはできません。 そこで、ある文字を使って発音の似ている別の言葉を表示することが 頻繁に行われました。 これを「仮借」と呼び慣わしています。 たとえば、1行目第6字は「且」という字です。 これは「まないた」をあらわす象形文字ですが、 言葉としては祖先の「祖」を表しています。 西周時代、「祖」という字はまだ存在しませんでした。 そこで、「祖」と発音の近い「且」という字を利用して 「祖先」の「祖」と言う言葉を表したのです。
最後に、比較的高度なテクニックを要する例を一つ紹介しましょう。 4行目第1字目を見て下さい。 この字は文字構成は明確で、(そう)、(たい)、(しん) の3部分から 構成されます。 この字は (せつ) という字で、「説文」にも収録されており、 「罪」という意味であると解説されています。 ところが、いざ文章を読むとなると、「罪」では意味が通じません。 このような場合、大きな辞書を使ったり、 索引で古典文献での用例を調べるのですが、 この字はほとんど用例がなく、お手上げの状態です。
この字の左半分は、「」 (そう) と 「」 (たい) で、 これは「」(げつ) という字です。 「説文」(14上58)にも収録されています。 漢字が2つ以上の部分から構成される場合、 どれか一つがその文字の発音を表わしていることがしばしばあります。 これを「形声文字」といい、 発音をあらわす部分を「諧声符」または「声符」といいます。 そこで、この字を、「」(げつ) を 「諧声符」とする「形声文字」と見て、 これを手がかりに探っていくのです。 すると、「治める」という意味を持つ「乂」 (がい) という字が 浮かんできます。 両者は理論的に再構成された周代の発音では非常に似ており、 また文脈からも「治める」と読むと意味がよく通ります。 そこで、この字を「乂」(がい) の仮借であると解釈するのです。 無論、これは一つの解釈に過ぎません。 しかし多くの類例を集め、 それらに対しても、同様の解釈が可能であるという事実の積み重ねによって、 この字が「乂」(がい) の仮借であることが、 次第に定説として認知されるようになってきたのです。 「金文編」には既にそのことが記載されています。
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