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日本植物の研究を競った欧米諸国

A historical review of the Japanese plants studied by Euro-American botanists

大 場 秀 章
Hideaki Ohba

日本にはヨーロッパに似た植物があり,しかもその多様性がヨーロッパよりも高い.そのことがヨーロッパの植物学者を魅了したのはまちがいない.また,同じ温帯の植物相の発達した北アメリカの植物を研究していた植物学者が同様な魅力を感じるのもこれまた当然である.このような魅力を秘めた日本は鎖国政策下にあり,欧米ではオランダ以外の国には門戸を閉ざしていた.そのオランダとて日本国内を自由に調査できたのではなく,大半を長崎の出島に半ば幽閉された状態で過さざるをえなかったが,将軍に謁見する目的で江戸へ旅行をする機会が与えられていた.これが長崎以外の地域の植物を調査・研究する絶好の機会であった.このような状況下に形成されてきたのが,今日ライデン大学に付置される国立植物学博物館に収蔵されるシーボルトとその後継者による日本植物コレクションである.

 

この標本コレクションが有する植物学上の重要性は,その質・量と研究史上の理由からである.質・量の抜きん出た高さを生み出したことにはシーボルト自身も関与したが,後継者たちの貢献も見落とせない.なかでもビュルガーの貢献は大きい.一方,研究史上の重要性を与えたのは,このコレクションを用いて『フロラ・ヤポニカ』(Flora Japonica )を著わしたシーボルトとツッカリーニであり,『日本植物誌試論』(Prolusio Florae Japonicae )を発表したミクェルである.シーボルトとツッカリーニは,主にミュンヘンで研究したこともあってライデンのコレクションを十分には活用していない.よってライデンのコレクションに研究上の重要な価値を付加したのはミクェルだといってよい.

ミクェルについては6章で書いたが,1862年にブルーメ(Carl Ludwig von Blume)の後継者として,植物学博物館の前身である王立植物標本館(Rijksherbarium)の館長となった彼は,世界最大の日本植物コレクションに大きな関心を寄せていた.当時でさえ,ライデンのコレクションを調べることなしに日本の植物を研究することは不可能であったが,1848年にツッカリーニが亡くなった後,日本植物の研究は一時停止の状態にあった.ミクェルが突如日本植物コレクションの研究を急いだ重要な動機のひとつは,日本が1854年にオランダ以外の国に対しても門戸を開いたことであった.アメリカ,ロシア,イギリスなどが日本の植物研究やその園芸への利用に強い関心を示していた.アメリカではハーバード大学のエーサ・グレー教授が東アジアと北アメリカ東部の植物相の類似に関心を寄せ詳細な研究を望んでいた.ロシアのマキシモヴィッチは1860年にロシアの領土となった沿海州の植物相が日本北方と高い共通性をもつことに気づき,比較研究に意欲を燃やしていた.こうした情勢の中でミクェルはライデンが先導していた日本植物を記載する研究は,引き続きライデンで行われるべきだと考えたのであろう.これが『日本植物誌試論』(Prolusio Florae Japonicae )をまとめる契機であったと思われる(詳しくは6章参照).

日本植物誌試論
ミクェルの『日本植物誌試論』の本文最初のページ.
 

グレーの日本植物研究

ミクェルが協力的である一面で競争心を抱いたグレー,マキシモヴィッチ,フランシェらの動向とその研究にふれてみたい.

アメリカのエーサ・グレー(Asa Gray)1810年に生れ,主に北アメリカ東部の植物についての分類学的研究を進めていた.彼が1848年に出版した,ニューイングランド地方からウィスコンシン,オハイオ,ペンシルバニア州の植物誌である,A Manual of botany of the Northern United States は,版を重ね,1950年に出版された第8版(M. L. Fernald改訂・増補)が今日でも広くこの地域の植物を調べるのに用いられている.グレーはシーボルトとツッカリーニの『フロラ・ヤポニカ』や関連の論文から,日本の植物相が北アメリカ,なかでも東部のそれに類似しているという印象をもち,そのことについて覚書きを書いたりもしていた.ハーバード大学のグレー教授が日本植物研究上のライバルとしてミクェルの意識に上ったのは日本の開国のうわさが具体的になるよりも前といってよい.

ところで,イギリスでヴィクトリア女王が即位した1837年(天保8)は列国の植民地経営は最盛期を迎えていたといってよい.日本はオランダを除く欧米諸国と交流を絶ってきたが,海運の著しい発達がそうした隔絶状況をひどく危ういものにしつつあった.そうしたさなかの1853年(嘉永6)にはペリーが率いたアメリカ合衆国艦隊が浦賀に入港し,開港を迫ったことはよく知られている.外交交渉の間,乗船していたモロー(James Morrow),ライト(Charles Wright),ウィリアムズ(Samuel Wells Williams)は,現在の東京湾,伊豆下田,北海道函館で植物採集を行った.

一方,1854年には,ロジャース(John Rodgers)の率いるアメリカ合衆国北太平洋探検隊が日本にやってきた.ヤグルマソウ属Rodgersia は彼に献名されたものである.ペリー艦隊で来日していたライトは,この探検隊にも参加し再び日本に滞在し,鹿児島,種子島,下田,函館などで採集を行なった.

グレーは,1859年発行のアメリカ科学芸術アカデミーの紀要6巻に,「チャールス・ライトによって日本で採集された顕花植物の新種記載[附]北アメリカおよびその他の北半球温帯地域と日本の植物相の関連についての観察」という長文の論文を発表した.これは,グレーがそれまで折にふれ書いてきた,北米東部と日本との植物相の類似をはじめて具体的に論じた画期的な論文であった.ハーバード大学教授にあったグレーは奇しくも同じ年に出版されたダーウィンの『種の起源』をいちはやく認め,賛意を表したアメリカ合衆国の生物学者としても有名である.

グレーが研究した4人(すでに述べた3人のほか,スモール(Small)が北海道で採集した標本もこの時一緒に研究している)の採集品は,アメリカ合衆国での日本植物研究の基礎となり,ハーバード大学がアメリカ合衆国における東アジア植物の研究センターとなる原点となった.

ハーバード大学での日本あるいは東アジア植物の研究はさらに発展する.その契機となったのはサージェントによる東アジアの森林植物の研究である.

サージェント(Charles Sprague Sargent)は1841年アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに生まれ,亡くなったのは昭和に入った1927年である.1872年に同大学の附属植物園長となり,73年には有名なアーノルド樹木園の園長をも兼任した.1879年から82年にかけて合衆国中の森林を調査し,『北米樹木誌』全14巻を著したが,その後の1892年に日本に来て標本や種子を採集した.このときの種子から芽生えた樹木は現在もアーノルド樹木園の日本コレクションに生き続けている.93年にサージェントは『日本森林植物誌』(Forest Flora of Japan )を出版した.この本は日本の温帯林を広く世界に紹介するのに貢献したが,その基調はかつてグレーが指摘した北米東部と日本の植物相の強い関連性におかれている.

サージェントはグレーの見方を敷衍し,その関連性の探索を中国にまで広げていった.日本以上に多様性の高い中国の植物相を対象に,かつてシーボルトやミクェルが日本の植物相について行ったような研究を展開していった.その研究は現在にまで続いているといってよい.1980年代になって中国奥地への調査が開始されると,アメリカはハーバード大学を中心に中国の植物相の研究を再開した.これにはアメリカの他の研究機関も加わりより組織的に研究の継続と進展が図られている.ぼう大な対象と資料を扱ううえに長い歴史をもつ分類学のような研究分野では,過去の歴史を無視して新たな研究を展開するのは不可能である.また,一度絶やした研究を復活するのも容易なことではない.アジアとの関連に先鞭をつけたグレー,そのグレーにアジアへの関心を促したシーボルトの影響の大きさには計り知れないものがある.ミクェルの心配も単なる取り越し苦労とはかたづけられない.

エーサ・グレイ
エーサ・グレイ
(Asa Gray, 1810年〜1888年)
ハーバード大学教授出, ペリー艦隊や北太平洋探検隊が収集した日本植物を研究し, 日本の植物相が北アメリカ東部の植物相に似ていることを指摘した.
 

マキシモヴィッチ

ミクェルが心配したことが現実のこととなったのはむしろ1858年になってから起きた.というのはその年,幕府はオランダと修好通商条約,アメリカ・イギリスとは和親条約を締結し,長崎のほか下田と函館を開港した.条約締結の報が伝わるや否や,ただちに園芸学会や種苗商は採集家たちを日本に派遣してきたのである.早くも同年にはオーストラリアの旅行家,ホジソンが来て,長崎,函館で植物採集を行った.ホジソンが採集した植物は,王立キュー植物園園長のウィリアム・ジャクソン・フッカーが研究し,採集植物のリストを発表した.

話は前後するが,ペリーが再来した1854年にはロシアの使節プーチャーチン(E. V. Putyatin)が長崎に入港した.この艦隊が率いてきた他の軍艦は千島・樺太に赴き,乗組員の軍医ウェイリヒ(Heinrich Weyrich)は植物採集にも精を出した.彼の採集した標本はシュミット(Friderich Schmidt)が研究し,Polygonum weyrichii (ウラジロタデ)などウェリヒに献名された学名もある.

1860年にはイギリスの採集家や園芸家である,ヴェッチ(John G. Veitch),フォーチュン(Robert Fortune),ウィルフォード(Charles Wilford)が相次いで来日した.シーボルトが先鞭をつけた,欧米での日本の植物の多様さ,その園芸への利用熱の高まりが伝わってくるようだ.

ロシアのマキシモヴィッチが来日したのも1860年である.マキシモヴィッチ(Carl Johana Maximowicz)はモスクワ近郊のツーラで1827年に生まれた.ドルパット(現在のエストニアのタルツ)の大学を卒業後の1852年にセント・ペテルブルクの帝国植物標本館の研究員となった.

1853年に世界周遊を計画していた軍艦ディアナ号に植物学者として乗り組んだが,翌年沿海州のデ・カストリーニに入港した時点でクリミヤ戦争のため調査は打ち切られた.非戦闘員であったマキシモヴィッチは上陸し,3年間にわたりアムール川(黒龍江)流域の植物相を調査した.

1857年にセント・ペテルブルクに戻った彼は2年後の1859年にその成果をまとめた『アムール地方植物誌予報』(Primitiae florae Amurensis )を著わした.この論文は日本を含む東アジア温帯地域の植物の研究に欠かせぬ力作である.

マキシモヴィッチは同書によってデミトフ賞を受け,その賞金で1959年に満州地方の植物調査に出かけたが,その最中に日本の開港のことを知った.できれば日本を調査したいと考えていた彼は,翌年にはウラジオストックから函館に向い1864年まで日本に滞在した.彼は岩手県紫波郡下松本村で生まれた須川長之助を下僕に雇い,採集法を教えた.ちょうど伊藤圭介がかつてのシーボルトの採集を手伝ったように,長之助は外国人が入れない岩手県や長野県で標本を集めマキシモヴィッチに提供した.

マキシモヴィッチは日本,アムール,ウスリー流域など,東アジアで収集した植物の研究結果を2つの論文群にまとめている.そのひとつは,1866年から71年にかけ20回にわたり生物学会雑誌(同時にサンクト・ペテルブルク帝国科学院紀要にも掲載された)に,『日本・満州産新植物の記載』(Diagnoses breves plantarum novarum Japoniae et Mandshuriae )という表題で発表された論文であり,他は『アジア産の新植物記載』(Diagnoses plantarum novarum asaiticarum )で,これは1877年から93年にかけ8回に分けて,同じ雑誌・紀要などに発表された.

マキシモヴィッチは長期にわたり東アジアの植物を研究するつもりでいた.そのため,歴史的にも重要なツュンベルクやシーボルトの標本や研究資料を積極的に収集しようとした.自分の採集品とシーボルトら,サヴァティエの標本を交換して彼らの収集品の一部を集めたほか,シーボルト夫人ヘレーネからシーボルトの没後に彼が所蔵していた川原慶賀の日本植物の写生画や再来日の際に収集した標本などを買い取った.また,ツュンベルクが描かせた日本での採集品図譜も入手した.

しかし,不幸なことにマキシモヴィッチは東アジアの植物から遠ざからねばならなかった.ロシアの南下政策でタングート(中国の甘粛省とその周辺)や蒙古を探検したプジェワルスキーらの採集品を研究することになったためである.しかしそれも完成しない1891年に惜しくも急病で亡くなった.

マキシモヴィッチが来日中の1861年にはプロシア政府使節が長崎に着き,ヴィックラ(Max Wichura),ショットミュラー(Otto Schottmueller)が植物採集をした.ヴィックラの名は,Rosa wichuraiana (テリハノイバラの異名)などに残っている.また,キュー王立植物園から派遣されたオルダム(Richard Oldham)もこの年に来日している.オルダムは日本と朝鮮半島の植物を調べたが,彼の採集した標本の多くはミクェルも研究し,『日本植物誌試論』に引用されている.

マキシモヴィッチの研究は日本の温帯,北方地域の植物相に初めて光を投げたものといえる.その意味では日本とはいえ主に関東以西の植物相の標本・資料にもとづく研究を行ってきたミクェルにとっては競合するというよりも,補完的であるようにもみえる.実際にはそうなのだが,研究がかち合う部分もあった.また,2人はほぼ同時期に論文を発表していたので学名の先取権を月日で争うこともあったのである.もしマキシモヴィッチが東アジアの植物相の研究を継続していたら,彼のいたコマロフ植物学研究所の重要度はより高いものになっていたことはまちがいない.

エーサ・グレイ
C.J. マキシモヴィッチ
(C.J. Maximowicz, 1827年〜1891年)
サンクト・ペテルブルクのロシア帝国科学アカデミー植物標本館で,極東・中央アジアの植物について研究した.
 

サヴァチェ及びフランシェ

1866年(慶応3)にサヴァチェ(Paul Amedee Ludovic Savatier)が来日した.ミュンヘンでシーボルトが70年の生涯を閉じたのもこの年である.サヴァチェは1830年にフランスのビスケー湾に望むシャラント県ドレロン島に生まれ,故郷に近いロシュフォールの海軍医学校に学び,海軍医官になった.植物好きで日本のほか,タヒチ,ペルー,マジェラン海峡,中国の寧波などで採集を行い,私設の標本庫をもってもいた.亡くなったのは1891年で痛風のためといわれている.この標本は後にイギリスのキュー植物園に入ることになった.その中には730点の日本で採集された標本があった.

当時ロシュフォールの造船所に一等医官として勤務していたサヴァチェに日本行きを勧めたのは,幕府が開設した官営横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠の前身,後の横須賀造船所)の初代所長ウェルニーである.サヴァチェは1866年に妻と長女らと来日し,1879年に帰国するまでの間,勤務地の横須賀周辺と行動の自由が許されていた三浦半島の各地,さらには近接する横浜や鎌倉,箱根で植物採集を行った.

彼は採集した標本を1880年に当時パリのドレイク(Emmanuel Drake del Castillo)の私設植物研究所で研究を行っていたフランシェのもとに送った.またこれとは別にパリの自然史博物館にも寄贈している.ドレイクの私有標本は後にパリの自然史博物館に移管されたので,自然史博物館にはサヴァチェの標本がかなり重複して収められている.旧ドレイクの標本にはサヴァチェ自身のラベルが貼られている.

フランシェ(Adrien René Franchet)はサヴァチェよりも4歳年下で,1834年にロアールエシェール(Loir et Cher)県のペゾー(Pezou)で生まれた.1900年にパリで亡くなるまでダヴィット(A. David)やデラヴェ(P. J. M. Delavay)らの宣教師たちが中国奥地で採集した植物を中心とした分類学的研究を進め,『ダヴィット氏採集中国産植物』(Plantae Davidianae ex Sinarum Imperio ),『デラヴェ氏採集植物』(Plantae Delavayanae )を出版した.また,モウズイカ属,トウヒレン属(キク科),スゲ属(カヤツリグサ科)などの論著を残している.サヴァチェは,1871年12月から約1年間帰国し,73年1月再来日しているが,この間にフランシェとの共同著作,『日本植物目録』(Enumeratio Plantarum in Japonia Sponte Crescentium )の出版計画が進んだものと想像される.

採集活動が制約されていたサヴァチェを助け,日本各地の植物を採集するのに大いに協力したのは,同じ横須賀製鉄所にお雇い外国人として勤務していたエミール・デュポン(Emile Dupont)であった.デュポンは1874年に来日し,3回にわたり日本各地を調査して歩いた.材木技師であったデュポンは,官命で日本各地の官林(国有林)へ鑑材検査に出張し,その折,彼自身や随員の佐波一郎,木村作助らが植物採集をした.デュポンは,帰国後の1879年にパリで,『日本森林概要』(Les Essences Forestières du Japon )という本を刊行している.

デュポンのほかにも多くの協力者がいた.伊藤圭介,小野職愨(もとよし),ディキンズ(W. Dickins),クラマー(C. Kramer),ライン(J. Rein),ド・ブラン(de Brandt)などには名をあげ謝意を表している.サヴァチェがこうした多くの協力者をえることができたのは日本アジア協会のような在日外国人間の交流が考えられよう.そのひとつとして,1872年にアメリカ人ワトソン(R. G. Watson)の主唱で組織された日本アジア協会がある.サヴァチェ自身1874年7月17日にその例会で日本の植物相についての論文を代読させている.この中で,彼は日本と東アジアならびに北アメリカの植物相の関係を例を上げ説明し,かつてミクェルが日本の植物相の大半が固有であるといったのを自ら確かめたと述べている.しかし,サヴァチェは今後満州,朝鮮半島などでの研究が進むにともなって日本の植物相の固有の割合は減るだろうと結論しているのは卓見である.このときすでに『日本植物目録』の一部が刊行されており,講演ではこの著作のもつ意義を示すとともにその完成へ向けてのサヴァチェ自身の意欲を示したものと考えられる.

サヴァチェ
P.A.L. サヴァチェ
(Paul Amedee Ludovic Savatier, 1830年〜1891年)
フランスの海軍医官として来日シーボルト,横須賀に滞在中にぼう大な植物コレクションをつくり, フランシェと共同で研究した.
フランシェ
A.R. フランシェ
(Adrien René Franchet, 1834年〜1900年)
パリの国立自然植物館顕花植物部門などで,中国,日本などの植物を研究した. とくに日本でサヴァチェが収集したコレクションによって, 共著で『日本植物目録』を著わした.
 

ポスト・サヴァチェ

『日本植物目録』が出版されたのは,東京大学が創設される1877年の前後である75年から78年にかけてである.フランシェとサヴァチェは,ミクェルやマキシモヴィッチらに較べてずっと現在に近いし,「ポスト・シーボルト」時代の最後に位置する植物学者だといってよい.すでに述べたミクェル,グレー,マキシモヴィッチらの論文が利用できたばかりか,彼らの用いた標本の多くも利用することができる状況にあった.それに加えて,日本植物の研究の水準も変異性の解析が問題になるなど,限られた数の標本だけでできる研究の時代は終わりつつあった.フランシェとサヴァチェの『日本植物目録』は旧世代の幕を締めるにふさわしいものであったといえるであろう.そして日本植物の研究は1877年(明治10)に創設された東京大学など日本人研究者の手に移るのである.

ところでミクェルはサヴァチェが日本滞在の間,休暇でフランスに帰国する直前に亡くなった.サヴァチェの日本植物研究にはもはやミクェルは関心をもたなかったかも知れない.ライデンではミクェル後に日本植物研究を引き継いだ研究者はいなかった.パリにもいなかったが,ロシアでは直接日本の植物を研究した学者はいなかったが,コマロフなど東アジアの植物を研究した植物学者はかなりいる.

サヴァチェの滞在は1879年までだが,その約20年後の1897年から精力的に日本植物の採集を行い,世界の専門家に研究を委ねた宣教師がいる.彼,ウルバン・フォリー(Urban Faurie),はぼう大な標本を作成し,その多くがパリ自然史博物館に送られたが,手元にあった標本は没後京都大学に納められた.これは岡崎忠雄が遺族から買収し寄贈した.東京大学にも早田教授や中井教授に同定のため送られたフォリー標本が若干ある.

フォリーはフランスのリヨン市南西のオートロアール県で1847年に生まれた.パリ大学神学部を卒業したが,パリの自然史博物館に関係してサヴァチェの採集した標本により日本植物を研究していた.1883年頃から日本での採集を始めるが,本格化したのは1897年からで,東北,北陸,山陰,四国,九州から台湾,朝鮮にも足をのばし,1915年に台湾で調査中に亡くなった.

フォリー標本の研究には中井猛之進など日本人学者も一部協力したが,主に研究したのはリヨン大学にいたアンリ・ドゥ・ボワジェ(Henri de Boissieu)である.ミクェルの亡くなった1871年に生まれた彼はリヨン大学に籍を置いていたものの,パリの自然史博物館での研究に多くの時間を費やしたといわれる.フランシェが受け入れたのである.しかし,ジュラ山地を調査中の1912年に亡くなった.

フォリーが精力的に採集した年代は日本人研究者による野外研究が本格化した時期と重なるが,彼の採集標本は主にフランスをはじめとする海外で研究されることになった.中でも彼の採集した標本の多くを調べたのは先に述べたボワジェだが,多くの新植物を命名したのはレヴェイユ(Augustin Abel Hector Léveillé)である.レヴェイユは多数の新種を発表したが,なかには所属する科さえ間違っているような内容の乏しい論文が多かった.未開の地で採集活動に精を出す宣教師を鼓舞するためもあって新種を‘生産’したという評価が適切である.フォリー標本による論文も粗雑であり,内容がよく理解できぬものであり,日本の研究者を困らせた.

 

鼎立か分担か

ここで日本の植物を研究したこれら先達の特質に触れておきたい.まず,ミクェルであるが彼自身の最大の功績はオランダ領インドを中心としたマレーシアの植物研究である.したがって,ミクェルは日本の植物研究に先だってアジアの熱帯植物について深い造詣を有していた.当然ミクェルの日本植物研究では,暖帯・亜熱帯性植物の研究に彼の資質が発揮されたのはいうまでもない.マキシモヴィッチは来日前にアムール地方,満州を自分で踏査して東アジア温帯の植物について豊富な知見と体験をもっていた.彼のこの素養が日本の温帯植物の研究に十分に生かされたといえる.グレーは日本の植物との類縁関係がある北アメリカ東部の植物の権威であり,それが日本の植物研究の成果に反映している.

日本の植物相を手短に述べるなら,

1)北アメリカ東部の植物相に類似している日華植物区系に属すること,
2)熱帯と温帯の移行帯が日本の中央部を占め,熱帯系と温帯系の両方の植物が生育していること,
3)島であるが地形が複雑で種の多様性が高いこと,

の3つが特徴である.

結果からみると,ミクェル,マキシモヴィッチ,グレーはそうした日本の植物相がもつ特質をそれぞれ各自の経験・研究背景に沿うかたちで検討したといえる.

フランシェとサヴァチェの立場は明らかに彼らとは異なる.フランシェ自身は中国の植物相についても研究しているが日本植物目録ではその成果が生かされているとはいえない.日華植物区系の枠組みの中で考えたとき,当然日本と中国の植物相との比較は不可欠であるが,このような比較研究は最近まで実現しなかった.日本と中国の植物はほとんど独立して研究が行われていたために,比較すべき対象を的確に対応させることすら困難であった.フランシェ,それにほぼ同じ時代に中国産植物の目録をまとめたキュー王立植物園のヘムスレー(William Botting Hemsley,1843年から1924年)らにもいえるが,彼らはそこまで踏み込んで研究はしかなった.

 

さて,明治10年(1877)に東京大学が創設になった.まず最初に行われたことは日本植物の分類についての研究であった.初代植物学教授となった矢田部良吉らは,初め外国の植物学者が命名した分類群に精通するのに手間取った.外国に行かねばタイプ標本を見ることができないし,記載を入手することも大変だったのである.彼らが採集した標本についても,標本の植物が誰の記載した何の種に符合するや否やを検討するだけに終った.それが未記載種らしいと思われても,それを独自に学術的に公表することができなかった.比較すべき類縁種のタイプを始め,同定の信頼できる標本はなく,文献も不足していたためである.そのため,初めは標本を外国の専門家に送って鑑定してもらうしかなかった.しかし,鑑定の必要な標本は増加するが,容易に回答が得られぬことが多くなった.

矢田部良吉は1890年10月発行の植物学雑誌に英文で「泰西植物学者諸氏に告ぐ」という宣伝文を発表し,「日本植物の研究は以後欧米植物家を煩わさずして日本の植物学者の手によって解決せん」ということを述べた.矢田部はこの宣言を踏まえて,シチョウゲ,ヒナザクラの2新種を書き,次いで新属新種キレンゲシヤウマを公表した.

「矢田部宣言」後に日本人の植物学研究が開始されたわけではないが,この宣言は東京大学における研究水準がようやく植物学といえる状態になったという自己評価であったということができる.その自己評価の水準を示す物差しとしたのは多分標本室と図書室の充実であったろう.ここに矢田部良吉を中心に松村任三,牧野富太郎らにより日本植物の研究が盛んに行われ,全国規模で日本の植物相の全貌解明に向けての研究が緒につくのである.

おおば・ひであき 東京大学総合研究博物館教授
(Professor, University Museum, University of Tokyo)
矢田部良吉 (1851年〜1899年)
1876年に東京開成学校教授,翌年新設された東京大学の教授になった.
 

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