広島6景

2.島病院と清病院 〜爆心地・地質屋のこだわり〜

(現・中区大手町・・・爆心から0m)




 到着当日(11日)、爆心とされる島病院跡に行く。物理班のメンバーが放射能測定に使う人骨を集めている。その有様にカメラを向ける。自分も、表面の溶融が著しい瓦をサンプルとして拾う。

——「爆心 島病院 測定中写真 photo H2」

 同日、爆心の南方を調査した後、島病院の近くに戻ってきた。斜向かいにある清病院(筆者注:清病院には清茂基の表札がかかっていた)では、塀の上に取り付けられた安山岩(And.=Andesite)が溶けてガラス化し、黒くブツブツした表面を見せている。早速、サンプルとして収集する。

——「清茂基邸ノ壁ノ上 And. glassy化ス」

 外科の島病院と皮膚科・泌尿器科の清病院は共に爆心直下に位置する病院で、十字路を挟んで斜向かいの位置関係にあった。島病院は爆心地ということで、これまでにも多くの書物等に取り上げられおり、非常に著名な場所である。広島市も市の事業として、病院の前に爆心地であることを示す説明プレートを設置している。しかし現在、もう一方の清病院が話題にのぼることは、全くと言ってよいほどない。渡辺の足跡をたどるうえで、爆心に近いことはわかっていたが、場所を特定することも困難を極めた。島病院は島外科として同じ場所で現在も診療が続けられている一方、清病院は跡形もなく立体駐車場に姿を変えてしまっていたことも原因であるが、声をかけたこの地域の住民の中にも、清病院を見聞きする者はいなかった。この町の戦前の町並みを復元地図に残す活動をしている保存会のメンバーの方を紹介してもらい、やっと特定できたほどである。


現在の爆心地付近

 島病院で渡辺が撮影した写真には、渡辺と共に現地入りした調査団の物理班が、原爆投下による放射能汚染を測定するために人骨を採集している姿が捉えられている。これは物理班が他の場所でも採用した手法で、中性子線の影響で安定なリンやイオウから作られた放射化したリン(32P)を測定するために最適な試料が、リンが主成分である骨、または電柱の碍子に使われるイオウだったのである。また、もう一枚の写真には、当時としては珍しいレンガ造の洋風建築であった島病院の玄関脇にあったモダンな丸窓と共に、伝言板が写し出されている。これは院長であった島薫氏が設置したもので、島氏自身は原爆投下の当日、往診のために広島市を離れていたので被爆を免れたが、病院の建物とともに患者、看護婦など関係者約75人を一時に失った。そのために、病院関係者の消息を尋ねる伝言板を敷地内に立てたものだ。さらに、渡辺はフィールドノートに「爆心」と記述し、熔融した瓦をサンプルとして収集をしている。

 もっとも、渡辺は島病院よりも清病院の方により強く関心を持ったようである。

 渡辺の写真の中には、清茂基の表札と共に患者通用口と書かれた門の写真と塀を写しているものがある。これを撮影した最大の理由は、清病院の塀の上に載せられていた石材が、広島では珍しい安山岩であったからであろう。広島では、建造物には多くの場合に御影石(花崗岩)が用いられていた。その花崗岩は、主に山口県徳山か広島県倉橋島のものであり、産地が近いことから多用されたと思われる。しかし、清病院の塀には安山岩が使われ、その表面は肉眼ではっきり判るほどに熔融している。一方、花崗岩の被爆による顕著な様相には「ハジケ」と記述される表面の剥離現象があるが、内部の熔融は顕微鏡を使って初めて確認できるもので、肉眼では認めることは難しい。それゆえ、島病院と清病院では、肉眼でも顕著に見える被爆の痕跡を残している清病院を中心に調査を行ったのであろう。渡辺は、調査団に同行した日本映画社の記録映画「EFFECTS IF THE ATOMIC BOMB ON HIROSHIMA AND NAGASAKI」(1946年)の「熱による影響」の部分の監修もしているが、清病院の塀の上で熔融した安山岩の様子については、相当な時間をかけて紹介している。

 




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