6

ハーバリウム及び黎明期の日本植物研究の歴史

 

大場秀章


はじめに
 地球の表層での岩石,地層,地形,生物などの多様性を記述する自然史は自然発生的にかたちを整えてきた,歴史の古い学問である.多様性の記述はギリシア時代に遡る古い歴史をもつが,ヨーロッパの大航海時代がその飛躍的発展を促す重要な契機となった.テラ・インコグニータ(未知なる大地)からもたらされた新しい生物には従来の理解を超える「はみ出し」ものが多かったからである.

 ヨーロッパ人の植物についての知識は,はじめヨーロッパに野生する数千種の植物とアラビアからもたらされる若干の外来植物に限られていた.その数は,特別な体系(システム)などを考えなくても,ひとりの人間が充分に記憶し操作できる量の数である.本草学者といわれた当時の植物学者が行った認識法も,これを反映している.つまり,彼らは自己完結的な方式でそれらを記述したのである.だから未知なる植物が発見されても,彼らの体系にはそれを取り込み位置付けるゆとりはなかった.

 こうした自己完結性を脱して,存在しうるすべての植物に当てはまる体系的認識を思考するためには,対象の数が普通の人間では記憶できぬほどの量になることが必要であった.あたかも一つのファイルやフロッピーで収容できぬ多量の情報を扱う私たちが行なうように,ヒエラルキー構造をつくり,グルーピングをするなどの操作なしにはほかに整理できないほどの,おびただしい数の種の存在こそが,ユニヴァーサルなシステムを生む必要条件であった.

 スエーデンに生まれたりンネ(Carl Linnaeus)は,熱帯アジアやアフリカから未知の植物が多量にもたらされるオランダで研究中に上記のことを痛感した.その経験の中から検索を容易にするキーワードに当たる指標形質,指標形質にもとづく分類という体系化,およびファイル名の汎用化に通じる学名の重要性を見出し,雄しべと雌しべの数の違いを指標とする24綱体系,ならびに二名法という学名表記を提唱した.リンネは生物学の父と呼ばれる.未知な生物に対しても適用を可能とする分類体系という新しい概念を提唱した意義が評価されたためであろう.このような未知の新植物に対しても体系上の位置を与えることのできる分類体系は,恣意的でそれ自体で完結していた過去のどの体系とも異なるものであった.新たな分類体系の出現は,未知なる植物の体系上への位置付けのための研究を育むことになった.植物や動物について記述する自然史はこうして分類体系に位置付けるための分析的な研究へと発展を遂げ,ここに分類学の誕生をみるのである.分類学的な裏付けを必要とする体系は,分類体系(classification system)と呼ばれることになり,分類学は体系そのものの改良をも研究の視野に含めていくのである.

 自分の体系が未知な植物にも適用可能であることを確信していたリンネは,世界の植物を自らが提唱した24綱体系に位置づけ,体系上の所定の位置に位置付けることを望んだ.これを実証することの興味のために,リンネは植物学的には未知の地域へと弟子たちを派遣したのである.


研究資料としてのおし葉標本
 ところで植物学の研究では必要に応じて様々な材料・資料が利用される.その中で多様性に中心を置く分類学のような研究分野では,多くの種・個体を集めて比較することが欠かせない.植物を収集して栽培する植物園はこの目的に適した施設であり,実際植物学の発展に貢献してきた.しかし,地球上の植物をすべて生きた状態で栽培し保持するには,とてつもないスペース,栽培技術などが必要であって,どの植物園も栽培する植物は限られたものになっている.また,スペースの面から同一の種について,多数の異なる産地の個体を総覧できるほどに集めることはとても難しい.それにそもそも航空機が発達した20世紀後半はともかく,それ以前は遠国の植物を生かした状態でヨーロッパまで持ち帰ること自体がとても難しいことだったのである.原形がよく保存されていれば必ずしも生きた状態の資料でなくとも研究上は差し支えない.植物の構造やかたち,またその変異などの分析に当たっては,圧搾乾燥により生きていたときの状態を固定して保存したおし葉標本が重要な研究資料として用いられたのである.

 おし葉標本は長期保存ができ,汎用性があり,しかも管理が比較的易しい.これは植物を一定の方法で乾物にした後,定形の台紙に貼り付けたもので,これを保存するためのスペースは液浸標本など他の形態の植物標本に較べはるかに小さくて済む.また,凍結標本のように保存のためのコストもあまりかからない.多くの場合は変色もするし,多肉質の植物では乾燥させることによる変形も著しい等,いくつかの欠点はあるものの,何百万点もの研究資料を一ヶ所に集めて収蔵できる利点は大きい.科学史,なかでも植物分類学史は,このおし葉標本の利点がどの欠点に対してもこれを凌駕する意義を有していたことを明らかにしている.つまり,植物分類学の発展と標本量の増加とは表裏一体の関係にあるということができる.


ハーバリウムまたは植物学博物館
 分類学者は研究のためたくさんの標本を集める必要があった.自ら集めた標本を既存の標本とつき合わせてみて,従来の知見だけでは説明のつかない事実の存在を明らかにし,その事実をも含めて説明できる新しい学説を提唱することが分類学を進歩させてきたのである.したがって,標本とは,単に自らの研究を保証するだけのものではなく,新しい研究の重要な基盤材料でもある.分類学者は新しい学説を提唱するためには標本が必要であり,たくさんの標本を収蔵する施設で研究を展開する.研究者が多数集まるところはまた,どんどん標本が集まる.悪循環という言葉があるが,これはアカデミックな意味での好循環である.

 植物の標本室はハーバリウム(herbarium)と呼ばれる.日本では一般にこの語を,脂葉室,脂葉館,植物標本室などと訳す.ハーバリウムはいろいろな利便性を具えている.居ながらにして世界中の植物をそこで見ることができる.花の女王,バラには世界に野生種が200以上あるといわれている.いまこのすべての種の花粉の構造を研究するとして,野生のバラを求めて世界中を歩き廻ったとしよう.200種もの野生種を見つけるだけでも何十年もかかってしまうだろう.なかには個体数が限られていて,簡単には見出せない種もあるだろうし,見つけたはよいが花は終わっていることもあろう.おし葉標本は細胞以上のレベルの形態学の研究,中でも微小で硬質な花粉や種子から,マクロな形態の研究には支障なく,利用することができるのである.花粉の研究者はハーバリウムに行きさえずれば世界中で採集された標本の中から必要な材料を入手できるのである.

 植物分類学の研究資料として収集されたおし葉標本は,分類学以外の研究にも貴重な資料として役立っことが判ってきた.可憐な鷺に似た花を開くサギソウ(ラン科)は絶滅が心配される野生植物のひとつである.その減少の原因は,サギソウが高値で売れるため山草業者が自生地から根こそぎ採っていってしまうことにある.そのためかつては広く各地に分布していたものが,急速に減少していったことが推定できる.しかし,サギソウがかつて広く分布したことを証明するものがあるだろうか.ハーバリウムの標本はこのような情報を伝える数少ない資料でもある.

 おし葉標本からはさまざまな有用物質も抽出されている.被爆標本や被爆地で年を変えて採集された標本は大気中の放射能の変化などを研究する貴重な資料でもある.おし葉標本からDNAの抽出も可能で分子レベルの遺伝情報をうることもできるようになった.分析解析の技術の進歩は標本の新たな利用を生み,これからも先端研究の推進に役立っていくことが期待できるのである.現代のハーバリウムには,植物学博物館の訳語を与えるのが適切だというのが筆者の見方である.


Deutzia staminea R. Br. ex Wall. の標本
ウツギの1種,Deutzia staminea R. Br. ex Wall. の標本(東京大学総合研究博物館蔵).ヒマラヤ植物標本の交互交換で,当時の大英博物館自然史部門(現,ロンドン自然史博物館)から送られてきたWallichコレクションの一部.この標本は1830年代に採集されており,今回のシーボルト標本と並ぶ日本にある最古の標本のひとつ.
おし葉標本の起源
表紙
space
中扉
Kaempfer著 Amoenitatum Exoticarum第5部の表紙及び中扉.
space
 おし葉標本を研究の素材として利用するようになったのはヨーロッパの本草学が最初であった.しかし,それは本草学の長い歴史からみると比較的新しいことで,16世紀に入ってからと考えられている.日本でおし葉標本を作成し,研究に役立てたのは,後述するように19世紀以後のことである.

 おし葉標本を作るのは簡単である.手短かにいうなら,植物を圧搾して乾燥させるだけでよい.本草学の歴史を述べたイギリスのアーバー(Agnes Arber)は,16世紀までおし葉標本の収集を行うことが本草学で重要視されなかったことは理解しがたい,といっている.なぜなら,おし葉標本は,本草学者が発見したものを記録し,伝達する方法として,また異なった地域と異なった季節に繁茂する植物を比較する根拠として,効果的で簡単な方法であるからである,というのがその理由である.

 おし葉標本の創始者はイタリアの本草学ルカ・ギーニ(Luca Ghini, 1490〜1550)と考えられている.しかし,ヨーロッパでは13世紀には乾燥させた花の色を保持する方法が存在したことから,もっと古い時代のおし葉標本が発見される可能性はある.ギーニのおし葉標本技術は彼の弟子によってヨーロッパ中に広められたとアーバーは書いている.ギーニはボローニャとピサの大学に勤めた.1551年に台紙にゴム糊で貼ったおし葉標本を彼はマッティオリ(P. A. Mattioli)に送り,その頃約300点のおし葉標本を所持していたという記録があることから,おし葉標本を作成していたと考えられているのだが,彼の標本は現存しない.現存する最古の標本は,彼の弟子ゲラルド・チボー(Gerald Cibo)のものであり,遅くとも1532年には収集を始めている.

 アマトゥス・ルシタヌス(Amatus Lusitanus)は1553年に,イギリス人フォルクナーがおし葉標本を収集していることに触れている.それは冊子にゴム糊で貼りつけられていたらしい.イタリアを旅行したことがあった彼は,おそらくギーニからおし葉標本をつくる技術を学んだのだろう.ギーニの弟子だった著名な本草学者ターナ,アルドロヴァンディ,チェザルピーノも,16世紀中頃におし葉標本をつくった.

 アルドロヴァンディ(Ulisse Aldrovandi, 1522〜1605)は,全世界の植物を含むおし葉標本の収集をめざした最初の人物であった.また,遠方の国々の植物を描くための資料としてのおし葉標本の価値を認めていた.バーゼルの医師であったプラッターのおし葉標本については,哲学者モンテーニュが1580年にバーゼルでこれを見聞して,『随想録』に「ほかの人が薬草をその色に従って描かせる代わりに,かれは独創的な技術で自然をまるごと適切に台紙に糊づけする.そして,小さな葉や繊維はそれがあるがままの姿を示す」と記している.彼はページをめくっても標本がはずれないことや,なかには実際20年以前のものもあることに驚嘆した.

 おし葉標本の収集のための詳細な知識が記述されたのは,スピーゲル(Adrian Spieghel)の『ハーバリウム入門』(Isagoges in rem herbarium,1606年刊)が最初である.スピーゲルは良質の紙に植物をはさんで徐々に重さを加えながら圧搾する方法を説明し,植物は毎日検査し,裏返さなければならないと注意している.植物が乾燥したら紙の上にのせ,さまぎまな大きさのハケでゴム糊を塗る.スピーゲルはこのゴム糊の処方も示している.次に,植物を台紙の上に移し,その上に亜麻布をかけて,植物が台紙に付着するまでむらなくこする.最後に台紙と台紙のあいだ,または冊子の中に布をはさみ,ゴム糊が乾くまで圧力を加える.

 スピーゲルはおし葉標本が重要なことを察し,ひとつを仕上げるのに費やされる労力が高い称賛に値することを認めている.彼自身はおし葉標本収集を「冬の庭園」(Hortus hyemalis)と呼んでいるが,「生きた本草書」とか「生きた本草図譜」,あるいは「乾いた庭園」とも呼ばれた.おし葉標本,植物標本室,さらには植物学博物館を意味するハーバリウム(herbarium)という言葉はスピーゲル以降,印刷物の中に散見されるが,一躍この言葉を一般化させたのはトゥルヌフォール(Joseph Pitton deTou mefort, 1656〜1708)が1700年に著わした『王立植物標本室の分類法』(Institutiones rei herbariae)である.これは,当時のパリの王立植物標本室でのおし葉標本の分類法を記述した著で,後の分類体系の概念形成の発展に大きな影響を及ぼした.

 いまでは世界最大のおし葉標本コレクションを収蔵する王立キュー植物園,これに次ぐロンドン自然史博物館やエディンバラ杉植物園があるイギリスでは,意外なことに17世紀の後半になってもおし葉標本は普及していなかったらしい.

 それでは日本ではいつ頃からおし葉標本が作られたのだろう.これについてははっきりしたことは判らない.後述するツュンベルク(Cafl Peter Thunberg)は桂川甫周や中川淳庵などとの文通で標本を作り送ることを依頼しているが,ウプサラ大学にそれがあるのかどうかまだ確かめていない.

 伊藤圭介の師である水谷豊文はおし葉標本ではないが,魚拓に似た植物の印葉図を作った.これは1747年に刊行され渡来したクニホフ(Johann Hie ronymus Kniphof)の『植物印葉図譜』(Botanica in originaliseuHerbarium vivum)をまねたものである.印葉図は葉などの全形や葉縁の鋸歯の形などを正確に知ることができる.その意味ではおし葉標本に近い役割を果たしたのである.しかし,印葉図は印形であり,植物そのものではない.得られる情報量は限られており,おし葉標本に代わる資料ではなかった.

 伊藤圭介や宇田川榕菴はシーボルトに会った後,植物採集に出かけ,おし葉標本を作った.ライデンやミュンヘンのシーボルト標本には圭介や平井海藏など江戸時代の日本人の作ったおし葉標本が多数保存されている.これらの多くはシーボルトが勧めて作らせた標本と想像される.多くはA4版より少し大きめ(平井海藏標本は,およそ縦33cm,横23cm)の和紙に植物を乾燥させ和紙や糸で止めてある.台紙に直接またはこよりに墨字まれに朱筆で植物の呼び名等が記されている.標本自体は多くは根や地下茎までは採集されておらず,地上の葉や花あるいは果実のある枝や茎からなるものが多.このように文政中期に当たる1823〜26年には日本人も,当時としては良質のおし葉標本をつくったのである.

 文政年間あるいはそれ以前に作製されたおし葉標本の存在を筆者は知らない.江戸時代のものと思われるおし葉標本が国立科学博物館にある.これは伊藤圭介が採集した標本であるが,形態は上に述べたものとは異なり,はがきよりもひとまわりほど大きめの和紙に植物を挟み込んだものである.野外で図鑑代わりに用いたものだろうか.標本となった植物も茎や枝先を摘み取った程度で,ライデン所蔵の標本に較べると質が劣る.伊藤圭介の標本は東京大学にも保管されているが,これは圭介が東京大学の員外教授となって小石川植物園に勤務していた明治時代になってからの標本で,当時東京大学で使用していた台紙に貼られている.


日本の植物とその研究
第5部の本文
space
第5部の図版
Kaempfer著Amoenitatum Exoticarum第5部の本文,及び図版.図に描かれた植物はツバキである.図中の漢字は椿のつくり中の日の部分が欠落している.
space
 ユーラシア大陸の東端に位置する日本は,気候的には亜熱帯から亜北極地域にまたがっている.東京周辺から西日本は,照葉樹林と呼ばれる常緑の森林があり,東京以北の本州と北海道には落葉広葉樹林があるなど変化に富む.南端部や高山を除くと,日本の植物相は,氷河期の厳しい影響を受けたアルプス以北のヨーロッパの植物相や北アメリカ東部地域の植物相よりもはるかに多様性が高い.

 この日本の植物についての科学的研究は,明治になる以前に始まっていた.この中には,分類体系の上に位置付け,学名を与えるための研究も含まれる.これを行ったのは,鎖国下にもかからわず,オランダ商館医として来日したケンペル,ツュンベルク,シーボルトである.その来日は,ケンペル(Engelbert Kaempfer)が元禄3年(1690),ツュンベルク(Carl Peter Thun berg)は安永4年(1775),シーボルト(Philipp Franz von Siebold)は文政6年(1823)であった.ケンペルとツュンベルクとの間には85年,ツュンベルクとシーボルトの間には約50年の歳月がはさまれている.時代の進歩の速度を加味して考えるなら,彼らはほぼ等間隔を置いて来日したとみてよいと思う.

 ケンペルは,先に述べた植物分類学の祖,リンネが今日に続く植物の分類・命名法を発表する1753年以前に来日した.ツュンベルクはそのリンネの高弟であった.シーボルトの来日はツュンベルクのもたらした日本植物の資料がほとんど研究し尽くされた後であり,日本の植物の新しい資料の入手がヨーロッパで渇望されていた.また,ツュンベルクとシーボルトの間には植物学のめざましい発展があった.この間には植物学を支える諸技術にも著しい進歩がある.むしろこのような技術の進歩が植物学の発展を促したといえる.まず,顕微鏡の発達によって微小な構造も詳しく調べることが可能となった.石版印刷の技術が進歩し,詳細な図が印刷できるようになった.植物園と栽培の施設が整い,生きた植物の栽培も容易になったのである.

 分類学ではリンネに代表される人為分類の時代から,ド・カンドル(A. P. de Candolle)の主張などで広まった自然分類の時代へと移り変わった.リンネ,ツュンベルクのいた北ヨーロッパのウプサラ大学から,パリやジュネーブなどの中部ヨーロッパに研究の中心も移っている.

 三人の学者のうちツュンベルクは植物学に最も造詣が深かった.ケンペルは探検家であり,地理学にすぐれていた.シーボルトは日本の植物に愛着を寄せてはいたが,植物学の専門家としては傑出した人物とはいえなかった.ケンペルとツュンベルクは日本で採集した植物資料にもつづいて図譜を作成し,日本の植物を記述した.図に示すのは,ケンペルの『廻国奇観』と親称される『Amoenitatum exoticarum』に収められた『日本植物』(Plantarum japonicarum)(1712年刊)の一部だが,ここにあるように記述といっても植物自体の観察はきわめてわずかである.他の記述でも大差はない.花の細部にわたる観察はほとんど行われていない.これはケンペルが植物学者ではない以上やむをえないことであったろう.


ツュンベルク(Carl Peter Thunberg)

 1743年11月11日,スエーデンに生まれたツュンベルクは,ウプサラ大学のリンネのもとで医学,植物学などを学び,リンネの最後のそして最も成功した学生のひとりとなった.ツュンベルクは,3人のオランダ人植物愛好家から,希望峰と日本の植物を研究する機会を提供された.つまり,ツュンベルクがオランダ東インド会社に医者として勤務し,日本に渡ることであった.

 当時のヨーロッパからの外国旅行といえばそれは船によるものだったが,日本はヨーロッパから最も遠い国であり,しかも江戸幕府は,長崎における中国人とオランダ人を除いた,他のすべての外国人に対して国を閉ざした.

 ツュンベルクは1775年8月に長崎に到着し,1776年10月にアムステルダムに帰着した.万難を辞さずの来日であったが,滞在中に訪ねることができたのは,長崎を中心とした九州と江戸に至る本州南部だけだった.少しでも数多くの植物を得るために,出島で飼育する家畜用に毎朝運ばれてくる飼葉を検分して,標本用に採集したと,旅行記に書いている.

 ツュンベルクは,日本の植物と喜望峰の植物を同時並行的に研究し,多数の本と論文を発表した.『フロラ・ヤポニカ』(Flora Japonica,『日本植物誌』ともいう)は,彼にとっても最高の研究成果であり,日本の植物を集大成した最初の著作でもある.その中で812種の植物が日本に産することを報告している.その数は屋久島以北の日本に今日産することが判明している全種の22パーセントに当たる.

 ツュンベルクは自分のすべての採集品を標本として保存するだけでなく,これを図化した.標本と図,さらにはケンペルの残した資料をもとに,日本の植物を研究し,同時にヨーロッパでの日本植物の研究の歴史を正確に跡付けたのである.彼の『フロラ・ヤポニカ』はこうした成果をもとに1794年にライプチッヒで出版された.後の日本植物研究者はこのツュンベルクの著作を出発点とすればよいほど,これはすぐれた研究であった.しかもその素材となった標本と図譜がすべて現存しており,その後の日本植物の研究者は多大の恩恵をこうむっている.

 ここでは詳しくは述べないが,シーボルトはツュンベルクよりもかなり自由に長崎に滞在し,また医学上の弟子たちを通じてより多くの植物を手に入れた.滞在4年目に巡ってきた江戸参府の旅行で水谷豊文など多くの学者と出会い,日本の植物の研究のために標本,生きた植物,図譜,民俗資料等の文献を集めた.シーボルトはミュンヘン大学のツッカリーニ教授(Joseph Gerhard Zuccarini 1797〜1848)を共同研究者に迎え,彼らのフロラ・ヤポニカ(日本植物誌)その他の論著を刊行する.シーボルトとツッカリーニによって新属を含む多数の日本の植物が新たに記載され,東京以西の植物相の概要がほぼ明らかにされることになった.

 これに対して日本の温帯植物についての本格的研究が行われるのは幕府が下田(本州中部太平洋側)と函館(北海道)の港を開港した後からである.シーボルト以後,温帯地域も含む日本の植物研究は,ペリー提督の使節の採集品などを基礎に日本の植物を研究したハーバード大学のエサ・グレイ(Asa Gray),函館を基地にしたロシア科学アカデミーのマキシモヴィッチ(Carl Johann Maximowicz),シーボルトや後継者ビュルガー(F. S. Bürger)らの東インド会社の採集品に基礎を置くオランダのミクエル(F. A. w. Miquel),明治政府が設けた横須賀の官営工場の医者サヴァチェ(P. A. L. Savatier)の採集品によったフランスのフランシェ(A. R. Franchet)に引き継がれる.このポスト・シーボルトの植物学者によって,日本の植物研究の基礎はでき上がったといえる.東京大学が創設された当時,日本の植物相の分類学的研究はまさにこの米・ロ・仏・蘭を中心とした欧米諸国が先を競うようにして研究にまい進していたのである.東京大学での研究が展開中も宣教師フォーリ(U. J. Faurie)は日本各地で採集し,そのコレクションを主として欧米の専門家に送り研究を託していた.東京大学の初代教授矢田部良吉は日本人の手で日本の植物を記載することを躊躇し,彼らも欧米の専門家に研究を委ねていた状況であり,フォーリもそうするより仕方なかったのだろう.


表紙
space
本文
Thunberg著Flora Japonicaの表紙及び本文.
space
アキグミ
Thunberg著Flora Japonicaの図版.図の植物はツュンベルクによって命名されたアキグミである.
マキシモヴィッチ(Carl Johann Maximowicz)
 ロシアのマキシモヴィッチが来日したのは万延元年(1860)である.マキシモヴィッチはモスクワ近郊のツーラで1827(文政11)年11月23日に生まれた.大学卒業後の1852年にサンクト・ペテルブルクの帝室植物標本館の研究員となった.1853年に世界周遊を計画していた軍艦ディアナ号に植物学者として乗り組んだが,翌年(安政元年である)7月23日に沿海州デ・カストリーニに入港した時点で,クリミヤ戦争のため調査は打ち切られた.非戦闘員であったマキシモヴィッチは上陸し,3年間にわたりアムール川(黒龍江)流域の植物相を調査した.1857年にサンクト・ペテルブルクに戻った彼は,2年後(1859年)にその成果をまとめた『アムール地方植物誌予報』(Primitiae Florae Amurensis)を出版した.これはいまでも日本を含む東アジア温帯地域の植物の研究に欠かせない重要な著作になっている.

 マキシモヴィッチは同書によってデミトフ賞を受け,その賞金で安政6年(1859)に満州地方の調査に出かけたが,ウスリー・スンガリー川流域で調査をしていたとき,日本が開港されていることを知り,万延元年9月6日にウラジオストックを出発し,9月18日に箱館に上陸し,北海道の植物調査に着手した.岩手県紫波郡下松本村で生まれた須川長之助を下僕に雇い採集家に育てた.万延2・3年には長之助を伴い箱館,横浜で採集した.ちょうど伊藤圭介らがシーボルトの研究調査を手伝ったように,長之助はマキシモヴィッチを助け,外国人が入れない南部(岩手県)や信濃のような地域の植物を採集し彼の研究を支援した.

 マキシモヴィッチは研究の成果を二つの大きな論文群にまとめた.そのひとつは,1866年から1871年にかけて20回にわたり「生物学会雑誌」(同時に「サンクト・ペテルブルク帝国科学院紀要」にも掲載された)に,『日本・満州産新植物の記載』(Diagnoses plantarum novarum japcmiae et mandshuriae)という表題で発表された論文である.他は『アジアの新植物記載』(Diag-noses plantarum novarum asiaticarum)で,これは1877年から1893年にかけ,8回に分けて,サンクト・ペテルブルク帝国科学院紀要に発表された.後者は明治時代になってからのものである.マキシモヴィッチの標本はすべてサンクト・ペテルブルクのコマロフ植物研究所に収蔵されている.コマロフ植物研究所は,マキシモヴィッチが研究に従事した帝室植物標本館である.


エサ・グレイ(Asa Gray)
 英国で1837(天保8)年に催されたヴィクトリア女王の戴冠式は最盛期にあった列国の植民地経営を象徴する盛大なものであったといわれている.そうした中でオランダを除くヨーロッパ諸国と交流を絶ってきた日本は,列強から強く開港を迫られるようになっていた.そうした中で,嘉永6年(1853)にペリーが率いたアメリカ合衆国艦隊が江戸湾浦賀に入港し,開港を迫ったことはよく知られている.

 その外交交渉が続く間,乗船者のモロー(James Morrow),ウィリアムス(Samuel Wells Williams)は江戸湾,伊豆下田,蝦夷箱館(現,函館)で植物の調査を行っていた.ペリーの遠征記録はアメリカ合衆国政府によって『ペリー日本遠征記』として1856(安政3)年に出版されたが,グレイ(Asa Gray)はその報告書中に彼らが採集した植物標本の分類研究の結果を報告した.これはグレイにとって日本の植物についての2つめの論文であり,多数の新植物が記載された.

 ロジャース(John Rodgers)の率いるアメリカ合衆国北太平洋探検隊も安政元年(1854)12月日本にやってきた.植物学者のライト(Charles Wright)は,鹿児島,種子島,下田,箱館などで植物の採集を行なった.ペリー報告書では新植物の記載を中心とした報告を書いたグレイは,1859年発行のアメリカ科学芸術アカデミー紀要6巻に『Diagnostic characters of new species of phanerogamous plants, collected in Japan by Charles Wright, Botanist of the U. S. North Pacific Exploring Expedition, with observations upon the relations of the Japanese flora to that of North America, and of other parts of thenorthern temperate zone』という論文を載せ,日本と北米その他の温帯地域の植物相の関連についての考察を発表した.これはグレイがそれまで折にふれ書いて来た,北米東部と日本との植物相の類似をはじめて具体的に論じた画期的な論文であった.ハーバード大学の教授であったグレイは,奇しくも同じ年に出版されたダーウィンの『種の起源』をアメリカでいちはやく認め,賛意を表したことでも有名である.

 ライトらの採集した植物標本のコレクションは,アメリカ合衆国での日本植物研究の基礎資料となり,ハーバード大学をしてアメリカ合衆国での東アジア植物研究センターとしたのである.


日本開港の直後に
 安政5年(1858)に日蘭修好通商条約,日米和親条約,日英和親条約が締結され,幕府は下田と箱館を開港した.安政6年(1859)には初の英国駐日公使オールコックが着任した.シーボルトも再来をはたした.オーストラリアの旅行家,ホジソン(C. P. Hodgson)が来て,長崎,箱館で植物採集を行った.王立キュー植物園長のウィリアム・ジャクソン・フッカー(W. J. Hooker)らがこれを研究した.万延元年(1860)には英国から,ヴェッチ(John G. Veitch),フォーチュン(Robert Fortune),ウィルフォード(Charles Wilford)があいついで来日した.これは,シーボルトがその契機をつくった欧米での日本植物への園芸利用への関心の高まりによるもので,日本の条約締結の報が伝わるや否や,園芸学会や種苗商らが採集家を日本に派遣したのである.シラベ(Abies veitchii),ヤブソテツ(Cyrtomium fortunei),ミツバフウロ(Geranium wilfordii)などの学名はこうした採集家に献名され,用いられている.彼らに先立ち,安政元年(1854)に長崎に入港したロシアの使節プチャーチン(E. V. Putyatin)の艦隊付き軍医ウェイリヒ(Heinrich Weyrich)は樺太で植物調査をした.彼の名もウラジロタデ(Aconogonon werichii)の学名にみることができる.

 たとえ園芸が目的であったにしろ,採集された植物は植物学の立場からも研究され,標本はキュー植物園や大英博物館などに収蔵された.しかし,彼らの関心の対象は園芸であったこともあり,日本の植物相や個々の植物についての研究でも,彼らの貢献は限定的なものに止まるのである.


フランシェ(Andrien René Franchet)とサヴァチェ(Paul Amedee Ludovic Savatier)  
 ミュンヘンでシーボルトが波乱に満ちた70年の生涯を閉じた,慶応3年(1866)にフランスからサヴァチェが来日した.サヴァチェは天保元年(1830)にフランスのビスケー湾を望むシャラント県ドレロン島に生まれ,明治24年(1891)に61歳で痛風のため没した.彼は故郷に近いロシュフォールの海軍医学校に学び,海軍医官になったが,植物採集が趣味であった.

 サヴァチェに来日を推奨したのは幕府が開設した官営横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠の前身,後の横須賀造船所である)の初代所長となったウェルニーだといわれている.ウェルニーは製鉄所建設を立案しただけでなく,必要な技術者,機器,材料を整えるために帰国した際,ロシュフォールの造船所で一等医官として勤務していたサヴァチェに日本行きを勧めたという.サヴァチェが植物に通じていることもこの時考慮されたといわれている.サヴァチェは妻と長女ならびに召使女の3人を伴い来日した.村上伯英と石井宗順が医師と通訳とを兼ね彼を助けた.

 サヴァチェは勤務のあい間に横須賀と行動の自由が許されていた三浦半島の各地,さらには近接する横浜あるいは鎌倉で植物を採集して標本とし,これをパリの自然史博物館等に送った.彼のコレクションを研究したのはフランシェである.

 フランシェは1834年生まれでサヴァチェよりも4歳年下であった.1900年にパリで没するまでフランシェは中国奥地産の植物を中心とした分類学的研究を進めた.モウズイカ属(ゴマノハグサ科),トウヒレン属(キク科),スゲ属(カヤツリグサ科)などの種属誌研究,さらにはパンダを発見したダヴィット神父,雲南奥地でのデラヴェ神父らの採集した標本の分類などの数多くの論文や著書を残している.

 サヴァチェは,倒幕後も存続した製鉄所に勤務したが,1871年12月から約1年間帰国し1873年1月再来日した.この帰国期間中にフランシェとの共著『日本植物目録』出版の相談が進んだと想像される.これは,彼らの収集した資料にこれまで欧米で行われた研究,そしてさらに,日本での本草学の研究成果をすべて網羅し,集大成した画期的な著作であった.『日本植物目録』は,原題をEnumeratio plantarum in Japonia sponte crescentium, accedit determinatio herbarum in libris japonicis So-Mokou Zoussets xylographice delineatarumという.『草木図説』は飯沼慾齋が著わした『草木図説』のことであるが,サヴァチェは『草木図説』の他,岩崎灌園の『本草図譜』,島田充房・小野蘭山による『花彙』なども高く評価し,これに引用した.『花彙』はその本文だけの仏訳本がサヴァチェによって出版されている.

 維新から5年経た,1872年にアジア各地の植民地に設けられていたアジア協会の日本版である,日本アジア協会がアメリカ人ワトソン(R. G. Watson)の主唱でつくられた.サヴァチェは明治7年7月17日に開かれたその例会で,日本の植物相についての論文を代読させている.この中で,彼は日本と東アジアならびに北アメリカの植物相の関係を例を上げて説明し,かつてミクエルが日本の植物相の大半が固有であるといったのを自らも確かめたと述べた.しかし,彼は今後満州,朝鮮半島などでの研究が進むにつれて固有の割合は減るだろうと結論している.これは卓見である.このとき『日本植物目録』は一部が刊行されており,講演はこの著作のもつ意義を示すとともにその完成へ向けてのサヴァチェ自身の意欲を示したものと考えられる.

 サヴァチェは日本人の著作を単に利用するだけでなく,当時の優れた本草学者とも親交を深めた.その中に,伊藤譲(ゆずる),田中芳男,小野職愨(もとよし)がいる.伊藤譲は圭介の子息で,父圭介の植物図説の原稿を整理して『日本植物図説』を出版するにあたり,その学名をサヴァチェに質している.この『図説』は草部(イ)の部,初編1冊が明治7年(1874)に刊行されただけで終わった.田中芳男と小野職愨は,飯沼慾齋の『草木図説』に学名ならびに科名を挿入して新版を出版するため,訪問してサヴァチェにその校訂を依頼している.これが『草木図説』の第2版で,明治8年(1875)から翌9年にかけて刊行された.


表紙
space
本文
Franchet・Savatier著Enume-ratio Plantarum in Japoniaの表紙と本文.
日本人研究者への引渡し
 フランシェとサヴァチェの日本植物研究は彼以前の外国人研究者によるものに較べ,ずっと現在に近い.彼らの時代は,ツュンベルクはおくとしても,シーボルトとツッカリーニの『フロラ・ヤポニカ』に加え,マキシモヴィッチ,ミクエル,グレイらの論文も出版され日本の植物研究の基礎はできていたのである.フランシェとサヴァチェは,やっと植物学の基礎を習得した日本人の研究者に,これまでの日本植物の研究成果を提示し,その多様性解明へ向けての研究の引き渡しの役を務めたといってよい.

 以上概略してきた黎明期の日本植物の研究の特色に触れてみたい.それというのも,上に名を掲げたポスト・シーボルトの植物学者はそれぞれが異なる特質を有しており,日本の植物相の研究ではそれぞれが特徴ある研究を展開したとみることができるからである.ここで,日本の植物相の特徴を示すと,(1)島であるが地形が複雑で種の多様性が高いこと,(2)熱帯と温帯の移行帯が日本の中央部を占め,熱帯系と温帯系の両方の植物が生育していること,(3)北アメリカ東部の植物相に類似している日華植物区系に属すること,の3点は落とすことができない.ポスト・シーボルトの学者のうち,ミクエルはオランダ領インドを中心としたマレーシア地域の植物に詳通しており,日本植物研究では主として西南日本に産する暖帯・亜熱帯の植物の研究にその資質が発揮された.マキシモヴィッチは来日前にアムール地方,満州を自分で踏査して東アジア温帯の植物について豊富な知見と体験をもっていたことはすで述べた.日本の温帯植物の研究ではそれが十分に生かされたのはいうまでもない.これに対してグレイは日本の植物相との類似性が高い北アメリカ東部の植物に詳しい.上記の日本植物相の特徴に上げた(3)について重要な知見をもたらしたのである.

 最後にフランシェとサヴァチェの貢献を記す.それは,日本の植物相が(1)島であるが地形が複雑で種の多様性が高いことを示したことにある.ところでフランシェ自身は中国の植物を研究していたが『日本植物目録』ではそうした成果が生かされているとは言えない.日華植物区系という枠組みの中で考えたとき,当然日本と中国の植物相との比較は不可欠であるにもかかわらず最近に至るまでこれは本格的には実施されずにきた.フランシェ,それに彼とほぼ同じ時代に中国産植物を集覧したキュー王立植物園のヘムスレー(B. Hemsley)らも,そこに踏み込むことはしなかったのである.明治25年(1829)来日し日光などを訪問したサージェント(Charles Sprague Sargent)は,グレイの東アジアと北米東部の植物相の類似を分析するための詳細な研究を企てたが,ここでもこの問題は結局手付かずのまま終わるのである.サージェントは,1841(天保12)年にボストンに生まれ,1862年にハーバード大学を卒業し,有名なアーノルド樹木園の園長となった.1879年から1882年に合衆国中の森林を調査し,『北米樹木誌』全14巻を著わしたが,中国植物の組織的研究に着手するのはその後である.ここに東アジアの植物研究の新時代が開かれるのだが,この時代日本の植物学者にはまだ国際的な研究に加担する力は生まれていなかった.

 ところで,日中間の植物相の比較研究であるが,今日に至るまで日本の研究者も積極的にはこの研究を進めなかったし,中国側の研究者にもその姿勢は乏しかった.それは,日本と中国の植物研究がほとんど独立して進行したため,比較すべき対象を特定することさえ難しい状況にあるためである.


ポスト・フランシェ・サヴァチェ
クスノハカエデ
フォーリ採集の標本.フォーリは.採集した植物の研究を各国の専門家に委ねた.この標本は台湾植物を研究中の早田文藏(東大教授)に送られ,新種,Hydramgea integrifolia Hayata(クスノハカエデ),として記載された.これはそのタイプである.
space
 フランシェとサヴァチェを引き継ぎ日本植物の研究をさらに掘り下げたのは日本の研究者であった.しかし,すでに記したように日本で最初の官学である東京大学の創設された明治10年(1877)代は未だ本格的な研究を開始する状況にはなかった.矢田部宣言が発表される明治23年(1890)まで,欧米の植物学者の助力を仰がねばならないのが現実であった.野外での調査・資料の収集も質・量ともにすぐには研究に足るだけのものを得ることはできなかった.矢田部良吉,矢田部の後任の松村任三は研究の基礎となる標本の収集と図書の購入に奔走し続けたといっても過言ではあるまい.

 フランス,リヨン市南西のオートロアール県で1847年に生まれたフォーリ(Urban Faurie)は明治6年にパリ大学神学部を卒業するとただちに来日した.27歳であった.サヴァチェの採集した標本により日本植物を研究していたフランシェは,フォーリに標本を採集して送るよう依頼した.この要求に応えた後,彼は植物採集からは一時期遠ざかっていたが,明治16年に青森と北海道の巡回牧師となったとき函館を中心に植物採集を再開した.明治28年に病気療養のためいったん本国に戻るが,明治30年に再来日し,青森に定住し活発に植物を採集した.明治30年以降フォーリが採集した地域は,山陰,四国,九州など西南日本だけでなく,台湾,朝鮮にも及んでいる.精力的な調査と採集を続けたが大正4年に台湾で調査中に亡くなった.69歳であった.

 フォーリが日本で活動した時期は日本人研究者による野外研究が本格化した時期と重なる.彼のコレクションは主にフランスをはじめとする欧米の研究者によって研究された.そのなかで最も多くを調べ新植物を命名記載したのはレヴェイユ(Hector Léveille)だった.レヴェイユは多数の新種を発表したが,そのなかには科さえ間違っているようなひどい内容の論文もあった.これは,当時未開の地で採集活動に精を出す宣教師を鼓舞するのに新種を‘生産’したというのが適切である.フォーリ・コレクションによる研究論文にも粗雑なものが多々あり,内容もよく理解できぬものが多い.しかし,植物の命名では時間的プライオリティを認めているため,レヴェイユの研究を無視することはできない.幸か不幸かレヴェイユの記載した日本の植物は限られていたため,後に大きな問題となることはなく,日本の研究者は幸運であった.レヴェイユは中国奥地の植物を精力的に記載したため,中国の植物研究ではしばしばレヴェイユの記載した植物の正体が問題となるのである.

 フォーリの集めた植物標本は世界の植物標本館に送付されたが,彼自身が所有していた重複標本の完全なセットが京都大学に保管されている.これは岡崎忠雄がフォーリの遺族から買収し寄贈したものである.東京大学にもフォーリの標本が少数ある.これらは,彼の晩年に早田教授や中井教授に同定のため送られた標本,及び後に京都大学から寄贈されたものなどである.


矢田部宣言
 明治23年10月発行の植物学雑誌に英文で矢田部教授が発表した『泰西植物学者諸氏に告ぐ』という宣言文の意義は大きい.この中で,矢田部は「日本植物の研究は以後欧米植物家を煩わさずして日本の植物学者の手によって解決せん」ということを述べたのである.東京大学における研究水準がようやく国際的に植物学といえる状態になったという自己評価がこの宣言であったとみることができる.その水準を評価する物差しとなったのは研究内容そのものの他に,ハーバリウム(標本室)とライブラリー(図書室)の充実があった.実際に矢田部宣言以降,矢田部を中心に松村任三,牧野富太郎らにより日本からの新植物の記載が盛んに行なわれ,全国規模で日本の植物相の全貌解明に向けての研究が緒につくのである.

参考文献
Arber, A. 1938. Herbals their origin and evolution. Cambridge University Press.

(月川和雄訳『近代植物学の起源』,八坂書店).

大場秀章1996.「おし葉標本とハーバリウム」及び「黎明期の日本植物研究」,大場秀章編『日本植物研究の歴史—小石川植物園300年の歩み』,東京大学総合研究博物館/東京大学出版会.




前頁へ    |    目次に戻る