長崎6景

10.長崎医科大 〜サンプルだけでは満足せず〜

(現・長崎市坂本・・・爆心から約600m)




 長崎の調査2日目。皇太神宮の後にして、長崎医大に行く。昼食もここでとるので、構内をゆっくり回る時間がある。医大附属病院の門の敷石は砂岩で変化はない。門は赤褐色のタイルで割れている。サンプルを採る。この付近は、熔融した瓦が多い。

——「医大附属病院門 敷石 S.S. 変化ナシ」「門 赤褐色タイル ワレテイル」「samples」「附近 瓦ノfuseシタモノ多シ」

 大学入口の石柱の写真をとる。安山岩でできていて、ホルンブレンドが見える。建っている方向は、北から15°西か? 被爆で、花崗岩がここかしこに散らばっている。

——「石柱(長崎医科大学入口)」「N22 hornblende andesite」「方向N15°W?」「granite 散点著シ」

 花崗岩でできた、北から30°西の方向に建つ柱があった。医大正門の石柱は非常に傾いている。安山岩製だ。写真を撮り、方向と傾斜角を測る。北から30°西方向で、48から50°傾いている。精神科から、骨格を残している病院を臨んで写頁を撮る。方向は北から50°西だ。

——「N30°W granite」「長崎医大門」「N23 and. N30°W 48-50°dip」「精神科 photo 病院 N50°W」

 昭和21年5月13日。長崎再訪の折、長崎医科大を訪ねた。医大の敷地内にある花崗岩の台は、肌色の長石の表面が多少熔けている。瓦も熔融している。その様子を撮影した。

——「granite台(医大内)」「肉紅色長石、表面多少meltス」「瓦モmeltセリ photo」

 江戸時代の長崎奉行所西役所医学伝習所をルーツとする長崎医科大(現・長崎大医学部)は、爆心地を見下ろす丘の上にある。一般には、附属病院勤務中に被爆し、自ら重傷を負いながらも負傷者の救護にあたり、亡くなるまでの6年間を原爆障害の研究や平和運動のための執筆活動に捧げた永井隆博士の母校として有名である。

 被爆当時は本館、基礎学教室、2つの専門部などがあった。これらは木造の建物だったので、原爆投下によって倒壊し、引き続き起こった火災で全壊した。大学では夏休みにもかかわらず、戦場に一刻も早く医師を送るために講義が続けられていたので、講堂には着席したままの学生の死体が多数見つかったという。

 一方、附属病院は、地上3階、地下1階の鉄筋コンクリート造であったため倒壊は免れたが、骨格を残すのみだった。大学、附属病院を合わせて、長崎医科大の学生、職員は897名が原子爆弾の犠牲になったが、同年10月には、市立新興善国民学校に医科大学附属医院を開設して、診療を再開したという。

 長崎医科大での渡辺の様子は、「貪欲に、しかし淡々と」と表現できるだろう。石造の門柱が多く試料には困らず、多くの記述、サンプルを残しているのだが、時間が豊富にあったはずであるのにスケッチが少ない。広島では場所を特定できて材質がそろっているという利点から、同じような形の橋や墓石を夢中になってサンプリングしていた渡辺であるが、長崎の地で浦上天主堂や皇太神宮の片足鳥居といった見るものを圧倒する建造物に触れて、単なる石柱に物足りなさを感じ始めたのではないか。事実、渡辺は、長崎では史跡の類に足を伸ばして試料を採ることが大半であったのである。

 

 また、渡辺が傾きを測定した正門の石柱は、今でも被爆建造物として、かつてあった場所の近くに展示されている。この門柱は、高さ1m22cm四方、高さ1.7mあるにもかかわらず、爆風で前に9cmずれ、台座との隙間が最大で16cm開いており、その威力を現在においても伝えている。

 

現在、展示されている被爆門柱(左・上)



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