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旅の辞典Architettura[建築] エメラルド・グリーンの苔に、すっかり表面を侵食された本郷キャンパスの建物は、それが故に、本来の堅固な姿を、年々、新たに植物的な印象に変えつつある。木造の、伝統的な建築物。見事に植物的な建築。明暗を際立たせる苔ときのこが、人為的なデザインと自然との構成を結び付ける役割を担う建物。石や煉瓦や漆喰の役割は、二義的なものに過ぎない。 何代にも亘って、木材が、植物の生命力を持つ木こそが、記念建造物や家屋の建築に使用されてきた。森林の力が、建物を造り上げてきたのである。日本の建築の中には、鉱物的な自然は存在しない。 雨を含んで黒ずんだ玄武岩が、地面に力なく並べられている。精確な規則性で以て切り取られたこれらの玄武岩は、何百年という樹齢の樹々のまわりに見え隠れしている。庭の緑は、濃密で艶やかである。あまりに濃い緑の連なりのために、緑色の液体になってしまっているようにも見えるほどに、庭の緑は色が濃い。ネオゴシックの門の、黄色い石灰岩は、雨期の水にすっかり酔いどれてしまっている。まだそれほど、年端の行かないものも薄くはがれて、1千年が如く経過しているようにも見える。石の生命は短い。この国では、石は急速に衰える。役割が、西洋における場合とは逆転する。 木は建物に生命を注ぎつつ、何百年と生き続ける。石には未来がない。住まいやお寺の礎石、墓石、家の周囲の囲い、川の土手、庭園の中の小径などに用いられているくらいのものである。 Architettura[建築] フィレンツェの丘の上にある、ジョヴァンニ・ミケルッチの住まいの、すばらしい居間で話し合った建築についての四方山な話題。確か、春あるいは秋の、ある午後のことだったと思う。 見事な秩序で整理された、ちりひとつない室内は、トスカーナ人特有の質実さによって生み出されるもの。芸術は空気と同様に無意識の内に、しかし必然的に吸い込むものであって、抽象的な理念や語るために語るものではない、ということを説明もなしに感じとらせるかの室内の様子である。優雅で質実剛健な、年老いた紳士の住まいの、このような居間に私は座っていた。喧騒とは無縁の空気にあった。 控え目で潔白。偉大な老人達に特有のもの憂げな落ち着きをもって、この、ジャコメッティの彫像のように細長いからだの上に白髪の頭が連なった老建築家は、私を眺める。祈りや瞑想は、すでに暮らしに欠かせぬ要素となって組み込まれているのだ、と言う。巨匠の灰色の瞳は、これまでに設計を行った幾つもの建築作品やそれらの建つ場所を偲んでは、その都度、感動でうるむ。 木の幹や木の皮をスケッチするために、オリーブの樹々の間を散歩するのだ、とも語っていた。年取った木の皮の下を、無数の蟻が往つたり来たりする様子について、上品な表現で克明に話してくれもした。空に散る星や星座についても語ってくれた。デザインの行為において最も重要な部分は、実は、思考のエネルギーの部分なのである、と強調していた。 そして、老建築家はこう言った。「私の願いは、永遠の休息につくことなのだ」と。「愛する恋人を待つかのように、毎日、永遠の眠りが訪れるのを待っているのだ」と。「建築においては、規模の大小は問題ではない。大きさは、視点の純粋さの中に見出すべきだ」と。 こうして私は、偉大な建築家達が、初めて何かを発見して喜ぶ偉大な子供達のような存在であることを悟った。彼等は共通して、空に向ける眼を持っている。そして、空を流れ落ちる星を指さすのである。 Allestire[展示設計を行う] 東京大学の安田講堂での、史上初めての展覧会の展示設計をするというのは、あたかも、闘牛の牛の首にバンデリラスを突き刺すようなものである。夜の妖精達のこの城は、常に動じることなく、おごそかである。畏れを引き起こしもする。なぜならば、月の建築は影の令嬢だからだ。決して太陽は出てこない。闇に包まれた世界を想起させる。 10月のある日、計測のために、初めて、この建物の内臓の中にはいった。たちどころに、自分が本物の建築物の腹部にいることを理解した。こうした体験は、日本ではそうたやすく得られるものではない。西洋のシステムを応用して、イメージを起こし建造された建物で、安田講堂のような品格を持つ例はとても限られているからだ。大方は、ぎごちない西洋のアバンギャルドの私生児のようなものに過ぎない。安田講堂は、設計の由緒正しさにおいて、唯一の例と言えよう。 Anonimo[無名の] 走る車の中から、矢のような速さで過ぎゆく、沿道の無数の住宅の顔を眺める。建築風景だけを眺める。まるで、一連のカラー映画を前にした観客のように。個性のないデザイン。無名のプロジェクト。町の日常の風景の、特徴のない動き。表象のもつれ。完成した、あるいは未完成のプロジェクトの解決法の数々。未完のマグマ、あるいは失敗作のマグマ。あるいは他の終わり方で完成した例。無名のプロジェクト。個性のないプロジェクト。作者が不明なプロジェクト。世界中のこうした資料は、様々なインスピレーションを引き起こし得る刺激や情報の、尽きるところのない優れた鉱脈である。ひとつのプロジェクトに、異種の皮膚を(感覚を)入れ込むことは、明らかに可能なことである。想像する以上に大きな展開が可能となるはずだ。誰しもが主人公となり得、創造者となり得る開かれた世界。独創的で模倣することがむずかしい、他にふたつと同じ例のないデザイン。既定の枠組みから解放された、その人独自の観方を各人が表現していく世界。 北アフリカの町の郊外には、広大な都市計画空間の中に、このようにして考え出された、無数の無名のプロジェクトの結果が、銀河宇宙さながらに散らばっている。 わずかに側面に傾斜を持たせた建物、あらゆる材料を片っ端から使った屋根のひさし。倉庫になってしまった元店舗、半分がたはこ屋に、半分が雑貨屋になった元倉庫。遊園地のように色づきの蛍光灯が何本も使われているガソリン・スタンド。抽象絵画のような、住居の入口の扉。コンセプチュアル・アートのインスタレーションにも似たバー・カフェ内部のデザイン。カラフルな落書きに充ちたタクシーやトラックや乗り合いバス等々。 これらの作品の作者は一体、誰なのか。無秩序で生命感に充ちてエネルギーを噴き出す、これらの作品の作者は、どこにいるのか。 誰からの讃美も期待する訳ではなく、造り上げることこそに満足する素人気質。これが芸術の力である。 自由な考えの結び付きが、新しい生命を造り出す。終わりのない、国境のない資料庫。そこで私は渇を癒し、甘い蜜を吸う。この世界においては、建築家の、あまり品の良くない言葉は、耳障りな喧騒を後ろの方で奏でるのに過ぎない。 Artigianato[職人芸] 同じ技が、何世代にも渡って受け継がれて1千年に及ぶこともある年季奉公の仕事のようなもの。忠実に従順に、同じ動作を繰り返す。あたかも季節のようなものである。毎年決まって四季が一定の順番で繰り返されるが、毎回、それでいて、わずかな差異を見出す。職人芸も同様である。同じ動作の繰り返しながら、その都度、微妙な違いのために初めての経験であるように思われる。 Bambini[子供達] モプティの子供達は、黄色い砂の土手の間を流れるニジェール河のように、細くて長い。これまでに見たことのない物を見詰める眼は好奇心に充ちているが、怒りが全くない。神秘的で力強い幼年時代。芸術家は、子供の持つ柔らかい視線と老人のほのぼのとした落ち着きを所有している。 Blu[ブルー] インディアンブルーは、天気の色。 Carta[紙] 空を飛ぶ紙。 Céra[存在した] イタリアの小さな駅の壁に書かれていた。「盲目は幸いなり。見え過ぎるのは、これ不幸なり」。 Che[何] 建築とは何か。観光客がそれを目のあたりにした時に、「なあんてきれいなのだろう」という声を発するものである。 Colore[色] 白い壁面に映る色の反射。反射する色は、とても繊細で神秘的なものである。反射する色彩は、塗り付ける色と違って、物理的な実体を持たない。光の柔らかな構造が作り出すものである。色調は徐々に変化し、やがて空間の中に消えていく。濃い色ではない。鮮やかでも激しい色でもない。動きを示唆し、やがて消えてしまう、柔らかくてかすかな色である。空間のような色であり、脈打つ色でもある。光の濃度が変われば、色の濃さも変化する。壁面への光の投射角の変化によっても、色は変化する。資料化しておこうとする眼の前で、光の色は失せたり、再び現れたりする。 ポンペイのフレスコ画の色彩のように、不思議な色である。問いを投げかける対象となり、ひとつの世界を作る。構造であって、構成ではない。 アニェッティは、この反射光による色彩で、絵を描いている。キャンバスの上に、その面から幾らか持ち上げて置かれた金属板の下部に隠された色彩の反射を、徐々に、キャンバスの白い面の中に消えてしまうまで拡散させる。こうして、キャンバスは1枚の絵としての物性を失って、一種の投影面となる。 空間についての、もうひとつ別の物語を、模擬的に作り出そうとしたアニェッティのこの発明を通じて、私は、デザインが、あまりに断定的過ぎるがために完壁には表現し切れない別の世界を見出した。 影を組織し、光の経済の中で影を働かせること。これは建築においては一般的な手続きである。光と影は建築物に生命を与える。建築物や室内建築に応用された色彩の反射は、空間を構成する素材の存在感を消し去ってしまう。こうして、建築物は彫刻及び絵画となる。装飾以上の存在となる。空間は、より感性の豊かなものとなり、複雑な空間を探知する器械となる。 私は、室内建築に、この反射による色彩を使い始めた。生きた素材であり、形而上学的な素材でもある白の漆喰の上に日常に新しいこの素材の上に反射される色彩は、より深味を帯び、空間の中に徐々に拡散していく。甘さを含みながら、やがて消えていく。 |
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