挿話としての展示プロジェクト──『石の記憶/建築の継承』

菊池 誠
東京大学総合研究博物館



挿話

 本展覧会の一角には、ある建築物(旧日本銀行広島支店)の縮尺100分の1の切開模型、およびその内部に設えられた、仮に『石の記憶/建築の継承』と呼ぶ展示の概念模型が置かれている。この模型展示は渡辺武男博士による被爆直後の広島、長崎のフィールドワークを跡づけようと試みた本展覧会の主な筋の流れには乗らない。ただ──これは私の希望的な観測だが──科学者のフィールドノートの頁の上にも、追い求めている研究テーマに直接関わらないかもしれないが、研究途上に出会ったちょっとした発見や、すぐには役に立たないがいずれ何かのテーマに発展するかもしれない挿話的なメモのようなものがあるのではないだろうか。主筋からははずれた、挿話的に付け加えられたもの。だが、どこかで未来へとつながっていく傍流・・・


被爆

 広島市中区袋町の旧日本銀行広島支店は、爆心から南東方向約380メートルの位置にある(注1)。建物正面はほぼ西の方角を向いており、正面左側角が爆心に直面していたことになる。

 当時、爆心から2キロメートル以内の建物はほとんど破壊されたなかにあって、この建物は構造堅牢のため倒壊しなかった。1階営業室、地下金庫室は火災とならず、また1階と2階はよろい戸を閉じていたため、内部の大破を免れた。3階は開けていたため全焼、建物内にいた17人が死亡した。「被爆当日は、食堂などが負傷者の収容所となり・・翌々日の8日には、早くも銀行の支払い業務が開始されるとともに、被災して営業不可能となった市内金融機関の仮営業所が設置された」(広島市発行パンフレット『旧日本銀行広島支店について』)。つまり、金融面やそのほかの面からも被爆直後の広島の市民生活を支える役割を担った建物だったわけである。1992年まで日銀支店として使われていた。

 この建物は現在も当時の外観をほぼそのままに残しながら、その地に立っている。


現状

 1992年に日本銀行の広島支店が中区基町に移転した。この建物が建てられた本来の使命はそこで終わった。が、その後2000年7月に広島市指定重要文化財となり、日本銀行から広島市に無償貸与された。2001年からギャラリースペースなどに暫定的に利用されている。


旧日本銀行広島支店(現況)

 1993年、広島市では被爆建物等保存・継承実施要綱が定められ、被爆した建物の記録・保存・継承の努力がなされていると聞く。


銀行

 建築史家ニコラウス・ペヴスナーに『ビルディング・タイプの歴史』(注2)という著書がある。劇場、図書館、ミュージアム、病院などといった建築種別ごとの歴史を章に分けて記述してあって、その中に銀行も含まれている。同書によれば、<公的>銀行の起源はそう古くはなく、17世紀末創立のイングランド銀行が18世紀の初頭に政府の銀行となり、1826年に支店設置の権限が与えられ、1833年にイングランド銀行の銀行券が法貨となるという歴史を辿っている。18世紀末以降のイギリスの産業革命と並走しつつ、その発展に重要な役割を果たしたと言ってよいだろう。そして、日本に目を転じてみれば、公的銀行の制度という面から言っても、明治維新ののち文明開化を急ぐ日本が、ヨーロッパに数十年の遅れをとりつつも、その後を急追していったことがわかる。福沢諭吉が『西洋事情』の「紙幣」の章のなかで、「西洋諸国たいていみな紙幣を用ゆ。・・仏、英、蘭等には紙幣なくしてただ銀座手形のみを用ゆ。すべて紙幣および手形は政府の銀座より出だす」と書いたのは江戸末期から明治初頭にかけての1860年代のことであった。この後、日銀広島支店が建てられた昭和10年代まで、日本は産業発展と国威発揚の道を邁進していくことになる。


旧日銀広島支店(内部営業室の見上げ)

 そもそもの日本銀行は1882(明治15)年に設立された。ベルギー国立銀行条例を典拠とした日本銀行条例が制定され、この年に中央銀行、つまりは発券銀行、銀行の銀行、政府の銀行、金融政策の運営という役割を担って業務を開始した。イングランド銀行の本店はジョン・ソーンによる増築部が建築史上名高いが、日本銀行の東京、日本橋本石町の本館は辰野金吾(1854-1919)の設計である。辰野はよく知られているように、東京駅の設計者。東京駅と日銀と国会議事堂の設計者たらんとして、前二者についてはそれを果たした、こういう言い方が適切かどうか分からないが、<国家的>建築家であり、さらに言えば、その後のすべての日本人建築家の源流となる人物である。日銀本店はネオ・バロック様式。重要文化財である。


建築

 広島支店の建物正面はイオニア式の柱頭を持つ4本の花崗岩の角柱で構成されるいわゆるジャイアント・オーダー(2層分の柱高さでの構成)を有する。イタリア・ルネサンス期の宮殿(パラッツォ)など、ルネサンス以降の古典様式の建築では2階が主階になることも多いが、銀行やマーケット・ホールはその建物の性格上、1階が主階になる。建物正面のジャイアント・オーダーの2層が、内部営業室─というそっけない呼び名でよりはバンキング・ホールと呼びたい─の吹き抜け空間の高さに呼応している。全体的には変哲のない箱型で、地方中心都市にある中央銀行の支店という建物の性格上もっぱら質実剛健というか堅牢さのイメージを目指した、と言ってよいだろう。

 現在も残されている設計図を見ると、バンキング・ホール内の独立柱の頂部にはコリント式の柱頭装飾が施されていたはずである。これは天井面の装飾とともに被爆時に失われ、現在は無い。

 設計は長野宇平治(1867-1937)と日銀臨時建築部。東京帝国大学工科大学造家学科で上述の辰野に師事した長野は卒業後1897年にその辰野に呼ばれて日銀建築部に入った。また、臨時と冠されたこの建築部は1927年、東京の日銀本店増築のため設置されたものである。鉄筋コンクリート造地上3階地下1階、外壁花崗岩張りで、延べ床面積3,214m2。竣工は1936(昭和11)年8月。長野の最晩年、69歳のときの作品である。日銀建築部の組織の中で、長野が長として設計チームを率いたのは間違いないだろうが、どこまで長野個人のデザインが貫かれているかはつまびらかにしない。4年前、1932年には長野の代表作である大倉精神文化研究所(現大倉山記念館)が竣工している。厳正な古典主義を追求する果てに逆説的に行き着いたこの特異なスタイルの建築はある意味では建築家長野の最終作品と言ってもよいかもしれない。またこの同じ頃から日銀本店の増築に携わっているが、そこにおいて長野は自分の創意を混入することなく、師辰野の造形のコピーに徹するという態度をとったようだ。旧日銀広島支店はその意味では、長野の建築家としてのキャリアの終わった後の作品だと言えなくもない。が、それでもこの小品は西欧の古典主義様式に対する深い造詣を有し、建物外観としてはシンプルな箱形を好み、天窓からの自然光採光などによって内部空間の豊かさを追求した長野のスタイルの良き摘要(レジュメ)になっているとはいえるだろう。

 ところで、この建物から遠からず爆心により近いところにヤン・レツル(1880-1925)設計の広島県産業奨励館が、1915年の産業博覧会のために、いわゆる「ゼツェッション(分離派)」と呼ばれる様式で建てられていた。この様式の名は、過去の歴史様式から<分離>して新しい創造に向かおうとすることを意味する。本稿の文脈で言うなら<継承>を旨とする古典主義とは正反対の創作態度を目指したと言ってよいだろう。そしてこの建物の建築形態上もっとも大きな特色だった鉄骨造ドームは1945年の被爆で焼け落ちた。言うまでもなく、これが今日「原爆ドーム」の名で知られる世界遺産の建物である。


大倉精神文化研究所(現大倉山記念館)


設計図

 旧日銀広島支店の設計図は現在も日本銀行に残されている。原図は相当傷んでいると聞くが、筆者未見。B2版青焼き(陰画)図面の二つ折り製本があり、敷地測量図、各階平面図、立面図、断面図のほか矩計図等詳細図、天井伏図など54枚が綴じられ(詳細図にはB1版折込も多い)、昭和9年6月から10年4月にかけての日付が入れられている。各図には図面名称等を記す囲み枠の中に製図者と思われる者の印が押されているほか、その上部に責任者が検図したことを証すのであろう印が押されていて、「長野」と読める。このほかに1970年に実際に増築された新館(金庫棟、1997年取壊し)の設計検討にかかわる図面だと思われる昭和29、30年の日付入りの敷地図、平面図3枚が合本されている。また製本2/2として、構造図が同じB2版で70数枚あり、こちらも検図印は「長野」である。


展示構成のイメージ(建物平面図と100分の1の市街地図、渡辺博士の足跡のコラージュ)


展示構成平面図


巡回展

 さて、渡辺武男博士によって集められた被爆試料の採取点を地図の上に記していけば、この旧日銀広島支店もまたその図の一隅を占めることになる。この堅牢な建物があったために、爆心から見てその背後にあった建物などの損傷がある程度少なかったとも言われている。被爆しながらも残存した建築として、もし仮に『石の記憶』巡回展を広島の地で行うとしたならば、その会場としてこの建物がふさわしいとは言えるだろう。

 以下に記すのは、どの方面からも了承はとっていない私の勝手な空想、私自身の<フィールドノート>の中に小さな挿話として記された展示プロジェクトのスケッチである。


 いま仮に爆心から半径750メートル、直径で1.5キロのエリアを想定すると、100分の1の縮尺では直径で15メートルほどになる。渡辺博士の広島での足取りは、広島駅から始まって、爆心の間近もかすめながら、東西南北にジグザグの線形を描いている。このジグザグを重ね合わせた当時の広島の地図(あるいは航空写真)を縮尺100分の1にプリントしたものを高さ60センチほどの低い展示台に張り、実際の方位に正確に合わせてホール内に置く。太田川、元安川、本川など水面部分は台がなく、来場者がこの大きな敷地模型の中に渡辺博士の足取りに沿う形で入っていける。この低めの展示台上には被爆試料をそれが実際に採取された場所に相当する地図上のポイントに置く。展示台は内部に照明を仕込み、半透明フィルムにプリントされた広島の市街地図と渡辺博士らによって採取された被爆試料の石などを下方から照らし上げる。下からの照明は非日常的な、あるいはこう言ってよければ、ある種黙示録的な時-空間を出現させるだろう。

 8月6日、テニアン島の基地を離陸した爆撃機エノラ・ゲイによって投下目標とされていたと言われているT字型平面の相生橋がバンキング・ホールのほぼ中央あたりに来る。爆央と見なされる地点、つまり展示台の中央上部高さ約6メートルのポイントにxyzの3軸が交差する形の抽象的なオブジェクトを吊るして固定する。渡辺博士が、1945年8月6日、月曜日、午前8時16分に、この広島上空の一点で起きたことに迫ろうとして、試料採取などの活動を続けた、そのおおもとの事象が起こった一点である。どのような再現的な方法でも表現などしようがない、厳然たる<点>そのもの。

 直径15メートルの円周上に、焦土と化した広島のパノラマ写真を光を半ば透かす紗に印画したものをパネルに仕立てて吊り下げる。円筒状をなすパネルは地図上の広島日銀と爆央とを結ぶ線上(およびその直角方向)に出入口となる開口が開けられていて、来館者はこの円筒(高さ3メートルほど)の中に入ってみることも、また半透明の紗に印刷されたパノラマ写真を外から見ることもできる。展示台の地図が正確な方位に合わせられているということは、この縮尺100分の1の地図/模型の展示装置における開口は、実スケールの世界における爆央の方向にも正確に向き合っていることになる。円筒内部に設えられた展示照明と円の外側を照らす照明とをプログラム調光することで、円筒内側から見たときに印画された写真がよりはっきりと見え、円筒の外からは内部が透けて見えるようになる状態と、逆に円筒の外から写真が(裏向きになるのだが)はっきりと見え、円筒内に入ったときは外が透けて見えるようになる状態とを交互に非常にゆっくりと入れ替える。この紗のスクリーンには渡辺博士の撮影になる被爆後の広島の写真映像を重ねて投影することもできるだろう。


展示構成のイメージ

展示構成のイメージ(内部見上げ)

 ホール中央やや右手に展示台の地図の上での旧日銀が来る。ここに本展覧会でも展示の一部とされた100分の1の模型が置かれる。

 むろんきわめて不完全、不満足な形に過ぎないとはいえ、このバンキング・ホールが過去のある瞬間の広島という都市=時空間のエコー・チェンバーのようなものにならないだろうか。


 ちょうど膝上くらいの高さの展示台は、観者が展示を見歩く動きの自由をひどく損なうだろう。展示物が低い位置に置かれてあることは、それを注視するときに前屈みの姿勢をとることを観者に強いるだろう。動きを制限し、窮屈な姿勢を強いることで来館者に何よりもまず不自由さを感じさせるような展示というものがありうるだろうか。

 その不自由さの印象は下から照らし上げる照明と、半透過的なスクリーンに印画されたイメージによって増幅されるかもしれない。1945年のフィールドワークが探究しようとした事象が持つ、その探究がこう言ってよければできる限り感情を交えない客観的なものであろうとしたことからこそ見出された、事象が事象であることの暴力。直接的で、無媒介的だが、決して伝え得ないもの・・・


タイプ

 本稿を書くにあたって、久しぶりに日本橋の日銀本店を見に行った際、隣接する貨幣博物館にも立ち寄った。2004年発行予定の新1万円札、千円札が陳列ケースの中に収められていたが、その表面に大きくSPECIMENと印刷してあった。この場合むろん<見本刷り>の意味だろうが、ほの暗い博物館内の蛍光灯で照らされたガラスケースの中に置かれてあると、それはあたかも突然変異か何かで生まれた稀少種の<標本>であると自ら主張しているかに思われた。

 ある生物種の種としての特徴の言わば原本のようなものになるタイプ標本というものがあることを、浅学にして東京大学総合研究博物館に参加して初めて知った。百科事典の記述によれば、それは生物の分類群に学名を与えるときに基準となる標本で、任意の標本がそれと同一分類群に属するかどうかの判定によって学名を与える。ものに名前を与えるときの命名の手続き・・・。「古典主義は建築におけるラテン語である」と建築史家ジョン・サマーソンは述べていたが、言葉を変えれば、建築における古典主義は(失われた?)建築の<タイプ>を再び甦らせようとするものだと言えるかもしれない。

 大倉精神文化研究所が、長野自身が言うところの「プレ・ヘレニスティック様式」、つまりギリシア以前の地中海古典様式の探求であったこと、日銀本店の増築が細部の意匠やプロポーションをすべて辰野金吾のものに厳密にならったことなどの事実もまた、長野の<タイプ>へと遡及しようとする古典主義者としての自負と事実を強めこそすれ、決して弱めるものではない。



 ところで先にも述べた福沢諭吉の『西洋事情』という本の「博覧会」の章──他に図書館(文庫)、学校、病院、博物館などと題された章を含むこの書物もまたさながらビルディング・タイプについての書物であるかのようだ──には博覧会は「智力工夫の交易を行なう」と記されている。先のペヴスナーの書物では、銀行と取引所とが同一の章の中で記述されていた。歴史の中で証券や貨幣の取引・交換が行われつつ生き永らえた施設を<智力工夫の交易>、つまりいま少し現代風に言い直すなら付加価値を創る<情報の交換>が行われる施設として甦らせる、というのは悪い考えではないと思う。

 そして、そのとき長野がこの建物に相応しいと考えて、それに与えた厳格な古典主義のスタイルはどのような意味をこの建築の変身譚に付け加えるのだろうか。




【注】

(注1) 広島上空で原子爆弾が爆発した正確なポイントというのは、現在なお研究がなされており、放射線影響研究所、広島大学原爆放射線研究所などによる最新の研究(2002-3年に報道されている)では、従来言われていたポイントとは水平距離で10数メートル(発表ではより詳細な数字が挙げられていたが)ずれているようであり、高度も同じようなオーダーで異なっているかもしれない。渡辺武男博士が被爆後の広島で追及しようとしたことのひとつはまさにこの爆央の正確な位置であるはずだが、きわめて限られた道具と手段で行うフィールド・ワークでは誤差が生じることはやむを得ない。得られたデータをその探究プロセスともども記録することで、後年の修正が可能になるのだろう。学術研究における記憶と継承。[本文へ戻る]
 
(注2) Nikolaus Pevsner, A HISTORY OF BUILDING TYPES, London, 1976[本文へ戻る]



 



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