常呂実習施設史

宇田川 洋




史跡常呂遺跡との出会いまで
  常呂町における遺跡の存在を最初に注目したのは、幕末の松浦武四郎(一八五八)のようである。安政五年(一八五八)、常呂川を遡った時の紀行『西部登古呂志第二十四巻』の中で、チャシサンケウシの地名が記録されている。「其訳はむかしトコロにて城を立る時に、此処より其材木を切出したる処なりと伝ふ」とされている。このトコロの城とはトコロチャシを指すと考えてよいからである。

  明治時代に入って、コロポックル論争がなされている折、石川貞次は北海道の遺跡所在地を発表している(石川、一八八九)。「北見国常呂郡常呂村 穴」とあるが、竪穴住居址のことで、おそらく現在の史跡常呂遺跡を指すと考えられる。北海道史の権威であった河野常吉は、明治二九年(一八九六)に井口元一郎とともに常呂村を訪れ、「常呂川下流の西岸原野にある竪穴」を発掘している(宇田川校註、一九八一)。一つの竪穴から「土器片、焼石等を得しが、翌三十年、井口氏は再び同処出張の際、該処の竪穴を掘りて、石煙管と石製紡錘車とを得たり」という。これらの遺物と思われるものは、大野延太郎が明治三二年に紹介している(大野、一八九九)。「トコロ川西岸竪穴の中央部五寸〜一尺の間」から出土したという紡錘車、石製煙管を図示しているのである。塩田弓吉も明治四五年に道内の遺跡・遺物所在地をまとめているが、「北見国網走猿間湖畔竪穴。石斧、石鏃、土器」と紹介している(塩田、一九一二)。詳細な地点は不明であるが、史跡を指しているのであろう。

  大正時代には、佐々木船山が大正二年に常呂町内の貝塚二箇所を紹介している(佐々木、一九一三)。その一つは「北見国常呂郡常呂村字に於て葛西鉄太郎氏の宅地附近にて発見せしものなり。此附近一帯に貝殻霧しく散在し、石器土器等数多発見せり。其中にて居宅前に一入貝殻の多き庭あり。此貝殻を発掘せしに、図らず人骨、刀剣、内耳鍋、球玉、石斧、石鏃、其他種々なる遺物を発見」と記録されている。おそらくトコロ貝塚を指すものと考えられるのである。大正一五年(一九二六)に国産振興博覧会が北海タイムス社主催で札幌で開催されたが、河野常吉はその北海道歴史館に出品された陳列品解説を行っている(河野、一九二六)。その中に「下常呂原野にありし竪穴」の模型一がある。「其原形は殆ど正方形を為し直径約二間、深約四尺、穴中より炭、灰、土器片等出でたり」とされる。擦文時代の竪穴住居であろうか。また前出の石製煙管の模写一枚も出品されている。

  これまでは中央の学者・研究者による遺跡・遺物の紹介であったが、昭和に入ってからは地元での認識が高まってくるようになる。その端緒を作ったのが大西信武である。その辺の事情に関しては前節の「スグ ユクアトフミ」を参照されたい(図1)。

  

図1東京大学施設工事予定地の大西信武氏(1964年の夏か)
施設の歩み
  当施設は、昭和三二年(一九五七)以来の発掘調査の成果品(土器・石器等)を常呂町民に公開することを目的として、常呂町が建設した建物が最初の施設である(図2)。昭和四〇年(一九六五)一二月にオープンしたが、当初は「常呂町郷土資料館」として一般公開された。この資料館は研究室としての機能も有しており、町の熱意に答えるために、東京大学は実習施設の開設に向けての要望を開始した。

図2東京大学常呂実習施設

  当面の措置として、文学部考古学研究室から助手を一名派遣することになり、通称「常呂研究室」の第一代目の助手は菊池徹夫助手(現早稲田大学教授)が担当した。昭和四二年(一九六七)から四七年(一九七二)までの五年間、常呂町と東京大学の橋渡し役として活躍・努力されたのである。なお、昭和四二年七月には町が道補助を得て資料館(現東京大学北海文化研究常呂資料陳列館)を建設オープンし、より広く一般公開が可能になったのである(図3)。当時の大河内総長と山本達郎文学部長も出席している。また、昭和四三年(一九六八)一二月には東京大学によって常呂研究室附属学生宿舎(図4)が完成し、大学の研究の一つの拠点ができたのである。


図3東京大学常呂資料陳列館
図4東京大学常呂学生宿舎

  東京大学常呂研究室の管理人として最初に勤務したのは故大西信武氏で、昭和四〇年から四二年までで、その後大西信重氏が昭和四四年(一九六九)九月まで勤めている。昭和四五年四月からは故近江谷岩五郎氏が昭和六一年(一九八六)までの十七年の長きにわたり、管理人を勤めている。

  昭和四七年四月からは飯島武次助手(現駒沢大学教授)が二代目助手として勤務され、昭和五一年(一九七六)三月まで勤めている。その間、実習施設が文部省の認可となり、昭和四八年(一九七三)から「東京大学文学部附属北海文化研究常呂実習施設」として新たな展開を迎えることとなった。この時に初代助教授として藤本強助教授(現國學院大学教授)が赴任している。氏は、昭和六〇年(一九八五)までの十二年間を常呂町で生活したが、教授就任とともに本校へ戻ったのである。なお、昭和五〇年(一九七五)秋に東京大学文学部職員宿舎が二棟建設され、新たな東京大学常呂実習施設による研究の展開がスタートした。

  昭和五一年四月には宇田川洋助手が飯島助手に替わって赴任している。宇田川は昭和六〇年(一九八五)に助教授、平成七年(一九九五)に教授となったが、勤務規定上、平成九・一〇年度の二年間は東京勤務で単身赴任し、現在は常呂町に戻っている。その間、佐藤宏之助教授(現東京大学助教授・新領域創成科学研究科)が常呂実習施設に赴任している。なお、管理人は昭和六一年から六三年(一九八八)三月までは浅田春雄氏、昭和六三年〜平成三年(一九九一)は本橋繁氏、その後、平成六年(一九九四)までは佐藤茂氏、平成九年(一九九七)までは星晃氏、平成一二年(二〇〇〇)年までは星登氏、平成一五年(二〇〇三)までは松田寿夫氏が勤めることになる。

  その後の常呂実習施設の助手は、大貫静夫助手(現東京大学助教授)が昭和六〇年から平成五年まで、新美倫子助手(現名古屋大学助教授)が平成五年から平成七年(一九九五)まで、熊木俊朗助手がその後を受け、現在に至っている。

発掘調査・測量調査の歩み
  昭和三二年(一九五七)の栄浦第一遺跡の調査から開始された発掘調査等は、毎年継続して実施されており、それは表1のような足跡を辿っている。表2には東京大学が関係した常呂町に関する発掘調査報告書を掲載しておいたが、それぞれの調査目的などを簡単に記しておくことにする。

表1 常呂町での東京大学による発掘調査・測量調査の歩み
表2 常呂町に肝すす発掘調査報告書(東京大学関係分)
  報告書一・二、駒井和愛編(一九六三)の序文に記されているように、昭和三一年(一九五六)に駒井教授が常呂町を訪れ、その遺跡の豊富さや貝塚に驚き、その結果として、一つはオホーツク海沿岸の常呂町を中心としたフィールド、一つは知床半島の斜里町・羅臼町をフィールドとして発掘を実施することになったのであるが、その調査成果がまとめられたものである。また、栄浦第一遺跡・栄浦第二遺跡・岐阜第一遺跡・トコロチャシ跡遺跡については、窪地として残っている竪穴住居址の年代確定と集落構造の解明が目的にあったようである。

  報告書三、栄浦第二遺跡で現状で見られる竪穴の形状と時代の把握を目的とした発掘成果が盛り込まれ、岐阜第二遺跡では砂丘遺跡ではない一段高い台地端の集落構造の解明を目的とした調査の成果が報告されている。岐阜第二遺跡の場合は、チャシの壕状のものも見られ、その性格と集落との関係を探る意味もあったが、結果的に、壕状のものは自然による弱線であることが判明している。また、サロマ湖に面する低位のワッカ遺跡の集落調査も立地上の問題を考察する目的があった。さらにこの報告書には、付図として町内のみならず近隣の遺跡の地形測量図が載せられているが、北海道では従来あまり精密な地形測量を実施していなかったので大きな前進といえるであろう。

  報告書四、常呂バイパスの建設路線の検討を行った結果、もっとも遺構が少ないところを通すように計画されたが、結果的に遺構の密度が非常に濃かったトコロチャシ南尾根遺跡の報告書である。中でも、縄文後期の集落と遺物は道東では発見例が非常に少なかったもので、重要な資料を提供している。

  報告書五、岐阜第二遺跡の一部が道路拡張工事にかかるということで調査されたが、町内唯一の旧石器石器群が出土している。また過去の同遺跡の擦文時代の集落の調査例に追加できるデータが得られている。

  報告書六、岐阜第三遺跡は比較的小規模にまとまった集落遺跡で、竪穴の全調査を行うことによって擦文文化の集落構造研究が可能と考えて実施されたものである。結果的に縄文中期と続縄文文化期の集落も存在したことが判明し、集落の変遷を辿ることができている。

  報告書七、低位面に存在する擦文集落の構造・性格をきわめる目的で実施されたライトコロ川口遺跡の発掘報告である。

  報告書八、岐阜第二遺跡の報告書であるが、道路で分断されていた遺跡の東側部分が私道建設で破壊されることになり、その事前調査として実施されたものである。縄文前期の竪穴や続縄文・擦文時代の土坑墓や竪穴が調査された。

  報告書九、地形的に小規模にまとまっており、遺物の表面採集がかなりできた栄浦第一遺跡の一部を調査してみたものである。同遺跡内の付近には竪穴が窪地として残っているが、今回の地区にはそれが見られなかった。結果は、とくに続縄文時代の土坑墓と竪穴住居址が錯綜した遺跡であり、中でも続縄文時代の出土人骨は人類学上きわめて貴重な資料となっている。

  報告書十、擦文時代の集落として新たに発見された低位のライトコロ右岸遺跡の調査。集落構造の解明と同時にライトコロ川口遺跡との比較を行う目的もあった。

  報告書十一、全道的に見ても全面発掘の例が少ないチャシ跡遺跡を学術調査の対象として、トコロチャシ跡遺跡を選択したものである。アイヌ文化の考古学的研究の実践でもある。

  なお、平成一〇年度からのトコロチャシ跡遺跡オホーツク地点の調査に関しては、オホーツク文化の集落構造の解明を目的として、科学研究費の基盤研究B−(二)「居住形態と集落構造から見たオホーツク文化の考古学的研究」(研究代表者、宇田川洋)を受けて実施している。また別の、平成一〇年度からのトコロチャシ跡遺跡付近の遺跡範囲確認調査は、「史跡常呂遺跡」の追加指定の方向性のもとに、トコロチャシ跡遺跡・同遺跡オホーツク地点ならびにトコロチャシ南尾根遺跡を対象にして、一つの台地が時代的にどのように利用されてきたかを考察する目的で開始されたものである。科学研究費の地域連携推進研究費(二)「「常呂遺跡」の史跡整備に関する調査研究」(研究代表者、宇田川洋)を受け、平成十三年度に終了している。これらの調査成果の一部は報告書一二に盛り込まれている。

  以上が、東京大学の施設としての歴史と考古学上の調査とその成果の概要である。


【参考文献】


石川貞次、一八八九、「北海道ニ於テアイヌ人種研究ノ急務ト石器時代住民ノ分布」、『東京人類学会雑誌』四−三八、三一一〜三一六頁
宇田川洋校註、一九八一、『河野常吉ノート(考古篇一)』、北海道出版企画センター
大野延太郎、一八九九、「北海道旅行中の見聞記」、『東京人類学会雑誌』一五−一六四、五八〜七〇頁
河野常吉、一九二六、『国産振興博覧会北海道歴史館陳列品解説』、北海タイムス社
佐々木船山、一九一三、『蝦夷天狗研究』二、丸山舎(東京)
塩田弓吉、一九一二、「北海道に於ける石器時代遺跡遺物所在地」、『人類学雑誌』二八−一、三五−四〇頁
松浦武四郎、一八五八、『西部登古呂志第二十四巻』、(高倉新一郎校訂、秋葉実解読戊午東西蝦夷山川地理取調日誌(中)、北海道出版企画センター、一九八五、一四五〜一七二頁所収)




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