第二部

活字の世界



江戸中期国産欧文木活字

稲村三伯による『江戸ハルマ』には約六万本の欧文木活字が用いられている。欧文組版の場合には、文字の種類が少ないこともあり、整版より活字版の方がはるかに印刷も容易だった。後年の『蘭語訳撰』にも欧文の木活字が使われている。




  小括−幕末和文鋳造活字の展相
府川充男


  相当早い時期に阿蘭陀製鋳造活字が本に邦持ち込まれていたことは、近藤正斎『右文故事餘録』巻二「活字」の中に「守重日活版ハ北仁宋栄ノ慶暦中ニ瓶ル泥字ナリ明ニ至テ銅鉛ノ字ヲ用ユルモノアル守重嘗て荷蘭人ノ活鉛字ヲ得タリ」とあることからも晰かである(『近藤正斎全集』、国書刊行会、明治三九年参照)。ただしこれは欧文の鋳造活字何本かを貰ったという話に過ぎないと思われる。

  蕃書調所の市川斎宮(兼恭)は『名家談叢』第二六号(談叢社、明治三〇年)所載の「経歴談」で述懐している。

  それから日本には活版がないから、拵へたいと云つて、誰か研究しましたが、どうしても出来ずにしまひました。(中略)私が研究して、始めて小さなブツクを拵へましたが。是が日本の活版の始めです。(中略)山本勘右衛門といふ者が石町に居たが、それが古賀へ出入して居て器用な人であつたが、それが始めて活版を鋳たです。私は其人を使つて役所でやつて居るうちに人手が足りなくなりましたから、榊令助(此間死んだ榊博士の親)といふ人を手下に使つて、それと両人で先づ活版を仕上げた。尤も是は西洋文字の活版で日本字の活版はいづれそれより後に出来たことであらう。

  山本勘右衛門については川田久長『活版印刷史』(印刷学会出版部、昭和二四年)を引いておく。

  それを助けて補充活字を鋳造した山本勘右衛門もまた非常に腕利きの器用人であったから、結局この成功を生んだのであろう。伝えられるところによると、山本勘右衛門は時計師で古賀の屋敷へも出入りし、のちには市川の指図で実験用の器械なども試作した極めて細工に巧みな男で、彼は軟鋼に字父を刻み、のち焼入れをして硬度を高め、これを鋼材に打込んで字母を作ったということである。この当時としてはめずらしく法にかなった字母製作法を採用したのは、恐らく市川あたりが洋書を渉猟してその工程を知り、これを勘右衛門に授けたからであろう。

  実際には「是が日本の活版の始め」ではなく、蕃書調所による『Leesboek voor de scholen van het Nederlandsche Leger, Bevattende Korte Verhalen uit de Krijgsgeschiedenis, Bijzonder die van het Vaderland.』(題簽「西洋武功美談 和蘭文」、安政五年)(展示番号40、挿図1)や『Vewklaarde Vragen Over de Veldverschansing, Den Vestingbouw en Verdediging van Verdediging van Vestungen Voor Jonge Officiern.』(同年)他、(洋書調所や開成所に直結していく)数多の活版印刷物刊行に先立って、長崎版諸書が存在した。

挿図1 『レースブック』阿蘭陀版

  すなわち長崎奉行西役所内(安政三年より江戸町の五ヶ所宿老会所内に移転)の活字版摺立所が『Syntaxis, of Woordvoeging der Nederduitsche Taal, uitgegeven door maatschappij: Tot Nut van't Algemeen. Tweede Druk.』(題簽「和蘭文典成句論」、安政三年)(挿図2)、『Nederduitsche Spraakkunst Ten Dienste der Scholen, uit Gegereen.』(「和蘭文範」、安政三年)、『Reglement op de Eexrcitien en Manouvres der Infanterie』(「歩兵操練法」、安政四年)や『Van der Pijl's Gemeenzame Leerwijs, Voor Degenen, die de Engelsche Taal Beginnen te Leeren.』(「英文典初歩」、安政四年)などを翻刻刊行している(なお「長崎版」と「出島版」[展示番号38参照]は屡々混同されるが印刷所、使用活字が別であるばかりか印刷技術においても雲泥の差があり載然区別して取り扱われなくてはならない。諸系列の欧文活字の鑑定法については、『東海地区大学図書館協議会誌』第三二号、昭和六一年所載、高野彰「幕末の洋書印刷物−活字による見分け方」が精しい)。これらの標目を初めとする両所の官版刊行物に関しては川田久長「オランダ伝来の活版術」(『蘭学資料研究会研究報告』第七三号、昭和三五年所載)、福井保『江戸幕府刊行物要雄松堂書店、昭和六〇年)を、長崎版については『ビブリア』第一〇三号([天理]天理大学図書館、平成七年)所載の神崎順一「天理図書館所蔵の長崎版並びに出島版について」を参照されたい。

挿図2 『和蘭文典成句論』長崎版

  また印刷史方面の嘗ての「通説」では本木昌造が嘉永四(一八五一)年、阿蘭陀輸入の欧文活字と流込みによる自製の片仮名活字を組み合せて「蘭和通辨」を五十部ほど印刷したともされてきた。ただし同書は未だ実物が見出されていない。また「蘭和通辨」が書名であるか[自著ノ蘭和通辨様ノ者]、[自著ノ蘭和通辨ノ事ヲ記シタル一書]、[阿蘭陀通辨書]といった書の性格を表現したものであるのかにも大いに疑問が持たれて然るべきであろう。渡辺倉輔『阿蘭陀通詞本木氏事略』(長崎学会、昭和三一年、長崎学会叢書第一輯)、『崎陽論孜』(親和銀行済美会、昭和三九年)参照。川田久長は「蘭和通辨」の正体は実は安政六(一八六〇)年刊の長崎町版『和英商賈対話集』ではないかとしているが私の見るところ必ずしも論証に成功したとは言い切れぬように思われる。川田久長「本木昌造伝の訂正」(戦後『印刷雑誌』三六巻第一号、印刷学会出版部、昭和二八年所載)参照。私は三谷幸吉の輯めた「証言」との整合性からして、年来窃かに『和英商賈対話集』に続く本木の著作で長崎町版の『蕃語小引』を「蘭和通辨」の正体に擬してきた。

  また「榊令助」は「榊令輔」が正しいと一往考えられるが、十返舎一九も弥次郎兵衛−弥二郎兵衛−弥治郎兵衛、北八−喜多八を混用し、本木昌二にしろ咲三、笑三他六通りの表記を自ら用いていたというように(尤も古賀十二郎『贈従五位本木昌造先生略伝』[本木先生頒徳会、昭和九年]は、その内四通りを「誤りであらう」としている。ただし渡辺倉輔『崎陽論攷』は「しかし、これらの文字の相違は、いづれも「先生が自ら戯れに称したもの」でもなく、「本木小太郎が作つたもの」でもなく、「誤り」でもないと推する」とする)、江戸期の人士は介−助−甫−輔−佐の共用などお茶の子であったから必ずしも謬りであると言えるかどうか判じ兼ねるところ。

  なお園部昌良『「輿地諸略」に現れた明治初期の印刷版式』(印刷文化史資料研究会、昭和四二年)は「鉛活字」の条下の最初に「天保十一(一八四〇)年に榊綽は時計師勘右衛門の協力を得て、鉛活字によつて印刷を行つたことが、その日記に見えている(日本医事新報昭和三十年八月号)」と記している。この榊綽と勘右衛門とは市川斎宮の述懐に出てくる蕃書調所活字御用出役榊令輔(名は綽)と山本勘右衛門のことであろう。『日本医事新報』昭和三〇年八月の四冊(一六三二〜一六三五号)を繙いてはみたものの、連載記事「東都掃苔記」第五十回に榊保三郎(令輔の三男)の墓についての記事を見出したのみである。その記事によれば榊保三郎は大正五(一九一六)年に『故榊令輔後綽及室幸子略伝』なる著作を刊行しているが、「日記」とは或いは同書中に引かれたものでもあろうか。なお未だ同書に接する機会を得ぬゆえ、「天保年間(!)の鉛活字印刷」については大いに首を捻りつつ判断を留保する以外にない。

  さて牧治三郎「印刷文化史年表」第三五回(『印刷界』第二六七号、日本印刷新聞社、昭和五一年所載)には明治初年に至る蕃書調所・洋書調所・開成所系印刷技術の展開に関して次の文面が見られる。

  特に、藤堂和泉守の藩士榊令輔を新たに活字御用係出役に任命するとともに、古賀謹一郎方へ出入りの神田石町居住の時計師、山本勘右衛門という器用な男を手伝に雇った。さらに活字手伝出役堀田政次郎(敬直)、岡崎藩士中根鳳斎などの差図で軟鋼に字父を掘り、これを銅に打ち込んで字母を作り、鋳型も字母をはめ込むネジ止め装置を考案して、不足した欧文活字を鋳造した。この流込みによる邦文活字は、このときはまだ鋳造されなかったが、のちにこの方法によって、四号の幅で、天地のつまった活字を鋳造している。これが明治に入って、島、志貴、大関等の流込み活字へとつながるのである。

  しかしながら、この字父・字母の素材、鋳型を止める装置などについては恐らく『日本印刷大観』(東京印刷同業組合、昭和一三年)に於る蔵田清右衛門についての記事を託解ないし詑伝したものではなかろうか。実は、市川の述懐に登場する「器用な人」山本勘右衛門が明治初年、蔵田屋の店に参じているのである。『日本印刷大観』にはこうある。

  この蔵田氏の店に時計師勘右衛門といふ非常に器用な細工人が居て、開成所の活字と同様のものを造り出した。勘右衛門は先づ鋼鉄に字父を彫み、之を銅に打込んで字母を作つたのであるが、字母を鋳型に止めるのは極く小さい精巧な螺旋を用ひた。文字は四号の少し巾広のもので天地がやゝつまつてゐた。

  現存が明らかになっている確実な史料の内、近代最初の和文鋳造活字による印刷物は、大鳥圭介創製の活字を用いた縄武館(西洋流[元高島流]砲術の祖高島秋帆の弟子として著名な江川太郎左衛門英龍[坦庵]の息、太郎左衛門英敏に幕府が下賜した芝新銭座の砲術演習場、通称江川塾。安政四年から大鳥圭介は縄武館の教官であった)及び幕府陸軍所の刊行物群餘十数標目及び殆ど同時期の長崎町版の『蕃語小引』に見出される。

  これらに先行・並行して金属活字を用いた幕末の活版印刷物(長崎版、出島版、蕃書調所−洋書調所−開成所版、八王子秋山版、岡見彦三版など)は殆どが欧文活字のみを使用している。また電胎法で鋳造された三代木村嘉平の楷書活字は種字及び活字完成品の実物他諸材料などが遺されており、その十年餘に及ぶ粒々辛苦の末に活字製作が完了した年は元治元(一八六四)年ながら、活字製造に着手したのは安政元(一八五四)年で相当に早い(木村嘉次『字彫り版木師木村嘉平とその刻本』、青裳堂書店、昭和五五年、日本書誌学大系第一三巻、並びに『尚古集成館紀要』第二号、昭和六三年所載の田村省三「木村嘉平の活字及び諸道具類一式」参照)。


  大鳥圭介の縄武館版・幕府陸軍所版
  三谷幸吉や徳永直は諸稿で大鳥活字を鋳造活字ではなく鉛製彫刻活字或いは錫製彫刻活字と看倣しているが大鳥活字使用諸書の版面状態から推して凡そ認め難いところと言う外ない。また大鳥活字の料剤に関しては『築城典刑』及び『砲科新論』の凡例に「錫造ノ活字新鋳未完備セザルヲ以テ」云々とあり山崎有信『大鳥圭介伝』(北文館、大正四年)及び同書所載の「大鳥圭介自伝」も亜鉛・錫の合金としている。一方、大槻如電の鉛製説(大槻如電百本洋学年表』、大槻修治、明治一〇年参照)、更に後年のアンティモン添加記事(大槻如電『新撰洋学年表』、大槻茂雄、昭和二年)を享けつつ、これに『築城典刑』『砲科新論』各題言に誌される錫を併せて、川田久長が(鉛を主剤とする)鉛・錫・アンティモンの三元合金説を立てた。書誌学方面などでこれに従う向きも散見されるが、本来各々別のソースもしくは考証に由来する記事と看倣すべきであろう『日本洋学年表』の鉛と『新選洋学年表』のアンティモンを凡例文言の錫と合せていつのまにか鉛主剤型三元合金としてしまうのは傅会そのものであるという以上に、第一次資料とすべき凡例文言や大鳥本人の証言からではなく二次的三次的資料である大槻の記事から推論を出立させるのでは、そもそも文献考証の方法自体が根本的に問われざるを得まい(そもそも亜鉛はどこに蒸発したのであろうか)。

  私は、大槻の洋学年表には誤りが多い、だからこの箇所も怪しいといった濫妨な議論をするつもりはないが、それにしてもむしろ大槻の引くエピソードの信頼性を吟味すべきではなかろうか。この点、『季節』第一二号(エスエル出版会、昭和六三年)所載の拙稿「大鳥活字瑣攷 縄武館・陸軍所等の刊行物に用いられた大鳥圭介創製の活字を遶る諸説の梗概と問題点」は不徹底であった。拙稿「大鳥活字再考(一)〜(三)」(『タイポグラフィックス・ティ』第一四六号[日本タイポグラフィ協会、平成四年]〜第一四八号[平成五年]に分載)を参照されたい。

  縄武館、陸軍所から出版された兵学書は二十種類以上に及ぶが、そのうち大鳥の製造した活字を用いたものは『築城典刑』初版(縄武館、万延元年)、『砲科新論』初版(縄武館、文久元年)、『野戦要務』初版(陸軍所、文久三年)、『築城典刑』第二版(陸軍所、元治元年)、『砲軍操法』(陸軍所、元治元年)、『施条砲操法』(陸軍所、元治元年)、『歩兵制律』(陸軍所、元治二年)、『野戦要務』第二版(陸軍所、慶応元年)、『英国斯氏築城典刑』(陸軍所、慶応元・二年)、『火功奏式』(陸軍所、慶応二年)、『騎兵練法(騎兵程式)』(陸軍所、慶応二年)、『馬療新編』(陸軍所、慶応二年)、『手銃論』(縄武館、慶応三年)、『歩兵令詞』(陸軍所、慶応三年)などである。幕末期に於る和文鋳造活字による印刷物随一の威容と評して異論あるまい。

  版を重ねた書も何点かあり、『築城典刑』の初版・再版は大鳥活字を使用するが三版は大鳥活字使用本の覆刻整版であるという具合に中々ややこしい。福井保『江戸幕府刊行物』には更に、「その後、慶応元年に長門明倫館より木活字版で翻印された」とある(なお福井右掲書には再版と三版の見返の様式の相違についての記事が見られるが、国立国会図書館所蔵の覆刻整版本[三版]の見返は福井の記述する再版活版本の様式と共通している)。初版本は静岡県立図書館葵文庫他に蔵されており、阿蘭陀人百児(ペル)(C. M. H. Pell)の兵書を大鳥圭介が翻訳したもの。『福翁自伝』に、安政三(一八五六)年中津に帰郷中の福澤が奥平壱岐の所蔵する築城書を盗写し、翌年緒方洪庵の適々斎塾に於て同書を翻訳したという話が出て来るが、この築城書とは『築城典刑』の原書と同じもの。なお福澤訳は結局刊行されていない(『福澤諭吉全集』第七巻、岩波書店、昭和三四年に「ペル築城書」として収録されている)。福澤と同時期に適塾にあった大鳥が福澤の飜訳を知っていたかどうかは判然しない。なお『洋学ことはじめ展』(蘭学資料研究会、大久保利謙編輯兼発行、昭和二九年)の有馬成甫による解題に、『築城典刑』の改題本である慶応元(一八六五)年兵学校刊の『堡障略典』五巻に先立って広瀬元恭訳『築城新法』七巻が文久元(一八六一)年に出版されたとある。これも百児の同じ原著からの飜訳という(いずれも未見)。

  『築城典刑』に続く縄武館版第二書である『砲科新論』については書誌方面で興味深い未解決の問題が存在する。同書の初版・再版とも、版元は縄武館、刊記は文久元(一八六一)年一二月(同年四月序)。見返のみ「砲」を異体に作る。初版は大鳥活字による活版印刷、再版は翻刻整版である。

  朝倉治彦監修『日本書籍分類総目録』第一巻(日本図書センター、昭和六二年一〇月)に覆刻されている太史局編『新刻書目一覧』(明治四年四月[凡例末])中「ホ」の項に「砲科新論初編四冊大鳥圭介訳」とある。国立公文書館内閣文庫所蔵の四冊本ならびに国立国会図書館所蔵の四冊本(整版。巻之一から巻之四まで各巻一冊で太史局編『新刻書目一覧』と編冊数とも一致する)の存在から推察すれば、或いはこの「初編・四冊」セットの明治新刻版『砲科新論』とは、「文久元年再版本」すなわち再版整版本の第一編部分(つまり巻之一から巻之四まで)の後印というより、初版を翻刻した再版本そのものなのではなかろうか。またこの時期の再版・三版の縄武館版や陸軍所版整版本は活版をかぶせ彫りした覆刻であって、この「文久元年再版本」の如き体裁の翻刻整版本は他にない。内閣文庫と国会図書館の二セット以外の整版本が管見に入らぬ以上、私としては整版本は第一編四冊しか作られなかった可能性を無視し難い。すなわち国立公文書館内閣文庫や国立国会図書館が所蔵する〈文久元年版整版本〉なるものは、或いは文久の出版ではなく太史局編『新刻書目一覧』に掲載されている〈新刻〉の明治版初編四冊そのものに相当するものではあるまいか。

  なお『国書総目録』に『砲科新論』を「二編七冊」としつつ国立公文書館内閣文庫が四冊、京都府立総合史料館・高知県立図書館が各九冊の所蔵とするのは誤りで、内閣文庫本、京都府立総合史料館本とも目録には全七編、巻之一から巻之二十までの結構が記されており、京都府立総合史料館本はその内巻之一より巻之七まで各巻一冊の七冊である(高知県立図書館本は空襲で焼佚している)。『砲科新論』全巻の構成に関しては洋学史関係、印刷史関係、書誌学関係などでこれまで七編七冊、全七冊、七巻分冊、二十巻九冊など種々に書かれてきた。例えば川田久長「オランダ伝来の活版術」には「第一編・第二編計七冊を刊行した。(以下未刊)」とある。しかしながら後藤憲二編『近世活字版図録』所載の『砲科新論』(数年前古書市場に流通したもの)は存巻一〜七・十二・十三の九冊であって巻之七以降が存在することの確実である以上、実際に巻之一の目録通り各巻一冊の二十冊が刊行されたのではなかったかとの疑念を消し難い(なお巻之十二・巻之十三は第四編の一部に相当するから、この一事だけでも『国書総目録』他の記載は更改さるべきである)。目録に巻之七までの内容が記されながら近年まで巻之二までの存在しか知られていなかった陸軍所版の『馬療新編」(伊東朴斉訳、大築保太郎閲。慶応二年初冬。大鳥活字使用)の巻三以降巻七まで(欠巻あり)が平成二(一九九〇)年夏に神田古書会館の古書市(東京古典会)へ出品されて驚かされたが(現在青裳堂書店所蔵)、『砲科新論』に関しても同様の僥倖が期待されるところである。

  『築城典刑』とともに今回展示された『歩兵制律』は阿蘭陀書を開成所教員川本清一(著名な蘭学者川本幸民の長息)が飜訳したもの。縄武館・陸軍所の活版本のうちで唯一漢字平仮名交り組版を行った標目である(他はすべて漢字片仮名交り)。なお私は本書の組版状態自体(とりわけ平仮名活字の字態)が、大鳥活字が紛れもなく鋳造活字であったことの決定的徴証を提供するものと考えている(前出の拙稿「大鳥活字瑣攷縄武館・陸軍所等の刊行物に用いられた大鳥圭介創製の活字を遶る諸説の梗概と問題点」参照)。


  本木昌造の長崎町版
  幕末に本木昌造が製造した鋳造活字を用いた書物としては『和英商賈対話集』(挿図3)『蕃語小引』(挿図4)『永久版コムリーズ・リーディング・ブック』(EIKEU'S EDITION COMLY'S READING BOOK.)の三種四冊が今日確認される。

挿図3 『和英商賈対話集』 挿図4 『蕃語小引』

  『和英商賈対話集初編』(英文標題『A new/ FAMILIAL PHRASE/ of the/ ENGLISH and JAPANESE LANGUAGES/ GENERAL USE/ for the/ MERCHANT/ of the/ BOTH COUNTRIES/ first parts』)は長崎人塩田幸八の名義による出版で、安政六(一八五九)年一二月刊行。書名は題簽による。「初編」とあるが「続編」の存在は確認されていない。『国書総目録』『マイクロフィルム版初期日本英学資料集成』(雄松堂フィルム出版、昭和六二年)などに『和英商売対話集』とするのは誤り。本書が本木昌造の出版活動の一環と看倣されるのは、本書と同じ判型(美濃二つ切の横本で右袋綴という変則的なもの)、同じ本文規格の刊本『蕃語小引 初編数量篇』(英題『JAPANESE TRANSLATION/ of the/ ENGLISH and DUTCH. /with pronounceation.』、蘭題『JAPANSCHE VERTALING/ van het/ENGELSCHE en NEDERDUITCHE./ met uitspraak.』。ただし判型等が同じであっても『和英商賈対話集』は通常の貼題簽[整版]であり『蕃語小引」は表紙に直に標題や片仮名とアルファベットによる音図などを活版印刷している)が、長崎人増永文治・同内田作五郎を書肆として『和英商賈対話集初編』出版の翌年すなわち万延元(一八六〇)年一〇月に出版されており、而してこの増永文治(義寛)が実は本木昌造に名義を貸していたという史料が存在することによる。

  英文及び片仮名の振仮名、ノンブルは鋳造活字を使用、和訳部分は整版で重刷されたものである。本書の二度刷に関しては川田久長が触れているが(ただし川田は『活版印刷史』では「和洋の木活字」とし、『蘭学資料研究会研究報告』第七三号所載「オランダ伝来の活版術」、蘭学資料研究会、昭和三五年では「木版摺り」と謬っている)、名雲書店現蔵本では欧文・片仮名活字の部分と整版部分の墨色が相当に異なり、一部に両者重刷の部分が観察される(『幕末明治期文献目録』平成三年第一号、名雲書店、平成二年参照)。『天理図書館稀書目録』(天理図書館、昭和二六年)の記述にも「四辺の匡郭頁付英文及びその発音は木活字、対訳は整版なり、まづ木活字によりて印刷し、対訳の部を整版にて刷り足したるなり」とある。従来『和英商賈対話集』、『蕃語小引』に関しては右の天理図書館目録の如き説明ばかりではなく、鋳造活字説、木活字説、整版説、木活字と整版の混用説などが行われてきた。かように考証が一定することを得なかったのは、一つには伝存資料が稀観である為に(取分け『蕃語小引』上巻は京都市立西京商業高等学校図書館平野文庫に一冊を確認し得るに過ぎない)研究者がその紙面に接することが困難であったことにもよろう。私は幸甚にも両書及び『蕃語小引』平野文庫所蔵本を詳細に検べる機会を得、右の諸点を晰かに確認し得ることとなった。粗笨にして後に知ったが『印刷雑誌』第七二巻第一号から同巻第二号(平成元年)にかけて連載された桜井孝三「幕末における本木昌造の書物と活字」もやはり『蕃語小引』に用いられたのが鋳造活字であり、『和英商賈対話集』の英文部分が金属活字版、和文部分が整版であるとしている(ただし桜井は『和英商賈対話集』の振仮名が鋳造活字であるとはしていない)。

  なお大阪女子大学附属図書館編『大阪女子大学蔵 日本英学資料解題』(大阪女子大学、昭和三七年)中、『和英商賈対話集』の項に次の一文がある(渡辺実・川端善明執筆)。

  なお本書は、明治2年に「和英対訳商用便覧初篇」として再版されている。「大島(ママ)蔵板」。本長崎版は第1葉オから第2葉オまでの3頁に亘る凡例があって、その第2葉オは、「一、片椅タルモノハ…」で始まる文があって、「安政六己未九月」の日付があるが、明治2年の「商用便覧」は、その一頁分だけを取り捨てている。蓋し、本長崎版の表紙と、見返し内題をつけかえ、その第2葉を切り取って、新な装いのもとに売出したのであろう。幸なことに、2ウにあたるところは、元来白紙であるから、一葉分を取り去れたのである。けれど、本長崎版の3オ、即ち「便覧」の2オは、もとのままの英語内題を残すから、「Sixth year of Ansay, December 1859」の文字も残ってしまっている。

  ところで国語学会編『国語学』第五二号(武蔵野書院、昭和三八年)所載の松村明による書評「日本英学資料解題」では『蕃語小引』について触れた上で「家蔵「和英蘭対訳商用便覧」初篇・二篇の二冊本(明治二年刊)はその再版で、内容は「蕃語小引」初篇上下と同一である」とされている。書名が違うばかりか『和英商賈対話集』の後修本ではなく『蕃語小引』の再版二冊本であるとする。これでは訳が分からぬと言う外ないが、実はこれは松村の勘違いであったらしい。すなわち松村明『洋学資料と近代日本語の研究』(東京堂出版、昭和四五年)によれば以下の如くである。

  和英商賈対話集 初篇』は、明治二年(一八六九)に『和英対訳商用便覧 初篇』の書名で再版を出している。再版では、見返しに、右の書名のほか「明治二巳年発兌、大鳥蔵版」とあるが、初版本の奥付に見られた「発行、長崎下筑後町、塩田幸八」の刊行者はけずられている。(後略)

  なお豐田實『日本英学史の研究』新訂版(千城書房、昭和三八年。旧版は岩波書店、昭和一三年)にも『和英対訳商用便覧初編』(大鳥蔵版)の内容は安政六年の『和英商賈対話集初編」と全然同一である」とされている。また国立国会図書館編『上野図書館開館八〇年記念出版文化展示会目録』(国立国会図書館、昭和二七年)の年表で『和英対訳商用対話』とされるのは『和英商賈対話集』の誤り。

  次に、『蕃語小引』は上下二冊だが右にも触れたごとく上巻を所蔵するのは京都府立西京商業高等学校平野文庫のみ。遺された史料から本木の関与が晶簸対話集』とともにほぼ確実と考えられる。

  古賀十二郎『贈従五位本木昌造先生略伝』(本木先生頚徳会、昭和九年)より引いておこう。

  蕃語小引は、表向きは「長崎麹屋町書肆増永文治」とあるが、実は本木昌造先生の発行であることを十分に証明し得る資料がある。古賀十二郎所蔵。増永文治の自筆に係る「自天保三辰年至文久三亥年諸事凡書留」に蕃語小引の事が記してある。増永文治は、萬延元庚申年四月中、本木昌造先生の頼みにより、自己の名義を貸し、自己の名義にて、蕃語小引上下二冊(代金壱分)出版の願書を年番所へ差出し、同年七月十七日に至りて官許を得た。此事実にて、蕃語小引は確に本木昌造先生の著述であり、又其の発行である事が判明する。

  なお増永文治の「自天保三辰年至文久三亥年諸事凡書留」(渡辺倉輔『阿蘭陀通詞本木氏事略』『崎陽論孜』によれば「増永義寛書上天保三年辰三月より文久三年亥年迄諸事凡書留」。長崎県立長崎図書館渡辺文庫に「〔諸事凡書留〕」の名で存在が記されている)、万延元庚申の条を渡辺倉輔から重引しておこう(原文面は無点)。

  本木昌造殿より名前借被相頼、左之書付町内役場浅井へ願出る、但近年、慎平儀貸本致居候、事柄ニ寄被相頼候、乍恐奉願口上書、百田紙認、一蕃語小引、上下式冊、但行板、右は此節仕立方仕売弘申度奉存候間、御許容被成下れは、難有仕合奉存候、依而書物井代銀書相添此段奉願候、以上、万延元年申四月、麹屋町家持、増永文治、印、御年番所、前書之通願出候ニ付奥印仕候、月、乙名、浅井泰作、印覚、半切認、一蕃語小引、上下弍冊、代金壱分、右之通ニ御座候、以上、申四月、増永文治、印

  また『和英商賈対話集』の出版名義人塩田幸八も本木昌造と縁のあった人であった。福島成行『吉田東洋』(福島成行、大正一五年)より寺田志斎の日記の一節を引いておこう。

  安政元年七月、長崎の通訳本木昌造、公用を帯び下田へ来るの途次、転じて江戸へ入る。八月廿九日豊信昌造を召して海外の事情を聞き、携ふる所の蒸気船の模型を見、随従の工夫幸八に命じて、更に模型を造らしめ、幕府に請ふて試運転を為す。是れ江戸に於て洋式船舶の製造の濫觴なり。(中略)
朔日○安政元年閏七月晴天。九過ニ退ク。遠江守様御出ニ付、八頃再出勤。直ニ退。長崎塩田氏幸八ト之有、蒸気船雛形持出、於馬場御覧アリ。実ニ奇ト云フベシ。右見物ニ暮前出、日暮テ退。四日晴。四ニ出。今日長崎訳官本木昌造蒸気船雛形持出御覧、昨朔ニ上リタルヨリハ大ニシテ仕形モヤ精密也。(下略)

  なお長崎大学経済学部が所蔵する「蕃語小印」なる書の書影を田栗奎作『長崎印刷百年史』(長崎県印刷工業組合、昭和四五年)の口絵に見ることが出来る。同書の表紙に貼られた書き題簽には行書で「長崎版会話集」とある。そのキャプションは「仮名の活字は『和英商売対話集』と共通するが漢字の活字は別物である」とし、書名として「蕃語小印(日英蘭会話集)」を掲げてしまうなど、誤解の上に誤解を架した記述になってしまっている。実は同口絵の写真上二葉は『和英商賈対話集』の原題簽が剥落し手書した題簽を貼り付けた表紙と本文であり、下の写真は九州大学図書館筑紫文庫所蔵の『蕃語小引』下巻の標題紙に外ならぬと思われる。

  なお『蕃語小引』と殆ど同じ欧文活字を使用した長崎町版として、文久元(一八六一)年の三月ないし五月(万延二年は二月一九日文久に改元しているが同書の標題紙では「2d Year of BANEN./ March 1861.」とされている)に刊行されたジョン・コムリー(John Comly)の英語読本の翻刻本(『EIKEU'S EDITION./ COMLY'S READINGBOOK./ adapted to the use of/ PUBLIC SCHOOLS.』)がある。「EIKEU」とは「本木永久(昌造)」の「永久」の欧文表記として間違いあるまい。竹村覚『日本英学発達史』(研究社、昭和八年)並びに同人『日本英学史』(英語英文学刊行会、昭和九年)より引いておこう(いずれも同文)。

  活字も読本式に相当大きな活字を用いてあるが、もつと珍しいことには、全文その活字は鉛製活字であり、その扉にEIKEU'S EDITIONとあることである。EIKEUは即ち「永久」のことで、「永久版」の意味である。詳しく言へば、近世日本印刷史の鼻祖本木永久が印刷した英語読本である。

  出版人は『蕃語小引』と同じく増永文治と内田作五郎。標題紙の刊記では万延二(一八六一)年三月(ただし万延二年は二月一八日までで翌一九日以降は文久元年である)出版。こちらの判型は『和英商賈対話集』、『蕃語小引』の天地と左右を入れ換えた通常の中本で、原装本ではないが早稲田大学図書館洋学文庫(勝俣鐙吉郎旧蔵書)に一冊の所蔵が確認されている(本体は蟲蝕が著しいため全体に裏打ちによる補修を施し表紙の釘装も改められている)。按ずるに、刊行時がほぼ一致することから見て増永文治が『蕃語小引』に続いて五月に出版の届けを番所に差し出している『空蝉艸紙』なる書物(増永文治の「自天保三辰年至文久三亥年諸事凡書留」[長崎県立図書館所蔵]、古賀十二郎『贈従五位本木昌造先生略伝』、渡辺倉輔『阿蘭陀通詞本木氏事略』、同人『崎陽論孜』参照)の正体が恐らくこの『コムリーズ・リーディング・ブック』ではなかろうか。なお本書は本邦初の英語読本と思われる。

  『蕃語小引』は欧文・和文・振仮名のすべてが鋳造活字である。また『和英商賈対話集』と『蕃語小引』の欧文活字の大きさは一致するが母型は違うものの方が多く、一方『蕃語小引』と『コムリーズ・リーディング・ブック』の欧文活字は少くとも殆どが同じ母型から鋳造されたものと思われる。また欧文活字でこれら長崎町版に用いられたものと同じものは同時期の出島版諸書等には見当らない。これらの長崎町版の匡郭は整版ではなく一辺ずつの組合せによる活版の囲み罫である。

  先にも触れたように『コムリーズ・リーディング・ブック』は、刊行年月がほぼ一致することからして、古賀十二郎『贈従五位本木昌造先生略伝』、同『長崎洋学史』(長崎学会編輯。[長崎]長崎文献社、昭和四二〜四三年四月[続編])、渡辺倉輔『阿蘭陀通詞本木氏事略』、同『崎陽論攷』などに増永文治が同年五月九日年番所へ判本仕立方を届け出たとされる刊本『空蝉艸紙』に相当している可能性が高いと思われる(昭和初年に勝俣銓吉郎が入手して現在早稲田大学図書館洋学文庫に収蔵されている『コムリーズ・リーディング・ブック』は原装本ではなく恐らく勝俣が購入する前に表紙を海老茶の厚手の紙に附け替え更めて綴じ直したものである。本文の裏打ちを含め同書を扱った古書肆巖松堂書店の手による改装であろう)。『崎陽論攷』より「増永義寛書上天保三年辰三月より文久三年亥年迄諸事凡書留」の文久二年五月九日の条を左に引いておく。

  同日、本木昌造殿より被相頼、空蝉艸紙判本仕立方願立御相談ニ付、前蕃語小引之振合を以町方へ願出ス

  この『コムリーズ・リーディング・ブック』の喉側ノンブルに用いられたやや扁平な漢字活字も『蕃語小引』の頁付漢字活字と共通するが、同書の場合、欧文以外の活字は漢字の頁付のみ、また『蕃語小引』の前年刊行された『和英商賈対話集』に用いられた鋳造活字は欧文以外には振仮名の片仮名活字のみで、いずれにも漢字仮名交りの鋳造活字組版の文字列は存在しない。

  さて阿蘭陀ハーグのマルティヌス・ニーホッフ(Martius Nijhoff)及び英国ロンドンのトリューブナー(Trübner & Co.)によって一八六一年に刊行された書に『Winkelgesprekken In Het Hollandisch, Engelsch En Japansch.// Shopping-Dialogues In Dutch, English And Japanese.』(挿図5)というものがある。内容は『和英商賈対話集』に蘭文を附したものだが、同書に用いられた明朝体活字及び片仮名活字は阿蘭陀植民省の活字である(標題紙裏の蘭文に‘Gedruct met de Chinese en Japanese drukletters van het Departement van Kolonien.’とある)。これら一九世紀欧洲の明朝体活字については差当り、『タイポグラフィックス・ティ』第一〇四号(平成元年)所載の「黎明期明朝体活字稿」、同誌第一一八号(平成二年)所載の「摸索期明朝体活字稿」、『武蔵野美術大学研究紀要』第二三号(武蔵野美術大学、平成四年)所載の「一九世紀ヨーロッパ・中国での明朝体金属活字の開発、そして日本への伝播」、『印刷史研究』第一巻第一号(印刷史研究会、平成六年一〇月)所載の「分合活字Divisible Type 史稿」など小宮山博史の一連の論攷を参看されたい。

  『和英商賈対話集』(や『蕃語小引』−本稿後段参照)をJ.J.ホフマンの許へ送ったのは、自著『日本文典』(Proeve Eener Japansche Spraakkunst)にホフマンの補訂を施して一八五七年に刊行([阿蘭陀ライデン]A・W・シーホッフ[A. W. Sythoff]印行。同書蘭文中に混植される聊か拙劣な漢字活字は恐らく一点ものの彫刻活字、頻用される片仮名活字[トゥー・ライン・ブレヴィエか]は瞭かに鋳造活字である。『印刷雑誌』第七四巻第六号、印刷学会出版部、平成三年所載の拙稿「近代印刷史研究の新しい話題をめぐって[一]」に『Winkelgesprekken In Het Hollandisch, Englisch En Japansch.// Shopping-Dialogues In/ Dutch, English And Japanese.』の片仮名活字と『日本文典』の片仮名活字を同じものとしたのはケアレス・ミスであった)している出島商館長ドンクル・キュルティウス(J.H. Donker Curtius)であったと思われる。

挿図5 Winkelgesprekken In Het Hollandisch, Engelsch, En Japansch.

  ところで一九世紀欧洲製の仮名活字(或いは『日本文典』に遣われたものと同じ活字かとも思われる)がキュルティウスによって将来された形跡が存在する。古賀十四郎『長崎洋学史』を、キュルティウスの業績の一端を窺える記述ともども引いておくこととしよう。

  なお閣老阿部伊勢守は、甲比丹ドンクル・キュルシュスJ.H. Donker Curtius を経て、洋活字、銅版、其他一式の品々を蘭国へ注文すべき旨、長崎奉行荒尾石見守、川村対馬守、両名へ命じた。そして、蘭通詞本木昌造は、活字板摺立方取扱掛を命ぜられた。
それから甲比丹ドンクル・キュルシュスJun Hendrik Curtius は、蘭国製の日本片仮名活字板拾枚並に活字手本一包みなどを提供した。長崎往来、安政二乙卯年十一月七日、往の条に、次の記事がある。
和蘭国ニ而致製作候日本片仮名字活字版拾枚並活字手本一包、右ニ付申立候甲比丹横文字並和解共、貮通、差上之。
甲比丹ドンクル・キュルシュスは、長崎に於いて洋書復刻のためばかりでなく、なほ漢字や日本仮名字を用ひて、遠西学術に関する飜訳書、邦人の自著などを上梓する機会を作り、以て文化の開発に貢献す事に力を尽くした。
其の外、蘭書復刻の実現に就いては、阿蘭陀通詞品川藤兵衛、楢林量一郎、本木昌造、北村元助なども、いろゝゝ奔走したことであろう。

  幕末に阿蘭陀より将来された和文活字類に就ては差当り『印刷雑誌』第七四巻第九号(平成三年)に所載の拙稿「近代印刷史研究の新しい話題をめぐって(四)」の「附記」を参照されたい。


  東京国立博物館蔵の活字父型・母型・活字について
  さて明治三四(一九〇一)年一一月に東京築地活版製造所の野村宗十郎が「安政四五年の交」のものとして帝室博文館に献納した「鋼鉄製(同館目録では「銅鉄製」とされている)活字版」(「太」「秩」)「真鍮製活字原版」(「銀」「版」)「銅製活字母型」(「仁」「譫」)各二本が、今日東京国立博物館に蔵されている。いずれも明朝体。創業者本木昌造の遺品として築地活版に保存されていたものであろう。小宮山博史・森啓・後藤吉郎・高内一他の各氏等と私によって平成五(一九九三)年七月及び翌平成六(一九九四)年六月の二度にわたりマイクロ・メーター、デプス・メーター、撮影機材一式等を持ち込んで調査が行われた。私なりに止目すべきと思われる視点を纏めておこう。

  第一に、「鋼鉄製活字原版」は尾部に打込みの痕跡が存在し、瞭かにパンチ父型である。鋼を焼きなまし鏨で彫刻して焼入れを施したものであろう。また「銅製活字母型」は電胎法によるガラ母型そのものである。母型二本とも背面には流込み鋳造時の弦撥条によると思われる痕がある。銅のガラを恐らくは亜鉛により裏打ちし鏨で真鍮のムク材にカシメたもので、手際は不味く真鍮材の厚みも凡そ一律ではないが基本構造としては後代の電胎活字母型と全く変るところがない。すなわち「鋼鉄製活字版」と「銅製活字母型」は全く別の系統ないし世代の活字製造技術によって造作されたものであり、随って恐らくは製造の年代も異にするものであろう。従来、本木が蝋型電胎法を習得したのは明治二(一八六九)年末頃にウィリアム・ガンブルを長崎に招いての伝習以降のこととされている(矢作勝美『活字−表現・記録・伝達する』所載、「ウィリアム・ガンブルの来日を記録した公文書」、出版ニュース社、昭和六一年参照)。またガンブルが電胎法による活字製造に着手したのは一八六〇(万延元)年のことである。寄贈時の野村の「安政四五年の交」という文面は少くとも「銅製活字母型」については根本的に疑われて然るべきであろう。

  第二に「真鍮製活字原版」であるが、尾部に鋳造時の鬆が明瞭に観察され、字面部に彫刻の痕跡等はない。すなわちこれは鋳物そのものに外ならない。「真鍮製活字父型」という代物や「鋳造による父型の複製」というのも考え難いところで、この二本は「原版」ではなく真鍮製の活字そのもの、恐らくは幕末に於る本木の試行錯誤の過程の中で造り出された活字であったのではあるまいか。なお、より早く「鋼鉄製活字版」を父型、「真鍮製活字原版」を活字と推定したものに桜井孝三「幕末における本木昌造の書物と活字(1)」(『印刷雑誌』第七二巻第一号所載)がある。

  第三に書風であるが、いずれもガンブルが携えてきたはずの一号大(ダブル・パイカ)以下の上海活字や香港活字とは明確に相違する。「秩」「譫」はやや右上りであり概して構成は拙劣、すなわちいずれも上海や香港製の漢字活字を模製する以前の製品ないし試作品と考えられよう(ただしガラ母型の「仁」は初号よりやや大きい大字であるから、より後年の試作品である可能性もある)。「版」「銀」等が『蕃語小引』の漢字活字とほぼ同じ格である点は興味深いところだが、残念ながら『蕃語小引』中に「版」「銀」が出現しないので比較不可能である(しかしながら『蕃語小引』の漢字活字は書風上の安定性を欠いているから「似た」書風は慥かに存在する。ともあれ『和英商賈対話集』や『蕃語小引』に用いられた拙劣な欧文活字や和文活字が真鍮製の活字であった可能性は否定出来ない)。パンチ父型は確実にガンブル渡日以前のものと思われる。

  以上すなわち、これらの活字や父型・母型は、本木の試行錯誤の諸過程で、それなりの時日を隔てて別途に製造された遺品が混在しているものではないだろうか。高野久太郎『活版印刷術』(高野久太郎、大正四年)に野村宗十郎からの取材として、本木が「真鍮に彫つて鉛を打込み、鋼鉄に彫つて鉛を打込み」試行錯誤を重ねた云々とあるのは、築地活版の社中にそのような伝聞が存在していたことによるのか、帝室博物館に献納した「鋼鉄製活字版」や「真鍮製活字原版」の存在から野村が臆測したものか、最早詳らかとはなしえない。なお我々による調査の報告として、『武蔵野美術大学平成五年度共同研究報告書−活字書体の変遷と書体系譜の研究(その一)』(武蔵野美術大学、平成七年)所載、小宮山博史「国立博物館収蔵の本木永久製活字父型、母型の実測」がある。


  『長崎県職員録』などについて
  さて牧治三郎「活版印刷伝来考=六」中の「鉛活字鋳造の揺藍時代」(『印刷界』第一五三号所載、昭和四一年)に、明治二(一八六九)年出版された『長崎県職員録』(未見)に用いられたという「四号大の楷書活字」、翌明治三(一八七〇)年秋に出版された『改正長崎県職員録』に遣われたという「二号と三号の中間大の楷書活字」についての記事がある(明治三年版の『改正長崎県職員録』及び同年版『長崎県職員録』[書名は巻頭による。裏表紙見返部には「津田氏蔵/第二号」と書込があったらしい。未見]両書のペン書きによる「写本」が長崎県立長崎図書館渡辺文庫にあるが、原型の詳細は測り難い。しかしながら同図書館森文庫には『改正長崎県職員録』の原本が収蔵されていて、照合してみると渡辺文庫の写本『改正長崎県職員録』と完全に対応する)。私は森文庫蔵の『改正長崎県職員録』を実見しておらずマイクロフィルムからの複写を持っているだけであるから断定するを得ないが、同書複写を見るに慥かに一見活字版風の刷ムラも観察されるものの、「権少属」「権大属」他に文字の入込みがあって金属活字を含む活版印刷とするにはかなりの躊躇を覚えざるを得ない。尤も木活字版の職員録や官員録の場合、職名等に聯続活字を用いた例も極めて多いからこれだけで整版とするわけにはいかないが、他にも「医学校」の項「長与大学少博士」「吉武大学中助教」「山脇大学少助教」、「振遠隊」の項「薬師寺益三郎」などに入込みがあることは無視し得ぬところである。

  また印刷史家の一部で『崎陽雑報』(長崎新聞局、致遠閣発兌、慶応四年八月創刊)の表題若しくは木活字を三代木村嘉平が彫刻したという推測もなされたことがある(三谷幸吉『本平木野昌富造二詳伝』、本平木野昌富造二詳伝頒布刊行会、昭和八年、牧治三郎「鉛活字鋳造の揺藍時代」及び田栗奎作『長崎印刷百年史』など参照)。牧は『崎陽雑報』を木活字と流込み活字の「乱れ版」としている。私は同紙第一号から第一三号迄の複写を一揃い持ってはいるものの、印象としては一往通説に従って木活字のみによる組版であろうと考えてきたが、最近、第一号及び第二号を実見する機会を得た。やはり木活字版であろう。また三谷は『本木昌造平野富二詳伝』で「鉛の彫刻活字」なるものに触れているが、木村嘉平が金属活字の彫刻を行ったというのは極めて疑わしい。

  註 明治元年に長崎裁判所(現在の県庁)にも活版部があつた。然し其所では鉛の彫刻活字とか、木活字の曲尺二分角のものを使用して居た。さうして木村嘉平なるものが専ら彫刻に当つて居た。即ち明治元年(慶応四年三月発布)「太政官訓諭」の柱に「長崎裁判所、木村嘉平刻」とあり、文字の書体は楷書。(西谷常太郎氏所蔵)

  また『中外新聞』について、石井研堂『明治事物起源』第二版(春陽堂、大正一五年一〇月)に「最初は木活字版なりしが、後には活版を以て刊行するに至れり。東京に於て、鋳造活字を用ひて印刷したるは、大鳥氏(活版の始の條下に詳なり)の著書を除きては、此新聞を以て噛矢とす」とあるのは問違いである。尾佐竹猛『新聞雑誌の創始者柳河春三』(高山書院、昭和一五年一〇月)によれば、この木活字は『中外新聞』の廃刊後、「文部省の保管となり、同省より教育博物館へ出品してあったが、其後同館より柳河家へ下附となり、永らく同家に蔵せられてあったが、先年洪水の難に遭ひ悉く流失したとのことである」という。蕃書調所の『バタヒヤ新聞』に遣われたのは晰かに木活字であり、この木活字は後に柳河(柳川)春三の『中外新聞』(上州屋惣七発兌、慶応四年二月創刊。一部は整版)、『官准中外新聞』(上州屋惣七発兌、柳河氏蔵板、明治二年三月創刊。一部は整版)、続いて『にせものかたり』(見返「叢書五十種之一/にせものかたり/柳園聚珍版」、奥附「明治二年己巳七月十日/官許/柳河氏蔵版/東京書肆 本町四丁目 上州屋惣七」。なお国立国会図書館所蔵本や国立公文書館内閣文庫所蔵本とは奥附を異にし年記のない異版もある。『近世活字版図録』、青裳堂書店、平成二年参照)に再使用されているが、いずれも『バタヒヤ新聞』の紙面と比較すると活字の劣化(摩耗)の痕が目立つ。また『柳のしづく』なる書物にも同じ木活字が流用されているという話を聞くが未見。


  『散花小言』について
  さて一つ気になる書物がある。古賀十二郎が触れて以降、川田久長、牧治三郎、田栗奎作らによって取り上げられているポンペ・ファン・メールデルフォールト(Johanne Lydyus Catherines Pompe van Meerdervoort)著、八木称平訳『散花小言』(表紙、内題とも「散華小言」に作る。ただし「花」は「華」の形声字であるから、本稿では先学諸家と同様に以下「散花小言」と統一しておく。『国書総目録』未載。申す迄もなく「花」とは天花すなわち天然痘のこと)である。この書が活字版で更にその組版が本当に鋳造活字によるものであれば長崎町版や大鳥圭介に先立って和文鋳造活字による書物が存在したことが確実になる。しかしながら川田、牧、田栗らの場合、大正年間に集成館で『散花小言』を実見したという古賀十二郎の記述(ないし川出久長の三次的或いは牧治三郎の四次的記述)に基づいて種々論じているに過ぎないのではないかと思われるのである。まず古賀十二郎『贈従五位本木昌造先生略伝』に於る『散花小言』に関する記事は次の条である。

  大正十二年五月下旬、予は、鹿児島の集成館にて、安政五年出島に於て刊行せる八木称平訳「散花小言」を一覧した。これは蘭医ポンペ・フアン・メールデルフオールトの原著を訳したもので、真に珍しい出版物である。この書には、漢字活字と片仮名活字が併せ用ひられてゐる。この散花小言なども、もとより本木昌造先生の監督の下に、邦人職工が印刷したものと考えたい。その外にも、ポンペ・フアン・メールデルフオールトが、自ら作った小著を、日本学生だちの中で最も優秀なるものに翻訳させ、それを出島の印刷所で摺り上げさせたのが、色々あらうと思ふが、予は未だ前記の「散花小言」以外のものを一覧したことがない。
予は、鹿児島の集成館にて、安政年間江戸神田の木版彫刻師木村嘉平の作った西洋活字を一覧した。

  これを典拠としてであろう、川田久長『活版印刷史』では、『散花小言』が「漢字と片仮名の活字版を以て、出島の「オランダ印刷所」において印刷刊行されており、しかもその実物が一冊鹿児島の集成館に現在保存されているということである。(中略)またその所用の漢字及び片仮名の活字が、鋳造活字であるか或は木活字であるか、私は「散花小言」の実物を見ていないためにこれを断定することを得ないが、いずれにせよその邦文活字の製作には、現場に出張を命ぜられておった本木昌造も全く無関係ではあり得なかったものと推定される」とあって、実物を見ていないこと、鋳造活字であるか彫刻活字であるか未詳とせざるを得ない旨が明言されている(「本木昌造伝の再検討[二]」、第二次『印刷雑誌』第二七巻第六号所載、印刷雑誌社、昭和一九年や「蘭書の翻刻とその出版」、『学鐙』第五二巻第三号所載、丸善、昭和三〇年にも同趣の記述がある)。これに対して牧治三郎「活版印刷伝来考=四」中の「幕末における印刷事業の勃興」(『印刷界』第一五一号、昭和四一年所載)では『散花小言』が流込法による鋳造活字を用いたものとされる。しかし牧が同書を実見して版相を分析したり新資料を得たというわけでもなさそうであるから、後掲する川田の論述からの託伝の所為と看倣すべきではないだろうか。田栗は牧の「流込活字」説をそのまま援用すると共に、『散花小言』の翻訳者八木称平が薩摩藩主島津斉彬の侍医であったことから斉彬の命を享けて活字を鋳造した三代木村嘉平との関係を示唆する迄にエスカレートする。

  また牧は『散花小言』の「漢字の一部と片仮名活字が海を渡って、オランダのヘーグで印刷された『蘭英日商売対話集』に用いられた」(牧治三郎「印刷文化史年表」第三四回。『印刷界』第二六六号、昭和五一年所載。なお「幕末における印刷事業の勃興」に於ても牧は同じ趣旨を記している)としている。この「蘭英日商売対話集」とは『和英商賈対話集』の項で先に少しく触れた『WINKELGESPREKKEN IN HET HOLLANDSCH, ENGELSCH EN JAPANSCH./ SHOPPING-DIALOGUES IN ENGLISH AND JAPANESE. 』のことであろう。川田久長『活版印刷史』には次の文面が見出される。

  (首略)安政五年(西暦一八五八年)に出島の「オランダ印刷所」で印刷された「散花小言」の組版に使われた漢字及び片仮名の活字と、この町版(『和英商売対話集』及び『蕃語小引』のこと−私註)の語学書に用いられた漢字及び片仮名の活字との間に、なに等かのつながりが存在するのではあるまいか。なお更に注目すべきことは「和英商売対話集」が海を越えてオランダに渡り、有名な日本語学者ドクトル・イー・ホフマンによって、西暦一八六一年(文久元年)に蘭、英、日三語対訳の「ショッピング・ダイアログ」として飜刻せられ、ヘーグの書肆マルティヌス・ニイホッフ及びロンドンの書肆トイブナー社から発売されたことである。

  牧はこれを基として一寸した勘違いから『散花小言』の活字自体が海を渡ったものとしてしまったものであろう。ところで川田は少くとも『和英商賈対話集』の紙面は実見した上で彫刻活字による組版としているのだが(天理図書館所蔵本『和英商賈対話集』は一時川田の架蔵したものであった。『天理図書館稀書目録和漢書之部第二』、天理図書館、昭和二六年に記されている通り『和英商賈対話集』同館所蔵本には「珍書顛家/久長清玩」の蔵書印が捺されている)、そうだとすると『散花小言』に用いられた「活字」(川田は実見していないと明言している)との間に如何なる関係を想定していたものであろうか。残念なことに川田の故人となった今日では詳細を知る由もなく、先に挙げた引用からすれば、出島の阿蘭陀印刷所(Drukkelerij te Desima)に出向していた本木が『散花小言』にも関与したかも知れないという臆測以上に出るものがあったとは考え難い。ところで矢作勝美は『明朝活字その歴史と現状』(平凡社、昭和五一年)に於て『WINKELGESPREKKEN IN HET HOLLANDSCH, ENGELSCH EN JAPANSCH.// SHOPPINGDIALOGUES IN ENGLISH AND JAPANESE. 』(矢作は英題のみを掲げている)に於る「御」の字体を「どうしてこのような略字になったのかわからない」としているが、実は何のことはない、『和英商賈対話集』に見出される「御」が全く同じ字体であり、更に漢字の字体ばかりでなく種々の「発音記号」や勧促音の右寄せなど特有の工夫を凝らした表記法も『和英商賈対話集』に傚ったものである。この点には私よりも遥かに早く川田が気付いていたことになるのではないか(川田も『WINKELGESPREKKEN IN HET HOLLANDSCH, ENGELSCH EN JAPANSCH...』を架蔵していたことは戦後『印刷雑誌』三六巻第一号、昭和二八年に川田が執筆した論攷「本木昌造伝の訂正」によって明らかである)。ページによっては、この「御」が通常の「御」と共に混用された例も見られる。他に例えばJ・J・ホフマンの『A JAPANESE GRAMMER.』及び『JAPANISCHE SPRACHLEHRE.』(いずれも[阿蘭陀ライデン]E・J・ブリル[E.J. Brill]、A・W・シイホッフ、一八六八年八月[五月序]。『JAPANISCHE SPRACHLEHRE.』には一八七七年、E・J・ブリル刊の第二版[一八七六年再版刊行者記あり]もある。なお『和英商賈対話集』ばかりでなく『蕃語小引』も阿蘭陀へ齎されていたことは『JAPANISCHE SPRACHLEHRE.』の.‘Hoofdst. IV. Telwoorden. §45’の項の註に「蕃語小引 ,,Japanese verteling van het Engelsch en Nederduitch met uitspreak. Getellen. Eerste deel, No.2. Nagasaki,Iste jaar van Man-en, October, 1860.」云々とあることからも瞭かである)にも、異体活字の「御」が遣われている。なお『活版印刷史』の後に川田が誌した「オランダ伝来の活版術」では『和英商賈対話集』が和文・欧文ともに「木版」によるものとされている。その時点ではもはや『散花小言』との「関係」など想定し得べくもなかったであろう。

  さて私は、尚古集成館より『散花小言』巻頭部の写真紙焼と複写を頂戴することが出来た。複写だけであるから断定的なことは申し難いが私の目には同本を整版としてほぼ間違いないように思われる(一見木活字版とされる例に地方版や素人版の類があり、その版相に活字風のムラがあっても実は整版であることが多い。嘗ては刷ムラの甚だしい版相について安易に活字版とする例があったものだと屡聞する)。鋳造活字説は誰の眼にも問題となるまい。先に引いた古賀の文に『和英商賈対話集』、『蕃語小引』、『散花小言』についてはただ「活字」とし、三代木村嘉平の活字については小字の註の中で「西洋活字」としていることに留意するならば、古賀も三書については木活字版と看倣したものであろう。問題は『散花小言』巻頭の「紀元一千八百五十八年於日本出島舘版行」(序にも「紀元一千八百五十七年十二月二十日我安政四年十一月五日於出島ポムペ、ハン、メールデルホールト識」とある)なる一節である。思えばこの一行故に古賀から田村省三(「木村嘉平の活字及び諸道具一式」に『散花小言』を「長崎出島のオランダ印刷所で印刷されたものではなかろうかと推察する」としている)に至る迄、同書を安政五(一八五八)年刊の出島版と考えて怪しむところなかったのである。

  ところで出島版には、餘り知られぬが、ポンペ著の種痘書『Korte beschouwing der pokziekte en hare wijzigingen, in verband met de voorbehoedende koepok inenting.』が存在する(安政四年一二月二〇日序。同書の存在に関説したものに『日本医事新報』第一七七九号、週刊日本医学新報社、昭和三八年所載の中野操「ポムペの種痘書について」、川田久長「オランダ伝来の活版術」、それに福井保『江戸幕府刊行物」、神崎順一「天理図書館所蔵の長崎版並びに出島版について」などがある)。まず福井保『江戸幕府刊行物』を引いておくこととしよう。

  右の『痘瘡および牛痘接種法』一冊は本文一五頁、序文二頁、本の大きさ縦一九糎、横一一・八糎の小冊子であって、その標題紙にはJapan, ter Drukkelerij te Desima, 1858. の刊記と、Nagedrukt te Jedo, Anno Ansei 5. の刊記と、同年の二つの刊記がある由である。中野操氏は後者の「江戸」を長崎の江戸町と解し、出島の印刷所で印刷したものを、さらに活字判摺立所で再印したものかとし、川田久長氏は本の体裁が後掲の『西洋武功美談』とよく似ており、印刷が精巧なので出島の印刷所で組版し、その版を直ちに江戸の蕃書調所に送って印刷したものと推定している。そのいずれであるか決しがたい。未見。

  神崎はこの二つの刊記について次のように解釈している。

  本書は異なる刊記があることで知られているが、このような印刷と製本の形態から、Japan, ter Drukkrij te Desima, 1858. が、出島印刷所において活字を組んだことを示し、Negedrukt te Jedo. Anno Ansei 5. が、江戸町宿老会所内において印刷と製本をしたものと解釈してほぼ間違いあるまい。

  同書は未見であるが、小冊子であることと刊行年、更に序文の日付の一致、序文と本文の分量比から推してこの書が『散花小言』の原書に相違なかろう(なお中野操はポンペ種痘書の和訳本として『散花小言』の他に杉享二訳『蘭客種痘談』、柳川春三訳『除痘約言』、同じく『牛痘新説』、更に箕作院甫訳『種痘篇』の名を挙げている。『国書総目録』は「新撰洋学年表による」として『除痘約論』を数えるが『牛痘新説』、『種痘篇』は収めない。なお『蘭客種痘談』は『善那氏種痘発明百年紀念会報告書』、善那氏種痘発明百年紀念会、明治三〇年に「万延年間 写本(帝国大学図書館御蔵)ポムペの原著種痘説を翻訳せしもの」とされる。いずれも未見)。そうだとすれば件の一行は何のことはない、原書の刊記の最初の方‘Japan, ter Drukkelerij te Desima, 1858.’の直訳そのものではないか。かくして八木称平訳整版本『散花小言』は、践に「庶幾千有余年之深害一時消歌、生民之幸何以加之、此亦公之意也、安政戌午春三月、薩藩医員臣八木謙謹識」(原文は無点)とあることからしても(出島版ではなく)薩摩府学蔵版の一つに数えられるべきものとなり、同書のような袋綴美濃判の整版本を殊更に出島版の一つに数え立てねばならぬ理由も綺麗に消滅するわけである。武藤長平『西南文運史論』(岡書院、大正一五年)中の「薩藩刊書考」も『散華小言』を薩摩版刊行物とし(武藤は安政四年の項に同書を数えている)、『鹿児島県教育史」(丸山学勢図書、昭和五一年)もやはり府学蔵版としている。薩摩府学蔵版の内洋学系諸書の内訳については『鹿児島県史』第三巻([鹿児島]鹿児島県著作兼発行、昭和一六年)より一節を引いておこう。

  更らに、府学蔵版は洋学書に及び、即ち、安政元年版の遠西奇器述があり、之は川本幸民が講習の餘話を田中綱紀が筆記したもので、其の説は西紀一八五三年(我が嘉永二年)の蘭人フアン・デル・ブルグ著理学原始(P. vanderberg: Erste Groundbeginselen der Natuurkunde か)に出るといひ、写真機・電信機・蒸気機関・汽車・汽船等をも説明し、図を附してある。其の他、府学蔵版本としては、安政四・五年の航海金針十二冊、田宮尚施編施治豊要九冊、ポムペ(Pompe van Meerdervoort)原著八木玄悦訳散花小言一冊等が挙げられる。府学蔵版以外にも、同二年以降のボイス原著川本幸民訳述気海観潤広義五冊、八田知紀・田宮尚施等の著書夫々数種が版行された。

  また牧治三郎は幾つかの論攷のなかで安政五(一八五八)年に出版された杉田成卿訳『砲術訓蒙』(大真楼蔵板)に鉛活字が用いられているとしている。ただし、これは同書序文に「彼の邦書を印刷する常に鉛鋳活字を用ふ」、つまり西洋では本の印刷に鉛の活字を遣うものだとあるのを、何故か『砲術訓蒙」邦訳本自身に鉛活字が遣われたものと誤解したことによる記述でしかない。同書は全葉晰かに整版による印刷物である。


  終わりに
  欧文活字を用いた版刻本が、長崎版、出島版、蕃書調所版・洋書調所版・開成所版、八王子秋山版、岡見彦三版などの各種、さらに出自不明の欧文活字を用いた『Grammatica of NEDERDUITSCHE SPRAAKKUNST...』(刊年未詳、早大図書館洋学文庫所蔵)や柳河春三『法朗西文典』後編(和泉屋半兵衛、慶応三年。なお同書前編は整版)にまでわたるヴァラエティを有するのに比して、和文活字を実用した版刻本は結局のところ大鳥圭介の活字を用いた縄武館・陸軍所版と本木昌造の活字を用いた長崎町版の二系列に止まっている(三代木村嘉平の活字は完成したものの実用されることなく竟った)。大鳥活字は戊辰の硝煙の裡に侠し、本木は自力では高品質の活字を作りだせぬままに、やがて明治二(一八六九)年、上海美華書館のウィリアム・ガンブルの伝習を仰ぐこととなる。すなわち幕末和文鋳造活字の系譜はここで一旦断ち切られるのである。

  維新の波濤を越えて明治の世に冑裔を持つのは渡部一郎(温)の沼津版や大学南校版、一部の文部省版など、開成所系列の欧文活字のみであろう。本邦の和文鋳造活字は、「御一新」以降に更めて一からの歩みを再開せざるを得なかった。かくして大学東校版・文部省版の島霞谷、本木昌造(長崎・新町活版所)から平野富二(平野活版製造所−築地活版製造所)へ継承される長崎派の系譜、工部省勧工寮から大蔵省印刷局へと至る長崎派のもう一方の系譜、そしてこの系譜に絡んだものと推認される志貴和助、大関某、蜷川初三などの官営印刷所系業者、そして天野芳次郎(東京新製活版所)、小島致将(金沢・経業堂)などの独立業者、更には神崎正誼の弘道軒……明治初年の和文活字は一挙に多彩な展相を示すこととなっていくのである。本稿の守備範囲共々これらの詳細については別稿に委ねざるを得ない(近いうちに第三文明社から上梓する予定の拙著『聚珍録−組版重宝記」を参看いただければ幸甚である)。

36 稲村三伯版『波留麻和解』(俗称『江戸ハルマ」)(全二十七冊)
F. Halma, Nederduis woordenboek
寛政八(一七九六)年
オランダ活字版
縦二六・二cm、横一七・七cm
附属図書館蔵(A100-1348)

フランソワ・ハルマ著『蘭仏辞典第二版』(一七二九年)を底本とする、国内で最初の蘭日辞典。見出し語六万語に木活字を使用し、郭は木版、訳語を墨書するという変則的な作りが特徴。稲村三伯が通詞の石井恒右衛門の協力を仰いで編纂したもの。流布数はおよそ三十部と推定され、江戸版と関西版が現存する。

37 桂川甫周編『和蘭字彙』(俗称『長崎ハルマ』)(全十三冊)
安政二(一八五五)年
江戸山城屋版
縦二五・七cm、横一八・〇cm
附属図書館蔵(A100-199)

オランダ人ヘンドリック・ドウフが長崎の通詞吉雄永保らの協力のもとで、ハルマ『蘭仏辞典第二版』から編んだ蘭日対訳辞書『道訳法児馬』の写本第二稿本を基に、桂川が編纂して江戸の山城屋佐兵衛が出版したもの。蘭学研究に大いに貢献した。



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