おし葉標本とハーバリウム

大場秀章


研究資料としてのおし葉標本

 長期保存ができ、しかも管理が比較的やさしい植物学の研究資料といえば、おし葉標本をおいて他にない。おし葉標本は植物の乾物で、変色もするし、多肉質の植物では変形もしてしまう。しかし、定形の台紙に貼り収納できるので、保存のためのスペースは液浸標本など他の形態の植物標本に比べ最小で済む。凍結標本などの標本と比較して、保存のためのコストもあまりかからない。そのため何百万点もの標本を一ヵ所に集めて収蔵することが可能である。世界の植物種はおよそ二五万種と推定されているから、何百万点のコレクションというのは一種について複数点の標本を収蔵していることに他ならない。

 われわれ人間を見ても判るが、同種といっても日本人とイギリス人とはかなり違う。同じ日本人でもひとりひとり個性がある。野生動物でも植物でもこのことは人間と変わりない。ひとつの種が変わり得る幅を変異というが、この変異を具体的に示すものが標本なのである。特に分類学の研究では、変異を十分に掌握することが欠かせない。

 例を挙げて説明してみよう。屋久島に野生するツバキには直径四cmになる果実がなる。その大きさは小粒の国光や紅玉(リンゴの品種)のような大きさである。東京や京大阪の周辺に野生するツバキの果実はずっと小さい。そこで屋久島のツバキは他地域のツバキとは果実の大きさが異なることを根拠として、他地域のツバキ(これをヤブツバキという)から屋久島固有の変種、リンゴツバキ、として区別されたという経緯がある。しかし、九州や四国など西南日本各地の標本を収集していくと、ヤブツバキとリンゴツバキのいろいろな中間段階の大きさの果実をもつツバキが存在していることが判った。つまり、リンゴツバキはツバキの果実の大きさの変異の中で極端に大きな果実を結ぶ個体であった。このような個体が屋久島だけに分布するのではなく、屋久島を含む西南日本に広く分布するという情報も加わってリンゴツバキをヤブツバキから区別する意味はないという結論が導かれたのである。逆に、標本を多数収集した結果、従来は一種と考えられていた種が複数の種を含む混合であったことが判明することもある。




ハーバリウム
 分類学者は研究のためにたくさんの標本を集めることになる。集めた標本を既存の標本とつき合わせることで初めて成果をえることができるのである。標本は自らの研究を証拠付けるものであるだけでない。次の研究の重要な研究材料なのである。分類学者は標本が必要であり、たくさんの標本を収蔵する施設で研究を展開する。研究者が多数集まるところはまたどんどんと標本が集まる。悪循環という言葉があるが、これは好循環というべきか。

 植物の標本室はハーバリウム(Herbarium)呼ばれる。ハーバリウムはいろいろと便利である。居ながらにして世界中の植物をそこで見ることができる。花の女王、バラには世界に野生種が二〇〇以上あるといわれている。いまこのすべての種の花粉構造を研究するとしよう。野生バラを求めて世界中を歩き過ったとしよう。それだけで何年もかかるし、個体数も限られていて簡単には見出せない種も多いだろうし、見つけたはよいが花は終わっていることもあろう。おし葉標本は細胞のレベル以上の形態学の研究、中でも微小で硬質な花粉や種子から.マクロな形態の研究には、支障なく利用することができるのである。花粉の研究者はハーバリウムで世界中のバラの標本から必要な材料を入手できるのである。

 可憐な鷺に似た花を開くサギソウ(ラン科)は絶滅が心配される野生植物のひとつである。その減少の原因は、サギソウが高値で売れるため山草業者が自生地から根こそぎ採っていってしまうことにある。だからかつては広く各地に分布していたものが、急速に減少していったと推定される。しかし、サギソウがかつて広く分布したことを証明するものがあるのだろうか。おし葉標本はこのような情報を伝える数少ない資料でもある。

 おし葉標本からさまざまな有用物質が抽出された。被爆標本や被爆地で年を変えて採集された標本は大気中の放射能の変化などを研究する貴重な資料でもある。今日では、おし葉標本から分子レベルの遺伝情報をも得ることができるようになったように、分析解析の技術の進歩が標本の新たな利用を生み、先端研究の推進に役立っている。




おし葉標本の起源
 おし葉標本を研究の素材として利用するようになったのはヨーロッパの本草学が最初であった。しかし、それは本草学の長い歴史からみると比較的新しいことで、一六世紀に入ってからと考えられている。日本でおし葉標本を作成し研究に役立てたのは、後述するように一九世紀以後のことである。

 おし葉標本を作るのは簡単である。手短かにいうなら、植物を圧搾して乾燥させるだけでよい。本草学の歴史を述べたイギリスのアーバーは、一六世紀になるまでおし葉標本の収集を行うことが本草学で重要視されなかったことは理解しがたい、といっている。なぜなら、おし葉標本は、本草学者が発見したものを記録し、伝達する方法として、また異なった地域と異なった季節に繁茂する植物を比較する根拠として、効果的で簡単な方法であるからだ。おし葉標本の創始者はイタリアの本草学者ルカ・ギー二(一四九〇?〜一五五六)と考えられている。しかし、ヨーロッパでは一三世紀には乾燥させた花の色を保持する方法が存在したことから、もっと古い時代のおし葉標本が発見される可能性は残る。ギーニのおし葉標本技術は彼の弟子によってヨーロッパ中に広められたとアーバーは書いている。ギーニはボローニャとピサの大学に勤めた。一五五一年に台紙に乾燥させた植物をゴム糊で貼ったおし葉標本を彼はマッティオリに送り、その頃約三〇〇のおし葉標本を所持していたという記録がある。ギーニはこのことから、おし葉標本を作成していたと考えられているのだが、彼の標本は現存しない。現存する最古の標本は、彼の弟子ゲラルド・ツィボーのものであり、遅くとも一五三二年には収集を 始めている。

 アマートゥスという人は、一五五三年にイギリス人フォルクナーがおし葉標本を収集していることに触れている。アマートゥスは、標本がひとつの冊子にゴム糊で貼りつけられていたと述べている。このフォルクナーはイタリアを旅行したことがあった。おそらくはギーニからおし葉標本をつくる技術を学んだのだろう。ギーニの弟子だった著名な本草学者ターナ、アルドロヴァンディ、チェザルピーノも、一六世紀中頃におし葉標本をつくった。

 アルドロヴァンディは、全世界の植物を含むおし葉標本の収集をめざした最初の人物であった。遠方の国々の植物を描くための資料としてのおし葉標本の価値は、すぐに認められた。バーゼルの医師であったプラッターのおし葉標本は、かのモンテーニュが一五八〇年バーゼルを通ったおりにこれを検分し、『随想録』につぎのように記している。「ほかの人が薬草をその色に従って描かせる代わりに、かれは独創的な技術で自然をまるごと適切に台紙に糊づけする。そして、小さな葉や繊維はそれがあるがままの姿を示す」。かれは、ページをめくっても標本がはずれないことや、なかには実際二〇年以前のものもあることに驚嘆した。

 おし葉標本の収集をつくるための詳細な知識が記述されたのは、スピーゲルの『植物学入門』(一六〇六年刊)が最初である。スピーゲルは良質の紙にはさんで徐々に重さを加えながら圧搾する方法を説明し、植物は毎日検査し、裏返さなければならないと注意している。植物が乾燥したら紙の上にのせ、さまざまな大きさのハケでゴム糊を塗る。スピーゲルはこのゴム糊の処方も示している。次に、植物を台紙の上に移し、その上に亜麻布をかけて、植物が台紙に付着するまでむらなくこする。最後に台紙と台紙のあいだ、または冊子の中に布をはさみ、ゴム糊が乾くまで圧力を加える。

 スピーゲルはおし葉標本が重要なことを察し、ひとつを仕上げるのに費やされる労力が高い称賛に値することを認めている。彼自身はおし葉標本収集を「冬の庭園」Hortus hyemalisと呼んでいるが、「生きた本草書」とか「生きた本草図譜」、あるいは「乾いた庭園」とも呼ばれた。おし葉標本室を意味するハーバリウムという言葉が印刷物のなかで最初に登場するのは、一六九四年に刊行されたトゥルヌフォールの「基礎植物学」である。

 いまでは世界最大のおし葉標本コレクションを収蔵する王立キュー植物園、これに次ぐロンドン自然史博物館やエディンバラ植物園があるイギリスでは一七世紀の後半になっても、おし葉標本は普及していなかったらしい。ところで日本ではいつ頃からおし葉標本が作られたのかはっきりしたことは判らない。別章で述べたツュンベルクは桂川などとの文通で標本を作り送ることを依頼しているが、ウプサラ大学にそれがあるのかどうか確かめていない。

 伊藤圭介の師である水谷豊文はおし葉標本ではないが、魚拓に似た植物の印葉図を作った。これは一七四七年に刊行され渡来したキニホフ(Johann Hieronymus Kniphof)の「植物印葉図譜」をまねたものである。印葉図は葉などの全形や葉縁の鋸歯の形などを正確に知ることができる。その意味ではおし葉標本に代わる役割を果たしたのである。しかし、印葉図は印形であり、植物そのものではない。得られる情報量は限られており、おし葉標本に代わる資料ではなかった。 伊藤圭介や宇田川榕菴はシーボルトに会った後、植物採集に出かけ、おし葉標本を作った。ライデンやセントペテルブルクのシーボルト・コレクションには圭介など江戸時代の日本人の作ったおし葉標本が多数保存されている。これらの多くはシーボルトが勧めて作らせた標本と想像される。いずれもはがきよりもひとまわりほど大きめの和紙に植物を乾燥させ挟みこんだものである。こよりに墨字で植物の呼び名が記されているが、誰がいつどこで採ったかについての情報はない。標本自体も葉や花あるいは枝先を摘んだ程度である。

 質のことはさておき、このように文政年間には日本人もおし葉標本をつくったのである。国立科学博物館には伊藤圭介が作成したおし葉標本が保管されている。この標本の形態は上に述べたものに類している。東京大学に保管される圭介の標本は明治期に東京大学で用いていたおし葉標本用台紙に貼られたものである。(おおば ひであき)



参考文献
Arder,A.1938. Herbals : their origin and evolusion. Cambridge University Press.
(月川和雄訳『近代植物学の起源』八坂書房)


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