「石の記憶」解明へのフィールドワーク

田賀井 篤平
東京大学総合研究博物館



1996.8.6

 毎日新聞朝刊に「こま犬 原爆のツメ跡」の見出しで東京大学総合研究博物館所蔵の被爆試料である狛犬頭部の標本が報道された。

 この報道は、芸術新潮1995年11月号の特集「東京大学のコレクションは凄いぞ!」で紹介されたことがきっかけになっているに違いない。この情報を得た記者が翌年の原爆投下の記念日にあわせて記事にしたと思われる。

1996年8月6日付の毎日新聞朝刊


2002.2.20

 広島護国神社から博物館所蔵が所蔵する渡辺武男教授収集の被爆試料に広島護国神社の狛犬の頭と伝えられるものがあり、見学したいとの希望があった。
館内を調査し、鉱床標本室の一角に目的とする試料群が試料棚の抽出に収蔵されていることを発見した。


2002.3.7

 広島護国神社から藤本武則、林友昭の両氏が来訪。その目的は、東京大学総合研究博物館所蔵の被爆狛犬の頭部を見るためであった。

その後、色々取り紛れて、被爆資料には手が回らなかったが、被爆試料展を実行する気持ちが湧いてきた。そこで、取り敢えず、鉱床標本室から渡辺標本を回収して、試料の確認を行い、標本の状態を確かめた。標本番号の有無、採集地点の記載の有無などである。また関連書類の中に35mmフィルムネガがあることを発見した。


2003.1.30

 企画委員会で「被爆試料展(仮題)」を提案し、承認。橘由里香、玄蕃教代さんに展示の協力者を依頼。


(*は筆者メモ書き)

「被爆調査団報告書」:原爆関係の仕事をするときのバイブル。

渡辺武男撮影の35mmフィルムのデジタル化を行う。そのなかに浦上天主堂の廃墟の写真があり、広島護国神社の狛犬と言い伝えられてきたものに似た像の写真を見出した。博物館所蔵の「狛犬」は、破壊された正面のアーチの両側にある柱飾りである獅子頭ではないか。現地調査でフィールドワークが必要。


2003.4.10-4.11

 長崎調査。調査目的は、広島の狛犬が実は浦上天主堂の柱飾りではないかとの疑念をはらすことであった。

 平和記念公園(浦上刑務所跡)から爆心地に。そこには浦上天主堂の一部が遺跡保存されており、柱には花と思われる柱飾りがあり、柱の根本には獅子の蹲った像があった。形に共通点はないが博物館の狛犬頭部と材質的に非常に類似すると感じた。

 下の川河床の被爆した石や、保存されている遺構を見る。この川で泳いでいた学生達が即死し、その後も水を求める被爆者で川が埋まったとか。その後、爆心を見下ろす位置にある原爆資料館を見学。

 その後、山王神社の片足鳥居・被爆大楠、長崎医大の傾いた門柱などを見た。現在の都市空間に奇妙に調和している。その雰囲気はどこにあるのか。長崎がキリスト教の影響下に形成された街であることと関係があるのか。浦上はカソリックの象徴であり、江戸以来のキリスト教弾圧をくぐり抜けてきた歴史がある。一方、長崎の町自身はオランダの影響下でプロテスタントの気風がある。このような独特の環境が街に醸し出されている空気を作り出しているか。



2003.4.17

第一回被爆試料展打ち合わせ

玄蕃さんに被爆試料のクリーニングとキュレーションを依頼。

調査に当たった渡辺武男の眼を実体験し、狛犬問題の調査を目的に広島へ。広島護国神社に訪問を打診した。


2003.5.1

広島護国神社へのメール。

   当博物館では来年の1月から博物館の所蔵する広島・長崎の被爆試料(岩石を中心とする)の特別展を行うべく、準備を進めております。先年、ご覧いただきました獅子頭も展示する予定でおります。つきましては、護国神社の被爆についてのお話を伺えればと思います。その時に、広島関係の書類や被爆標本の写真などをお持ちします。


2003.5.9-5.10

 広島調査。先ず、護国神社を訪問。現在の広島護国神社は広島城跡にある。中国軍官司令部跡である。護国神社の林・松下両氏と面会。問題の狛犬については、東大で見たときに「サイズが小さい」と感じたそうである。被爆狛犬は広島護国神社の狛犬ではなく長崎浦上天主堂の飾り物ではないか、との我々の見解を紹介して、問題の解明に今後の協力を要請した。

 当時、護国神社は、現在の広島市民球場の位置にあり、市電道路からの入り口と拝殿前に御影石の鳥居があった。その中で、参道入り口の鳥居は倒壊せずに残り、狛犬や石灯籠も破壊されずに残された。拝殿前の鳥居は崩壊。戦後の市街地の再整備に伴って、現在の広島城跡が移転先に決まり、健在であった鳥居と石灯籠なども移設。現在は、正面に鳥居、金属製狛犬一対、石灯籠一対。そして本殿の左右に御影石製狛犬一対、石灯籠一対がある。正面の鳥居以外はいずれも被爆。また、護国神社の被爆について残されている資料は、予想していたよりも遙かに少ない。当時の拝殿の写真と被爆中心地の復元地図(地元の商店街の被爆以前の配置図)、旧広島市街地図のコピーを入手。庭にあった当時の玉砂利を10個程度採集。いずれも、表面が剥離したような模様が特徴である。また、社務所空き地に奉納された石灯籠の一部があり、この石灯籠を博物館に寄贈か寄託されることになった。

 被爆写真中に記録されている「清」という表札の掲げられた場所の調査について、林氏から島病院近くの伊勢たばこ屋を紹介された。また、現在青少年センターとなっている所に(市民球場裏)倒壊した鳥居の土台石があり、近くに中津神社があるとのことで、そこを調査。問題の狛犬が中津神社のものである可能性。中津神社は、狛犬が存在していたとは思えない程に小規模であった。土台のみ残されている鳥居の被爆当時の写真を青少年センターで見た。

 渡辺の撮影した写真に相生橋横にあり倒壊を免れた商工会議所屋上から撮影した広島市パノラマ写真がある。現在の商工会議所は立て替えられて、昔に比べると川よりであり、当時とはアングルが異なっているが屋上からパノラマ撮影を行った。その後、伊勢たばこ店を訪れたが、不在であったので、被爆当時を知る近くのビルの管理人を紹介された。「清」は「清皮膚科病院」であり、島病院の筋向かいの駐車場であることがわかった。彼は当時学童疎開で被爆を免れた由。「清さん」については、以前西日本新聞で被爆者の追跡記事に「清家の生き残り」について記事があったそうである。それから、島病院(現在も病院として営業中。当時島先生は広島外に往診中で被爆を免れ、ニュースで知って急遽広島に戻り治療に当たった)、清病院跡、また写真に残されていた西蓮寺、西向寺に行った。お寺はビル寺となって、一画に小さな墓所が残されているのみ。当時の面影はまったくない。

現在の清病院跡

 翌日は、相生橋、原爆ドームから平和公園を抜けて記念館まで。記念館の前は慰霊碑のある空間で、そこからドームを振り替えるとドーム・鎮魂の火・慰霊碑・記念館が一列に配置。丹下空間。平和記念資料館見学。

(古写真の解析)

 護国神社からもらった写真。1葉は拝殿前の修学旅行の記念写真。もう1葉は拝殿の全景写真。これを見ると鳥居の両側に御影石製の狛犬一対。奥の拝殿前に狛犬一対が写っている。次は、渡辺撮影の写真にもあったように、参道入口に石灯籠一対、狛犬(金属製)一対、鳥居。また青少年センターにあった倒壊した鳥居の写真。そこには、道沿いに一対の石灯籠(一つは灯籠部と火袋部が落下し、もう一つは火袋部が落下している)、また鳥居の手前で拝殿内に石灯籠(小型)脚部。以上を総合すると、被爆前には、参道入り口に石灯籠(大型)一対、金属製狛犬一対、鳥居、参道から拝殿に上るところに石灯籠(大型)一対、倒壊した鳥居、石灯籠(小型、一対か不明、現時点で1個のみ)、御影石製狛犬一対、小型狛犬一対があった。現在の護国神社に残されているものとの比較で、小型の狛犬一対が行方不明。また、渡辺の写真に3葉の護国神社がある。1葉は参道入口、1葉は、参道入口(と思われる)石灯籠、もう1葉は拝殿前の狛犬であり、その写真には、その他崩れた小型石灯籠、頭が落ちた大型石灯籠、何かの土台などが写っている。


広島護国神社提供


 



2003.5.8

富山大学の清水正明氏よりのメール。

1) 渡辺先生の被爆試料に関するフィールドノートの存在について:
フィールドノートは、秋田大学の鉱業博物館に保管されているはず。また、渡辺先生の原爆関係の論文中に被爆試料の位置などがわかるものがあるらしい。
渡辺武男ほか(1953) 広島および長崎両市における原子爆弾災害物の地質学および岩石学的観察.原子爆弾災害調査報告 143-158.
T. Watanabe et al. (1954), Geological study of dameges caused by atomic bombs in Hiroshima and Nagasaki. Japanese Journal of Geology and Geography,
Vol. XXIV, 161-170.
2) 被爆試料の中の広島護国神社の獅子頭といわれているものについて護国神社のであるとした根拠について:
渡辺先生から直接うかがったことを記者に伝えた。


2003.5.27

広島護国神社よりのメール。

   お目にかけました「石灯篭」ですが、博物館に寄託という形でお預けして研究の一助にしていただければと存じます。なお、御垣内の玉砂利についてもご希望であればお預けしたいと思います。当時、それらを奉納したり神社の運営に苦労された人々の心が東京で活かされると思うと感慨深いものがあります。


2003.6.5

第二回被爆試料展打ち合わせ

(丹青社で広島・長崎の原爆記念館を担当した藤井明文、斉藤克己氏が参加)


2003.6.9

 「ヒロシマの被爆構造物は語る」の中に、護国神社の被爆前・後の写真を数葉見つけた。被爆前の護国神社の配置について、こちらの解釈を護国神社に送って、意見を聴く必要を感じた。


2003.6.10

 長崎原爆資料館に電話して、渡辺先生が撮影した長崎の写真の中に撮影場所不明であるのが数点あり、また狛犬の解析について協力をお願いした。13日(金)の11時過ぎに資料係中頭さんとお会いする約束をした。


2003.6.12

 玄蕃さんから整理した標本リストを入手。標本番号、ラベル、備考、写真番号からなっている。長崎にも護国神社があったことを発見。地図と照らし合わせると城山国民学校に近い山の中腹。場合によっては写真で調査団が集まって見上げている破壊された階段がそれかも知れない。リストを見ると思ったより採集地点が特定できそうである。例えば、広島(島病院、清病院、西大町、境町、護国神社の鳥居、玉砂利)、長崎(天主堂、御大典祈念碑、爆心、医科大学門柱、浦上駅線路上、護国神社、山里国民学校、刑務所、皇太神社、下の川橋、城山国民学校)など。

 秋田大学鉱業博物館に電話して渡辺先生のフィールドノートの閲覧を申し込んだ。何時でも事前に連絡してくれれば閲覧は可能である、とのこと。


2003.6.13-6.14

 長崎の調査。長崎到着後、原爆資料館の資料掛中頭由美子さんと面会。資料係長上野天氏も同席。最初にこちらの訪問の趣旨を説明し、問題の獅子頭のことを聞いたが、わからなかった。また渡辺先生の撮影した当時の写真を見せて、撮影場所の特定を依頼した。建物などが写っていれば、場所の特定はかなりに確率で可能であるが、廃墟のみでは難しいとのこと。昔のことを覚えている2名の方に聞いてみるとのことで、写真を渡してきた。その後、資料館内の図書室に行って、資料の蓄積状況と、参考図書の調査を行った。興味があったのは被爆建物の建築図面集であったが、浦上天主堂の図面はなかった。企画展で「林重男写真展」が行われていた。林重男は被爆調査団とともに記録映画のスチール担当で広島・長崎入りして約640点の写真を撮影した(35mm、6X6)。記録では232枚の広島記録写真、398枚の長崎写真であり、いずれも数年前に林氏から広島、長崎に寄託されている。これらのフィルムは米軍によって接収されたが、木村伊兵衛氏の機転でネガを隠して紙焼きを渡したと伝えられている。その林氏が長崎原爆資料館に寄託した写真が展示されていた。多くの写真は出版物に既に掲載されているが、矢張り紙焼きでみると記録写真としてだけでなく作品として優れていることがわかる。

今後の調査の進め方についての議論。

1)  試料を使った残留核種の実験に関して:残留核種決定の手法と精度について検討した。その結果、現有の装置を使っている限り核種の決定精度に充分の自信がなく、他の研究機関の装置を使ってまで残留核種を決定する意義があるのか。また広島型原爆と長崎型原爆の種類が異なっていることは知られていることであり、実験によって新しくもたらされることはなく、単に追試を行うに過ぎない。そもそも、残留核種を決定する、というアイディアは、広島や長崎における展示との差別化を図る過程で出てきた物である。しかし、渡辺武男の目を検証するというテーマは大学博物館に相応しく、敢えて残留核種決定実験を行う必要がないのではないか。
2)  長崎と広島の原爆展示に関する差や、原爆遺跡の取り扱いに関する差は、体感として解るが、評論的なことから一歩も出ることはないであろう。いろいろ検討しなければいけない微妙な問題もある。
3)  被爆試料展を渡辺武男という研究者の目線でまとめていくということは、先日の話し合いで合意したことである。分担が決まっていない調査団の状況資料(例えば、出張記録や調査団内部の連絡資料など)を解析して、当時の調査環境を明らかにすることは大学博物館の研究テーマとして意義がある。

 翌日は、浦上駅前まで市電で行き、そこから浦上旧街道に出て、山王神社(旧皇太神社)の片足鳥居から調査を始めた。片足鳥居の足下に刻まれている寄進者の名前が、ある面だけ溶解して読みとれない。それ以外は現在でも判読が可能である。溶解面は明らかに爆心方向を向いている。その測道に倒壊した鳥居の残骸が無造作に放置されている。山王神社の被爆大楠は、被爆で焼失した部分がはっきりとしており、これが原爆後の2次的な火災で焼失したのではないことがわかる。それは、原爆の熱線が短時間の照射であり、全表面が瞬間的に焼失し、内部の温度上昇は少なく、従って、短時間の高温照射は巨木にとっては致命傷にならなかったために、発芽が直ぐに可能になったと思われる。焼失部分を除けば、被爆を感じさせない巨木として存在感を示している。浦上旧街道は、長崎大医学部付属病院、長崎大歯学部付属病院を経て長崎大学医学部キャンパスに通じているが、片足鳥居、医大、浦上は丁度爆心を取り巻く同心円上(約300m)に乗っている。今回は爆風で傾いた医学部裏門(当時は正門か?)へは行かなかった。医学部前から坂を下ると浦上天主堂に出る。浦上天主堂には信徒会館があり、そこに被爆した神器や石像などの遺物が僅かであるが展示されている。信徒会館の遺物には獅子頭を想起させるものはなかった。ミュージアムショップのシスターに獅子頭のことを聞いたが、知らなかった。天主堂入り口の左に被爆した聖人像が数点保存されており、そこにある獅子を見た。獅子には2種類あって、一つは体長60cm程度の口を開けて中に筒が入っている像である。これは爆心地に置かれている天主堂遺物の足下に置かれている物と同じである。もう一つは、頭を失ったマリア像の足下にある獅子像で、40cmくらいのものである。従って博物館所蔵の獅子頭と頭部の大きさから言えばサイズ的にほぼ一致する。しかし、決定的な差は頭部の毛が巻き毛になっていることである。博物館の標本は直毛で、しかも口から出ている歯の様相も異なる。次ぎに天主堂横の司祭館に行く。訪問の趣旨を告げる。司祭と話をしたが、司祭自身は我々の獅子頭のようなものは教会に残されている遺物に見たことはないそうである。獅子像としては、旧天主堂の庇に獅子頭がついていたそうであり、浦上天主堂の歴史を記述した本に出ていた。また爆心地に展示されている物は知っているが、それ以上はわからないとの返事であった。ただし、我々の所蔵する獅子頭は材質的には類似している との見解に賛成してくれた。そこで、長老の信者で被爆して廃墟となった天主堂の取り壊しや当時の事に最も詳しい西田秀雄氏を紹介。西田氏のお宅は天主堂から北西へ500mくらいのところにある。西田氏から天主堂廃墟の片づけから再建に至る貴重なお話を伺うことが出来た。先ず、最も重要な問題である獅子頭は、結論から言うと記憶になく、多分瓦礫と共に教会下の川の護岸工事として埋められた様である。大きな獅子頭(上に述べた獅子像など)は保存したが、小さい物は全て捨てた。被爆後、天主堂周辺は瓦礫の山であり、残された天主堂の壁面も亀裂が入って危険であるために正面右側の入り口を残して引き倒した。当時は機械もなかったので人力で瓦礫を片づけたそうである。その瓦礫は、教会下の川の護岸工事に使われた。というのは川の中に天主堂の双塔鐘楼の一つが落下しており、数十トンもあるために引き上げることも、また爆破することも出来なかった(アメリカ軍が爆薬の使用を禁じていた)。そこで、周辺の地主の協力を得て、川の流れを変えて、鐘楼を教会敷地内に保存することとし、その川筋変更の工事に瓦礫が使われた。多分、その中に獅子頭も共に埋められたに違いない。西田氏から教えていただいた情報として、新天主堂の施行が鉄川工務店で行われたこと、鉄川工務店は現存すること、その後行われた改装工事は大林組で行われたこと、がある。


 そこから、渡辺先生のサンプル採集地点の一つである、長崎護国神社と城山小学校に向かった。いずれも浦上川を挟んで浦上地区と反対側にあり、爆心からの距離は5〜600mである。護国神社は小高い丘の上にあり、元々は日露戦争で戦死した橘中佐を軍神として祭るためにできたそうである。(橘周太は1865年(慶応元年)小倉に生まれた。7歳で小浜の叔父のもとへ。この叔父とともに長崎に移住する。長崎の勝山小学校、長崎中学を経て15歳で上京し二松学舎に入る。明治17年陸軍士官生徒、20年卒業後青森の歩兵第五連隊に赴任。明治37年日露戦争勃発。3月第二軍動員として出征。8月31日戦死(40歳)陸軍歩兵中佐。)

 護国神社の鳥居や石灯籠の奉納は昭和30年前後であり、被爆の跡をとどめていない。博物館には調査団が採集した試料1個と、1946年1月に採集した標本2個がある。

 その後、より爆心に近く被爆校舎が保存されている城山国民学校(現在城山小学校)に行った。ここの試料は1個有り、城山小学校の護国神社側とのメモがある。但し採集は1946年1月。土曜日であったので校内にある被爆校舎に入ることは出来なかった。

 今回の調査で確認せずに残っている事項

1) 山王神社の一の鳥居の位置。この標本が残されているが、一の鳥居は昭和37年交通事故で破壊され撤去されたと片足鳥居の傍らの銘板に記載されていた。その跡が残されていたが今はもう無いとのこと。別情報では岩川町付近で県道から東に少し入った所にあり、爆心より南700m。(現在の山王公園付近か)
2) 昭和天皇の大典記念碑の場所:この標本も残されているが、場所は不明である。長崎新聞掲載の被爆者体験記録に「現在の平和公園の噴水付近にあった自分の下宿近くにたどり着くと天皇御大典記念碑だけが残されていた」との記述がある。平和の泉は、爆心から北へ200m。


2003.6.16

1) 原爆記録写真集 荒木正人 (長崎国際文化会館)
2) 長崎の天主堂 村松貞治郎・片岡弥吉・木村信郎 (技報堂)
3) 長崎の天主堂 パチェコ・ティエゴ (西日本文化協会)
4) 長崎原爆戦災誌 (長崎市役所・長崎国際文化会館) 5巻


2003.6.19

 「神の家族400年 浦上小教区沿革史」を入手。西田秀雄氏が編集者であった。西田さんが獅子頭のことを知らなかったら、もはや誰も知らないであろう。書中の写真にも正面入口を写したものがあるが、そこでも獅子頭の像を捉えた写真はない。「神の家族400年」の中に、天使半身像、獅子像を天草石で作ったとあるが、そこに記載されている獅子像は軒を飾っており、口にパイプ様の管を加えているもので、探していたものと異なる。現存する像と我々の獅子頭と材質的に同じであるので、獅子頭はかなりの確率で浦上のものと思われる。あとは、秋田で渡辺先生のフィールドノートを調査することが重要である。


2003.6.16

林雄一郎著「ヒロシマは生きていた 佐々木雄一郎の記録」
林雄一郎は青少年センターに掲げられていた倒壊した鳥居の写真の撮影者
「写真記録ヒロシマ25年」

これらの本の情報で、広島護国神社の狛犬の謎を解明できるだろうか。

その後の調査の結果、被爆前の護国神社の様子は:

 参道入口に石灯籠1対、金属製狛犬1対、鳥居があった。そこから参道が北へ延びていて陸軍第1病院に通じる。その途中から左(西)に参道が折れる。その正面に鳥居、手前左右にやや離れて石灯籠。鳥居をくぐると御影石製の狛犬1対、本殿前に狛犬(失われた)1対がある。神社の前を北に進み、神社の敷地の角から神社に沿って西に折れる道があり、その入口に石灯籠が1対。その道は多分、護国神社北側にあった中津神社に通じる。道の途中から(護国神社の北側)護国神社に入る入口があり、そこにもう一つの鳥居があった。その鳥居の台座の一つが発見され、青少年センター前に保存。



2003.7.10

 長崎原爆資料館の中頭さんから、長崎訪問時に託してきた資料について調査の報告が届いた。同封されたコピーの中に堺屋氏という方の提供によると思われる被爆前の獅子頭の様子や被爆後の剥離の様子が良く見て取れる写真があった。それによると、正面に3つのアーチがあり、アーチ外側の柱頭部の飾りは植物で、アーチ内側の柱頭部の飾りが獅子頭である。片側に(多分)3〜4個の獅子頭が付いている。従って1アーチについて6〜8個、全部で18〜24個の獅子頭があったと考えられる。3つのアーチのうち、正面向かって左側のアーチは全壊している。正面と右側が残された。渡辺写真では中央のアーチの左側が写っているが、獅子頭のうち、手前は無傷。中央は脱落。奥は不明。中央のアーチの右側は手前のみ確認できるが無傷である。右側のアーチについては、今回の写真で見る限り、左側は手前から、無傷、脱落、無傷。右側は脱落、脱落、不明、となっている。奇妙なことは、「カラー写真で見る原爆秘録」の写真では獅子頭は脱落していない。時間経過とその間に何が起こったのか、考えさせられる問題である。

 また、預けた写真の半分くらいが撮影位置を特定できている。獅子頭については、その岩質が熊本県の石神山産安山岩であれば、浦上天主堂の像の一つである有力な証拠となるに違いない。

 渡辺写真を六つ切に引き伸ばす。デジタル化は紙焼のデータを取り込んだ方が良さそうであるから。


2003.7.10

 別件であるが、リンクが係りそうな問題が生じた。広島にある日銀旧広島支店の活用問題である。この建物は被爆建物であり、日銀が新店舗に引っ越した後、長年空き家になって、年数回の展示会場として使われている。広島市がこの日銀旧広島支店の建物を何らかの形で活用するアイディアを募集し市として実現しようとするものである。我々も被爆展を企画中なので、何らかの形でリンクさせる方向で、ミュージアムテクノロジーの名の下に考えたい。


2003.7.17

 東京大学総合研究博物館に残されている被爆試料について朝日新聞(杉本)と毎日新聞(加藤)から取材を受けた。何故に被爆試料が東大に残っているか、から始まって、その試料の持つ意義や展示の主眼点を説明した。しかし、マスコミ的関心は、矢張り、獅子頭だ。


2003.7.17-7.18

 広島は豪雨であった。まず、護国神社の鳥居や狛犬・灯籠の数を確認した。まず、東入口に被爆鳥居(参道にあったもの)を確認。本殿前に、近年建造された鳥居の両側に金属製狛犬1対、石灯籠1対(昭和9年寄進で笠に欠けがある)、また本殿前に石製狛犬1対と石灯籠1対があり、これが全てである。数は合わない。日銀への途中、市民球場横の鳥居土台が保存されているところの銘板に「旧護国神社(北面)の鳥居の土台」とある。西に正面を向けた護国神社本殿の北面にも鳥居があったことを示している。これで、林雄一郎氏撮影の写真と私案が合致。

 日銀広島支店では現代美術展が開催されていた。日銀支店の建物は重厚なものであり、内部も展示会場として雰囲気から魅力的であるが、カウンターの仕切(銀行を感じさせる典型的なもの)が再活用では邪魔になるかもしれない。コンサートホールとしても可能であるが、音響的な面と柱の数が問題になるか。回廊部分はその効果が十分に期待できる。支店長室やその他の会議室は用途が広く、更に厨房・食堂の設備もまあまあである。最も、貴重であるが活用しにくいのは地下の金庫である。


2003.7.23-7.24

 秋田大学鉱業博物館を訪問。渡辺先生のフィールドノートは加納博氏によってカタログ化されており、容易に1945年の記録を見出すことが出来た。また念のため、その前後の年の記録を調べたところ、新たに昭和21年5月に再度広島、長崎を訪れていたことがわかった。共に克明に記録が残されている。但し、地図は残されていなかった。半分くらいが標本の採取場所が特定できないかもしれない。しかし、調査団の環境を示す記載も多く見つかった。

 鉱業博物館の好意で、フィールドノートを2冊借り出すことが出来た。


渡辺先生のフィールドノートのコピーと解読を行った。昭和20年10月11日から10月13日が広島の調査。14日は長崎への移動。この移動も苦労が多かったようである。10月15日から19日まで長崎で調査。翌年5月7日広島、13・14日長崎を再調査している。
浦上天主堂の記載を詳細に検討し推理を働かせると5月に天主堂に行ったときに獅子頭を採集したのではないか。天主堂を撮影した写真には2種類あるようである。一部の写真は、フィールドノートの10月の記載と良く一致する。そこには獅子頭の像は写っていない。また、翌年に天主堂に行ったときの記載は、全くといって無く、単に天主堂を訪れ中田神父と会った、との記載である。しかし、この時に多くの写真が撮られているがフィールドノートにその詳しい記載はない。そして、その中に柱から獅子頭が剥落した写真が撮られている。そこから推測するに、渡辺先生は獅子頭を採集して、その起源を明らかにするために、遠景からアップまでズームのような写真を撮影したのではないか。その記載がノートに一切ない。後に、渡辺先生が「獅子頭は、護国神社で拾った」と弟子に告げていたのも謎である。



2003.7.28

 広島平和記念資料館にメールを打って、所蔵の写真試料の閲覧を問い合わせた。

 東京大学総合研究博物館には、昭和20年10月に被爆調査団として広島・長崎に入った物理班地学グループの故渡辺武男教授が収集した被爆標本が約100点と先生自身が撮影した写真130枚が残されております。この未公開資料を使って2004年1月に被爆試料展を計画しております。しかしながら、先生の残された写真や試料には完全なデータが付随しておらず、その同定に苦労しております。貴資料館には米軍から返還された資料や佐々木雄一郎氏が撮影した写真資料などが収蔵されていると伺っておりますが、私どもがその写真を閲覧することは可能でしょうか。また閲覧の結果、私達の展示にとって重要であると思われる写真資料が見つかった場合には展示期間に借用することは可能でしょうか。


2003.7.29

広島よりの返事。

 お問い合わせの写真資料は、学術調査団の一行が広島にて撮影したものと思われます。代表的な写真を4・5枚メールかFAXにてお送りいただき当館にて把握しております学術調査団の写真と比較してみます。
米軍撮影の写真資料につきましては、当館の平和データベースにて、閲覧できます。米軍撮影の写真等につきましては、貴学の博物館の展示でもご活用いただけます。


2003.7.30

広島への返事。

 当館に所蔵する写真は、調査団の写真というよりも調査団の先生が個人的に写した写真で、地学班の調査に必要な写真であったと思います。一部をお送りしますが、上2段は長崎です。下2段が広島で、相生橋、猿楽町市電通り、商工会議所前、己斐付近、護国神社などが写っています。
現在、私が一番知りたいのは、護国神社で、被爆前後の状況の調査を進めていますが、被爆直後の写真を見たいと思っております。現存の護国神社には当時の面影を伝えるものがいくつかありますが、多くが失われたような気がします。
貴館の写真ライブラリーを見たいと思っているのは上に述べたような考えです。デジタル化された情報は、多くの重要な情報を欠落させるので、出来ればオリジナルの写真を見たいと思っております。


2003.7.30

広島からの返事。

 被爆写真に関連したお問い合わせのほとんどが、既に発表されたもののプリント違いですので、今回も、てっきり学術調査団に同行したカメラマン(菊池俊吉氏・林重男氏)撮影のものであろうと思っておりました。添付の画像を拝見いたしました。私どもには、なじみ深い「護国神社」の画像ですが、今まで確認してきたものとは、微妙に違うように思います。
1946年3月に米軍の戦略爆撃調査団がムービーで護国神社を撮影しております。このムービー(16ミリ)からデジタル化したものでしたら、お貸し出しできます。




2003.8.02

 渡辺先生のフィールドノートには多くの具体的な採集地点の建物や記念碑の名前が記載されている。これらの名称から採集地点を明らかにするためには、当時の地名や建物を記載した地図が必要である。まず、広島から作業を始めた。購入した「広島原爆戦災誌」には地区別の被害状況が記載されており、その中に簡易的ではあるが地図がある。これを拡大し、張り合わせると、一応の戦前地図が出来上がった。現在の地図と比較しつつ、ここに先生の採集地点をプロットしていった。広島では、原爆後の再興時に、多くの寺や神社、銀行、公共建物を移転させている。その結果、現代の地図では当時とは全く異なった場所に建物の名前を発見することになった。広島は原爆からの復興に際して、都市の再整備をかなりドラスティックにやったことが推測される。

 ちなみに長崎を見ると、(長崎の原爆戦災誌にある地図は、余りに省略が多い)長崎はおおむね場所の特定が現在の地図でも出来る。町名が変わったくらいである。これは、広島の爆心が市の中央であったが長崎は郊外の浦上であったことの差であろう。

 いずれにせよ、フィールドノートの記載には、具体的な名前が記されているので、先生の足跡を具体的に追跡することが可能である。問題は、先生の筆跡を読みとることで、相当頑張ったが、どうしても読めない個所が多い。解読を谷川さんにお願いする。


2003.8.11

長崎原爆資料館へのメール。

 その後、被爆調査団の渡辺武男教授のフィールドノートを発見しました。その中に、先生が調査したり、サンプルを収集した場所などが書き込まれておりますが、場所を特定できないところが何カ所かありました。その場所がどこにあったかを、お教えいただければ、大変に助かります。
1)御大典記念碑 (現存しますか?)
2)忠魂碑(明治37-38年戦役碑とあります)
3)高江橋
4)照円寺
5)高尾橋
6)さかひ橋(さかいばし)


2003.8.11

広島平和記念資料館へのメール。

 その後、被爆調査団物理班地学グループの渡辺武男東大教授のフィールドノートを発見しました。その中には、先生が訪れた場所、写真を撮った場所、あるいは採集をした場所などが記されています。しかしながら、現在場所を特定できないところが何カ所かあります。その場所が現在のどこに当たるか、またどこにあったか等をお教えいただきたくお願い申し上げます。
1)誓立寺(現在は西区にあるようですが、被爆当時の場所が不明です)
2)西福院
3)本逕寺
4)明月堂
5)福仰神記念碑
6)神田外科(駅の近くと思われる)
7)東警察署白鳥巡査派出所
8)杉本中佐像(現存しますか?)


2003.8.12

広島からの返事。

現時点での情報をお知らせします。
1) 誓立寺
被爆時 広島市立町14番地(中区立町1-20、新生銀行広島支店の場所)
2) 西福院
被爆時には、建物疎開のため、建物はなかった。
被爆時 広島市木挽町 (中区中島町、平和大通り、国際会議場前の交差点付近)
3) 本逕寺
現在地(被爆時と同じ)中区大手町3-13-11
4) 明月堂  不明(お寺の一部では?)
5) 福仰神記念碑  不明
6) 神田外科(駅の近くと思われる) 不明
7) 常盤橋西詰にあった白島派出所と思われる。
現在地 中区白島常盤橋西詰交差点(常盤橋は現在も同じ場所にある。)
8) 杉本中佐像(現存しますか?)
金龍寺にある杉本五郎中佐の記念碑と思われる。(現存するらしい。)
現在地(被爆時と同じ)中区小町9-37 金龍寺


2003.8.12

広島への返信。

1) 明月堂:メモとして、境町角、喫茶とあるので何か参考になるかもしれません。
2) 杉本中佐:ご教示いただいた金龍寺でないかもしれません。といいますのは、当日の先生の行動は
神田外科(位置不明)ー東警察署白島派出所ー広島連隊区司令部ー杉本中佐像ー野砲兵第5連隊ー陸軍病院分院ー日清戦勝記念碑
となっています。このルートの中では、金龍寺は、南に飛び離れているような気がします。幡町か陸軍の敷地内の近傍に可能性は無いでしょうか。神田外科も幡町付近かもしれません。


2003.8.13

広島からの返信。

1) 明月堂:メモとして、境町角、喫茶
被爆時堺(さかい)町一丁目1番(角地)に、「風月堂」というお店がありました。現在の中区堺町一丁目、本川橋(被爆時のまま)100メートル程度西の場所です。
2) 杉本中佐像について
お知らせいただいた行動範囲から、杉本中佐像は「北清事変記念碑」の可能性があるように思います。
添付しております画像は、被爆時の広島市基町にあった軍事施設の地図です。
野砲兵第五聯隊は、被爆時、砲兵補充隊でした。





2003.8.14

 藤田紀子、半田南海江さんの2人に、渡辺先生フィールドノートの未解読の文字の解読を手伝ってもらった。全体として90%以上は読めたが、いくつかは未解読で残されている。しかし、本質的には終了。


2003.8.18

長崎からの返信。

お尋ねの6つの件につきまして、調べてみました。
1) 御大典記念碑(現存しますか?)
当時の場所ではありませんが、現在も松山町の平和公園内の一角にあります。(昭和45年に移設されたそうです。)
2) 忠魂碑
わかりませんでした。
3) 高江橋
「長崎手帳No.30」の長崎橋名録によると、『高江橋』は、江平町にあるとの記述がありますが、詳しい場所や現存するかどうかは不明です。
「長崎手帳No.30」の長崎橋名録は、昭和36年4月現在の長崎市内の市橋・県橋を市、県の橋梁台帳と照合して記載してあるものです。
4) 照円寺
現住所:清水町5番75号です。当時と同じ場所に現在もあります。
5) 高尾橋
「長崎手帳No.30」の長崎橋名録によると、高尾町にあるとの記述があります。しかし、古い新聞の記事(と思われる)には昭和32年に「高尾橋」と命名されたとありますので、お尋ねの橋とは別の橋かも知れません。
6) さかひ橋(さかいばし)
わかりませんでした。

 


2003.8.19

 展示は、渡辺先生の科学者の視点を中心にして、広島の象徴として護国神社、長崎の象徴として浦上天主堂を据える。更に、日銀旧広島支店の再活用プロジェクトの提案も展示に盛りこむ。

 現時点のアイディアとして、第1室は展示の象徴的表現空間。第2室は渡辺武男の視点(スケッチ、写真、関連の紙資料など)。第3室は日銀広島支店を中心とした展示。第4室が被爆試料による護国神社と浦上天主堂の象徴的展示としたい。


2003.8.25

 広島と長崎を最終的に調査する必要があるが、その要点をまとめてみた。

1) 広島
渡辺先生の足取りで不明である場所は限られている。残されているのは、杉本中佐像がある場所であるが、北清事変碑の写真を見る必要がある。最終調査は原爆資料館の映像ギャラリーで護国神社の被爆直後の写真と北清事変碑の写真を調べることである。
また、護国神社は、広島の象徴に据えるので、被爆直後の狛犬や石灯籠、唐獅子などの崩壊の様子、数などを詳細に把握しておくことが重要である。場合によっては、護国神社の現存する全ての建造物の製作年月日(奉納年月日)を記録しておく必要がある。
2) 長崎
渡辺先生の足取りを追うためには、いくつかの地点を同定しなければならない。
さかひ橋:スケッチから川の分岐点にある橋で、しかも浦上地区である。この点に注目すると天主公園、浦上川・下の川分岐点、岩屋橋付近の浦上川分岐点の3個所が調査対象となる。
おとなし橋:この橋は岩屋橋と照円寺の間にある可能性が高い。岩屋橋と照円寺の間には、2本の橋が地図上で見出される。
高江橋:この橋は、浦上周辺で、江平町にあるとされている。そこで、浦上天主堂から江平方面にながれている川にかかる約7本の橋を調べ、更に長崎大学付属病院から医学部への途中にある橋を調べる。
松山橋:この橋は、多分天主堂から松山町交差点に下る道の下の川に架かる橋であろう。
スケッチにある坂:多分、皇太神宮から付属病院に下る坂道であろう。
西一條橋:この日の調査は浦上西北部で、昼食を鎮西学園で摂っている。浦上西北部で、しかも護国神社以南、鎮西学園以北にある川は1つだけである。そこで、その川に架かる橋は6程度であるので、これを調査する。
川側の崖スケッチ:鎮西学園の側に鎮西公園があり、その形や川の流れの方向が、スケッチと似ているので、鎮西学園北側の鎮西公園付近の地形を調査する。
余裕があれば、御大典記念碑(平和公園松山町入口)、忠魂碑(聖徳寺)、淵神社を見ておく。


2003.8.29

 石田さんから「被爆試料展」展示スケジュールと展示への注意事項のメモ。

1) 渡辺武男はどんな人物か
経歴と研究歴
2) 被爆調査団とはWhy, Who, How and Results
被爆調査団が組織された経緯
どのようなグループでどのようなメンバーで構成されたか
調査の手法
報告書
3) 渡辺先生の足跡
渡辺先生の視点
渡辺先生の手法
調査方法と実践
成果
4) そこから感じたこと
展示に向けて
準備
    標本のキュレーション
    フィールドワーク
    資料の探索
何を主眼に
どのように表現するか


2003.9.3

 渡辺野帳に残されていた橋の名前で、まだ未調査のものについて長崎原爆資料館に問い合わせた。

渡辺教授のノートに
1)西一條(条)橋
2)おとなし(ヲトナシ)橋
が出てきました。長崎橋名録にでているでしょうか。
西一條橋は、浦上川西部の城山小学校から鎮西学院付近にあったと思われます。また、おとなし橋は岩屋橋から照円寺の間にあったと思われます。(先生のノートの上の書いた順番から判断)


2003.9.5

長崎原爆資料館から2つの橋の回答。

1) 西一條(条)橋
「長崎橋名録」に城山町1丁目にあるとの記載があります。
浦上川ではなく、浦上川に合流する城山川に架かっています。
今も西一條(条)橋は存在しますが、これまでに河川工事なども行なわれており、現存する橋が当時のものかどうかはわかりません。
場所は、城山町と城栄町の町境で、城山小学校の北北西の方角になります。
(城山町1丁目昭和41年3月にいくつかの町にわかれ、現在は城山町1丁目という町は存在しません。)
2) おとなし(ヲトナシ)橋
おそらく「音無橋」のことだと思います。
「長崎橋名録」には住吉町にあるとの記載があります。
昭和36年4月当時、音無町はまだ無く、住吉町は現在の住吉町よりも広い町でした。音無町は昭和40年4月に住吉町・西町・西北町の一部から新たにできた町です。現在、音無橋は音無町と隣接する若葉町にあります。
この町も音無町同様昭和40年4月に住吉町・西町・西北町の一部から新たにできた町です。現在の音無橋は暗渠となった川の上にある道路として存在しています。いつ架けられたものかどうかわかりませんでしたので、現存するものが当時のものかどうかはわかりませんでした。


2003.9.17

展示のタイトルについて:

(案)

タイトルは:   「石への熱線」
  「岩石の熱線記憶」 
  「石は熱いと感じたか」
  「石に記録(記憶)された熱線」
で、いずれも—被爆資料に見る科学者の目—のサブタイトルをつける。


2003.9.17

第三回被爆展打ち合わせ


2003.9.26

広島平和記念資料館へのメール。

 来年の1月から4月に、我々の博物館で被爆試料の特別展を行いますが、そのなかで広島平和記念資料館所蔵の以下の写真や映画を借用したいと考えております。
1) 広島原爆戦災誌付録二の焦土広島の全景(写真)
2) 米軍撮影の映画
3) 護国神社の被災状況を撮影した写真
以上3点の借用は可能でしょうか。


2003.9.26

長崎原爆資料館へのメール。

 私たちの博物館では、所蔵の被爆試料で来年の1月から5月の予定で特別展示会を計画しておりますが、その中で
1) 長崎原爆戦災誌の巻頭にある「被爆直後の長崎市裏紙方面全影」写真
2) 米軍あるいは調査団が撮影した映画
を使いたいと考えております。
1) については、拡大して壁面を飾りたいと思っています。
2) については、その存在を確認しているわけではなく、もし貴資料館に存在するならば上映(ミニコーナーで)したいと考えております。
以上2点の借用は可能でしょうか。


2003.9.29

広島からの返信。

 10月3日でございましたら、先月、お送りいただいたサンプルを拝見した限りでは、林重男さん(学術調査団に同行したプロカメラマン)の残されている写真と同じ対象が写っておりましたので、林さんの写真の撮影位置を特定した広島の写真家さんにも同席していただくことが可能でございます。


2003.10.03

広島の最終調査。先ず、懸案であった護国神社の現存する全ての建造物の奉献時期を調査した。

 広島城の京門には、被爆時に参道入り口にあって倒壊を免れた鳥居と社標がある。鳥居は昭和9年に、標柱は昭和14年に奉献されている。また本殿前には、向かって左から、旗柱、石灯籠、狛犬(金属)、鳥居、社標、狛犬(金属)、馬像、旗柱、石灯籠と並んでいる。旗柱、石灯籠、狛犬(金属)はいずれも昭和9年奉献、鳥居は平成2年建設。標柱には奉献年は記述がないが、裏面に陸軍中将従四位勲二等功三級田部正壮謹言とあることから、少なくとも戦中・戦前であることがわかる。馬像の奉献時期は確認は出来なかったが極めて新しい。拝殿前に左右一対の石灯籠と狛犬(御影石)がある。共に昭和9年奉献である。狛犬の一番下の台座には平成8年建設とあった。

 その後、平和記念資料館で、啓発係・菊楽忍、学芸担当主査・濱本康敬、同嘱託・下村真理の各氏と写真家井手三千男氏と渡辺武男撮影の写真について話をした。いずれも、今までに無かった視点の写真であり、いくつかの写真は資料館にも存在しない。写真を公共の使用に供することが大切であると考えて、渡辺写真のデジタルデータを資料館に寄託することにした。新たに解ったことは

1) 己斐で写された写真は正しくは古江である
2) 復興住宅として写っているのは袋町小学校校庭である
3) 杉本中佐像は北清事変記念碑の両脇にある像であろう。この記念碑の一部は比治山にある。
4) 日清戦役記念碑は無くなっている。


 東大の展示用に米軍撮影のフィルム(DVD3枚)と林重男撮影のパノラマ写真を借りる手続きをした。

帰途で思い浮かんだ展示タイトル:

「石に刻まれた熱線」展—被爆資料を見つめた科学者の目—

「石の記憶」展—被爆資料に注がれた科学者の目—



2003.10.5-10.6

 最後の長崎調査。渡辺のフィールドノートに記述されている場所名の中で、位置が特定されていないものの発見が主目的である。

 まず、平和記念公園の平和の泉から南東に下る坂道の途中で「御大典記念碑」を見つけた。台座は近年に建設された。御大典記念の文字は金色の塗料が置かれ、非常な違和感を与える。もともとは松山町の大通りの近くに設置されていたことが渡辺写真から解る。そこから、川沿いに(下の川)松山町方面に行くと松山橋を確認。そこで、「さかひ橋」が2つに川の分流地点であると推測されることから、その第1候補である天主公園に向かう。しかし、そこには「さかひ橋」は存在しなかった。次ぎに、「高江橋」の確認に向かった。高江橋は天主堂下を流れる川の江平地区にあるとされている。しかし川を江平まで遡ってみるが、高江橋は見出すことが出来なかった。途中の本尾公民館で集会を開いていた人々に尋ねたところ、近所の故老の所まで連れて行ってくれた。その人は本尾で生まれ、出征から帰り、その後もずっとこの辺りを見続けた人であった。その人にして高江橋は知らなかった。そこで原爆資料館に立ち寄り、図書室で被爆地域復元地図で高江橋を探したが、その地図には橋名の記述はなかった。次ぎに、西一条橋を探した。城山小学校の北を流れる川に沿って調査して西一条橋を見つけることが出来た。次ぎに訪れたのは、渡辺が、安山岩の露頭として記述している鎮西学園下の場所である。現地は一部にガソリンスタンドが営業しており、露頭部は完全にセメントに覆われている。しかし、外観は大きな露頭を想像させるに十分であった。露頭上部は鎮西公園であるので、公園内には露頭の一部が見えるかも知れない(確認せず)。そこから浦上川と下の川分流地点に向かい「さかひ橋」の有無を調べたが、解らなかった。しかし、下の川橋を確認。更に、国道206号を北上して岩屋橋付近の分流も調査。しかし「さかひ橋」は発見できなかった。そこでの結論は、さかひ橋はAtomic Field と同じ項で記述されているので原爆投下地点の近傍である。さかひ橋の延長上に階段と思われるスケッチがある。

 このことから、被爆直後にはあった橋や道路は記念館などの建設で無くなってしまった、と考えられる。

 翌日は、天主堂下のもう一つの川筋を調べることにした。天主堂から少し上流で「高尾橋」を発見した。そこから再び資料館に行ったが、図書室は閉鎖されており、原爆投下地点の近傍の地図から可能性を探ることはできなかった。城山小学校の被爆校舎で、事務室に見学許可を求めたところ、校長自ら案内をしてくれた。

 

 


 被爆前に復元した地図のコピーを中頭さんに依頼することとした。


2003.10.6

 長崎よりの返信。

2) につきましては、残念ながら、そのような映画は所有しておりません。
1) の件についての補足ですが、この写真は小川虎彦氏が撮影されたものですので、ご使用の際は「小川虎彦氏撮影/長崎原爆資料館所蔵」との記載をお願いいたします。


2003.10.9

 清水晶子さんからのメール。

次のようなタイトルはいかがでしょうか。
石の記憶-ヒロシマ、ナガサキ
ヒロシマ、ナガサキと言われれば誰でも(インターナショナルにも)何をさしているかわかると思うのです。


2003.10.9

 広島平和記念資料館で会ったカメラマン井手氏から、林重男氏寄託写真の調査と護国神社の伽藍配置図のコピーが送られてきた。護国神社の伽藍配置図は広島招魂神社時代の配置図であり、さらに奉献した物品のリストが付属していた。それによれば、失われた狛犬は御影石造りで高さおよそ2mであり、それから計算すると頭部の大きさは40〜60cm程度になる。伽藍の配置は我々の作成した護国神社の配置図と一致する。


2003.10.14

 展示や図録で使用する小川虎彦氏、林重男氏の撮影した写真の使用許可について長崎からのメール。

 小川氏の写真は、当館が所有しておりますが、林氏の写真は、当館と林氏の間で寄託契約を結び、当館が保管はしておりますが、所有権はご遺族にあります。
このため、まず、掲載(使用)許可申請書をご遺族に郵送し、許可していただけた場合は許可書(林氏の押印がされたもの)が返送されてきますので、その許可書と原爆資料館資料貸出許可申請書を一緒に原爆資料館に提出して下さい。


2003.10.30

 長崎の映像を探していたが、長崎平和推進協会が所有のビデオがあるとの情報を得た。そこで、長崎にメールで打診した。

 先日、長崎平和推進協会の松尾様より、「広島・長崎における原子爆弾の効果」長崎編ダイジェスト版のビデオ貸し出しについてメールをいただきました。未だビデオを見ておりませんので、確定はしておりませんが、東京大学総合研究博物館の展示で上映したいと思います。この上映に際しては何処に上映の許諾を得れば良いのでしょうか?松尾様のメールではこのビデオは原爆資料館が作製し長崎平和推進協会に寄贈した、とありますので、上映の許諾の決定権は原爆資料館にあるように思えます。また上映に際してはビデオですとテープの傷みやエンドレス上映に不便ですので許可を得てデジタル化してDVDで上映しようと考えております。もし、このビデオ関する著作権を長崎原爆資料館がお持ちでしたら、上映の許諾を頂くための手続きをお教え頂きたいと思います。


2003.11.4

 長崎よりの回答。

 早速ですが、「広島・長崎における原子爆弾の効果」長崎編ダイジェスト版についてのテープの加工(デジタル化等も含む)等を許可する権利は、当館にはないと考えます。
確かに、このダイジェスト版は長崎市が企画したものです。この映画自体を、長崎市が企画したといっても、当時、すでにあったフィルムを、権利の問題をクリアにして、ダイジェスト版を制作したにすぎません。現時点で、私どもとしましては、当時、長崎市に与えられた権利は、ダイジェスト版を作り、平和のために利用する、というところまでと考えており、ビデオテープの加工という二次使用(また、それを許可する権利)等までは、含まれていないと考えます。したがって、(財)長崎平和推進協会からビデオテープを借りられて上映されるのは、なんら問題はありませんが、テープのデジタル化について、許可する権利は、当館(長崎市)にはありません。

 そこで、広島にも同様の質問をしたところ、


2003.11.17

 さて、お問い合わせの「広島・長崎における原子爆弾の効果」は当館では所有しておりません。この映画の権利はすべてつぎの所にあります。
日本映画新社
なお、この映画の編集時に使用しなかった(残り物の)フィルムを「焦土のカルテ」という作品にしたものでしたら、資料館でも所有しております。


2003.11.20

 日本映画新社を訪れて、今回の展示の趣旨を説明し、長崎・広島の原爆記録写真を展示会場で上映することの承認の得ることが出来た。今後は編集の作業が必要になる。


2003.11.21

 長崎原爆資料館への質問。

 長崎原爆戦災誌のなかに爆心地の決定という項目があります。第2巻の70頁ですが、そこに浦上天主堂の忠霊碑、浦上天主堂前の記念碑につけられた陰を測定した、とあります。
以前にお伺いした忠魂碑(明治37−38年戦役)が忠霊碑に当たるかもしれないと考えておりますが、この忠霊碑は、明治37−38年戦役に対する忠霊碑なのでしょうか。また現在は残されているでしょうか。もし残されているとすれば、どこにあるでしょうか。
浦上天主堂前の記念碑とは、なんの記念碑でしょうか。渡辺先生のメモに「宗教の許された記念碑、日本における公教の復活50年記念」とありますが、同じ物でしょうか。また現在は残されているでしょうか。もし残されているとすれば、どこにあるでしょうか。


2003.11.27

 長崎よりの返事。

 お尋ねの、長崎原爆戦災誌のある爆心地を決定する影の測定をしたとされる地点のうちの「浦上天主堂の忠霊碑」「浦上天主堂前の記念碑」についてですが、この記述が、どの文献を参考として書かれたものであるかはわかりませんでしたが、実際に爆心地の決定の測定にあたられたなかの一人である木村一治氏の著書「核と共に50年」なかに、「井樋の口の交番の庇の影」、「浦上天主堂の石碑にできた影」、「長崎医科大学附属医院の焼け跡で見つけた影」の3箇所を元に爆心地を決定したとの記述がありました。このうち、浦上天主堂については、「一段下った所にある忠魂碑についた影と、聖堂に近い石碑が共に測定に値する影の記録を残している。後者は二六聖者の告別碑と呼ばれたものだったかも知れない。方向、仰角を共に決めることができた。」との記述があります。しかし、現在、浦上天主堂には「二六聖者の告別碑」と呼ばれる石碑はありません。ただ、現存する「信仰の礎」と呼ばれる石碑の碑文に「・・・二十六聖者等が殉教の途次其死別を浦上に告げられたる・・・」とあることから、この石碑のことではないかと考えられます。この石碑は天主堂の前庭に、1920年(大正9年)、流配50周年を記念して建てられたもので、記念のミサの後に除幕式が行われたとのことです。石碑の上部に「信仰の礎」という文字と共に「日本に於ける公教の復活五十年記念」とも刻まれており、渡辺先生のメモにある「宗教の許された記念碑、日本における公教の復活50周年記念」と記されたものという石碑がまさしくこの石碑だと思います。おそらく、長崎原爆戦災誌でいうところの「浦上天主堂前の記念碑」が、この「信仰の礎」ではないかと考えられます。
もうひとつの「浦上天主堂の忠霊碑」は残念ながら、現存するものかどうかわかりません。ただ、浦上天主堂に向かって右側に上記の信仰の礎があり、左側にも石碑があります。この石碑には、「明治元年より明治六年まで宗教の為に諸国にあづけられたる浦上公教信者の数と其国別とを記念として茲に記す」との碑文と、大正十四年六月との日付が刻まれており、確証はありませんが、もしかしたら、この碑が戦災誌でいうところの忠霊碑かもしれません。ただ、もしそうだとすれば、お尋ねの忠霊碑とは違うものということになります。
浦上天主堂にも問い合わせをいたしましたが、「忠霊碑」や「記念碑」というだけでは、わかりませんとのことでした。


2003.12.1

 本日、秋田大学鉱業博物館から渡辺先生のフィールドノート320冊到着。また渡辺先生の息子さんである渡辺顯氏から手紙をいただいた。渡辺先生愛用のLeica IIIaが手元にあり、貸して頂けるとの朗報を得た。




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