幕末国産木活字
江戸時代を通して木活字による印刷物は、切れ目なく出版されている。一概には言いにくいが、整版に比してより軽便な小部数出版物や無届け出版物には木活字版が多かった。木活字には一種類の書物にのみ用いられたものと、種々の書物に使い回されたものの両方がある。
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47a 葛原重美『葛原勾当日記』
安政三(一八五六)〜四(一八五七)年・安政五(一八五八)〜元治元(一八六四)年
紙、縦一三・三cm、横二〇・〇cm
史料編纂所蔵(貴重書・模造29)
日記の原本は、代筆を交えて、文政一〇(一八二七)年から明治一五(一八八二)年までのものが現存している。木製活字版用具の原物は、天保八(一八三七)年以前の製作と考えられ、この木活字を使用した日記の印字は、同年正月一日より開始されている。しかし、これ以後も日記には断続的に代筆部分がある。
日記および木製活字版用具の複製品は、昭和二三(一九四八)年五月頃の製作と思われる。
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47b 葛原重美『葛原勾当日記』木製活字版用具一式
木、縦二六・〇cm、横一一・〇cm、深四・一cm
史料編纂所蔵(貴重書・模造29)
印判を選び出し、それを捺しながら文章を綴る行為には、活字の文選の原型が見て取れる。これらの印判には、眼の不自由な人でも指先で文字を特定できるような、点字の原理が採用されている。日本語の場合、平仮名のいろはと漢数字の印判が揃っていれば、それで日々の細々とした生活を綴るのに十分であった。わずかこれだけの道具でもって私的な日記を認め続けたことで、葛原勾當はその名を歴史のなかに留めることになった。
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来歴
原物は、昭和二九(一九五四)年九月二九日、「葛原勾当日記(付・印刷用具一具)」(一二帖十一冊)として広島県重要文化財に指定された。現在、所有者は個人だが同県深安郡神辺町の蓮乗院が保管している。
複製品は、昭和二三(一九四八)年五月、史料編纂所の第一五回史料展覧会に、葛原家より借用した日記二冊および木製活字版用具一式を出陳したところ、大いに衆目を集めたため、その機会を利用して模造され同所の所蔵品となったものである。なお、日記は、木活字の原物を使用して、原本と見比べながらそれと同じように押捺し模造したものであり、活字版用具は、印判師に依頼して製作したものである。ただし、用具についてはその返却期限が迫っていたため、著干模造の精繊さに欠ける部分が見られるようである。
展示歴
原物については、昭和二三(一九四八)年五月二八日から三〇日まで、史料編纂所が葛原家より日記二冊(安政三〜四・安政五〜元治元年分)および木製印字用具一式を借用して展示した(東京大学史料編纂所『第十五回史料展覧会列品目録』による)。最近では、平成四(一九九二)年四月二四日から五月二四日まで、広島県立歴史博物館(開館三周年記念・平成四年度春の特別企画展「広島県の重要文化財一−考古・歴史資料、古文書、仏教絵画など−」)で展示されている。
なお、複製品の展示歴はないようである。
著者・葛原勾当(重美)の経歴
日記原本の著者である葛原重美(前名・矢田柳三、号・一泉)は、文化九(一八一二)年三月一五日、福山藩領の備後国安那郡八尋村(現広島県深安郡神辺町八尋)に庄屋矢田重知の長男として生まれた。同一一年、三歳のとき疱瘡により両眼とも失明したが、文政三(一八二〇)年、九歳のとき琴を習い始める。そして、同五年、十一歳のとき京都に上り、松野勾当(のちに検校)に入門して生田流の箏曲を学んだ。その後、公家で当道座管領の久我家より、葛原の姓と勾当(盲人集団内階級の一つ)の位階を許される。帰郷後は、自宅での内稽古のほかに、福山藩領の備後南部を中心に、備前・備中・安芸地方など他領にも出向き箏曲の教授を行う一方で、しばしば上洛してはその技を磨くことに努めたため、次第に生田流箏曲の名手と評されるようになった。また、自身で作曲も手掛けたほか、八雲琴の発明にも貢献したといわれている。明治一五(一八八二)年九月八日、七十一歳で病没した。ちなみに、大正四(一九一五)年に活版印刷によって日記の翻刻本を出版した童謡作家の葛原幽は重美の孫である。
葛原勾当日記の概要
日記の原本は、文政一〇(一八二七)年、十六歳のときから代筆によって記録され始める。天保八(一八三七)年、二十六歳のときからは、独自の木製活字版用具を利用して自分の手で日記を付け始めた。そして、しばしば代筆を交えながらも、没年の明治一五(一八八二)年まで記し続けられている。このような木活字を利用して印字された日記はきわめて珍しい。
日記の記載内容は、初めは代筆による簡単な稽古日誌(稽古をつけた弟子の名、曲名などを記している)であったが、天保八年正月一日以降は、木製活字版用具を使用し、方言や俗語などを交えた簡潔な口語体で記され、発音通りに記されているところも多く、彼自身が詠んだ和歌も数多く収録されている(木活字の使用以降も断続的に代筆部分がある)。なお、旅行中も日記を携帯していたようである。基本的には稽古日誌の体裁だが、彼の身辺の出来事やその時の心情が率直に表現されており、その文章は楽天的で甚だ諧謔に富んだものと評されている。しかし、政治的な事件などの記述は少ない。
木製活字版用具の構成とその使用方法
この活字版用具はすべて専用の木製用具箱に納められている。用具箱の蓋は右側にスライドさせて開閉するようになっており、取っ手の役割を果たす丸い真鍮製の突起が付いている。蓋を開けると、箱の上部には、一列に十九個の四角い穴が空けられた細長い梯子状の木製罫枠二本が収納され、下部右側にある七段九行の格子状の升目には六十三個の木活字がはめ込まれている。さらに、その左側には、その他の木活字とともに、罫枠を固定するためのピン付きの軸木二個、黒色の印肉壷一個、などが納められている。
木活字の内訳は、「い」から「す」までのいろは四十七文字に「ん」、「志」(変体かなの「し」)を加えたかな文字が四十九個、「一」から「十」までの漢数字が十個、「正」、「月」、「日」、「同」の漢字が四個、合わせて六十三個。以上が七段九行の升目に収納されている。このほかに、軸木の両端が活字となっている「奉」と「お」、「候」と「御」、「」と「ゝ」や、「ハ」、「」、「○」(句読点の記号)の草書体漢字・変体かな・記号などが六個あり、木活字の総数は六十九個となる。別に、印章体のものとして、「葛原」、「一泉」(この一個だけが石製品)の二個が加わる。
木活字の識別方法は、軸木の側面に付けられた真鍮製の突起や規則的に刻み込まれた数本の横線によっている。四十九個のかな文字を例にとると、それらの木活字の軸木の側面には、文字の上部を示す真鍮製の突起があり、また、軸木の左右には数本の横線が刻まれ(左側は段数、右側は行数を示している)、これによって第何段・第何行の文字であるかを指の感触で判知できるようになっていた。そして、使用済みの木活字は常に箱の定位置に収納するようにしていたのである。
印字の方法は、まず、日記の紙面の上に木製の罫枠二本を並べてあて、その上下をピン付きの軸木で固定し、第一行目の枠内に印墨を付けた木活字を手探りではめ入れながら、一つずつ文字を押捺していく。第一行目の印字が終わると、第二行目の罫枠を固定した上で、第一行目の罫枠をはずして第三行目に移動し、第二行目の罫枠に隣接させてから、今度は第二行目を押捺していくという方法で印字を続けていったらしい。
おおむね一行十字ずつ印字され、ときどき改行されている。所々に誤捺もあり、間違えた箇所は、「●」(「○」の軸木の背を流用か)あるいは「■」(木活字の軸木の背を流用)で抹消されているが、誤字の上に正しい文字を重ね捺ししている箇所もある。また、木活字が逆さに捺してある箇所や、四十九個のかな文字のうち同じ段でも行の取り違えをしている箇所も見られる。さらに、「お」と「奉」を間違えて印字している箇所も散見するが、これは軸木の両端に「奉」と「お」を彫った木活字を、誤って逆に捺したものである。
史料編纂所所蔵の複製日記について
現在、史料編纂所が所蔵する複製日記は、木活字の原物を使用して、日記原本を見比べながらそれと同じように押捺し模造したものであり、第一冊は、安政三年正月一日から同四年一二月三〇日までを、第二冊は、安政五年正月一日から元治元年一二月七日まで(うち元治元年分は代筆)を収録している。以下、その一部を紹介する(句読点等は筆者が挿入、改行箇所は「/」で示し文章を追い込んだが、改行された状態をそのまま残した部分もある)。
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(安政三年)
正月一日、志んね(新年)[ん脱]おめで/とうぞん(存)じます、
五日、ねんしあいすみ、
七日、あさ(朝)よみ(詠)けるうた(歌)、
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九日、十九けんや(軒屋)、十五日、/かへ(帰)り、
うちけいこ(内稽古)はじ(始)/まり○さよう(左様)、
二十五日、けいこ(稽古)す(済)み、
二十七日より○せこ[すカ]し/せき(咳)がつき、二十九日同/こま(困)り○そのうゑ(上)に○/かぜ(風邪)をひき「て」(「○」に重ね捺し)ね(寝)られも/せす○を(起)きられもせす/○あたま(頭)がぶら
ぶら、
二月、ねからくすり(薬)のき(効)/かぬとし(歳)がき(来)たやら○/なんぼでもを(起)きられぬ/○きりとなを(治)りを(居)れ、
十六日、於ふゑむら(大江村)○「ひ(広 」(「さ」に重ね捺し)/ろはたけ 畠)にゆ(行)く○こ/と(琴)にて○志やうちくばい(松竹梅)を、二十三日、於う志ま(大島)/○はらだ(原田)にゆ(行)く、おつね・/おちか○にうもん(入門)す、
三月二日、かへ(帰)る、四日、同/むら(村)わなぎ志んたく(和名木新宅)○/ふしの○●●●●●(「ゑちごし、」を抹消)志き(四季)のなが(眺)め○こと(琴)、九日、かへ(帰)り、十二日、ふく/やま(福山)にゆ(行)く○かわもと(川本屋)/やおみち○おもてくみ(表組)/い(入)り、
四月三日、まつなが(松永)、同十/二日、かへ(帰)り、だいく(大工)につ/き○もめごとあり○/はてき(気)のどく(毒)なこと、/だいく(大工)ゆゑ(故)に、き(気)をつか(遣)/わせ候、十六日、いばら(井原)○/おさと、こと(琴)○ちよ(千代)のう/ぐいす(鶯)、二十四日、かへ(帰)り、/二十五日、ふくやま(福山)へ○/い(行)てもど(戻)り、二十七日○/いばら(井原)、二十九日、かハベ(川辺)、/三十日、「奉」(「お」の誤捺)かやま(岡山)、
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(安政四年二月)
あるとき(時)○かぜ(風)のかみ(神)/をおく(送)るとて○かね(鐘)や/たいこ(太鼓)をたゝ(叩)いて○に/ぎ(賑)わしくありしが、御か/み(上)よりと(止)められてたゞ(只)/たけ(竹)のつ「ゝ」(「は」に重ね捺し)(筒)ばかりふ(吹)き/てをく(送)るをき(聞)ゝ、
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(安政四年)
のち(後)の五月、日日をもし/ろ(面白)く志て○をも(思)わづ○/日をおく(送)りしこと志る(記)/すに○かうのう(効能)あげて/かぞ(数)へがた(難)し○ちよ(千代)一/にハ○かん志ん(感心)いた(致)し/候、わが(我)てし(弟子)うちなる○/をぼ(覚)ゑのよきもの(者)ゆゑ(故)/○このたび(度)ハきつと/にあひたり○日ゝひる/ね(昼寝)ハ「奉」(「お」の誤捺)こ「た」(「り」に重ね捺し)(怠)りなくつとめ候、二十五日、ばん(晩)、ふね(船)/にの(乗)り○さけ(酒)をの(飲)む○/きし(岸)のやなぎ(柳)かげ○/さかな(肴)ハ○みざをのさしみ(刺身)○たばこ(吸物)のすいも/の○はなしのとりざか/なにて○こゝかしこに/ふね(船)をやりすゑ(据)て○や/はん(夜半)のころ(頃)○ふしみ(伏見)へ/つ(着)き○みち(路)にてよ(詠)める、
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(安政四年)
六月のはじめ(初)にハか(彼)の/いればし(入歯師)を○ま(待)ちたい/くつ(退屈)志て○ほか(他)なる○/いればし(入歯師)にさしたら○/なんど(何度)志かゑ(仕替)てもき(気)に/い(入)らぬ○それからかん/しやく(癇癪)がを(起)きてござる、
五日より○ごきちう(御忌中)に/なり○なに(何)もかも○つ/まらぬことばかりなれ/ど○けいこさき(稽古先)のこ(子)た/ちや○こんい(懇意)なるひと/びと(人々)に○あ(会)いしことを/よろ(喜)こび、
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十一月八日、かうもと(河本)○/むら(村)○とがわ(戸川)ゆ(行)き○同/おたね○はる(春)のあけほの(曙)/十五日、おかやま(岡山)、十八日、/よねぐら(米倉)ゆ(行)き、同おみね/うらぐみ(裏組)い(入)り、二十三日、/やかげ(矢掛)にかへ(帰)り○みち(道)/よりあめ(雨)ふりいだ(降出)し○/かわべ(川辺)のにんそく(人足)○わ/るごゑ(悪声)をあげ○わしも/○つらかつた、二十四日、/かへ(帰)り○からだ(体)が○く/だ(砕)けたようでつまらぬ/〇二十八日、このあいだ(間)/うてん(雨天)つゞ(続)きにて○て/ら(寺)まゐ(参)りに○とてゑも/ゆ(行)かれず○ちから(力)がを(落)/ちて○き(気)がう(浮)かぬ○/こん(今)日ハ一ど(度)まゐ(参)り候、
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(安政五年)
八月一日より○けいこ(稽古)/はし(始)め、十八日、やないづ/むら(柳井津村)○にしやにゆ(行)き、二十一日より○ふれな/が(触流)しの○ごきちう(御忌中)と○/なりました、
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(安政五年九月)
二十九日、せのう(妹尾)いなれ/○あゝゝこのたび(度)こ「う」(「そ」の誤捺)/○きまゝ(気儘)に○きうそく(休息)/せんとおも(思)ひしものを/○ひと(人)がく(来)るやら○い/ぬるやら○まぜかへ(混返)す/ま(間)に○きちう(忌中)があ(明)けた、
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(安政六年四月)
二十四日、いけだ(池田)○でわ(出羽)/どの(殿)、○志たやしき(下屋敷)へ/まゐ(参)られ○そこにゆ(行)き/○こと(琴)をひ(弾)いた、/あいて(相手)ハ志か(鹿)の一、
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(安政六年)
八月一日より○「け」(「り」・「こ」に重ね捺し)いこ(稽古)、
十三日、いつ(何)れもかへ(帰)る/なり○このせつ(節)ハ○/ころり〔コレラ〕がはや(流行)り○どこ/ゑもゆけす、
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(安政六年十二月)
二十五日、やひろ(八尋)、
これからきうそく(休息)する/じや○ことし(今年)ハひつじ(未)/わしわ四十八、
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(万延元年十二月)
二十五日、きたく(帰宅)、
それから○なに(何)となく/ちから(力)がを(落)ちたよふで/「あ」(「○」に重ね捺し)ん志ん(安心)になりたよふ/にもあり○ゆめ(夢)をみ(見)た/こゝろもち(心持)がするわい、/われ七七四十九にて○/よ(良)きことの○かさ(重)なり/たるとし(年)なり、
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(小川 望)
【参考文献】
〔日記の刊本〕
葛原幽編、一九一五、『葛原勾当日記』、私家版
小倉豊文校訂、一九八〇、『葛原勾当日記』、緑地社
〔日記・木製活字版用具の解説〕
山本正夫、一九一六、「葛原勾当日記をよむ」、『音楽界』一六−一七五号
『広島県文化財資料シリーズ第六・広島県文化財解説目録』、広島県教育委員会、一九六四
斎木一馬、一九八三、「盲人の日記−『葛原勾当日記』のこと−」『大正史学』一三号(『古記録の研究・下・斎木一馬著作集2』、吉川弘文館、一九八九に収録)
紀田順一郎、一九八八、「手探りの活字日録−『葛原勾当日記』」『日記の虚実』(新潮選書)、新潮社(同『日記の虚実』[ちくま文庫]、筑摩書房、一九九五に収録)
『広島県の重要文化財一−考古・歴史資料、古文書、仏教絵画など−』(広島県立歴史博物館展示図録第六冊)、広島県立歴史博物館、一九九二
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