パイロテクノロジーのはじまり

先史西アジアの石灰・石膏プラスター工業

久米正吾


■パイロテクノロジー
 火を制御する技術

 パイロテクノロジー。耳慣れない言葉かも知れない。加工過程において加熱による化学変化を利用する技術の総称だ。火熱技術とでも訳せるだろうか。大部の英語辞書をいくつかあたってみたが、掲載しているものはなかった。ただし、16世紀のイタリアの冶金学者V.ビリングッチョBiringuccioによる著述『ピロテクニア』 "Pirotechnia"に由来するとされ、考古学・人類学の分野では幅広く使われている(Rehder 2000)。

 現代のパイロテクノロジーといえば、陶磁器生産やガラス工業、セメント・コンクリート産業、鉄鋼、アルミなどの金属産業がその代表格だろう。いわゆるマテリアル工学と呼ばれる分野にかかわる技術だ。昨今はなばなしくうつるIT分野も、新素材の開発や素材の安価で安定した供給といったハード面との協調がなければ、産業としての発展は望めない。したがって、パイロテクノロジーのはじまりを調べることは、工業の発展過程を火の利用という視点から歴史的に追尾する試みであるといえる。

 加熱による化学変化を利用する、一見簡単なことのようにみえるが、その歴史は思ったほど古くない。パイロテクノロジーのはじまりをみる前に、そもそも人類が火を意識的に利用し始めたのはいつのことだったか。これまでのところ、火が初めて制御された最も有力な証拠は、約79万年前にさかのぼる。イスラエルの中期アシューリアンに相当する遺跡、ゲシャー・ベノット・ヤーコヴGesher Benot Ya'aqovから、炉跡とみられる炭化した植物の種子や木材、石器が見つかっているからだ(Goren-Inbar et al. 2004)。しかし、明かりや暖をとったり、調理に火を利用する段階から、そのエネルギーを工芸に応用する段階へと移行するのはずっと後のことである。最古の事例は、石器の専門家により突き止められている。剥離作業を簡便にするため火を用いる「加熱処理」と呼ばれる技術だ。2.2万年から1.8万年前頃フランス西部に拡がったソリュートレ文化の石器にその痕跡が認められている(Purdy 1982)から、パイロテクノロジーのはじまりは、後期旧石器時代に求められるということになるかも知れない。

 しかしながら、多くの研究者はしばしばパイロテクノロジーの起源を約1.5万年前頃の終末期旧石器時代に初現したプラスター工業に求めている。温度を管理する知識、混和物や添加剤を混入する技法など、後続する土器、金属器、ガラス生産との関連性がもっとも深いからだ。ここでは、石灰・石膏プラスター工業から先史西アジアにおけるパイロテクノロジーのはじまりについてみてみたい。

■先史石灰・石膏プラスター工業の西と東

 こんにち、石灰・石膏プラスター工業製品は身のまわりにあふれている。日本家屋の壁面や外壁に用いられる漆喰やセメント・コンクリートなどの建材が石灰工業品の代表的なものだろう。一方、石膏工業品は、医療用ギプス、陶磁器や歯科用の型取り材、塑像制作などの美術工芸用素材に用いられている。また耐火・遮音用内装材である石膏ボードも身近であろうか。

図1 シリア、テル・セクル・アヘイマルの石膏プラスター床面。幾重にもわたって床の塗り替えが行われていたことがわかる。

 先史西アジアにおいても、石灰・石膏プラスター工業品の使われ方は、現代と驚くほど類似する。まず床や壁面の上塗りに用いられるのが最も一般的利用法だ(図1)。時には厚さ10センチメートル超、一室の総重量が数トンを越える床面の例もある。もっと印象的な事例は、プラスターを上塗りした人間の頭骨や、プラスターで制作された人物塑像、ヤギ・ヒツジやガゼルなどの下顎骨が埋め込まれたプラスター塊(図2)などもある。何らかの象徴的な役割を果たしていたのだろう。そのほか、石器を着柄させるための接着剤、紡錘車や工具等の小物品の素材など多くの用途に用いられていた(図3a,b,c)。さらに、後で詳しくふれる石灰・石膏プラスター製の容器(白色容器)は、土器の起源にかかわっていると目される重要な遺物である(図4a,b)。

図2 ヤギ・ヒツジやガゼルの下顎骨が埋め込まれた石膏プラスター塊。
シリア、テル・セクル・アル・アヘイマル出土
図3 石膏プラスター製の道具類。破損したプラスター床面や白色容器がしばしば再利用される。
  (a)杵状の道具、(b)紡錘車、(c)スクレーパー。シリア、テル・セクル・アル・アヘイマル出土
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 これまで石灰と石膏という二つのプラスターを併記して用いてきたが、この両者は実は似て非なるものである。肉眼観察で石灰製と石膏製の考古標本を見分けることは極めて困難だから、標本の組成が同定されていない場合などには、しばしばこれらをまとめて白色プラスターと表記することもある。いずれのプラスターを製造するにも、原料の石灰や石膏を焼成するのは同じだ。それでは、石灰製と石膏製のプラスターにはどのような違いがあるのだろうか?工学ハンドブック類(石膏石灰学会編1992;無機マテリアル学会編1995など)を参考して簡単にまとめてみよう。

図4 プラスター製容器。いわゆる「白色容器」である。円形ないし楕円形のもの(a)が一般的だが、矩形の容器(b)も認められる。シリア、テル・セクル・アル・アヘイマル出土
a
b
図5 石灰・石膏プラスターの製造・硬化プロセス(Rech 2004;石膏石灰学会編1972より)

 図5にこれらプラスターの製造工程の概略図を示した。最も大きな違いは加熱温度である。石灰は800℃をこえる高温焼成が必要なのに対し、石膏は200℃を下回る温度で十分だ。ただし、石膏の場合、温度を上げすぎると可塑性を失った死焼石膏が生成されることが知られているから、むしろ低温に温度を管理することが要求される。もうひとつ製造工程において石灰と石膏では大きな違いがある。石膏は焼成して焼石膏を得ることで素材の準備ができる。一方、石灰の場合、いったん焼成して生石灰を生成させただけではペーストとして用いることができない。生石灰を水分と混和させて、消石灰を得る「消化」と呼ばれる作業が必要だ。この作業は水をかけたり、大気中に含まれる水蒸気を自然に吸収させることで達成できる。こうして得られた消石灰や焼石膏がプラスターの素材となる。その後、砂、灰あるいは藁、家畜の被毛・糞などの有機物で構成された混和物ないし添加剤をまじえて、水と混和させることによって、プラスターとして利用可能だ。このように製造工程の異なる石灰と石膏だが、物性もやや異なることが知られている。一搬に、石灰は硬質で耐水性が高いが石膏は軟質で耐水性に乏しいとされる。

 現代の石灰・石膏工業は、工業炉を用いたきわめて近代的な産業である。石膏にいたっては、天然資源に乏しい我が国の場合、重化学工業からの副産物である排煙脱硫石膏(化学石膏)が一般的で、天然に産出する石膏原石を用いた製造は近年まれになった。それでは、西アジア先史時代の石灰・石膏プラスター工業はどのようなものだったのだろうか。

 先史石灰プラスター工業はいくつかの考古学的証拠から跡付けることができる。最古の例はイスラエル、ハヨニム Hayonim 洞窟から得られたもので、1.2万年ほど前の終末期旧石器時代後期にさかのぼる(Bar-Yosef 1983)。しかし、本格的に石灰工業施設が確認され始めるのは、9,000年前ごろの先土器新石器時代B期になってからである。石灰を焼成したと思われる遺構が、シリア南部やヨルダン、イスラエルといった南レヴァント地方のいくつかの遺跡(テル・ラマドTell Ramad、アイン・ガザル'Ain Ghazal、アブ・ゴーシュAbu Gosh、クファル・ハホレシュKfar HaHoreshなど)から見つかっている。これらの遺構はいずれも円形の土抗で、焼けた石灰や原料の石灰石片、灰などがつまっていた(Contenson 1969;Banning and Byrd 1987;Lechevallier 1978;Kuijt and Goring-Morris 2002)。これらの証拠をみると、石灰は開放の土抗窯で焼成されていたとみられる。燃料にかんする考古学的証拠は希薄だが、20世紀初頭のパレスチナ地域からの民族誌を参照するかぎり、灌木類を用いていたことが想定できる(Cannan 1932)。原料の石灰岩調達にかんする記載はみつけられなかったが、家屋はしばしば石灰岩を積み上げて建てられていたため、廃絶された家屋の石材を原料として用いたこともあったかも知れない。事実、イラン南部の民族誌ではそのような記載もある(Blackman 1982)。

 一方、先史時代の石膏焼成施設にかんする考古学的証拠は乏しい。イラクの8,000年前頃の遺跡ウンム・ダバギーヤUmm Dabaghiyah (Kirkbride 1973)や、やや時代は下るが、6,500年前頃のテル・サラサートTelul eth-Thalathat Ⅱ号丘(深井ほか1970)で、石膏らしき白色の層が堆積した昇炎式の窯が見つかっているから、石膏プラスター工業は窯を用いて実施されていたことになるかも知れない。ただ、まったく別の焼成方式を想定している研究者がいる(Aurenche and Marechal 1985)。シリア東半からイラク北半にかけて拡がる石膏質土壌と呼ばれる石膏分に富む土を利用する方式だ。この方式は、この石膏質土壌の拡がる土地にごく浅い5〜10センチメートルの土抗を掘って、獣糞の燃料でその表面を覆って焼成するだけで焼石膏を獲得することができる。シャベルや麻袋といった簡単な道具だけを用いたこの石膏焼きは、先史時代の石膏プラスター工業を彷彿とさせるようだ。

 かれらの仕事に影響を受けて、わたしもシリア北東部の村で同じ方式の石膏焼きを詳細に調べたことがある(図6)。すでに別稿(久米2004)で論じたから重複は避けるが、印象深かったのは一見素朴で簡単にみえるこの石膏焼きが、実はきわめて豊かな自然にかんする在来知識に裏打ちされたものだったことだ。最も石膏焼きに適した土壌を見分ける知識、温度を長時間一定に保つ燃料の選択、できあがった焼石膏を熟成するための期間を経験的に設けていることなど、現代の化学的知識にも見事に対応するものだった。くわえて、農耕・牧畜といった主幹生業の季節サイクルともうまく調和していた。

図6 現代シリア農村の石膏焼き。浅く掘られた地面を獣糞燃料で覆って3日程かけて焼くと(a)、石膏プラスターが得られる(b)
石膏焼きの痕跡は、取り上げの際かき分けられた灰のためにはっきりとわかる(c)。シリア、アル・ホル近郊
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 さて、これまでにも多くの研究煮が指摘してきた(Aurenche 1981;Kingery et al. 1988;三宅1994など)ことではあるが、上に挙げた先史時代の石灰・石膏プラスター工業の痕跡を示す遺跡は、実に見事に肥沃な三日月地帯の東西にわかれていることがわかる(図7)。この理由のひとつとして、原料獲得の簡便性が挙げられるだろう。シリアを旅された方はお気づきになったことがあるかも知れない。東西にのびるアレッポーハッサケ間の幹線道路を東に向かってバスに揺られていくと、ユーフラテス川を越えてしばらくたったあたりから石灰岩を積み上げて建てた家屋が全く見あたらなくなる。こんにちでも西方では豊富な石灰岩資源が石積み家屋の石材として頻繁に用いられていることを、この景観の変化はよく示している。一方、先にしるしたようにシリア東部は石膏質土壌が拡がる地域だから、仮に土壌焼成方式が実施されていたとしたら、石膏の原料獲得には都合のよい環境にある。もうひとつ重要なのは、この東西差が実は西アジアの物質文化伝統と大きくかかわっていることだ。石灰・石膏プラスター工業出現以前の石器伝統、以後の土器伝統はまさしくこの石灰と石膏の東西差と重複する(たとえば、Aurenche et al. 2004など)。したがって、石灰・石膏プラスター工業の東西差の背後にある脈絡を読み解くことが、今後のプラスター工業研究の重要なひとつの鍵といえるかも知れない。

図7 石灰・石膏プラスター開発の証拠を示す遺跡(三宅1994などより)
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