おし葉標本と新聞紙

大場秀章


 植物への関心は予想以上に高い。 その植物だが、身のまわりを見ただけでも姿かたちは実にさまざまである。 一見似ているがよく見ればまったく別物ということも多々あり、異同を決めるのには苦労する。 そんなとき、今なら植物図譜や図鑑が役に立つ。事実、植物仁関してはおびただしい数の図譜や図鑑が出版されている。

 グーテンベルグによる印刷術発明よりも前の、印刷による大量生産の方法をもたなかった時代仁も図譜や図鑑はあったのだろうか。図譜はあった。それは手描き複製され広まっていったが、そうした目的のため仁は、植物のおし葉標本のアルバムであるおし葉帳が役立った。 これは、採取後に重しをかけて乾かした植物を台紙に糊付けしたもので、図鑑のようにめくりながら該当する植物を探したのである。今日、博物館などに収蔵されるおし葉標本コレクションを生む原点となったのはこのおし葉帳だといわれている。

新聞紙がなぜおし葉標本に関係するのかを述ぺるに先立ち、おし葉標本とその誕生の歴史を簡単に紹介しよう。

最初におし葉をつくったのは誰か

 長期保存ができ、しかも管理が比較的やさしい植物学の研究資料といえば、このおし葉標本をおいてほかにない。おし葉標本は植物の乾物で、変色もするし、多肉質の植物では変形もしてしまう。しかし定形の台紙仁貼り収納できるので、保存のためのスペースは液浸標本など他の様態の標本に較ぺ最小で済む。凍結標本のように保存のためのコストもあまりかからない。そのため何百万点もの標本を一ヶ所に集めて収蔵することが可能である。

 一般には、おし葉標本の創始者はイタリアの本草学者ルカ・ギーニだと考えられているが、十三世紀のヨーロッパには花 を乾燥させ、しかもその色を保持する方法が存在したという記述があることから、起源はもっと古い可能性もある。ギーニがおし葉標本をつくるのに工夫した技術は、弟子たちによってヨーロッパ中に広められたと、イギリスの植物史家アーバーは書いている。ギーニはボローニャとピサの大学で研究と教育に携わった。一五五一年に台紙にゴム糊で貼ったおし葉を彼はマッティオリに送ったという。その頃ギーニは、約三百のおし葉標本を所持していたといわれるが、彼自身の標本は存在しない。 しかがって、彼の標本がアルバムのようなおし葉帳であったのか、あるいは一点一点が独立した今日のおし葉標本に類するものであったのかははっきりしない。

 現存する最古の標本は、ギーニの弟子チボーのもので、それは一五三十年頃に収集されている。 同じく著名な弟子であったターナー、アルドロヴァンディ、チェザルピーノらも、おし葉標本をつくったが、これは十六世紀中頃のことである。 ルタシヌスなる人物は一五五三年にイギリス人フォルクナーがひとつの冊子にゴム糊で貼り付けられた植物標本をもっていた、と述ぺている。フォルクナーはイタリアに旅行したことがあり、おそらくはギーニから標本をつくる技術を学んだのだろう。

 アルドロヴァンディは、おし葉標本の収集をめざした最初の人物であった。遠方の国々の植物を描くための資料としてのおし葉標本の価値はすぐに認められた。パーゼルの医師であったプラッターのおし葉標本は、かのモンテーニュが一五八〇年バーゼルに立ち寄った折にこれを見聞し、「ほかの人が薬草をその色に従って描かせる代わりに、かれは独創的な技術で自然をまるごと適切に台紙に糊づけする。そして、小さな葉や繊維はそれがあるがままの姿を示す」と「随想録」の中で記している。モンテーニュは、頁をめくっても標本がはずれないことや、なかには実際二十年以前のものもあることに驚嘆した。

おし葉標本の作製技術を記載したスピーゲル

 おし葉標本のための詳細な知識が最初に記述されたのは、スピーゲルの『本草学入門』だと思われる。彼はおし葉標本の ことを「冬の庭園」(hortus hyemaris)と呼んだが、当時は「生きた本草書」とか「生きた本草図譜」、あるいは「干物と化せる 庭園」とも呼ばれていたらしい。スピーゲルは、おし葉標本は重要なものであり、ひとつを仕上げるのに費やされる労力も高い称賛に値すると述べている。

 おし葉標本と新聞紙の関係で注目されるのは、スピーゲルが「まず植物を良質の紙に挟んで徐々に重さを加えながら圧搾 し、毎日検分し、裏返さなければならない」と書いていることである。次は植物が乾燥した後のことになるのだが、紙の上 にのせ、さまざまな大きさの刷毛でゴム糊を塗る。このゴム糊の処方も彼は示している。植物を台紙の上に移した後でそ の上に亜麻布をかけて、植物が台紙に付着するまでむらなく擦る。最後に台紙と台紙のあいだ、また冊子の中に布を挟み、 ゴム糊が乾くまで圧力を加える。

 おし葉標本室を意味する「ハーバリウム」(herbarium)という言葉が印刷物の中で最初に登場するのは、一六九四年に刊行されたトゥルヌフォールの『基礎植物学』である。 今では世界最大のおし葉標本コレクションを収蔵する王立キュー植物園、これに次ぐロンドン自然史博物館やエディンパラ植物園があるイギリスでは、十七世紀の後半になってもおし葉標本は普及していなかったらしい。

おし葉標本と新聞紙

 スピーゲルが書いた「良質の紙に挟んで徐々に重さを加えながら圧搾」という過程は、おし葉標本づくりで欠かせない最初の工程である。そのことは今でも変わらない。ところでスピーゲルが書いた「良質の紙」とはどんなものだったのだろう。 想像するに水気をよく吸収し、湿ったり少しくらいの衝撃でも破れないような紙が期待されたのではないだろうか。水気を吸い取るという点で羊皮紙ほ向かない。水気の吸収では抜群の吸い取り紙は衝撃に弱い。結局、あまり強い圧力をかけずにつくられたパルプ紙ということに落ち着いたのである。しかし大量の標本を作製するとなると、消耗するだけの役に高価な紙を用いるのが惇られるようになったのだろう。多少水気の吸い取りでは劣るものの、印刷術の発明後に登場し、やがて普及した新聞紙がいつしか上質紙の代わりに利用されるようになったのではないか。いつどこで誰が新聞紙を標本づくりに用いたのかを記した文献はまだ見つけられていないが、おそらくその経緯はそんなに変わったものではなかったと思われる。

 さて、大量に標本がつくられるようになると、台紙に貼り付けて標本箱に収納する手間がばかにならない。それだけでなく、木になるような植物からは 一度にいくつもの標本がつくられる。標本は多いほうが変異の観察には都合が良いし、重複標本を用いて他の研究者や愛好家などと標本を交換することもできる。結局、乾燥後もすぐには台紙に貼り付けることなく、ときには長期間ストック状態で標本を保管する必要性が次第に増していったのである。乾燥したおし葉をストックするために、それこそ最初は日本でいえば畳紙のような良質の上質紙がそのために用意されたのだが、これも最終的には捨てられるものであり、わざわざ手間をかけて新聞紙からストック用の良質紙に入れ替えることは行われなくなってしまった。

 こうして台紙に貼られる前段階の標本は、新聞紙に挟まれた状態で束ねられ保管されることになった。 ハ—バリウムの関係者はこれを未整理標本と呼んでいる。歴史のある大きなハーバリウムは彪大な標本を収蔵するが、同時におびただしい数の未整理標本もかかえている。なかには百年も前に採集された標本も珍しくない。多くのハーバリウムでは、新着の標本とともに未整理標本も台紙に貼り付ける作業が進められている。この過程で古い時代の新聞紙が排出されるのである。 ハーバリウムでは新聞紙を研究の対象物とはみなさない。そのため多〈の施設ではこれを処分しているのである。

 私事だが、古い標本を整理していると、ついそれが挟んであった新聞紙に目がいく。太平洋戦争以前あるいは戦争中の 占領下にあったミクロネシアや東南アジアでの採集品を挟んだ新聞紙は、当時こうした地域で日本語の新聞が発行されていたことを教えてくれた。そんなこともあって、植物を挟む新聞紙を無造作に捨てるには忍びないと思い続けてきた。それが今回、新たな学術標本としての価値を付加され保存されることになったのは期待していなかっただけにたいへん大きな喜びである。

〔参考文献 〕 Arber, A., Herbals: their origin and evolution, Cambridge University Press, 1938.

 

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