第1部 第1章

自然の体系

 

「自然の体系」の系譜

 他の動物同様に生きる糧に食物を求め大地を歩き廻っていた初期の人類は、石を加工した道具を生み出した。3万年前には次第に水のある大河川の流域に集まっていった。乾燥が顕著となり、多くの大地が暮らしに不向きな状況になってきたためである。その河川流域で人工的に植物を育て収穫することや野生動物の飼育を 発明する。農耕の始まりである。

 農耕の最大の成果は、人類が思索する時間をもったことだと私は考えるのだが、暮らしへの 創意工夫が重ねられることによって各地に独自の文化で開花していく。

●ギリシア時代の自然認識

 ギリシアでは紀元前1000年には鉄器時代に入り、地域外への移住が行われた。750年にはギリシア語アルファベットが成立し、またギリシア各地にポリス(都市国家)が誕生するなど、他の動物との著しい議離が始まる。そのギリシア時代の最盛期といわれる紀元前800年から200年頃のヘレニズム文化期には、物体や存在、その多様さ、認知の方法などについて盛んに討論され、主義主張を異にする諸学派が誕生した。

 ここでは主に植物をめぐる議論を紹介してみよう。この時代を代表する哲学者であるプラトーン とその弟子アリストテレスも植物について論じている。なぜ哲学者である彼らが生き物を論じているのか。その背景に、この時代の人々が多くを自然に依存して暮らしていたことがある。今日の言葉でいえば、自然界にある多様な動物・植物などを有効に資源として活用することが、豊かな暮らしを保証する礎であった。思弁を重んじるプラトーンのような哲学者でさえ、彼ら自身が実際に動物や植物について観察を行い、その結果を基礎に哲学的思考をしているということができる。

 職業的な分化は後世とは比較にならないほど進んでいなかった。哲学者といえども自己の知識が生死を左右しかねかったのである。例えば、日本でも用いるショウプは健胃薬として重要 であった。だからどこを探せばショウプはあるのか、あるいは類似の植物からショウプを区別 する方法は、ショウプを得るためには欠かせない知識である。対象の植物がもっと生死を左右 するものであれば、それについての知識の重要さはさらに大きいものになる。

●テオフラストスの植物認識

 ヘレニズム文化期を代表するアリストテレスは、動物だけでなく、植物に直接関係した著作も残したとされるが、今日は失われてしまっている。 アリストテレスの動物、植物への関心は'その生きるさま' と'かたち'や機能の多様性 ' に置 かれていたとみることができる。動物や植物の生きるさまをここでは生理といっておく が、生理現象とそれを支える根本のしくみには動物あるいは植物すべてを貫いて法則化ができるような普遍性をみていた。したがって動物や植物の生理は普遍性の発見に重きをおいた自然学 (physica) の対象として扱われた。一方、動物のもつ多様性は、あたかも国家や人間の家系個々がそれぞれに固有の歴史をもち、その個別的内容自体が人々の興味の対象となるように、ひとつひとつの種が有する個別性に興味が赴く。そのため、こちらは個別性の記述に意義を認める‘歴史 ' (historia) の学が範蒔とする問題とされたのだった。

 アリストテレスの学塾リュケイオンを継いだテオフラストスは植物についての大きな著作を残 している。そのひとつは De causis plantarum (植物成因論と訳される)であり、他のひとつは Hisutoria plantarum、(すなわち植物史)である。以下は『植物史』からの引用である。

 (1) ほとんどの植物が共通してもっている部分は、根、茎、枝、小枝である。すなわち、動物を四肢に分割するように、植物をこのようなものに分けることができるだろう。事実、これらはそれぞれが異なっており、またこれらすべてから全体が成り立っている。 (第 1 章 (9) から)

 (2) 大多数の植物を含んでいる第一義的で最も重要な分類は次のとおりである。すなわち、高木、 低木、小低木、草本である。高木とは、オリーブ、イチジク、ブドウのように根から幹が一本だけ出て多数の枝をつけて分岐し、容易には倒れないものである。低木とは、パトスやパリウロスのよ うに根元から枝が多数生えるものである。小低木とは、テュムプラやヘンルーダのように根元から多数の幹と枝が生えるものである。草本は、穀類や野菜類のように多数の葉が根元から生えるが、長く生える幹はなく茎は種子をつけている。 ( 第 3 章 (1) から )

 (3) それぞれの植物が自生する場所としない場所を考え入れておくこともおそらく理に適っている。実際、このような相違は重要であり、植物にとってとりわけ特徴的なものである。なぜなら、植物は土地に根をはっていて、動物とちがってそこから離れないからである。 (第 4章 (4)から)

 4) 木が落葉するのはいずれの場合でも、秋の問、または秋が終わった頃である。ただし、それよりもはやいこともあれば、おそいこともあり、冬に入ってからのこともある。だが、落葉する時期は葉を出す時期に呼応していないので、はやく葉を出した木がはやく落とすとは限らず、アーモンドのように、はやく葉を出しながら、ほかの木よりははやく落葉することはなく、かえって落葉がおそいものもいくつかある。 (第 9 章 (6) から)

 (5) 常緑樹の場合、葉が落ちたり枯れたりするのは時期を分けて行われる。すなわち、同じ葉がずっとついているのではなく、あるものが新たに生ずるとあるものは枯れ落ちる。(第 9章 (7) から)

 これらの 5 箇所からの引用から受ける印象は、テオフラストスが哲学者と同時に植物学者といってもおかしくないほど植物に通じていたということである。

 (1) はアリストテレスの動物部分論を訪併とさせるが、植物のからだのつくりを軸でとらえているところが注目される。もっとも目が行きやすい花や葉を重要な構成要素としなかったことが卓見というべきであろう。テオフラストスの植物のとらえかたは後に植物体を‘根 'と‘シュート' からなる、とみる、現代の植物形態学の見方に通じる。

 (2) は植物を分類する大綱として書かれている。このテオフラストスがしたような植物の区分は後世にも長らく影響を及ぼす。現在でも一般人が未知の植物に接した際にする観察の第一歩は、この区分に分けることではないだろうか。日本では高さだけで区分すると勘違いしている人が多 いが、高木と低木の区分は的確である。また、低木と小低木の区分はよく植物を観察している人でなくては知りえないことである。

 ここでテオフラストスが大多数の植物との表記で例外扱いにしている筆頭は、キノコである。 彼はキノコの仲間を植物に含めて扱っている。後にも述べるがキノコは動物と植物から独立の存在 とはみなされず長らく植物の一部として扱われてきた。そうした分類大綱 (2界説)を最初に提唱 したのがテオフラストスなのかどうか、明らかにはしえなかったが、彼が後世に及ぽした影響は大きい。キノコを含む菌類を動物や植物とは別の生物として分類する3界説が提唱されるのは 1894年になってからである。

 (3) は今日、生物地理学として研究される生物の分布にかかわる問題である。ギリシアの哲学者は、同時にすぐれた自然の観察者であったことから、自然の多様性そのものとその広がり(分布)や地域的な不均一性を知るところとなった。では、どうして多様性や分布、地域的な不均一性が生まれるのだろうか。残念ながら彼らはまだそれが生物自体によって生み出される現象であるとは考えなかった。

 ここでテオフラストスが大地に根を張って暮らす植物の分布と移動可能な動物の分布の違いを指摘 していることも興味深い。これは簡単なことのようにみえるが、実際にその植物がどこにあってどこにないかを明らかにすることは容易ではない。このテオフラストスの記述は彼が単に植物を栽培 して観察していただけでなく、野外を探索し観察をおこなっていたことを証かすものである。

 (4)と(5)はテオフラストスの観察の精度を知るのに参考になる。多くの樹木で長い期間を通じて観察がおこなわれているのはもちろんだが、結論はその綿密な比較のうえにだされていることに驚く。 常緑樹と落葉樹のちがい、とくに常緑樹での葉の入れ替わりの記述は正確である。

 これはわずか 5例に過ぎないが、他の箇所においても彼の記述には植物を具体的に観察し、また 栽培しなければ書けないことが多い。観察結果の記述には一貫性をもち、かつ具体的かつ的確で、あり、そのすべてを他の著作から引用したとはみることはできない。自らが観察した事実をどのように説明すべきかに思い悩むテオフラストスの姿を思い浮かべる。アリストテレスでは『動物誌』 と『動物部分論』では記述内容にかなり大きなちがいがあるが、テオフラストスの「植物史」と「植物成因論」の差異はそれに較べると小さい。

 アリストテレスやテオフラストスが問題とした個別性は、それをもって個々の動物や植物を類似のものから分別するための標識としては意識されてはいない。比較の方法が確立していないため、簡単にいってしまえば個々の生き物の特記事項を記述するにとどまる傾向があった。

 これまでテオフラストスの植物哲学をアリストテレスのそれとほぼ同ーのものとみなす傾向があったが、テオフラストスの植物哲学はむしろ植物学そのものといってよい。実際の観察を通じて得た知見の記述と観察事実にもとづく考察という論考のスタイルは今日の自然科学にも通じるものである。そこには思弁を重んじた アリストテレスとの大きなギャップの存在を感じる。それはともかくとしてテオフラストスはいうに及ばず、アリストテレスが残した「観察と結果の考察」という自然科学的の考察法は、中世にあっては一考だにされなかったといえる。

●ロゴスそして自然史

 動物、植物の個別性は人類の歴史とは区別され、テオフラストスは植物のそれを phyton historia、(すなわち植物史)といった。後に動物、植物に限らず自然界を構成する物体が個別にもつ属性を焦点とした関心とその学術的研究を自然史と呼ぶようになった。自然史の語の普及に大きな貢献をしたのは、紀元 79年のウェスウイウス火山の噴火を観察に出かけて殉職したと伝えられる大プリニウスの著作‘ Naturalis historia'(『自然史』、『博物誌』あるいは『自然誌』ともいうであるのはまち がいない。

 しかし、自然学を含む他の学問に比して、自然史についてはその方法が深く議論された形跡が見出せない。個別雑多な対象に押し流され、比較の方法についての議論なしに単純な‘もの' 較べに終始するだけだったり、‘見かけの類似 ' と‘より本質的な類似 ' の峻別、あるいは 3つ以上のものを比較し、相対化する発想が皆無のまま終わっていることなどの不備が指摘できる。

 また、図示することも例外的であったことは自然史的研究の進展を妨げたといってよい。例えば後に植物画の父と称されるヘレニズム文化期のクラテウアスは、写実性の高い薬草画を描いた。 クラテウアスは、複雑な構造をもちしかも類似物が多い動物や植物では図解が重要であるとの理解から、図解が千言万語を費やした説明に勝ると考えそれを実践したのである。

 これに対して、テオフラストスは、すべての学問は、筋道の通った言葉(ロゴス)で追求すべきであり、絵画術のごときは実物(真実)のいわば真似事、その単なる影像にすぎないものだとみた。だから、知恵を愛する者(哲学者)は真の実在から遠くなるものに向かうべきではない。ロゴスという、学問の知恵によって魂を浄化することが哲学の真髄であり、絵画術は知恵の軟弱者のやることだとしたのである。

 確かに言葉は必要から生まれるのだが、図解し対象への理解が深まっていけば、語の適応も自ずと 厳密さを増し、それによって必要な術語が生まれ、術語による記述が自然物の認識を一層深いもの にしたはずである。また、図解への無理解は当然標本による細部こいたるかたちの相違を明らかにするような意識を育むことはなかった。この時代、標本を作成し比較する、方法は芽生えなかったのである。

 ギリシア時代は「原子」のように、まがりなりにもこれ以上分割できない単位的な存在への確信が 芽生えていた。生物でいえば、「種」はそれに該当しよう。その最子単位なる「種」がギリシア時代を通じて厳密には定義された形跡はない。ただ、ばく然と‘種類 'と呼ばれたに過ぎず、それが今日でいう‘種 ' であることもあれば、種内変異や‘栽培品種' であることもあるなど内容は不統一であった。テオフラストスはすべての種ではないにしろ、顕著な種を中心にひとつひとつの特徴を明らかにする仕事に着手したのだといってよい。リンネが「自然の体系」で、自然物について、 「それが区別され、それを体系的に整理し、適当な名称を与えることによりその存在が明らかになる。 それゆえ、分類と名称、を与えることは科学の基礎となる」、と書いているが、テオフラストスが『植物史』でしようと試みたのは、このことではなかったのか。とはいえ、彼にはその結果を 統ー的に記述する、システムや命名法、すなわち体系的思考が欠けていた。だが、こうした欠知は中世を通じて埋められることはなかったのである。 そこにリンネの独創性がある、ということができる。

 

 

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