原子爆弾災害調査研究特別委員会




 1945年8月6日に広島に、続いて8月9日に長崎に原爆が投下された。当初、新型爆弾とされた爆弾の正体が国民に明かされるのは終戦後である、新型爆弾が原子爆弾であったことが判明する迄の過程は、広島原爆戦災誌に記述されている。1945年9月に文部省学術研究会議によって、原子爆弾の災害を総合的に調査研究するために原子爆弾災害調査研究特別委員会が設立され、委員長には学術研究会議会長林春雄(東京帝国大学名誉教授)が就任した。調査研究特別委員会は、物理化学地学科会(委員長:西川正治)、生物学科会、機械金属学科会、電力通信科会、土木建築学科会、医学科会、農学水産学科会、林学科会、獣医学畜産学科会で構成された。その物理化学地学科会には物理班(仁科芳雄)・化学班(木村健二郎)・地学班(渡辺武男)が設けられた。地学班には地質グループと地理グループがあり、渡辺のもとで調査に参加したメンバーは、地質グループ(渡辺武男、山崎正男、小島文児、長岡省吾、平山健)、地理グループ(木内信蔵、小堀厳、園池大樹)であった。

 どのような経緯で地学が被爆調査に組み込まれたかは明らかではないが、被爆試料として残されていた無機素材の大部分は岩石であり窯業素材であることから地学班が必要とされたのであろう。

 渡辺は、1945年(昭和20年)10月11日に広島に入り、11・12・13日と広島を調査、14日に長崎に向かい、15・16・17・18・19日と長崎を調査した。また翌年の1946年5月7日に広島、13日に長崎を再度調査している。このとき、渡辺に残留放射能に対する危惧の念があったのかわからない。原爆投下後の2日目には仁科博士を中心とする軍部の調査隊が広島に入って、新型爆弾が原子爆弾であることを確認している。渡辺のフィールドノートにも、調査前に原爆とは何かに関する講義を受けている記述がある。放射能の危険性について知識を得ていた渡辺が調査を躊躇するような記述はどこにも見られない。調査団に同行した日本映画のカメラマンについては、同行することを躊躇う人もいたという。渡辺の残したメモには、通常の地質調査と変わらない態度で被爆調査を行ったことが窺われる。

 地学班として被爆調査のリーダーとなった渡辺は、自分がField Scientistであることを強く意識し、岩石学的、鉱物学的見地に立って調査を行うこととした。この時、地質グループにどのようなミッションが与えられていたかを明解に示す試料は残されていない。渡辺のメモやフィールドノート等を総合的に見てみると、原爆の被害状況を把握し記載することは勿論であるが、物理班の測定に必要な試料を収集することと、様々な建造物に残されている原爆の熱線の影を測定して爆央を決めることであったと推定される。ちなみに、本書では爆央とは爆発の中心を示し、爆心とは爆央直下の地上位置を示すように区別して用いる。他書では爆発の中心は爆源、爆心、また爆発の直下は爆心地などと呼ばれている。

 渡辺は被爆調査に当たって、基本的には通常の地質調査の手法でフィールドノートをつけている。但し、道は地図上にきちんと記述されているせいか、ルートの記入はない。単に地点名である。観察の結果、撮影の記録、スケッチ及び試料の採取等を行っている。上で述べたように、地質グループの調査目的の一つとして原子爆弾の熱線による影響と影響の範囲を決定することがある。広島であれば広く建材として使われている花崗岩の剥離現象と瓦の熔融状態、また長崎であれば、広く使われている安山岩の熔融現象、わずかな例ではあるが花崗岩の剥離現象(広島との比較のため)、瓦の熔融状態などが爆心からの方向と距離を変数として調査された。また、第二の目的である熱線によって岩石に残された陰から熱線の方向を測定することは、クリノメータによって行っているために多少の精度の悪さがあるものの、物理班の測定結果とほとんど変わらない結果を出している。

 渡辺の調査報告として広島より長崎の方が爆発点の高度も低く、花崗岩・安山岩・瓦などの溶解・剥離などの現象が見られる範囲が広いことを述べ、一般に言われていた、長崎の原爆の方が広島のそれよりも強力であることを示唆している。




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