ハッサニマハレ、ガレクティ編年の再整理と発掘の意義 |
谷一 尚 共立女子大学国際文化学部・大学院 |
一九五九年春、第二次東京大学イラク・イラン遺跡調査団の先発隊としてテヘランに滞在中の深井晋司は、とある骨董屋の奥の物置の片隅で、当時第二波として当地にもたらされた(第一波は前年秋)いわゆる「アムラシュ遺物」のなかから正倉院白瑠璃碗と同じタイプの風化したガラス碗を発見した[深井一九五九a、b]。 団長の江上波夫をはじめとして、イラン先史土器の中国彩陶との類似性や、パルチア・ササン併行期の遺物の中国南北朝隋唐期文物に通ずる要素を認め関心を示していた東大調査団は、同年七月、増田精一・甘糟健両隊員をカスピ海南岸、アルボルズ山脈麓のアムラシュに派遣し、そこは単なる遺物の集積地であること、本当の出土地はさらに山奥のデーラマン地方であることを確認。翌一九六〇年夏と六四年夏にいわば「継続事業外の特別企画」[野田一九八一]として、ラルスカン、ホラムルード、ノールズマハレ(以上一九六〇年のみ)、ハッサニ・マハレ(一九六四年のみ)、ガレクティ(一九六〇、六四年)の五地点の発掘を行った[深井編一九八〇]。
基本的には、調査団が一連の報告書で提示した「ガレクティ、ラルスカンが前一千年紀、ホラムルード、ノールズマハレ、ハッサニマハレが一−三世紀」とする編年観は妥当と考えられる。ただし、ガレクティの一部については調査団自身の見解が「アケメネス」期[曽野・深井一九六八]と「パルティア」期[江上・深井・増田一九六五、深井編一九八〇]で動くなど一定しておらず、また、ハッサニマハレでも、三世紀中葉−後半と考えられる七号墓を後に「パルティア」期とする[深井編一九八〇]など、厳密にはいくつか正確さを欠いているものがある。以下、ガラスの出土遺物を中心に、根拠を提示してこれらの墓の編年を整理する。 i ガレクティ出土遺物が少なく、編年の基準となる資料の出土していない墓はともかく、ガレクティは標準遺物がある程度豊富である。まず、I−五、I−九、II−三号墓には、同心円文のガラス玉がある。I−五、I−九号墓出土例と、II−三号墓出土例とは、一見同種に見えるが実は技法が異なっている。I−五、I−九号墓で出土しているのは、文様部が重ね貼付技法による同心円文のガラス玉。これと同種のものは、チュニジアのカルタゴ、サルディニアのサロスなどの環地中海域のフェニキア植民都市や、ケルチなど黒海北岸ボスフォラス諸都市の前五世紀を中心とした墳墓から出土しており、一九七八年には、中国湖北省の曽公乙(前四三三年歿)墓からも、西方素材(アルカリ石灰ガラス製)のものが発掘されていることからみて、この種の玉の年代は前五世紀前後と考えられる。 一方、II−三号墓で出土した同心円文ガラス玉は、モザイク貼付技法によるもの。断面同心円文のガラス棒をつくり、これを輪切りにしたものを玉本体に貼付けたものである。同種のものは、パレスティナのアトリットやテルアブハワームなど東部地中海沿岸の、前五世紀前後の層位から出土している。 次に、I−五号墓で出土した断面方形と断面円形の二つの筒状ガラス瓶であるが、これは金属棒の先に耐火粘土などで芯(コア)をつくり、ガラスを巻き付けて成形し後芯を抜き去る「コア(芯抜)ガラス」の技法を応用した「ロッド(棒抜)ガラス」技法(コアガラスほど器形に膨らみがない)でつくられたものである。これと同種のものは、イラクのニムルド、グルジアのヴァニなどのやはり前五世紀前後の層位から出土している[谷一一九八四]。 以上から、ガレクティI−五、I−九、II−三号墓などを、ガラス出土遺物などから「精巧なトンボ玉やガラス製の細長い筒状瓶が出土したこと」[深井編一九八〇]などを根拠として、前二四七年以降の「パルティア」初期[深井一九八三]とした修正編年はやや無理がある。伝世でパルティア期まで伝えられた可能性も皆無ではないが、ガラス以外の副葬品にパルティア期とする有力な基準例が見あたらない以上、これらの墓は「アケメネス」期(前五世紀前後)とするのが、妥当と考えられる。 ii ハッサニマハレハッサニマハレにおけるガラスの標準遺物は、四号墓と七号墓とで出土している。四号墓出土例で、編年の基準となるのは、二−三連結・単珠の金層ガラス玉一連、両端直截の蜜柑玉、アフロディーテ浮出文偏平管玉である。これらの金層ガラス玉は、吹ガラス技法によって太細二本の管を吹き、細管の表面に金箔を貼ってから、太管に入れ、括れさせたり、挟んで型押し文様を施したりした二層ガラス玉である。黒海北岸には、様々な種類の出土例があり[ 1978]、連結玉は中央アジア、朝鮮半島を経てわが国にまでその分布は及んでいる。最も多く出土する黒海北岸での編年によれば、連結玉は吹ガラス技法成立直後の一世紀に多く、以後四世紀頃まで次第に数を減じながら存在する。両端直截の蜜柑玉は、吹ガラス法成立以前の重ね貼付法による前二世紀の例と、後一世紀の例との二種があるが、ハッサニマハレ出土例は後者と思われる。アフロディーテ浮出文偏平管玉は黒海北岸では一世紀に限定される[谷一一九八六]。以上から四号墓は一世紀の可能性が強いと考えられ、これは従来の見解と大差ない。 次に七号墓であるが、ここで出土した突起ガラス括碗と同種同技法の容器は、シリアのドゥラエウロポス、パレスティナのナハリヤ、ジャラーム、エジプトのカラニス、アコリスなどの他、中国の華芳(三〇四年葬)墓で出土している。ドゥラの下限二五六年、ナハリヤ第II期=三世紀末−四世紀前半、ジャラーム第II期=二七五−三五〇年、カラニスB期=三世紀中葉−四世紀中葉とされ、中国出土例の埋蔵年代(三〇四年)を、この種のガラス碗の流行年代の下限付近とみれば、七号墓は、三世紀中葉−後半、下がっても四世紀初頭あたり、とみるのが妥当であろう。したがって「ササン」初期併行であり、「パルティア」期まで上げる[深井一九八三他]のはやや無理がある。ジャラームはローマガラスの工房址であり、そこで出土していることや他の出土遺跡分布からみても、ササン系ではなくローマ系の可能性が強いと考えられる[谷一一九九七]。
デーラマン地区の発掘の主要な目的の一つを、「盗掘ではこの地区で出土しているらしい正倉院タイプの切子ガラス碗を、学術発掘で発見すること」とするなら、これは達成されていない。本来はローマガラスの技法であった切子を施した、ローマ系の薄手のガラス容器なら、一−三世紀と考えられるハッサニマハレ墳墓群でも出土する可能性はあったと思われるが、厚手の正倉院タイプの切子ガラス碗は、ササン朝六世紀のもので、三世紀頃までの墳墓群をいくら発掘しても、それは不可能であったろう。東大調査団がイラク考古局から要請のあったダム建設に伴うキシュの緊急発掘を断った後、これをうけて発掘した国士舘隊が、東大隊が求めてやまなかった正倉院タイプの切子ガラス碗をいくつも、ササン朝の中心地キシュのテルハメディヤートで一九八〇年に発掘した[川又一九八一、一九九〇、一九九一]のは、いわば当然であった。正倉院タイプの切子ガラス碗は、この他、イギリス隊が一九三三年にキシュの宮殿址で[Harden 1934]発掘したのを皮きりにイタリア隊が一九七五年にやはりササン朝の中心地テシフォンのテルバルーダで[Ponzi 1987]、イランでは、一九八〇年にフランス隊がトゥランテペで[Boucharlat 1987]発掘している。浅碗型ではあるが、一九八八年には、ついに中国咸陽の王士良(五八三年葬)墓で出土[咸陽考古隊一九九三]し、六世紀という年代がほぼ確定したと筆者は考えている[谷一一九九六]。 発掘の成果は、発掘者の当初の意図や目的とは必ずしも一致しない場合が多々あり、これは考古学者の宿命でもあろう。たとえそれが、エジプトやその強い影響下にあった時期のパレスティナの一部に独特の護符である「ウジャット眼」であることがわからず、図版に天地逆で掲載されている[曽野・深井一九六八]としても、出土したものは忠実にすべて報告するという姿勢は高く評価できる。ハッサニマハレ七号墓で突起ガラス碗が出土したのと同じ一九六四年、北京郊外の華芳(三〇四年葬)墓でほぼ同種同技法の突起碗が発掘され、ガレクティI−五号墓出土例と素材技法が同じ西方系の重ね貼付同心円文ガラス玉が十四年後の一九七八年、湖北省の曽公乙(前四三三年歿)墓で発掘され、ハッサニマハレ四号墓出土の金層ガラス連珠と同種同技法のものは、中央アジアの楼蘭、慶州武寧王陵、わが国橿原の鴨山古墳などでも発掘されている。数少ないイランにおける学術発掘での出土例は、ユーラシア一円でなされていた古代の東西交流を考察する上で、貴重な資料を数多く提供しており、その功績の大きさは他に比べるものがない。 |
【参考文献】江上波夫・深井晋司・増田精一、一九六五年、『デーラマンI−ガレクティ、ラルスカンの発掘一九六〇−』(東京大学イラク・イラン遺跡調査団報告書六)、東京大学東洋文化研究所川又正智、一九八一年、『テル・ハメディヤートI』(ラーフィダーンII)、国士舘大学イラク古文化研究所、東京 川又正智、一九九〇年、『テル・ハメディヤートII』(ラーフィダーンXI)、国士舘大学イラク古文化研究所、東京 川又正智、一九九一年、『テル・ハメディヤートIII』(ラーフィダーンXII)、国士舘大学イラク古文化研究所、東京 咸陽考古隊、一九九三年、『中国北周珍貴文物』、西安 曽野寿彦・深井晋司、一九六八年、『デーラマンIII−ハッサニマハレ、ガレクティの発掘一九六四−』(東京大学イラク・イラン遺跡調査団報告書八)、東京大学東洋文化研究所 谷一尚、一九八四年、「湖北省随県雷鼓敦一号墓出土の同心円文ガラス珠」『江上波夫先生喜寿記念古代オリエント論集』(古代オリエント博物館紀要五)、山川出版社、三二三−三四〇頁[谷一一九九三、III章所収] 谷一尚、一九八六年、「金層ガラス珠の東方伝播」『GLASS』二一、九−一七頁[谷一一九九三、VII章所収] 谷一尚、一九九三年、『ガラスの比較文化史』、杉山書店 谷一尚、一九九六年、「中国咸陽出土の正倉院型切子ガラス碗」『古代文化』四八−八、二五−二八頁 谷一尚、一九九七年、「突起ガラス括碗の出自と東方伝播」『友部直先生 古稀記念論叢、美の宴・西と東』、瑠璃書房、四八−六〇頁 野田裕、一九八一年、『幻の瑠璃碗を求めて−秘境デーラマン発掘行−』(オリエント選書一〇)、東京新聞出版局 深井晋司、一九五九年a、「正倉院宝物に似たカット・グラス」『朝日新聞』一九五九年一一月一一日付朝刊 深井晋司、一九五九年b、「正倉院宝物白瑠璃碗考−ギラーン州出土の瑠璃碗に対する私見−」『国華』八一二、八−四五頁[深井一九六八所収] 深井晋司、一九六五年、「ハッサニ・マハレ出土の突起装飾瑠璃碗に関する一考察」『東京大学東洋文化研究所紀要』三六、一−二二頁[深井一九六八所収] 深井晋司、一九六八年、『ペルシア古美術研究−ガラス器・金属器−』、吉川弘文館、東京 深井晋司、一九七二年、「デーラマン地方出土のコア・グラス」『東京大学東洋文化研究所紀要』五六、一−一六頁[深井一九八〇所収] 深井晋司、一九八〇年、『ペルシア古美術研究II』、吉川弘文館、東京 深井晋司、一九八三年、『ペルシアのガラス』(オリエント選書一二)、東京新聞出版局、東京 深井晋司編、一九八〇年、『イラン・イラク学術調査の歩み』、東京大学東洋文化研究所 深井晋司・高橋敏、一九七三年、『ペルシアのガラス』、淡交社、京都 , E. M. 1978. Boucharlat、, R. and Lecomte, O. 1987. Fouilles de Tureng Tepe, I, Les Periodes Sassanides et Islamiques. Paris. Harden, D.B. 1934. Excavations at Barghuthiat, 1933, Glass from Kish. Iraq. I, no.2. pp.132-133. Ponzi, M. M. N. 1987. Late Sasanian Glassware from Tell Baruda. Mesopotamia XXII. pp.265-275. |
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