東京大学本郷キャンパスの歴史と建築

藤井恵介
東京大学大学院工学系研究科
4/7

明治後期のキャンパスの充実


 以上のような経過で本郷キャンパスの骨格が出来上がったが、この後も着々と様々な建築群が増設されて大学キャンパスが整備される。まず医学部、医院については龍岡門から北に延びる道の東側に医科大学、西側に第一医院が位置していたが、明治26年にその位置を交換することが決まった。その後、医科大学医化学教室・生理学教室(同35年)、衛生学教室(同35年)、薬物学教室(同35年)は図書館の南側から赤門あたりにかけて完成された。またこの工事のために赤門は15メートルほど本郷通り側の現在地に移された。そして病理学教室(同36年)、解剖学教室(同39年)は旧第一医院本室の跡に建てられ、医科大学の校舎群はほぼ完成した。これらはいずれも煉瓦造2階建の古典主義を基調とした端正な建築で、屋上にユニークな時計塔を載せていた。擬洋風であった東京医学校から、新しい様式へと転換したのである。これらの一群の建築は、ほぼ同時期に集中して建設され、いずれも同一の様式をもった。東京丸の内に煉瓦造建築が立ち並び、「1丁ロンドン」と呼ばれたのはよく知られているが、それに匹敵するような煉瓦建築街となっていたのである。

 明治28年頃には仮正門の位置が少し北の現在の正門の場所に移動した。ここから工科大学、図書館へ通ずる直線道路も造られて、極めて整然とした地区が完成した。なお明治末期になると、大講堂の建築が検討されはじめ、現在の位置が有力候補にあげられていたらしい。総長濱尾新は、明治38年に仮正門から大講堂予定地へ至る中心道路の両側に約1尺ばかりのイチョウを植えて将来の街路樹にしようとした。また仮正門から南へ向かう道路にもイチョウを植樹したという。そして明治45年6月には工科大学教授伊東忠太の設計で現在の正門が完成した。各大学校舎にみられる洋風のデザインとは異なり、伊東独特の和風のユニークな様式をもつ。工科大学は、その北側に本館とほぼ同規模の応用化学・採鉱冶金教室(明治29年)、東側に造船学・造兵学・土木学教室(同40年)を増設した。理科大学は本館に向かい合って動物学・地質学・鉱物学教室(同43年)を完成すると、法文科大学の隣で正門近くの校舎にあった各教室を新校舎に移した。また大正5年には化学教室を新築した。この建築は現存し、鉄筋コンクリート造、淡紅色タイル貼り、2階建で、古典主義的意匠をもっている。正門と同じく関東大震災以前の数少ない建築のひとつである。

 次に、新校舎に移転した後、理科大学の旧校舎は法文科大学の教室として使用することになり、その東側には大正2年に法科大学講義室(八角講堂)を新築した。八角形平面をもつ煉瓦造の建築で、アーチをもつ細長の窓や上部のバラ窓はゴシック様式を採用しており、コンドル設計の法文科大学校舎からの強い影響が認められる。

 以上のような一連の建築群の増設に深く関連したと思われるのが山口孝吉である。山口は明治30年に東京帝国大学工科大学を卒業後、同33年に文部省嘱託、同35年同技師を経て、40年からは東京帝国大学技師として大正10年まで設計に携わっていた(45年から営繕課長)。職務上ほとんどの建築にかかわっていたと思われるが、医科大学の諸建築、工科大学造船学・造兵学・土木学教室、法科大学講義室(八角講堂)、理科大学化学教室などを担当しており、それぞれ異なった様式を用いている。各分科大学の創設時の建物のもつ個性をそれぞれ尊重しながら、新たに建築を設計していったのであって、様々な様式を器用に使いこなしている(プロジェクトI 建築復元「ジョヴァンニ・サッキと建築模型製作の伝統」の項参照)。

 このような過程を経て本郷キャンパスは徐々に密度を高めていった。大正12年の震災の被害を示す配置図を見るならば、明治20年代までに建てられた各分科大学の本館の周辺には、もはや建物を新築する余地は見出せないほどになっていた。

 最後に大学制度に関する事項を簡単に記しておく。明治30年には帝国大学から東京帝国大学と名称が変更された。これは京都帝国大学が開設されたためであり、名称変更以上の意味はもたなかった。大正8年には分科大学制が学部制に改編され、法、医、工、文、理、農各学部となり、経済学部が新設された。




前頁へ   |   表紙に戻る   |   次頁へ