2ライデンにあるシーボルトゆかりの博物館Museums with Siebold collections in Leiden大 場 秀 章
Hideaki Ohba
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ライン川の河口に発展をとげたライデンは,ローマ時代にはルグドゥーヌム・バタウォールム(Lugdunum Batavorum)と呼ばれていた.9世紀に築かれた砦,ビュルフツを中心に町は発展した.事実,運河に囲まれた旧市内の中心にその砦はある.市内の道路は概ね運河に沿って縦横に連なる.どこを歩いてもレンブラントの絵画の中にいるような錯覚に襲われることがしばしばだ.ライデンはレンブラントの生まれ育った町でもある.レンブラント,すなわちレンブラント・ファン・ラインは1606年にライデンのウェデステーヘの粉屋の息子として生まれ,26歳までここで過ごした.彼が絵画の技法を学んだのもライデンである.レンブラント公園を中心とした一角はそのままレンブラントの画中に収まり,その色も色彩もまったくレンブラント風といってよい. ライデンは時代の推移のみえる町である.どの道を歩いても新旧さまざまな建物が折り合いをつけ建ち並んでいる.古い建築を代表するのは中世に邸宅として建てられた建物や教会である.ライデンが今日の様相をみせはじめるほどに発展を遂げたのは中世に入ってからだといわれている.歴代のホラント (Holland) 領伯爵は,ライデンに邸宅を構えた.邸宅を中心に町は発展し,邸宅に付置が義務付けられていた礼拝堂はやがて,ライデンの最初の教会であるピータース教会となったといわれている.シーボルトにも関係の深いラペンブルク運河から道ひとつ奥まったところに建つピータース教会は,1512年頃に建てられたもので,いまでもライデン市民の心のシンボルであるのは,まちがいない. 最初にも記したようにライデンの旧市内は周囲を運河に囲まれているが,その運河に沿って数世紀もの間城砦が築かれていた.19世紀にはそのほとんどが取り壊されてしまったが,残された2つの城門が当時の様子をしのばせてくれる. どの都市も恒久的に平和な状態にあったことはない.ライデンも1568年に火ぶたを切った80年戦争さなかの1573年から翌年にスペイン軍によって包囲されたのである.市民は粗食にも耐えスペインからの独立と自由を勝ち取るために戦った. |
ライン川の河口近くに発達したライデンには運河が縦横に開かれている.
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1593年にウィーンのハプスブルグ家の侍医であった,フランダース地方出身の植物学者であるカロルス・クルシウス (Carolus Clusius) が,ライデン大学に招聘されてやってきた.クルシウスは大学に植物園を設け,そこでチューリップの栽培を始めた.当時チューリップは西ヨーロッパではまだ未知の植物だった.クルシウスは分類体系に従って植物を植える今日の分類花壇を中心にすえた植物園を創った.チューリップもその植物園で栽培されたのだが,分類花壇とは別に板囲いされた一画で栽培されていたらしい.クルシウスの創案になる大学植物園は,今日のライデン大学植物園 (Hortus Botanicus) とは大きく異なるものだ.クルシウスの偉大な業績を讃えるため,大学は往時を再現した,クルシウス植物園を復元した.私には新しい植物の導入に驚喜する市民の姿は,東インド会社の船が次々とオランダに持ち帰るエキゾチックな文物に強い関心を寄せる人々の有様とも重なってみえる. 今日のライデンはオックスフォードやケンブリッジに代表される大学町とは異なるが,アカデミックな雰囲気が色濃く町のたたずまいににじみ出ているのは事実だ.大学とは直接関係をもたない一般の市民や旅行者がそれを強く意識させられるのは,町中に散らばる博物館や書店の多さではないだろうか.資料館,記念館なども含めたらライデンにある博物館は相当な数にのぼる. |
カルロス・クルシウス
(Carlolus Clusius, 1526年〜1609年) 著名な草本学者で,中近東などから多くの植物をヨーロッパに導入した.チューリップの導入は有名. |
シーボルトがこの町に日本の収集物を運び込み研究のための家を借りたのは,土地柄ばかりではなく,ライデンに具わる学術的環境が大きく作用したのであろう.シーボルトが日本追放の判決を受けジャワ号に乗り長崎から出帆したのは1829年12月30日であった.シーボルトはジャワ号に日本で収集した学術標本,生きた標本などをも載せた.その船荷が陸揚げされたのはいまのアントワープで,1830年7月8日であった.ナポレオン死後の1815年にウィーン会議でベルギー全体がオランダ王国への併合が決められたため,ライン川の支流の河口に位置し,港として良好なアントワープは,当時のオランダの主要港のひとつとなっていた.しかし,ジャワ号の船荷が到着した同じ年の8月にベルギーの独立運動が起き,1831年にベルギーは列国の承認を受けオランダから独立してしまう. それは独立前のことであったが,王の命令でオランダの王立植物標本館は,ブリュッセルに建設されたため,ジャワ号で運んだシーボルトの標本はブリュッセルに置かれたのである. 独立運のさなか王立植物標本館では,館長のブルーメが不在であったため,シーボルトはブルーメの許可なしに標本館の全標本を50箱に梱包し,ヘントに運び,そこから船をチャーターして,ロッテルダムへと送り出した.これは,ブルーメの不在にあせったシーボルトが文部省に手紙を書き委任を受けるかたちで行なったものだった.またアントワープにあった民族学コレクションもオランダに送り出した. 間一髪のところであったが,シーボルトはこのように収集したコレクションの大部分を,ライデンへと移動することに成功したが,もしこのときコレクションがブリュッセルやアントワープに残されていたら,ライデンの様相もいまとは大きく変っていたことであろう. 1832年にシーボルトはラペンブルク運河に沿って立ち並ぶ建物のひとつを借り,日本で収集したコレクションをここに一括するとともに整理と研究を続けることになった.シーボルトはこのラペンブルクに借用した家(19番)を1836年になって購入している. |
ラベンブルク運河に沿う, シーボルトの家. 現在はシーボルト記念館となっている.
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国立民族学博物館1832年にシーボルトが借用したラペンブルクの家には「日本植物館」が開設され,コレクションの一部を一般に公開した.シーボルト自身は日本での調査・研究をまとめた『日本』の刊行に努めたが,出帆のための資金を思うように調達することができないでいた.1837年になって,シーボルトは収集した民族学コレクションの売却をオランダ国王に申し出た.オランダではこのときをもってライデンの民族学博物館が設立されたとしてる (Wengen,2002年).そして1837年をもってこの民族学博物館が設立されたとすれば,これは世界で最初に誕生した民族学専門の博物館であると言えよう. この民族学博物館は現在の国立民族学博物館 (Rijksmuseum voor Volkenkunde),とくにその日本部門と密接なつながりを持っている.国立民族学博物館の初代館長はシーボルトであり,再度の来日でオランダを離れる1859年まで彼はその館長職にあった. シーボルトはコレクションの展示に関して,日本の景観,人々の日々の暮し,風俗と職業を重要な3本柱とし,その多様さを紹介することに主力を置いた.また,コレクションは4つに大別された.1) は文献・絵画等の文化誌資料で,2) は地域の産物や人々の生産物で,美術品や工芸品,道具類ならびにその素材などが含まれる.3) は家具・什器類ならびに家と船の模型,4) は比較民族学に関する,アイヌなどの民族資料が含まれる. 民族資料にこうした分類法を導入したことは画期的で,その後の民族学博物館の資料保存や展示に少なくない影響を及ぼしたといわれている. 1837年にラペンブルクのシーボルト邸で一般公開されたコレクションは,種々の事情から1847年にはライデンの4ヶ所に分散して移された.また1837年から1847年まではシーボルト・コレクション (Verzameling Von Siebold) といわれていたそのコレクションは,1847年以降1862年までは日本博物館 (Japansch Museum) に,さらに後に王立シーボルト日本博物館 (Rijks Japansch Museum Von Siebold) に変わった. この民族学博物館の展示カタログは1845年に出版されたのが最初である.これはライデン市の貧民救済に催された『日本品展覧会』用のもので,この年の10月20日から11月5日にかけて開催された.蛇足だが,シーボルトはこの年49歳になり,これに先立つ7月10日にヘレーネ・フォン・ガーゲルンとベルリンで結婚し,ライデン近郊のライダードルフ (現,ライデン市デコイ) の邸宅ニッポンに住んだ. シーボルトのコレクションに新しく日本からのコレクションが初めて加わったのは1860年で,それは徳川家茂将軍からオランダ王ウィレム三世に献上された六双の屏風18点であった.同年シーボルトは王立シーボルト日本博物館ガイドブックを出版した.その後,1896年には王立シーボルト日本博物館はその名称を王立民族学博物館へと変わり,今日のかたちを整えたのである. 1899年には150の浮世絵,40の屏風,25篇の図譜を展示した特別展があり,世界中から注目を集めた.この図録はハンブルクの博物館に雇われていた原新吉によって作成されている. 日本の美術,なかでも浮世絵や葛飾北斎の漫画の紹介では第1章に記したようにライデンは世界に先んじていた.北斎の作品は存命中にヨーロッパで注目され,ヨーロッパの絵画に大きな影響を与えるのだが,このきっかけをつくったのはシーボルトであり,このライデンの民族学博物館であった. モールスシンゲル運河に沿った巨大な民族学博物館こそはシーボルトの日本で精力的なコレクション活動をいまに伝える牙城だ.彼がライデンのそして世界の民族学博物館の生みの親であることは記憶されてよいことだと思う(図1). 図1.国立民族学博物館
Rijksmuseum voor Volkenkunde. モールスシンゲル運河に沿って建つ巨大な建物は, 世界でも有数の民族学の博物館である. シーボルトの民族学標本が収蔵される. |
国立民族学博物館入口の案内図.
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自然史博物館は1915年にファン・デアー・ヴェルト公園南側のラーム通り(Raamsteeg)に建った新しい巨大な建物に移転した (右の図).この建物は自然史博物館のために建設されたもので,ラーム通りに面した建物の壁面はほとんど窓がない巨大な収蔵庫となっていた(右の図下).中央にある玄関の3メートルは優に超える扉の楯(まぐさ)には転居した今も王立自然史博物館の名が記されたまま残っている(右の図中). かつてこの建物を訪れた動物学者の上野益三によれば,玄関の重い扉を押して一歩中に踏入るとすぐの両側に,訪問者を圧倒するようにゾウの骨格が4体向い合せに置いてあったそうである. 1878年から1983年まで地学分野は地質学博物館として自然史博物館とは分離していた.地学関係の標本をも収蔵する一体化した自然史博物館として新たに建設されることになったのが,現在のナチュラリスである(図).この新しい建物は,旧市内が広がるライデン中央駅の南側ではなく,北側の新開地に建てられることになった.その場所は,LUMCの略称で知られるライデン大学メディカル・センターに接した北側である.工事は1995年にくい打ちが始まり,1998年に開館した.開館とともにこれまでは行われていなかった一般人を対象とした常設の展示室が設けられ,常時公開されるようになった.研究とともに生涯学習や学校教育の中で自然の多様性やその大切さなど関わる部分の教育を積極的に分担しているようにみえる. このときの合体によってシーボルトや後継者が日本で収集した鉱物,岩石,化石などの地学関係の標本もナチュラリスに移り,オランダ到着以来別々に保管されてきた動物関係の標本と再び一緒となった. |
王立自然史博物館の旧建物
1915年から1998年までは,ここが本拠であった. 上・中の写真はラーム通りに沿う建物の中央部分にある正面玄関, 下は西側の壁面で収蔵庫になっている.
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ライデン大学国立植物学博物館はこの大学自身の標本室が,ひとつの母体とはなっているが,今日の重要生をもつに至ったのは,オランダ王立植物標本館と合併が行われたことが大きい.後者は1830年にブリュッセルからここに移され,1832年に合併が公に決まったのである.ライデン大学の植物標本室がかつて王立植物標本館Rijksherbariumと呼ばれていたのは,この合併の歴史によっている. 他方,オランダ王立植物標本館の設立は1825年3月31日にさかのぼる.国王の命令によって当時のオランダの首都ブリュッセルに設立された.このとき定められた利用規定が,館は十分な監督下に植物学を専攻する学生に対して開放されねばならないと規定しているのは興味深い.また,実際に植物学の教授と教授の推薦のある学生の標本利用を認め,植物学の教授は研究のため一定期間,受領書と引き換えに標本を借りることができた.今日の標本館や博物館に近い利用形態がすでにこの時代からとられていたことは注目される. ライデン大学の植物標本室やオランダ王立植物標本館の創立は植物標本館としては世界でも早いほうだと言ってよい.ちなみに,パリの国立自然史博物館は1653年に創設されているが,有名な大英博物館自然史部門(現在のロンドン自然史博物館)の設立は1753年である.コペンハーゲンの植物学博物館は1759年,ケンブリッジ大学は1761年,ウプサラ大学は1785年,ベルリンのダーレム植物園博物館はさらに遅れて1815年,そして今では世界最大規模の植物標本を収蔵する王立キュー植物園標本室は1853年になって設立されたものである. 1832年に合併が決定されたものの,実際の合併が終了したのは1871年になってである.このように合併に時間がかかったのはユンクーン(F. W. Junghuhn)ら一部のスタッフが新館長となる王立植物標本館長のブルーメ(C. L. von Blume)の監督下におかれることを望まなかったためである. |
旧王立植物標本館.シェルぺンカーデにあった時代の建物.
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ブルーメは1862年に亡くなり,ミクェル(F. A. W. Miquel)が後を継いだ.1872年になって,オランダ植物学会(Botanische Vereeniging)の植物標本コレクションもライデンに保管されることになった.館長ミクェルがブーゼ(L. H. Buse)に申し出てから9年後にやっと実現したといわれている.こうしたことが契機となり,オランダ菌類学会などの公的機関や個人からの標本の寄贈が行われるようになった.こうした寄贈標本に加え,スタッフや政府の研究機関の関係者より収集された標本,他の標本館や個人コレクションの所有者との交換によって得た標本,個人コレクションや自然史探検家から購入した標本が次々に加わり,ミクェル館長の時代にライデンの標本館はその収蔵標本数でも世界有数の規模に達するまでになっていた. ライデンが収蔵する標本の中でもとくに重要なものはオランダの東インド会社や旧植民地で収集された標本である.その中には,東インド会社が経営に関わった,今日植物学上マレーシアと呼ばれる,ニューギニアから西へ,スマトラ,ジャワに至る熱帯アジアの島嶼地域やマレー半島,フィリピンの植物のコレクション,シーボルトに代表される日本の植物コレクションが含まれる.こうした標本を基盤としてライデンでは今日に至るまで熱帯アジアの植物,とくにマレーシア地域の植物の多様性,分類などについての国際的センターとしての役割を果たしている. 1999年にオランダの3大学の植物標本館,つまりワーゲニンゲン農業大学の植物標本館(Herbarium Vadense),ユトレヒト大学植物標本館,そしてライデン大学の王立植物標本室の3つの植物標本館は合併し,オランダ国立植物学博物館(Nationaal Herbarium Nederland)を形成することになった.ただし,全コレクションは一ヶ所に集中するのではなく,従来通り3つの大学に分散して収蔵と利用を図るものである.これらの3植物標本館は,それぞれ現在の専門分野を維持し続ける.すなわち,ライデンはアジアとヨーロッパの植物標本,ワーゲニンゲンは熱帯アフリカの植物標本,ユトレヒトは新熱帯の植物標本を主に収集・収蔵する.それぞれの大学での植物分類学関係の講義・教育活動は続けられるが,研究活動と標本管理ではいろいろな面で統合されることになった.大学からそれぞれの分館への資金供給は減ったが,オランダ国立植物学博物館として政府から補助金を受けることになった.これは,主にコレクションの科学的な管理,熱帯諸国からの学生のための分類学的教育・訓練,ヨーロッパの共同研究に向けた研究を対象としたものである. この新しい状況に対処すべく研究グループが再構成された.ライデンでは,2つの研究グループができた.それは,1)東南アジアの維管束植物(以前の熱帯グループとシダ学と花粉学の統合)と,2)ヨーロッパの隠花植物と顕花植物(以前の隠花植物研究グループとオランダ植物相研究グループの統合),という2グループである.また,ワーゲニンゲン分館とユトレヒト分館同様に,系統学,系統生物地理学,バイオシステマティックスの研究プログラムの中に分子系統学が含まれることになった.上記の合併は実際にはライデンの王立植物標本館の予算の大幅な削減案に対して,前向きの回答として採られた改革であったとみることができる.削減案の提案直後から将来に対してしばらく不確実な状況にあったオランダの植物分類学は,再び将来に持続可能な前途を手にしたのである.状況を的確に判断し,適切な措置を講じることができたのは,新しい機構の館長であり,ライデン大学分館長でもあるバース(Pieter Baas)教授の指導力に負うところが大きい.分館となった今,ライデンはユトレヒトとともに,とても良好な状況にある.オランダで最近実施された全大学の生物学科の国際的な外部評価は,ライデンにおける最近5年間での研究は,質,生産性,実用性,将来の可能性に対して優秀であると評価している. 世界でも指折りの高い植物の種多様性を有するマレーシア地域の植物誌である,『マレーシア植物誌』(Flora Malesiana)を完成するためにライデン大学分館は多大の努力を払ってきた.今後ともこの事業は継続されることになったのは喜ばしい.また,今回のシーボルト・コレクションの東京大学への一部分与などもライデンが進めてきた国際的な協力関係の推進の一環と理解することができる. |
王立植物標本館
シェルベンカーデから移転後の建物で, 現在のファン・ステーニス・ヘボウに移転するまで使用されていた. 現在はライデン大学が使用している. ライデン大学国立植物学博物館の標本収蔵室.
標本は小形の標本ケースに収納されている. |
おおば・ひであき 東京大学総合研究博物館教授
(Professor, University Museum, University of Tokyo)
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