一九〇七年、一一〇・〇×八五・〇×四五・〇cm、ブロンズ、石製台座、石製衝立(五七六・〇×二〇二三・〇×六一五・〇cm)
台座正面に「DR. JULIUS SCRIBA PROFESSOR DER CHIRURGIE 1881-1901」
医学部蔵(S)、御殿下グラウンド南側
ユリウス・スクリバ、Julius karl Scriba(一八四八〜一九〇五)は医学部のドイツ人教師。一八八一年から一九〇一年まで、医学部で外科を教えた。ほかに、眼科と皮膚科を担当した時期もある。植物学にも造詣が深く、植物標本を収集した。一九〇一年に退職し、築地の聖路加病院の外科主任となったが、一九〇五年に鎌倉で病没した。日本語で名前を須栗場と書いた。
一九〇七年、二〇・〇×八五・〇×四五・〇cm、ブロンズ、石製台座「スクリバ像」と石製衝立を共有
台座正面に「DR. ERWIN BELLZ PROFESSOR DER MEDICIN 1876-1902」
医学部蔵(S)、御殿下グラウンド南側
エルヴィン・ベルツ、Erwin von Baelz(一八四九〜一九一三)は医学部のドイツ人教師。一八七六年に来日、まず東京医学校で生理学と薬物学を教え、七七年に東京大学医学部が発足すると内科学を担当した。産婦人科学も、専任の日本人教授ができるまでベルツが受け持った。九二年に、医科大学名誉教師の称号が贈られた。一九〇二年まで在職し、その後も日本に留まり、宮内省侍医を務めた。在職二十五年を記念する祝賀会が一九〇一年十一月二十二日に小石川植物園で盛大に催された。一九〇五年にドイツに帰国した。
レオポルド・ミュルレル、Leopold Muller(一八二四〜一八九三)は東校、第一大学区医学校、東京医学校のドイツ人教師。ドイツ医学の採用を一八六九年に決定した明治政府の招聘により、七一年に、テオドール・ホフマン(Theodor Eduard Hoffmann)とともに来日した。ミュルレルが陸軍軍医少佐、ホフマンが海軍軍医少尉だった。ミュルレルは外科のほか婦人科と眼科を講じ、ホフマンが内科を教えた。大きな権限を与えられ、一挙にドイツ式の医学教育を展開した。三年の任期を終え、七五年に帰国した。
一九二一年、七三・三×五四・九×四七・八cm、ブロンズ、石製台座
本体側面に「K. TAKEISHI、1921」、本体基底部に「D. JUNTARO TAKAHASHI」
台座正面に「Dr. JUNTARO TAKAHASHI. ORDENTLICHER PROFESSOR UND DIREKTOR DES PHARMAKOLOGISCHEN INSTITUTS 1885-1920」
医学部薬理学教室蔵(U)
制作年不詳、四四・〇×二五・〇×三一・〇、ブロンズ
大理石台座正面に「Erwin von Balz 1849 bis 1913」、同背後に「Geschenk der Geburtsstadt Bietigheim an die Universitat Tokio 1962」、木製台座に貼紙「ベルツ先生晩年の像、ベルツ先生の生地BIETIGHEIMの市長マイ氏より日本国際医学協会・石橋長英博士を通じ東京大学に寄贈された。」 医学図書館蔵(U)
ヨハネ・ルードウィヒ・ヤンソン、Johannes Ludwig Janson(一八四九〜一九一四)は、駒場農学校、農科大学のドイツ人教師。一八六九年にベルリン獣医学校を卒業、普仏戦争に従軍したあと母校の助教授となったが、八〇年に来日し、一九〇二年の任期満了まで獣医学を教えた。いったん帰国したあと、再び来日し、盛岡高等農林学校、第七高等学校ドイツ語講師を歴任し、鹿児島で没した。
一九一〇年、八七・〇×六九・〇cm、ブロンズ浮彫、木製額縁
本体下部に「W. E. Ayrton」、本体右下に「I. Numata Sculp S. Tsuda Founder」
木製額縁側面に「受業弟子等醵金造之、明治四十三年十一月」、同額縁下部に「PROF. W. E. AYRTON, F. R. S 1847-1908」
工学部電気系図書室蔵(S)
製作年不詳、二七・〇×六七・〇×六七・〇cm、ブロンズ、石製台座
本体下部に「Chs. D. West」、石製台座基底部に「CHARLES DICKINSON WEST, PROFESSOR OF MECHANICAL ENGINEERING, 1882-1908, ERECTED BY HIS COLLEAGUES PUPILS AND FRIENDS」、同基底部に、製図器具、機械、造船所、蒸気機関のブロンズ浮彫り
工学部蔵(S庭)、工学部1号館前
一九一四年、九一・〇×七二・〇×五一・〇cm、ブロンズ、石製台座
本体基底部に「PROF. S. MIYOSHI」、本体背面に「K. TAKEISHI. Tokyo. 1914」
手に持つ書物の背表紙に「MANUAL OF NAVAL ARCHITECTURE W. H. WHITE」
工学部蔵(S)船型試験水槽前
エドマンド・ブランデン、Edmund Charles Blunden(一八九六〜一九七四)は文学部英文学科のイギリス人教師。一九二四年から二七年まで在職した。関東大震災直後の図書館建設の様子を詩にうたっている。戦後、英国政府派遣の文化使節として、再び来日した。名誉教授斎藤勇の呼び掛けで浮彫りが作られ、一九八四年一月十七日に図書館三階ホールで除幕式が行なわれた。