第1部 第1章

自然の体系

 

中世の自然理解

 すでに結論をいってしまったが、中世はテオフラストスが先鞭をつけた自然物の解析的研究も、 体系的な自然の理解もほとんど進まなかった。

 体系化を進める過程は、思弁的な思考が介在する余地を生みやすい。はたして多様な生物の存在 に注意が向けられたとき、それを誰がつくったのか、という問いが発せられるのは目にみえている。 当時にあっては、「創造主」か「神」以外にそれを帰すことができただろうか。やがてそれは普及するキリスト教のなかに創造神話は位置づけられていき、‘天地創造 ' は長い間不問の理として後代に受け継がれていった。

 ヨーロッパの歴史は当初、古代、中世、現代に 3区分され、記述されてきた。古代と現代の 間に置かれた中世はコンスタンティヌスによりピュザンテイオンへの遷都とそのコンスタンティノープルへの改称が行われた 330年から、コンスタンテイノープルを拠点とした東ローマ帝国が滅亡した 1453年までの期間をいう。その中世における自然界とその構成物についての研究はギリシア時代を中心とする古典期とは根本的に異なる。このことを植物での研究で指摘したのはシュターナーである (Stamlard,1968)。その大きなちがいは古代においては実物についての観察を考察の基礎においていたことである。中世にあっては実物 (とくに自然物)の観察はほとんどなされることはなかった。多くが論拠に欠ける空理空論であったが古代の文献を核に想像にもとづいた論述に重きがおかれた。

 ルネサンスの成果のひとつは古代のギリシア・ロ ーマの学芸復興であるが、それは自然史の分野にも あてはまる。中世においても、後半の 11世紀から 15世紀にかけてはテオフラストスやデイオスクリデスなどの著作の写本がつくられている。 テオフラストスでいえば、その現存する8つのギリシア語写本の中で最古にしてかつ最も重要 な写本は 11世紀につくられた。この写本 (稿本名の Urbims graecus 61 から、 U稿本と呼ばれる) はヴァチカン市にあり、現存する他の多くの写本類がこの稿本によっていると考えられている。にもかかわらず中世の自然史研究にみるべき発展がなく、本草書のような残されたこの時代の著作が実際よりも想像に終始した記述をしているのは興味を引くところである。

 中世の終罵を目前とした15世紀に印刷による書物の普及が始まる。鉛活字による活版印刷が開始されるのは1440年頃になってだが、印刷はルネサンス精神に裏打ちされた自然理解とそれにもと づく学術の広がりと普及にも大きな貢献をした。それまで文献といえば、すべてが写字生により筆写 され、複製されていた中世とは大きなちがいである。15世紀までに刊行された印刷本は、ラテン語で襁褓(むつき)とか初めのものをいうincunabulum の複数形主格からきた語である インキュナブラと呼ばれているが、インキュナブラ時代の自然史関係の書物は、まったく中世そのものであり、新しい息吹を感じることはできない。

中世の終罵

 中世を通じ自然や自然を構成する諸物の研究には大きな進展はなかった。その最大の理由は、自然を構成する物を代表する動物、植物などの観察がほとんど行われなかったことにある、と私は考えている(大場,2004) 。

 ダ・ヴインチがモナリザを、ミケランジェロは聖家族を創作したのは 16世紀だが、このような写実性に満ちた絵画作品の登場は、実際の物体を仔細に観察する時代の風潮と密接に関連している。つまり、このような自然物の仔細な観察は、‘自然に帰る' ルネサンス精神の表れの結果にほかならない。空想ではなく観察にもとづいた精密な植物画が誕生するのは 16世紀になってからである。自然そのもの、あるいは実物を精密に観察することを求めた時代精神が芸術や文芸のみならず、自然史のような自然科学を育んだのである。 自然史研究は自然物の精密な観察を志向する時代精神が真っ先に生んだ新興科学であったといってよい。

 

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