ポプローニアの考古学公園と
北エトルリアの豪壮な墓

アントネッラ・ロムアルディ


 ポプローニアは、古代の作家たちが証言しているように、エトルリアで唯一の海に面した都市であり、特に資源に恵まれた地域に位置していた。つまり、地中海一帯でも最も鉱物資源に恵まれた地域のひとつ、カンピリエーゼ山地からエルバ島につらなる鉱脈に隣接していたのである。また、今日では失われたリミリアーノ湖という潟を後背地にもち、バラッティ湾という自然の良港に恵まれ、ポプローニアは、古代において、常に主要な交易ルートに組み込まれた代表的な港湾都市であった。(Pl.29)

 この古代都市の遺跡には、ネクロポリス、城壁、聖域、アクロポリスの上に発掘されつつある集落、また金属加工区域があり、それらは今日、イタリアの考学遺構の集合体の中でも最もすばらしいもののひとつであるが、まだそれ相応には知られていない状態である。その理由は、今日までに達成された研究成果の発表が少ないためであり、ネクロポリスと集落の大部分を封印していた、エトルリア人が残した鉄の鉱津を再利用した近代の精錬業の堆積物が、景観を読みにくくしていたためでもある。

 ポプローニアの発掘の歴史は、20世紀に実行された、まだまだ含有率が高い鉄の鉱澤の再精錬という政策に結びついていた。古代において、ほぼ4世紀にわたって続けられた鉄の精錬作業の廃棄物である鉱澤,は約200万トンと見積もられ、面積にしてほぼ200ヘクタールに及ぶ地域に堆積し、長い間にはまさに人工の小さな丘をつくりあげて、通常の農業には困難な状況であった。


6 ポプローニア地域の遺跡


 1800年代の偶然がもたらした幾つかの発見(1832年には、現在ルーヴル美術館にある「ピオンビーノのアポロ」として知られている青銅の像が、トンナレッレの岬の近くで発見された)の後、1897年には、すでにヴェトゥローニアの町の遺構を発掘していたアマチュアの考古学者のイシドーロ・ファルキ医師によって、サン・チェルボーネのネクロポリスと「棺台の墓」が特定された。その後、イタリア国家から民間会社に委託されたエトルリア人の残した鉱津の再精錬事業のスタートとともに、1920年から1957年にかけて、前7世紀と前6世紀の墓の大部分が発掘されたのであった。機械を使用しての大掛かりな作業は、勿論、今日我々が感嘆してやまないこれらのモニュメントの大部分を発掘するきっかけとはなったが、ポプロニ−アの考古文化財に大きなダメージを与えることにもなった。これに加えて、1960年代から1970年代には、数十ヘクタールに及ぶ地中海性灌木地帯に広がるネクロポリスに、盗掘という大きな破壊行為があった。これらの理由から、数多くのケースで、科学的に指揮された発掘において得られる歴史的、社会経済的、宗教的な資料を釈する可能性を失うことになったのである。それらの資料からは、人口密度が高く様々な活動が展開されたこの町の、生き生きした鮮やかな景観、鉱物の採掘や加工製造、港や海に関わる仕事に従事していた多様な住民の日常を再現できたはずである。ともあれ、ポプローニアについてのより完全な調査が待たれる。まずは、北エトルリアの鉱床地域の他の都市、すなわちヴォルテッラとヴェトゥローニアの領域に関して、それらの領土との境界を時代のれに沿って特定することとその解釈である。また、今日ではほとんど知られていない、ヴォルテッラ、マッサ・マリッティマ、カンピリエーゼ、エルバ島などの鉱床地域の支配と開発をめぐって、これらの諸都市の間にどのような力関係や駆け引きがあったのかも明らかにされなければならない。これらの点は、エトルリア文明全体の歴史を再構築するための重要な課題に数えられている。  将来チッダアルタ(町の高台部)となる地域のモリーノもしくはテレグラフォの丘陵、またポルカレッチャの丘陵、サン・チェルボーネ、グラナーテの平地と丘陵などに残された墓地は、今のところ考古学的な証左はないのだが、前9世紀から前8世紀に、この地域に一連の集落が存在したことを明示している。1920年代と1930年代の発掘は、鉱澤の再利用に関わりのない地域で行われ、多くの副葬品が発見された。その研究の結果、ポプローニアが前9世紀から前8世紀に、エトルリア南部の沿岸諸都市(ヴルチ、チェルヴェテリ、タルクィニア)、エトルリア・パダーナ地域(ボローニャ)、ウンブリア州、コルシカ島、またとりわけサルデーニャ島の諸地域と非常に密接な関係をもったことが認められた。この時期、ポプローニアでは、井戸型墓や墓室墓に納骨器の置かれる火葬の慣習、同時に溝型墓と墓室墓における土葬の慣習もみられ、それらが共存していたことが立証された。

 グラナーテの丘陵のネクロポリス出土の、墓室に屋根がついた墓は、今までで最も古い構築された例証として記録され、被葬者を男性と特徴づけている副葬品のひとつから名前をとって、いわゆるラゾイオ・ルナート(Rasoio Lunato=三日月型のかみそり)の墓と呼ばれている。この特徴豊かな構造の墓のごく早期の出現は、今日ではよく裏付けられているポプローニアとサルデーニャ島のヌラゲ文化との接触に起因するものとされた。

 ヴィッラノーヴァ期の墓室墓は、この地方の石灰岩の石板と切石で構築されている。その採石場は今日なおグラナーテの丘陵に存在する。墓室はしばしば入口に向かって狭まっていくような楕円形の平面をもち、ほぼいつも南向きで、小さな石の迫り出しによる持ち送り式の偽似ドーム(丸天井)を備える。発掘報告が残されているこれらの墓は、今日もはや地上で見分けることはできない。一方、小さな森の中に見られる非合法な発掘により荒らされた一連の墓は、可能な限りのデータを取り戻すべく、科学的な方法で発掘されるのが待たれる。1972年に、モリーノもしくはテレグラフォの丘陵で偶然発掘されたヴィッラノーヴァ期の墓室墓は、海をのぞむ険しい傾斜地に位置するが、平面プランが非常に不規則な墓室に特徴付けられ、今後の研究の対象である。

 これらの初期の偽似ドームを備える墓室墓が、サン・チェルボーネやポルカレッチャの丘陵にはなく、グラナーテの丘陵と平地やモリーノもしくはテレグラフォの丘陵のネクロポリスにだけ存在することは注目されなければならない。恐らく、この状況はこの地域の共同体内部に、幾つかの有力な家系が出現し、鉱山への出入りや鉱物の交換や交易の組織を支配していたためと考えられる。

 偽似ドーム式の天井を備え、円筒形のクレピスの上に墳丘のすえられた大型記念墓は、エトルリアの他の都市と同様に前7世紀始めにポプローニアに現れた。これらの墓は、鉱山への出入りと海への出口を支配していた貴族のエリート層が掌握した権力と威信を示す、意味深い例証のひとつである。粘土の自然の地盤の上に直接設置されたクレピスは、パンキーナ(近くのグロッテの採石場で採れるこの地方特有の砂岩)の四角いブロックを列状に重ねて作られていた。そしてその周りには、アルベレーゼ(この地方特有の石灰岩)の石板を外向きに傾斜させて並べ、さらにその外側に小さな石板を垂直に埋め込んで区切った石畳の舗道に取り囲まれている。クレピスの上端から、いくつかの傾斜したアルベレーゼの石板がつきでている。それは、排水用のグルンダリウム(軒)のようになっていて、その下にはもう一連の石板がスブグルンダリウム(ひさし)を形成して、グルンダリウムを支えている。つまり、雨水が外壁の表面仕上げにダメージを与えることなく、墳丘の下へと流れ、外の舗道に落ちるようになっている。グルンダリウムの上に、小さな方形のブロックの列が、墳丘のリングのようなものを形成している。石板でできた舗道は、ドロモス(通廊状羨道)の入口部分では中断している。ドロモスヘの出入口は、大きなパンキーナの石板でふさがれていた。正方形の墓室は、大きなアルベレーゼの石板でできた、ふたつの側柱に挟まれた入口とアーキトレーブをもち、パンキーナでできた死者のためのいくつかの寝台を備える。墓室の壁はパンキーナのブロックで、クレピスやドロモスの壁と同じ技法で構築されており、その墓室の四隅には、小さなアルベレーゼの石板を傾斜させながら、徐々に前に追り出すようにして作られた丸天井のペンデンティブがある。それらは、正方形の墓室と偽似ドーム式の天井をつなぐ役割をはたしていた。つまりこの天井では、アルベレーゼの大きな石板を傾けながら徐々に前に迫り出すようにして、幾重ものリングが形成され、それが高くなる程狭められて、偽似ドームが閉じられるのである。ポプローニアに新しいタイプの墓室墓が出現するのは、特にチェルヴェテリなどの南エトルリアの諸都市と同様に、前7世紀初頭である。この出現は、鉄器時代から認められるこの都市の役割と重要性に合致する非常に興味深いデータを示している。


7 ポプローニア:2輪車の墳丘の平面図


 これらの偽似ドーム式の天井をもつ墓室墓は、今日まで、サン・チェルボーネのネクロポリスだけで確認され、グラナーテの平地にも丘陵にも存在しない。しかし、前7世紀前半もまだ使用され続けていたとはいえ、これらの墓は、漸減してゆくように見える。その事実は都市の成立にいたる複雑な過程を反映し、さまざまな集団が入れ替わりながら都市の指導権を掌握したことを証言している。(Fig.97-99)

 サン・チェルボーネのネクロポリスの「カッリ(2輪車)の墳墓」(Pl.31)(Fig.99)は、今日までにポプローニアで知られている墳墓のうちで、最も大きく荘厳なものである。東向きのドロモスの右側に1室と左側に2室、計3つの翼室を備える。この墳墓の発見は、時期的にふたつの段階に分けられ、1914年には主室と、クルス(2輪戦車)が出土した、大きな石板でまだ封鎖されていた右の翼室が発見された。1921年にはさらに左側の2翼室が、ひとり乗りの2輪馬車の遺物とクルスの一部とともに発見された。主室の埋葬に関しては、我々にまで届いた証言の数は僅かなものにすぎない。

 当時石製の1寝台の上で発見された、恐らく最も古い埋葬に属したと見られる(今日ではもはや調査不可能)幾何学文様つきの青銅製の楯の断片、また同様に紛失してしまったヴェトゥローニア様式の香炉の断片、さらに特定されない陶片については、発掘者により墓の中に、「多くの鉄製品のかけらは、大部分酸化して腐敗し、その形を識別できない。ただ、刀の柄、長細い槍先、いくつかのナイフの刃だけが確認できる。」と記録されている。

 金製の球状のペンダントがふたつ保存されていた。そのひとつは翼室の閉鎖用の大きな石板の下で発見されている。他方、長い留め金つきの蛭形のフィブラは、その土地の所有者に発見の報奨として委ねられたが、今日では消失し、ただ模写のみが残っている。これらの出土品から、被葬者は前7世紀第3四半期の女性であったと想定される。

 翼室でクルスの遺物とともに発見されたものには、青銅の小尻、矢尻、線刻装飾のある金と銀の薄板で飾られた象牙の角状の杯、青銅製の角笛などが含まれていることから、被葬者は、おそらく男性で、身分の高い人物であったと思われる。これらの副葬品は、戦争用の武具としてより、狩猟のようなエリートにだけ許された活動を示すしるしと解釈されねばならない。

 競走用の馬車あるいはクルスは、鉄に象嵌された青銅の薄板で飾られていた。それらは金属のピボットで固定し、皮や木に縫合するというやり方で取りつけられている。おそらく、ヴェトゥローニアかポプローニアの工房で作られたもので、儀式通りに解体された後、墳墓に収められたにちがいない。(Pl.32)

 この完全な小さな競走用の馬車の装飾は、技術的にも、イコノグラフィー的にも、装飾の核となる様式からみても、非常に洗練された、金属加工技術の水準の高さをうかがわせるすばらしい例証である。そしてまた、エトルリア文化の形成に決定的な一時期を画した前7世紀前半における、ポプローニア、もしくは北エトルリア鉱床地域の手工芸者の工房の活発な活動と開放性を示す証左でもある。ティレニア海北部のこの地域における物や人の流通は、フェニキア商人たちの活動とも結びついて、とりわけ活発でさまざまな様相を呈していたに相違ない。

 装飾フリーズを構成している上述の薄板には、ライオンや有翼のネコ科獣の行列が、時には対称的に、また時には中央に集中するように表わされている。また装飾フリーズの上端と下端は、編み紐飾りのモチーフで区切られている。

 動物のイコノグラフィーおよび様式は、前7世紀前半のエトルリアの東方化様式の形象表現に一致する。それはまた南エトルリアの工房で作られた青銅製の楯の打出し細工や金細工の装飾でも確認されている。

 ヴルチ出土の馬車の装飾フリーズのレパートリーは、ポプローニアのクルスの装飾に直接先行するものと考えられる。ということは、この種の調度に共通する装飾が踏襲されていったことを証言している。ともあれ、ポプローニアの馬車の浮彫り装飾は、その由来が北エトルリアの鉱床地域にあることを示している。

 カッリの墳墓の修復にいたるまでの長い前調査は、トスカーナの考古文化財監督局の協力を得て、フィレンツェ大学の専門の建築家たちによって指揮された。このモニュメントの構造の本来の機能を把握するために、試掘も伴うより深い研究が行われた。アントニオ・ミントの指揮で発掘された幾つかの地層(この中には近代の地層も含まれるが、一部の地区では恐らく古代に溯り、上層部では多数のテラコッタ片が、またその他の層からは鉄の鉱澤やアルカイック期の残留物が豊富に発見された)の下に、鉄器時代の陶器の断片が含まれる厚い赤い層で出来た本来の墳墓を特定することが可能となった。周縁部へ向けて急な勾配をつけた墳丘を覆う黄色粘土の薄い層は、墳墓の表面を密にすると同時に水の流れを速やかにし、雨が浸透しないようにそれを保護した。アントニオ・ミントによって行われた、偽似ドームの最も低いリングの部分の修復などの痕跡に加え、石のブロックと小さな石板から成る厚い層が特定された。その層は、基盤の土の上におかれ、墳墓内部の水を排水する機能をもっていた。

 「カッリ(2輪車)の墳墓」の古代の設計者が重視したのは、雨水の浸透を防ぐための二重のシステムであった。第一は、一番外側に、墳丘を覆うように密生する草のマント、第二は、グルンダリウムの石板まですべてを覆うように、墳丘の外表面の少し内側にていねいにかぶせられた、鉱物質が多く含まれる粘土の数センチの層である。この第二の層の特質は、それ自体のヴォリュームも僅かに増やしつつ得られるその強力な吸湿力であるが、その結果水の浸透が妨げられるのである。

 調査の過程で、この効果的なシステムは、墳墓の中心部分、また周辺部分でもすべて失われていると証明された。中心部分では古代に墓室の偽似ドームの崩壊がおこったためであり、周辺部分ではアントニ・ミントによる近代の修復作業がその原因であった。アントニオ・ミントが粘土層を取り除き厳重に補強したことが、粘土層から判断された本来の荷重と比べて、墳丘の周辺部分での過重をもたらした。そのために、天井部の倒壊へと状態を悪化させたのである。ともかく1923/25年の発掘の後、墳墓の整備が完了して以来、中心部分や周辺部分に水の浸透が度重なり、堅牢なはずの墳墓に重大な危険を与えたのだった。

 したがって、修復に際しては、まずは古代の設計者によって考えられ実現されたように、できるかぎりモニュメント全体の構造的な機能を回復すべく、本来の状態に十分にみあう条件をすべて再現して構築しなおさねばならなかった。

 本来の防水システムの機能を復元するために、墳丘を土に代わる膜でおおうことが決定された。そうすることで、墳丘を重くする原因となった前に導入された土の層を除去することも可能となった。崩壊した偽似ドームの墳丘の中心部分で、土が欠如していることも問題であった。欠けている部分は、16の部品を接続し放射状に設置した鋼の網目構造で再構成され、その外側は平らな鉄板のパネルでふさがれた。その骨組みは、墳丘の、中央の墓室周辺の横断面に設置され、内部の定期的な検査のための出入口と中央に墓室内の空気を調節するための通風孔が設けられた。

 したがって墳丘の表面には、外観の修復に必要な土の層が被せられた。こうして、その土の層に、空気の取り入れと人の出入りも考慮された、ポリ塩化ビフェニール製の覆いがグルンダリウムに固定され据えつけられた。最後に稲科の植物を生えさせるために、特別な網(植物の根を支える)の埋め込まれた20センチの土の層が被せられた。墓室の天井部は、偽似ドームの本来の形を示唆できるような、合成ガラスのドームで再現された。

 ポプローニアの「カッリの墳墓」の修復事業は、今日、エトルリアの葬祭建築物の遺構になされた最も意義ある例証のひとつに数えられる。

 ポプローニアに突出部のあるクレピスをもつタイプの墓が存在していることは非常に興味深い。入口がクレピスから前に突き出すかたちで付けられている。このタイプの墓は3例残されている。そのひとつ、サン・チェルボーネのネクロポリスにある「ピッシディ・チリンドゥリケ(Pissidi Cilindriche=円筒状の容器)の墓」は、当時繰り返された埋葬のきわめて豪華な副葬品の中に、前コリント式のふたつの“パウダーの小箱(powder-pyxides)”が発見されたために命名された。入口の突出部以外には、墓室も天井部は「カッリの墳墓」と同じ構造を示しているとはいえ、床の部分はアルベレーゼの小さな石板で舗装されている点、異なっている。大きな矩形の石板を、●形の脚部の代わりに、やはり矩形の垂直に置かれた石板が支える複数の寝台は、カサーレ・マリッティモ(ヴォルテッラとポプローニアの境界域の尾根地帯)のカーサ・ノチェーラのネクロポリスで最近発見された、東方化様式の墓室墓を想起させる。

 「ピッシディ・チリンドゥリケの墓」の副葬品に含まれたインパスト製品は、ヴォルテッラやアッチェーサの鉱床地域における、ヴィッラノーヴァ後期および東方化様式時代初期のネクロポリスでも出土していることから、この墓の年代は前7世紀前期と古い評価をうける。したがって、ポプローニアにおけるこのタイプの墓室墓の出現もこの時代に溯ることになる。

 おそらく前7世紀でも後半と思われるが、クレピス付きの偽似ドーム式墳墓と並行して、クレピスのない偽似ドーム式の墳墓が出現している。それは、墓室と同じ基盤の層から直接築かれた防水用の粘土の層によって覆われた墳丘をもち、その周縁部は石の輪によって取り囲まれている。このタイプの墓で保存状態の比較的良好な例証のひとつは、天井部分がまだ完全に保存された、カソーネのネクロポリスにある「コラトイの墓」である。

 「フラベッリの墓(Flabelli=羽扇)」は、1927年に、完全な偽似ドーム式の天井をともなって出土した。墓の名称は内部に埋葬されていた被葬者のひとりの有力な家系を示唆する、打出し装飾の施された青銅製のすばらしい羽扇3点に由来する。クレピス付きのこの墓は、入口近くに、ふたつの表面的には碑文も装飾の痕跡も見られない石灰岩の墓標が置かれている点、他に例を見ないものとなっている。発見された副葬品は、エトルリア東方化様式の混合文化的な要素を示す340点余りの貴重な品々であり、被葬者は少なくとも4人であったことが明示される。    (訳:広瀬三矢子)

(トスカーナ考古文化財監督局ポプローニア支局長)
Antonella Romualdi


前頁へ   |   目次に戻る   |   次頁へ