被爆試料の記載

玄蕃 教代
東京大学総合研究博物館



 原子爆弾災害調査に地学グループとして参加した渡辺武男先生は多くの原爆の被害を受けた試料を採集してきた。それらの試料は、60年間本博物館の試料棚に静かに保存されていた。60年分のほこりをかぶり誰にも触れられることのなかった原爆試料を手に取るとずっしりと石の重みを感じ、原爆試料はほこりを取り除くと当時の状況を残していた。紙でできた試料ケースやラベルは腐りかけ、文字もほとんど見えない状態だったが、瓦や石材、建造物破片などの岩石試料は風化することなく残っていた。採集された試料はどこにでもあるような瓦や天然岩石、人造石であり、試料に直接番号が記されていた。試料にはラベルがついているもの、ついていないもの、新聞紙の切れ端にメモ程度に書かれているものなど、記載保存状況はバラバラだったが、その様子が当時の調査環境を示しているようにも感じられる。これらの試料を採集者である渡辺先生の残したフィールドノートと照らし合わせ採集地点や原爆被害について検討した。


試料とフィールドノート

 被爆試料の採集地点を知るためには、まず、ラベルと試料を照らし合わせ広島の試料と長崎の試料に大きく分ける必要があった。しかし、フィールドノートを見ずにラベルのみで分類すると、番号のみが記され、「廣島」、「長崎」の記載がないものが数多く存在したために、地点不明の試料が多く残ってしまった。また、「ABH 4」などと記号で記されている試料や建造物名のみの記載もあり、それらの解読も必要であった。わかった範囲で試料全体を見ると、長崎の試料が広島の試料よりも多いことに気づく。フィールドノートの観察・採集地点を比較しても長崎のほうが観察間隔が狭く、試料も多い。試料内容では、広島は瓦や天然岩石が主だが、長崎ではコンクリートや壁材などの人造石も多く採集されている。試料をフィールドノートと照らし合わせ、詳細不明なラベルの地域特定を行うといくつかの食い違いと試料番号の欠如が見られた。フィールドノートに記載のある試料と実際博物館に保存されている試料が異なっているものもあった。例えば、記載には「瓦」とあるが実際の試料はレンガであったり、フィールドノートでは「堺町角」とあるのにラベルには「西大(工)町」と違う地名になっていたり。これらの食い違いはおそらく、同じラベル番号で複数の試料を採集したことや、いくつかのラベルの記載を調査・採集時ではなく後日行ったために起こったと考えられる。また、試料の中にはラベル記載方法や採集日時の異なるものがある。異なる採集者名の記載もあるため、渡辺先生の調査同行者や協力者が個人的に採集したものも含まれているのだろう。本博物館には150余りの被爆試料があるが、その中に渡辺先生が採集したと考えられる試料は70数点あり、その他は同行者や協力者により採集されたものと考えられる。同行者や協力者個人の記録はないため、実際に原爆の被害を受けたものなのかわからない試料も含まれており、また、採集地点の手がかりとなるのは彼らの試料ラベルのみである。

 渡辺先生の記載と試料を比較してみると、欠如しているものは約半数ある。採集後、渡辺先生自身による調査分析や、ある研究機関に提供して分析を行った記録もあるため、そのときに使用されてしまったのだろう。あるいは、現地で観察し、あまり被爆の特徴を示していない試料は採集してこなかったのかもしれない。実際、本館所蔵の試料ほとんどに焼け跡や熔融現象が見られ、記載に「変化ナシ」となっていたものは数点しかない。調査記録にも主に現地での観察結果が記載されている。1日調査をしながら6km近く歩き回り、岩石試料を20点前後持ち歩くことを考えると、試料は必要最低限に抑えるのが当然である。

 その他に同じ番号で複数の試料があるものでは、試料の番号記載を60と60のように書き分けてあったがその詳細は不明である。試料全体の内容は後記のインデックスを参照していただきたい。


窯業産物(瓦)

 試料の種類を区別すると瓦が多いことに気づく。瓦は日本の家屋で最も広く使用され家の最上部に配置されている。また、一つの地域で使用される瓦は供給地がほぼ一定しており、材質にも変化が少ない。そのため、原爆の熱線を直接浴びる瓦は、熱線の方向や温度などを調べるのに非常に有効な試料である。現在ではセメント瓦なども普及しているが、昔から変わらず利用されている瓦は、岩石の風化粘土を材料にして型取り、窯で焼いて作る。素焼き瓦やいぶし瓦、釉薬瓦など、各地域の気候に合わせ様々な種類が作られている。例えば、東北・北陸地方のように降雪量の多い地域では雪に強い釉薬瓦や塩泥焼、関東以南の温暖地域では素焼き瓦やいぶし瓦の他に、塩焼、備前焼などの瓦が使用されている。その地域に産する粘土を用いて、素焼き瓦の場合は1000℃以下で、それ以外の瓦では1200℃前後で焼成され、いぶし瓦の場合は焼成のあと、松などを低温で焚き、炭素膜を瓦表面に覆わせていく。当時、広島で使用されていた瓦は、主に石英斑岩や花崗岩の風化粘土から作られており温暖地域特有の三州瓦、京瓦、菊間瓦と呼ばれるものが使用されていた。その中で最も多く使用されていたのが菊間瓦である。菊間瓦は五味土(長石、角閃石、石英、モンモリロナイトなどの粘土鉱物)と呼ばれる粘土を用いたいぶし瓦である。渡辺先生のフィールドノートにも菊間瓦の記載がある。一方、長崎では被害地域には工場等が多く分布し家屋用の瓦はあまり均一に分布していなかったようである。この地域は、筑後、城島、肥前、肥後や長崎いぶしと呼ばれる台風対策用の瓦が使用されている。

 瓦の被害状況を見てみると、ほとんどの試料で表面が焼け、溶けた様子が見られる。広島と長崎の違いは、瓦の種類によっても異なるが、広島よりも長崎の方が表面の気泡の大きさが大きく、また、ガラスはほとんどが黄色身がかっていることである。広島の方は気泡が細かく、ガラスは黒から褐色がかっているものが多い。よく見られる現象として、一つの試料で焼けている部分と変化のない部分が明瞭に分かれていることがあげられる。地域別に見てみると、広島では「No.7 廣島 AC〜500m」(AC; Atomic Center 爆心)、「No.10 棟瓦 廣島 爆心 島病院」、「No.41 廣島 護国神社」、「No.H1 廣島 爆心」の瓦で、長崎では「No.56 長崎 爆心 東200m」、「No.121 Nagasaki A.C. 600m」、「No.N10 皇太神宮一ノ鳥居より100m南方地点」の瓦でこの現象が見られる。これは瓦には重なりがあり、他のものに覆われていた部分は原爆の熱線の被害を受けなかったことを示している。また、爆心近くでは瓦全体に熔融現象が見られるが、少し離れると熱線の方向にのみ熔融現象が見られその周囲では変化が見られないものもある(「No.40」、「No.47」、「No.68」、「No.N17」、「No.N18」)。瓦は丸いアーチ型で主に屋根の最上部に配置される棟瓦と斜面に配置される平瓦が採集されているが、棟瓦は全体にガラスを生じているものが多い。これらのことを考慮すると、周囲に何か熱線を遮るものがあった場合、その影になった部分は被害を受けず、原爆の熱線は例えば光のように直線的に進むということが考えられる。セメント瓦は同じ爆心地でも熔融現象の見られるものと見られないものがあった。これらの違いは材料の違いによるものと考えられる。


天然岩石(花崗岩・安山岩、その他)

 瓦以外の岩石試料として、花崗岩(みかげ石)や安山岩が多く採集されている。広島県周辺と中国地方には花崗岩が、長崎県周辺には安山岩が基盤として分布しており、それらが石材として主に使用されている。そのため、それぞれの岩石が町の景観の中心となっており、本調査では比較対照のために採集されている。広島の花崗岩は、徳山、倉橋島、讃岐産のもので、特に徳山石といわれる白くて目の粗いものが住宅の門などに多く使用されていたらしい。長崎の安山岩は供給地が一定しておらず、必ずしも長崎近辺のものが使用されているわけではない。しかし、石材としては広島の場合と取って代わっている。墓石などにも広島では花崗岩が、長崎では安山岩が多く使用されている。試料に関する両地域に共通する被害は、花崗岩の場合、爆心近くの試料では岩石表面が薄く剥がれる剥離現象と有色鉱物(雲母、角閃石など)の熔融現象が見られる。剥離現象の見られる試料は「No.11 廣島 元安橋」、「No.43 廣島 護国神社 正面鳥居前」、「No.H6 ABH 12 原子爆弾」、「No.H11 みかげ石 ひろしま ゴコクジンジャ」、「No.68 長崎 浦上天主堂」(2点)、「No.96 長崎 浦上天主堂入口」で、これらの試料は表面が脆くなっており触れると崩れてしまう。また、これら7点の試料では同時に有色鉱物の熔融も見られた。剥離現象は高温による石英の相変化(α-石英→β-石英→トリディマイト)による体積変化によって起こるものと考えられ、この現象は1気圧下(地上)でα-石英→β-石英が約500℃、β-石英→トリディマイトが900℃前後で起こるものである。また、有色鉱物の熔融は比較的融点の低い鉱物が熱線により溶けたものである。試料中の花崗岩での有色鉱物の熔融は微小であり、コゲのように見える。安山岩ではほとんどの試料が表面全体で熔融現象を起こしていた。安山岩は花崗岩に比べると有色鉱物が多く鉱物粒子も小さいため溶けやすいと考えられる。岩石が熔融してできたガラスはすべてが褐色か黒色である。安山岩の熔融現象は「No.29 廣島 爆心 清病院の塀」、「No.57 長崎 爆心地」、「No.59 長崎 爆心地」、「No.N12 爆心より200m 市電停留所付近」、「No.19〜20 126 atomic field 対岸露頭」(同3点)で見られる。

 試料の中で最も目を惹くのは獅子頭である。この試料についてはラベルが2枚あり、他の試料と一緒に保存されていたため詳細は不明だが、材料は安山岩でできており、広島護国神社の狛犬や渡辺先生の当時の写真などから推測するとおそらく長崎の試料である。この試料も表面に熔融現象によって生じた黒色のガラスが見られ原爆の被害を受けている。また、試料として多く採集されているのが敷石である。採集地点が特定できているものは「No.42 Pebbles 廣島 護国神社境内」の敷石で、瓦と同様に上部の石の影の跡が見られる。敷石(「No.42」)では丸い影が明瞭である。その他、丸い置石(砂岩など)や石材として使用されているはんれい岩、泥岩、砂岩などが採集されており、はんれい岩(主に「No.60 長崎」)では有色鉱物がやや溶けているのが観察され、砂岩では表面が焼けて変色しているものや、多少ガラスを生じているものが見られた。熔融現象は天然岩石だけでなくコンクリートやレンガなどの人造石でも見られる。人造石も材料は岩石の風化粘土などなのでそれらの中に含まれる有色鉱物が熔融していると考えられる。コンクリート以外の人造石の熔融ガラスは岩石と同様な褐色または黒色だが、コンクリート(セメント材)は主に薄黄緑色のようなガラスも生じている。溶けた金属によって捕獲されている敷石の試料(「No.25 廣島」)もあった。

 これらの被害を示す試料とは逆に、焼け跡やガラスを生じることなく被爆の影響を示していない試料もあった(「No.H4 ABH10」、「No.N22 天主堂 記念碑」、「No.75 長崎 浦上天主堂」、「No.88 医大付属病院正門門柱」)。これらの試料と同地点または近辺で採集された試料はガラスを生じるなどの現象を示していることを考えると、「No.H4」や「No.88」は耐火材として作られているか、または、これらの試料は熱線よりも先に衝撃波で破壊され何かの影になっていて被害を受けなかったことが考えられる。

写真1. 「No.41 廣島 護国神社」の瓦。上部のガラスに溶けた様子が見られる。

写真1. 「No.39 廣島 西大町」の花崗岩。表面に剥離現象が観察され(上)、
     偏光顕微鏡での観察では鉱物粒子に干渉色の異なる部分が見られる(下)。

薄片試料

 ガラスの生成状況や岩石の剥離現象を詳しく調べるために、両地域の試料を距離ごとに数点選び出し岩石薄片を作った。比較のため原爆被害をあまり受けていない試料もあればよかったのだが、被害を受けていない試料は少なく、採集地点(爆心からの距離)の判明している試料がなかったため今回は被害を受けている試料のみの分析に留まった。瓦や、被害を受けて剥離や熔融現象を示している岩石は非常に脆いため、加工する際には樹脂で固めてから切り出した。広島は爆心(AC)から100〜700mの5点の試料を、長崎も爆心から700mまでの試料を8点使用した。以下にそれぞれの試料について被爆の様子を述べる。

 13点の薄片試料の観察により、瓦や岩石の熔融現象の様子や鉱物の変質が確認された。広島の試料である「No.41」(瓦:AC〜350m)と「No.7」(瓦:AC〜460m)ではガラスが確認され、特に「No.41」ではガラスの流れが観察された。ガラスは、鏡下では無色透明な部分に褐色または茶色の部分が混合している様子が見られた。無色の部分は完全に熔けた斜長石の石基で、有色の部分はおそらく有色鉱物が熔融したものと思われる。「No.42」(敷石:AC〜350m)と「No.39」(花崗岩:AC〜700m)では岩石の剥離現象が観察され、偏光顕微鏡での観察では鉱物粒子に干渉色の異なる部分が見られ、相転移のような現象が認められた。長崎の試料である「No.57」(長石片岩:AC)、「No.56」(瓦:AC〜200m)、「No.59」(安山岩:AC)、「No.N4」(瓦:AC〜200m)、「No.N11」(瓦:AC〜250m)、「No.N8」(瓦:AC〜700m)ではガラスが確認され、「No.56」、「No.59」ではガラスと岩石本体との境界で鉱物の変色(変質)が起こっていた。「No.N20」(変質安山岩:AC〜400m)、「No.N12」(安山岩:AC〜300m)では明瞭なガラス化ではないが表面近くで有色鉱物の熔融と変色が観察された。ガラスを生じている試料において、ほとんどのもので気泡を生じていた。これは、試料中の隙間にあった空気が熱線の熱によって膨張し外部に出されたために起こっていると考えられる。


熱線の温度と範囲

 これまでの観察を総合してみると融点が700℃〜800℃の有色鉱物と約1300℃の斜長石が熔融し、生成過程で1000℃〜1200℃で焼成される瓦が熔融していることから、原爆の熱線の温度は爆心で約2000℃以上、その周囲で約1500℃であったと考えられる。また、広島では試料の被害状況から、瓦の熔融現象は爆心から650〜700mが限界であり、花崗岩の剥離現象は約1000mが限界と考えられる。長崎では広島よりも熔融現象の範囲が広く、瓦の熔融範囲で約1000m、花崗岩の剥離現象では約1500m、安山岩の熔融では約800mが限界と考えられる。長崎のほうが範囲が広い理由として、地形との関連が考えられる。長崎市は周囲を山に囲まれており、熱線の熱があまり外に放射されなかったためその影響を大きく受け、また、熱線の直進する性質により山で跳ね返って再び熱線を浴びたことも考えられる。渡辺先生の記載には、広島の「No.26」(AC〜500m)と「No.17」(AC〜580m)の瓦でほとんど熔融はないとしているが、実際の「No.17」の距離はAC〜700mであるため、熔融範囲はこれが妥当である。その他、各現象の範囲の考察は渡辺先生の当時の考察ともほぼ一致している。

 被害範囲を考慮すると所蔵試料はほとんどが原爆被害を受けているため、広島の試料において、瓦は700m以内、天然岩石(花崗岩、安山岩など)は1000m以内のものを、長崎の試料においては、瓦、天然岩石ともに1000m以内のものを採集してきたと考えられる。

 非常に残念なことは、研究機関に提供した試料の分析結果がわからないことと、長崎の「No.120 浦上駅−爆心地 線路上」とラベルにある15個の線路上の敷石に詳細な番号が記されていないことである。これらの試料は線路の鉄粉にまみれているが、それぞれが原爆の被害を受け、熔融している様子が見られる。しかし、すべてが「120」としか記されていない。同じ120番でも120−1のように番号がついていれば、また、同じ岩石を採集していれば、浦上駅から爆心地までの約700mの中で距離と被害状況の関係を調査することができたはずである。これらの試料の採集地点は渡辺先生しか知らない・・。




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