肖像のある風景
木下 直之
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贈与者たち
ここでもう一度、肖像がどのように生まれてくるかを整理したい。少なくとも、肖像の誕生には像主と注文者と作者の三者が立ち合う必要がある。そして、注文者とはおおむね贈与者でもある。
先に見たような作者が身につけるべき技術とは、肖像が生まれる条件のひとつにすぎない。油絵の肖像画は一八八〇年代に、ブロンズ鋳造による肖像彫刻は九〇年代に、この必要条件が満たされた。
では、学問の場で、先師が像主となる条件についてはどうだろうか。広く先師の肖像を論じるならば、それこそ「鑑真和上像」の時代から、この条件は用意されていた。東京大学における先師に限定するなら一八七七年の大学創立以降、厳密に博士学位を持つ先師に限定するならば八八年以降、彼らは像主になりうる。
しかし、現実には、それを発注する者の意志が肖像の誕生を決定づけるのであり、像主はモデルを務めるだけ作者は注文に応じるだけという点でこれら二者の姿勢は受け身といわざるをえない。結局、注文者がいつどのような動機で肖像制作を命じるかが、決定的に重要なのである。
彼らの正体を、肖像の銘文は次のように明かす。「僚友学業生」(四九図)、「仰慕乃胥」(六七図)、「朋友門生等」(六八図)、「門弟」(七四図)、「僚友門下」(七九図)、「生化学教室同窓生」(八五図)、「門人一同」(九七図)、「有志者」(一〇八図)、「受業弟子等」(一一五図)、「HIS COLEAGUES PUPILS AND FRIENDS」(一一六図)、「旧門生」(一二六図)、「門弟一同」(一三四図)、「辱知之有志」(一三六図)。
学内に現存する肖像のうち、最古の作例で挙げた一八九四年の「田口和美像」(一図)と九五年の「ミュルレル像」(六七図)は実は例外的に早く、残りの大半が一九一〇年代以降の制作である。これは、像主と作者がそろったところで、発注者が現われないかぎり肖像は生まれないことの証左であるとともに、教授在職二十五周年の祝賀が肖像制作の動機となったことを示している。つまり、一八八〇年代に教鞭をとり始めた教授たちが(それ以前はほとんどがいわゆるお雇い外国人教師だった)、一九一〇年代になるとつぎつぎと在職二十五周年を迎えたからである。
遅かれ早かれ肖像は故人追慕に用いられるとはいえ、在職二十五周年のほか、退官、還暦(本学では退官は還暦と一致する)、古希、喜寿、傘寿、米寿などを祝って、生前に肖像が作られる場合が多い。これを寿像という。そして、本人が健在なのだから(だから祝う)、本人への贈与が行われることになるのは、すでに「加藤弘之像」(一三六図)で見たとおりである。
寿像に対して、没後作られた肖像を遺像という。没後間もなくの場合もあれば、しばらく時間が経過したあとでの制作もある。三回忌に合わせる場合が多いようだが、理科大学化学教室教授桜井錠二の肖像(一〇九図)は、門下生と化学科教官による三十回忌の記念品だった。近代以前には、五十回忌、百回忌の制作という例に事欠かないから(東大寺には五百回忌に制作された聖武天皇の肖像画がある)、三十年という時間の経過は決して長すぎるということはない。ただ、それが一九六九年に起こった出来事であること、肖像の贈与がそれほどまで古い形式に縛られるものだということが興味深い。
医学部2号館裏,三浦守治,山極勝三郎,長与又郎三先生を讃える解剖台の記念碑
最後に、寿像と遺像の両方が作られた緒方正規の場合を紹介しよう。緒方は、一八八六年、医科大学発足時に衛生学教室の初代教授となった。一九一〇年に、在職二十五年記念祝賀会が理科大学植物園内で盛大に催された。当日の式場の様子は次のようであった。
「園内会議所の二室を通じて式場に供し、正面より左方に曲りて、当日教授に贈呈すべき紀念品たる肖像画二面(岡田及び満谷二画伯揮毫)、金屏風一双、画幅(抱一、勝川、常信の筆)、置時計、花瓶及び蓄音機等を飾り、花瓶には遠山博士の技を揮はれし挿花あり、予め主賓、陪賓、会員等それぞれ席を設けたりも、定刻に至らぬ頃より踵を接して雲集せる諸氏の為めに、後には廊下に至るまで人を以て埋むるに至れり」(『東京医事新誌』第一六六二号)。
肖像画が、すっかり式場の中心を占めていることがわかる。
「岡田及び満谷二画伯揮毫」の肖像画二面とは、現存する岡田三郎助の「ペッテンコーファー像」(四図)と「緒方正規像」(五図)に相当するようだが、画面の年記と矛盾が生じてしまう。理由はわからない。ただ、同じ医学部第一外科学教室教授の近藤次繁の肖像画が、岸田劉生によって少なくとも三点描かれたように(そのうちの二点は在職二十五周年の記念品だった、九九図解説参照)、本人と大学のために複数作られるということはありえた。
その後、緒方は一九一九年に在職のまま亡くなうた。すると間もなく、肖像彫刻(八一図)も作られた。二一年四月三十日に催された除幕式の様子も伝わっている。三回忌に合わせた披露だった。肖像がその意味をもっとも発揮した瞬間の記録として、同じく『東京医事新誌』第二二二六号の雑報記事を引用しておきたい(除幕式についてはほかに六九図解説参照)。
故緒方東大教授の記念銅像除幕式
既記故東大教授緒方正規博士記念銅像除幕式は、初夏の空薄く曇りたる去月三十日東衛生学教室前庭に於て小金井博士司会の下に、故教授の学徳を慕へる知己門下打集めふて花々しく挙行せられたり、午後二時を過ぐる少時、小金井博士開式を宣し、除幕の索は故教授令孫みね子嬢(令嗣規雄氏女)の手に曳かれ、緑り滴る八手の木立を背景に燃ゆるが如き躑躅に囲まれ、書冊を手にし生釆変々たる故教授の半身像は眼前に展開せられ、一同拍手これを迎ふ、次に横手博士は建設委員長としてこれが経過に就て報告し、此挙に対する賛同者九百六十八名、醵金額五千余円、銅像は武石弘三郎氏の鋳造、礎石等は吉田早大理工科教授及び龍居日本庭園協会理事の設計に係り、銘の選文は森鴎外博士、書は岡山高蔭氏の手に成れる旨を述べ、建設委員の盡瘁及び賛同者の援助に向て深甚の謝意を表したり、次に入澤医学部長は音吐朗々左記祝辞を朗読せらる。
作者たち
一九一〇年代に入って盛んになる肖像制作の担い手、作者たちには共通点がはっきりとある。それは、彼らが官展を活躍の場としたことである。官展とは、一九〇七年に創設された文部省美術展覧会(略して文展といわれる)をいい、一九年より帝国美術院展覧会(帝展)、三七年から再び文部省が主催して新文展と呼ばれた。官展が軌道に乗ると、これを中心にジャーナリズムやマーケットが成立する。こうした動きに、「博士の肖像」の登場はぴたりと重なっている。
画家に、黒田清輝、和田英作、中沢弘光、岡田三郎助、満谷国四郎、藤島武二、和田三造、長原孝太郎、伊原宇三郎、寺内萬治郎、清水良雄、中村彝、白瀧幾之助、青山熊治らがいる。彫刻家には、堀進二、武石弘三郎、新海竹太郎、朝倉文夫、長沼守敬、大熊氏廣、沼田一雅らがいる。
これら作者の経歴を像主の経歴の横に並べて気づくのは、両者ともにヨーロッパ留学の経験が豊かなことである。医学・理学・工学の研究に留学が欠かせなかったように、美術の世界もまた、留学が不可欠であるような方向を国家を挙げて目指していたのだった。一八九七年に、文部省は、西洋画研究の最初の留学生として岡田三郎助をフランスに送り込んだ(私的留学はそれ以前からある)。その後も、文部省留学生は、一九〇〇年の和田英作、一九〇六年の藤島武二と続いた。彼らはいずれも帰国後に東京美術学校の教授となり、同時にまた、フランスの官展をモデルに創設された文展の中核を担った。
彼らには国家を背負って立つという意識がはっきりとあり、文展はやがて帝展と名を変える。帝国美術院という名称は、東京帝国大学のそれから遠いところにあるわけではない。官展出身の画家や彫刻家が、たまたま「博士の肖像」の制作をビジネスとして担ったのではなく、帝国の名で呼ばれた国家との関係において、作者と像主とは、親しく寄り添う者同士であった。だからこそ、官展に背を向けた作者たちがここにはほとんど登場しない。
先に引用した高橋由一の「油画開業規則書」には、自信に満ちたこんな言葉もあった。「本邦又海外の開化に倣ふ、今より十年の久しきを俟たす海内挙て肖像を属すへき事明瞭なり」。由一がこれを書いたのは一八七一年だから、十年後はともかく、半世紀のちには確かに実現したというべきだろう。これが、由一や黒田清輝らが考えた美術の「開化」であったことは間違いない。
さて、肖像をめぐる三者、すなわち像主・注文者・作者の中で、注文に応じる作者の姿勢を受け身だとしたが、それはあくまでも三者間での立場であり作者自身にすれば、肖像はまぎれもない美術品である。その制作行為が受け身であるはずがない。本学の肖像コレクションの中に、少なくとも三点、完成時に、美術品として展覧会に出品されたものがある。和田英作の「小金井良精像」(二図)は一九一一年の第五回文展に、朝倉文夫の「加藤弘之像」(一三六図)は一六年の第十回文展に、白瀧幾之助の「ジョサイア・コンドル像」は二〇年の第二回帝展にそれぞれ出品された。
しかしながら、像主同様に、作者もまた忘れられる。学内に現存する肖像を数多く手掛けた彫刻家に武石弘三郎がいる。医学部を中心に七点の肖像彫刻があり、これは堀進二の八点に次いで多い。武石は東京美術学校を卒業すると、一九〇一年から一九〇九年までをベルギーに留学し、ブリュッセル王立美術学校に学んだ。離日直後に生まれた長女に萬里子と名付け(日本で育ったから武石が初めて会った時にはすでに八歳に成長していた)、帰国後に生まれた次女に帰東子と名付けたほど、彼の人生は留学を中心に回っている。
「洋行帰りの彫刻家」が武石に貼られたレッテルで、一九一〇年には駒込に敷地六百坪の広大なアトリエを構えた。そこでの最初の仕事が、陸軍軍医学校に建立される松本順と石黒忠悳の肖像(松本の半身肖像彫刻の台座に全身像の石黒が慕うように身を寄せた群像表現で、松本の肖像は画中画ならぬ彫刻中彫刻という不思議なもの)であった。これを機会に、軍医総監森鴎外の知己を得る。そして、一九年には、青山胤通の肖像(七九図)制作をめぐって、「武石ハよけれども近年大学のは概武石の手に成りしを以て此度ハ外のものニ頼みたいと思ふ」、ついては鴎外に彫刻家の斡旋を頼むという手紙(友人賀古鶴所からの二月十三日付書簡)が鴎外に届くまでに、武石に肖像制作の仕事は集まってきていた。
その武石弘三郎の名前を、今では、『近代日本美術事典』(講談社、一九八九年)にも、『新潮世界美術辞典』(新潮社、一九八五年)にも見つけることはできない。武石が忘れられたことは、「博士の肖像」に人々の関心が向かわなくなることの見事な裏返しである。あるいはまた、肖像の制作に終始した武石のような彫刻家の仕事をすくいとれない近代日本美術史をわれわれが手にしているということでもある。
肖像の再生
肖像をめぐっては、像主・注文者・作者のほかに、実は第四者がいる。それは、肖像の前を通り過ぎる、ほかならぬわれわれである。われわれと肖像との関係が問われている。というよりも、問い掛けているのが、この展覧会「博士の肖像」なのである。
おそらく、肖像を美術品として評価し直すことは、すべての肖像を、忘却からも廃棄や紛失からも救い出すことにつながらない。像主への追慕の念を復活させることは、武石弘三郎の項目を美術辞典に登場させることよりもさらに困難だろう。とすれば、この図録のように、歴史的資料として台帳に登録することがさしあたりて採るべき方法だが、それは同時に肖像の息の根を止めることになりかねない。俗にいう「お蔵入り」である。
医学部附属病院小児科病棟
近代では、「お蔵入り」を「博物館行き」ともいう。この展覧会が目指したことは、学内各所から肖像を博物館の展示室に集めながらも、「お蔵入り」にしないことである。
美術品を見せるのではなく、そもそも肖像とはどのような物品なのかを考えてみたかった。肖像とは何かを考えるためには、肖像ではなく、むしろ台座を見ることも必要である。美術品ならば作者だけを気にすればよいが、肖像として扱おうとするなら、像主に無関心ではいられない。とはいえ、われわれは彼らの同僚でもなければ門下でもない。やはり、今できるのは人はなぜ肖像を残すのかを問うことではないか。
ここでは、東京大学における肖像の現状と、そこに至った理由と経緯とを詳しくたどってきた。われわれ第四者は、当事者でもないのに、そうした歴史の延長線上で肖像と向き合うから、抜き差しならぬ関係に陥ってしまう。追慕の念も芸術的感動もなければ、無関心以外に関心の持ちようがない。博物館の展示室とは、歴史を再現する場だと思われがちだが、実は歴史を破壊し、無効にし、抜き差しならない肖像とわれわれとの関係を、抜いたり差したりして組み替えてしまう場所である。それで初めて、肖像は物品としての姿をも見せてくれる。
「博士の肖像」の時代は終わろうとしている。肖像写真が肖像画と肖像彫刻に取って代ったと考えるなら、肖像を飾る慣習は今なお続いているものの、ここで紹介してきたような肖像がこれから生まれる可能性はもはやゼロに等しい。むしろ、医学部の一部の教室を別とすれば、これら肖像の誕生は大半が一九一〇年代から三〇年代の間に収まっており、その意味では時代はとうに終わっている。
しかし、この半世紀にも満たないこの時代はまた、八世紀以来の長い肖像の歴史の中に入れ子のように収まっている。そして、メディアを変えつつ、人はこれからも人の姿に似せたものを作り続けるに違いない。
展覧会には、なんとも不粋に、直截に、「人はなぜ肖像を残すのか」というサブタイトルをつけてしまった。彼らの気持ちを汲むならば、「私を見てくれてありがとう」とすべきだったかもしれない。おそらくそうつぶやいて、展覧会終了後、彼らは再び階段の踊り場や廊下の片隅へと戻ってゆく。
(総合研究博物館助教授)
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