緒言
東京大学総合研究博物館には、約26万点の昆虫標本や5千点以上の昆虫書籍等が収蔵され、昆虫資料の所有数は大学博物館の中でも屈指の質量を誇る。その多くは最近の寄贈で充実したもので、特に世界的なチョウ類研究者、五十嵐邁博士(1924〜2008年)により収集された第一級資料の学術的価値は極めて高い。五十嵐博士は主にチョウ類の幼生期の生活史と形態を研究した昆虫学者として知られる。大正13年9月21日に長崎県佐世保で出生後、1947年に東京大学工学部を卒業し、大成建設(株)取締役(1979〜1985年)、信越半導体(株)取締役社長(1990〜1996年)などを歴任した実業家でもあり、作家としても偉業を残している。
大成建設時代、五十嵐博士は海外の現場を率先して引き受け、あるいは頻繁に海外の未開拓地へ出向き、未解明のチョウ類の幼虫期研究を行い、次々に大きな成果を挙げた。この研究は「世界のアゲハチョウ. 講談社(1979)」としてまとめられ、1983年に京都大学で理学博士の学位を取得した。最も有名な業績は、それまで全く幼虫期の生態や形態が不明だったテングアゲハの調査団を結成して、インドのダージリンで調査を行ない、食樹がキャンベリーモクレンであることを解明し、幼生期の形態記載を行ったことであろう。学会関係では、日本鱗翅学会の和文誌編集委員長などを務めた後、日本蝶類学会の発起人および初代会長を務め、のちに名誉会長(1999〜2008年)となった。現在の日本蝶類学会の会名や学会誌名には五十嵐博士が生態を解明した「テングアゲハ」が通称として用いられており、学会誌のシンボルイラストにもなっている。その他の著書に「アジア産蝶類生活史図鑑 1-2. 東海大学出版会(1997, 2000)」、「アゲハ蝶の白地図. 世界文化社(2008)」などがある。
作家としての業績は、海外での体験をベースに著した小説「ある飾られた死. 東京図書出版会(2005)」や「クルドの花. 朝日新聞社(1975)」などが知られる。また、1927年に駆逐艦「蕨」の艦長だった父親・五十嵐恵中佐(1889〜1827年)が海軍史上未曾有の大事故となる美保関事件で命を落としていることから、父親の事件の顛末を追跡して執筆した「黒き日本海に消ゆ—海軍・美保関遭難事件. 講談社(1978)」や「美保関のかなたへ—日本海軍特秘遭難事件. 角川学芸出版(2005)」などがある。一方で、自身も他の作家の記した小説のモデルとなっており、芥川賞作家・芝木好子氏(1914〜1991年)は同博士を主人公に見立てた小説「黄色い皇帝. 文藝春秋社(1976)」を執筆し、「旅立ちは愛か(1979〜1980年)」のタイトルでテレビドラマ化もされている。
2008年4月6日、胃癌により83歳でご逝去された後には、五十嵐博士の膨大なコレクションが残された。東京大学へのコレクション寄贈は、同博士の奥方・昌子氏の意向で2010年6月に実現した。昌子氏は世界各地の調査にも同行されて、亡夫のチョウ類研究を献身的に支えられたことでもよく知られる。寄贈内容は、東南アジア産のチョウ類を主とする約10万点のチョウ類標本、1000点を優に越える学術図書、5000点以上のチョウ類幼生期の写真や描図などである。この中には現在取引できない種、世界に数頭しか存在しない極めて貴重なチョウ類標本やタイプ標本、大図鑑等で使用された多数の原図、昆虫史に名が残る故・磐瀬太郎氏の書籍やトンボ研究の第一人者だった国立予防衛生研究所の故・朝比奈正二郎博士の満州産チョウ類標本なども含まれる。この寄贈の功績が評価されて、昌子氏には本学から功績者顕彰制度にあたる「稷門賞」も2010年秋に受賞されている。
現在、東京大学総合研究博物館では、この貴重なコレクションのデータベースを作成して、出版物やウェブ上に公開発信する計画が進められている。その第一弾として、まずは五十嵐博士が最も専門とされていたアゲハチョウ科の標本をリスト化し、当館の紀要にて出版、ホームページ上で公開することにした。大型ドイツ箱298箱に収納された計9264点からなるアゲハチョウ科の標本目録には、同博士が研究したことで有名なテングアゲハの他、世界にわずかしかないオナシカラスアゲハ、ワシントン条約・付属書Iの掲載種であるアレクサンドラトリバネアゲハやルソンカラスアゲハ、コルシカキアゲハなど、今では取引が難しい貴重な標本も多くリスト化されている。このようなデータベースには、分類学や体系学、形態学のような分野に多大な貢献が見込まれるだけでなく、生物多様性保全の基礎となるインベントリー(目録)作成としても捉えられる。分布情報を活用することで、生物地理学の他、地球温暖化や森林破壊のような環境問題を考える上での基礎的情報も多く提供されうる。本データベース公開により、国内外の様々な分野の研究に寄与し、学術標本等の重要性を広く認知させるものとなることができれば幸いである。
謝辞
五十嵐邁博士の奥方・五十嵐昌子氏には、貴重な昆虫の標本・資料等のコレクションを東京大学総合研究博物館にご寄贈頂いた。鈴木知之氏には寄贈前の標本整理および写真撮影でご支援頂いた。伊藤泰弘博士には本データベースのウェブ作成で大変ご足労頂いた。宮武頼夫博士にはデータに関する多くのご指摘を賜った。Michael F. Braby博士および近藤真理子博士には英文校閲でお世話になった。各氏に心よりお礼を申し上げる。このデータベース作成は日本学術振興会からの研究成果公開促進費(No. 248059)により一部助成されている。
参考文献
種の同定および学名の表記は主に五十嵐(1979)と塚田・西山(1980)に準拠し、補足的に以下の他文献も用いた。
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