特別展示の開催に寄せて



  驚くほどの速さで、多くの分野に情報技術が浸透しつつある。その主流は、情報の処理、伝送、表現を高い統一性をもって行なうことを可能とするデジタル情報技術である。そこでは物質は単なる手段と化して、表舞台へは出て来ない。そして物質が固有に持つゆらぎや乱れは、独特の手法によって抑制され、それらから解放された抽象的世界としてのゆらぎのない情報的表現が主役となる。

  しかしこのことは、今始まった新しい現象ではない。恐らく人類が誕生して以来、生きるための諸方法についての教示や伝承が、現場における共同体験を越えて、抽象化された世界で行われたことは十分想像できる。それは音や図形による記号であり、また道具の中に間接的に埋め込まれた動作に関する指示であった。この抽象的な教示や伝承は、恐らく人類を、自らは他の動物を含む自然の脅威に対して弱体であるにも拘らず、協同と、そしてそれにもまして歴史を越えた知識の蓄積とを可能にすることによって地球上の強者に、自らを仕立て上げて行ったと考えられる。

  経験を知識化し、それを再利用したり次世代へと継承することの可能性は、文字の発明によって向上したが、それは印刷の出現によって飛躍的に拡大する。とくに活版印刷の高い効率は、人類を無知と邪教から解放したと言われるように、文化史上の最大の事件であると言ってよいであろう。知識や思想は文字によって表現されるが、それが印刷によって独占を許さず一般の人人に拡がって行く。

  この大事件は人類の文化を質的に変え、権力や支配の可能性を縮小しつつ、平等と自由を基礎とする民主的な社会を出現させるための条件を整えたと言える。そしてそれは、教育の組織的拡大とともに現実のものとなりつつあると考えてよいであろう。

  そして今、迎えつつあるデジタル情報化時代とは、この活版印刷を原点として、歴史的展開を経て到達した一つの姿である。ここでは文字は、作成され記憶され、そして伝送され表示されるものであるが、それが統一した技術体系の中に組み込まれている。

  さらにそれは、ネットキャスティングという状況と反応しながら、社会に独特の情報環境を作りつつある。伝送は、かっては個から個へ相互に対話しながら行われるか、あるいは発信者が不特定多数へと発信するブロードキャスティングだったが、今それは、発信者と受信者が不特定多数でありながら、同時に対話する状況を生み出し、これが情報環境として独特なのである。これを新しい時代の幕開けと呼ぶ人が居る。確かに、幕が開く準備が整ったのかも知れないが、私は、開かない、と考える。

  そう考えるのは、技術の進歩が人の欲求に誘導されて起こると考えるからである。確かに、ある一つの新しい技術が人人を刺激して欲求を創出するように見える場合があるが、それは本質的ではない。技術の歴史的流れが人人の欲求に影響を与えるのは本質的なことであるが、それは個々の技術でなく技術の総体としての長い歴史の流れに対応するものである。いま、ネットキャスティングを誘導する、人人に共通する時代の欲求が何かを、実は言い当てることがなかなかむずかしいのである。

  このような状況は、時代の欲求を技術の進歩が追い越すときに起こる。しかもそのときの進歩した技術とは、進歩すべく整えられた痩身の技術であることが多い。事実、デジタル技術によって扱われる文字は、標準化され、定型化している。それは例えば、同じ文字を様々に書くことによって、文字の持つ基本的な意味を超えた何かを表現する書道の可能性を奪っている。また、文字が持つ時代の情報を欠落させてもいる。

  多くの技術は、もともと人間の行って来たことの能力拡大に帰せられるが、それが能力拡大を始めるとき、人間の行っていることの、技術的拡大の可能な部分のみを抽出して行うのが一般である。これは、人が技術を考えるときに常にとる基本的に禁欲的な態度であって、その結果技術は、出発点としての人の行いに比べ、常に痩身である。

  デジタル情報技術を基礎とするネットキャスティングが、真に健康な時代の幕開けとなるためには、痩身になった技術と向き合うだけでなく、それの出発点である人人の欲求を深く知ることが必要である。

  その欲求は、現代のデジタル情報技術の中には見出されず、印刷を生み出し、活字を発明し、活版印刷に至る、努力する人人との再会を通じてしか理解することができない。その人人との再会は、その人人が自らの、そして時代の欲求を背景として考察し、創出した活字との遭遇によって実現する。

  既に過去のものでしかない古い時代の活字は、情報技術という点から見れば幼いものに過ぎないであろう。しかし、情報技術を誘導した人類の欲求という意味では、それが間違いなく物質であることを根拠として、現代の技術には含まれていないものをもその内に限りなく含有する豊富な存在であり、私達に驚くべき知見を与えてくれる情報源である。どのような活字が集められ、展示を通してそれにどんな構造が与えられるかは、企画者たちの学問的意図による。一方、展示を見る者は、企画者たちの意図と交絡しつつ、一見過去と関係ない自らの先端的情報技術への期待が、人類の歴史を貫く大きな情報技術の流れの中に適確に位置付けることが可能であることを見出すであろう。これらを背景として、現代的欲求と歴史的必然とを調和する情報学を出発させる一つの場として、この総合研究博物館が機能することへの期待を、私はどうしても抑えられないでいるのである。

吉川弘之(総長)




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