和田維四郎
その人物と日本鉱物誌


和田維四郎

 和田維四郎は安政3年(1856年)3月17日に小浜に生まれた。少年時代の事は詳しく伝えられていないようであるが、明治3年に小浜藩の貢進生として上京している。明治3年7月27日、大政官より各藩に人材を大学南校に貢進せよとの通達があった。各藩より優秀で壮健な16歳以上20歳までの男子が15万石以上の藩からは3名、5万石以上の藩からは2名、5万石未満の藩からは1名が貢進生として選出され、藩は一人当り学費として一ヵ月10両を下らない資金を援助し、書籍代として年50両を大学南校に納入しなければならなかった。この年の10月に各藩から選出された貢進生は合計319人おり、その中には小浜藩から和田維四郎が選ばれている。貢進生の多くが明治・大正の各界で活躍していることからみても、貢進生は、いわばエリート養成集団であったことは明らかである。

 この時期、政府は学校制度をめまぐるしく変えている。

治元年:開成所を開成学校と改称。大阪舎密局が設置される(明治2年大阪理学校と改称、その後さらに大阪開成学校と改称し、明治7年に閉校する)。
治2年:開成学校を6月に大学校分局、12月に大学南校と改称。
治4年:文部省が設置される。7月、大学南校が廃止、南校となる。
治5年:8月、南校を第一大学区第一番中学と改称。
治6年:4月、第一大学区第一番中学を開成学校と改称。
治7年:開成学校を東京開成学校と改称。

 この変革の中にあって、貢進生として選ばれた者は、いずれの学校においても、常にその中心にいた。

和田維四郎実験ノート

 明治6年に改称されてできた開成学校は、中学でも大学でもなく、専門学校のようなもので、法学校、化学校、工学校、諸芸学校(フランス語)及び鉱山学校(ドイツ語)があった。鉱物学や地質学に関しては、ドイツ部においてドイツの鉱山技師でドイツ語教師のシェンク(Karl Schenk)が鉱物学の講義を行ったが、これが我が国における近代的な鉱物学の起こりと言われている。和田維四郎はドイツ部に入学し、鉱山学科でシェンクの鉱物学の講義を受けている。明治7年8月に、経費節減であろうが、鉱山学科が廃止された。学生の多くは転科したが、和田維四郎は退学した。しかし、シェンクは和田の才能を認め、彼の推薦を得て、明治8年19歳で開成学校助教(補助教員であろう)となった。和田維四郎が教鞭をとっていたのは開成学校製作学教場で、佐々木(1980)によれば、製作学教場とは、開成学校内に設けられた修業年限3年のいわば速成の技術者養成機関であったという。ここでは開成学校のようなエリートを対象とした高水準の教育ではなく、当時の社会が要求していた技術者を養成する実用的な教育が行われていたと想像される。

 明治8年にはミュンヘン大学で学位を取得したナウマン(Heinrich Edmund Naumann)が来日した。明治18年帰国するまでに、東京開成学校、東京大学で地質学の教授を勤め、地質調査所を設立し、黎明期の日本の地質学・鉱物学・鉱山学の指導的役割を果たしたドイツ人御雇い教師である。開成学校の鉱山学科の教授としてナウマンが来日した時には、鉱山学科は廃止されており、そのため政府は、金石取調所を設立してナウマンに本邦産鉱物の調査の任を与えた。その時、和田維四郎も金石取調所に勤務した。明治7年オーストリアのウィーンで万国博覧会が開かれたが、政府は、参加に際して各府県に産する鉱物を集めてウィーンに送る一方、同様のものを東京に残して内務省博物局に収蔵した。その万国博覧会に出品した鉱物の研究はオーストリアの研究者に研究を依頼する一方、博物局に収蔵した標本については和田維四郎に命じて研究を行わせた。また、明治7、8年に文部省は日本産鉱物調査の目的で、各府県から鉱物を徴収し、金石取調所でナウマンと和田維四郎に鉱物の調査に当たらせた。収集した鉱物は鉱山の鉱石で、その鑑定の結果は明治8、9年に金石試験記と題して文部省から刊行された。

 明治10年4月12日、東京開成学校と東京医学校が合併し、法理文医の4学部からなる東京大学が創立される。しかしながら、工部大学校は未だ別組織として存在していた。法理文の3学部は現在の神田一ツ橋の学士会館及びその周辺にあった。理学部は東京開成学校の校舎を利用し、化学科、工学科、地質学及び採鉱学科、生物学科、数学、物理学及び星学科の5学科からなり、地質学及び採鉱学科のスタッフとしてナウマン(Heinrich E. Naumann、鉱物学・地質学)、ネットー(Kurt A. Netto、採鉱学・冶金学)、アトキンソン(Robert W. Atkinson、化学)、ジュエット(化学)、チャプリン(測量学)、モース(Edward S. Morse、動物学)、ホートン(英語)、谷田部良吉(植物学)、今井巖(ドイツ語)、松本荘一郎(機器図)があがっているが、鉱物学・地質学は実際にはナウマン教授と和田維四郎助教授の2名が担当した。

 明治10年に第1回内国博覧会が東京で開かれたとき、各府県は競って管内の物産を出品したが、その中には鉱物も多くあり、その結果、日本産の鉱物の全般を知ることができた。特に、文字の鶏冠石、常山渓(定山渓)の石黄、寶達山・生野・尾平の蛍石、鷲谷のクローム鉄鉱、木浦の菱鉄鉱、田ノ上山の黄寶石(黄玉)、間瀬の沸石、阿蘇の藍鉄鉱などは、この博覧会で世に紹介されたものである。その時和田維四郎は博覧会の審査委員を勤めていた。そこで出品された鉱物の大部分を東京大学に収蔵し研究を行い、その成果として明治11年「本邦金石略誌」を東京大学理学部から出版した。和田は、明治10年から12年にかけて「金石識別表」、「本邦金石畧誌」、「金石学」、「晶形学」の4冊の著書を著した。

 「金石識別表」は、ドイツSachsen Freiberg鉱山大学Weissbach教授の物理的性質による鉱物の識別表を基本に、同校Scherel教授の吹管分析書から化学的性質を加え、更にNaumannとKochelの金石学を参考に初学者向けに著された教科書である。また「金石学」の原著はドイツ博物博士Leunis著「博物学(自然史)(Naturgeschichte)」(1870) であるが、Naumann著「金石学」、Schirling著「博物学」などの書物と当時の開成学校教官Schenkの講義ノートを参考にして著した書である。この本は少なくとも第3版が明治19年に印刷されており、和田維四郎が明治10年に東京大学助教授、明治14年に東京大学教授に就任していることから、彼の金石学(鉱物学)の教科書として用いられたことは容易に想像される。「本邦金石畧誌」は日本最初の鉱物誌で、当時の国内に産出する鉱物を記載したものである。そこに記載されている鉱物は、東京大学理学部・文部省金石取調所・教育博物館・博物局の所蔵品、並びに和田が自ら研究した明治10年挙行の内国勧業博覧会に出品された国内産鉱物と自らの収集した鉱物を基本としている。和田は巻頭に「本書は国内産鉱物の中で有用で且つ学術上に貴重なものを示すことで、特に産地は最も主要なものだけを記載した。産出が少量であったり明瞭さを欠くものは省略されているので、必要であれば、金石試験記(明治8、9年)、明治10年内国勧業博覧会出品目録、刊行予定の日本金石産地表を参照せよ」と記している。本邦金石畧誌は、東京大学理学部・文部省金石取調所・教育博物館・博物局の所蔵品という、当時の日本産鉱物を網羅的に収集した標本の全てについて記載した記録である。「晶形学」は、「金石学」に記述されている結晶形態の対称性のみを取り出して書かれた書で、文部省から出版されている。晶形にふられたルビは「クリスタール」であり、「金石学」では一部を省略されたかたちで記述されている結晶形態の対称性が詳述されている。これ等の4冊は組をなすもので、「金石識別表」が鉱物の鑑定を肉眼だけでなく物理的・化学的性質に基づいて科学的に決定する方法とデータを収集したものであり、「金石学」は、鉱物学の教科書として、鉱物の形態、物性、化学的性質、分類・記載について書かれている。「本邦金石畧誌」には、本草綱目啓蒙のように、当時の主要な日本産鉱物が記載されており、「晶形学」には鉱物結晶の形態の対称性が説明されている。この4冊の書によって、鉱物の分析・分類・対称性・産地・産状と当時の分野を尽くしており、明治初期から中期にかけての東京大学を中心とした鉱物学の学問のバックボーンとなっていたことが推察される。

 なお、「刊行予定の日本金石産地表」については、明治12年に武藤壽編、田中芳男・和田維四郎校閲で「金石学付録・日本金石産地」が刊行された。同時に「金石学付録・金石対名表」が武藤壽編、田中芳男・和田維四郎校閲で刊行されている。

 明治11年、内部省地理局に地質課が設けられ、和田維四郎はナウマンと共に、地質課に移動した。地理局は明治7年に創設された地理寮に起源を持ち、明治10年に地理局となった。その後、ナウマンと和田維四郎の建議により明治15年に地質課を分割して地質調査所が設立され、和田維四郎は所長となった。地質調査所の調査研究は直接間接に日本産鉱物の研究に大きく貢献し、特に鉱物の分析には最も力を入れていた。この間、和田維四郎は明治14年に東京大学助教授を兼任する。また、明治17年から18年に和田維四郎はベルリン大学のウェブスキー教授の下で鉱物学を学び、帰国後の明治18年10月に東京大学教授に昇進し、日本人として最初の鉱物学の教授となった。これ以降、鉱物学の研究教育は日本人の手で行われる。和田維四郎の東京大学教授兼務は明治24年まで続いた。和田維四郎の指導の下に鉱物学の研究を行った菊池安が明治16年に地質学科を卒業し、東京大学助教授になった。明治18年地質調査所は農商務省地質局となり、和田は明治19年に局長となった。さらに明治22年年に農商務省鉱山局長を兼務した。明治23年地質局は再び地質調査所となって和田は所長となった。

 明治24年に和田が東京大学教授を辞した後、菊池安助教授が鉱物学の講座を担当するが、明治27年急逝する。そこで、古生物学を専攻していた神保小虎が鉱物学に転じて東京大学で鉱物学の講座を担当し、明治29年東京大学教授になった。和田維四郎は、東京大学を離れても、鉱物学に対する興味を失うことなく、鉱物標本の収集を続け、その標本に基づく研究を継続していたようである。その研究成果として、「日本鉱物誌」(初版)を明治37年に出版する。同時に、小川琢治英訳による「Minerals of Japan」を発行した。この「日本鉱物誌」(初版)は発行部数も少なく、直ぐに絶版となった。また誤った記述が散見されることから、和田維四郎は明治40年に「本邦鉱物標本」を出版する。これは「本邦鉱物標本」と名付けられているが、実体は「日本鉱物誌・改訂版」であり、そこに記載されている鉱物標本は和田維四郎が開成学校助教時代から収集してきた集大成としての鉱物標本であり、現在は三菱マテリアルの所蔵となって現存する。和田維四郎は、新しい研究成果を海外に広めるために欧文の「Beitraege zur Mineralogie」を明治38年から大正3年の間に5巻発行している。日本鉱物誌の出版は、東京大学の鉱物学を担当した教授によって受けつがれた。日本鉱物誌(改訂版)が刊行され10年が経過すると、その書も絶版となり、再版を願う声が高くなった。そこで和田維四郎は神保小虎、瀧本鐙三、福地信世に改訂を託した。神保小虎等は、和田維四郎の還暦記念として鈴木敏、保科正昭の助力を得て大正5年に「日本鉱物誌」(第2版)を完成させた。第2版の完成後に和田維四郎が没し、次いで大正13年に神保が他界した。大正14年に佐藤傳蔵、福地信世、瀧本鐙三、若林彌一郎、保科正昭、伊藤貞市はじめ数名が、日本鉱物誌第3版を刊行すべく計画した。しかし執筆を始めるに先立って昭和9年に福地信世が没した。以後瀧本鐙三、保科正昭、片山信夫等が稿を続けたが、遂に完成を見なかった。その間、伊藤貞市が神保小虎の後を受けて鉱物学の講座を担当し、昭和10年に日本鉱物資料續第一巻、昭和11年に第二巻を公にした。続いて片山信夫、須藤俊男の協力を得て、本邦鉱物図誌全4巻を著した。最後に鉱物誌が刊行されたのは第二次世界大戦が終了した後の昭和22年である。昭和22年伊藤貞市、櫻井欽一は、研究資材の不足の中で「日本鉱物誌(再訂版)」(上巻)を刊行した。上巻には珪酸塩鉱物を除く日本産鉱物の記載されている。この後、日本鉱物誌(下巻)は刊行されることなく伊藤貞市、櫻井欽一ともにこの世を去ってしまった。

 和田維四郎の東京大学辞職後の活躍については、小浜市立図書館出版の若狭人物叢書8巻「和田維四郎」(佐々木享,1980)から概要を引用させていただく。

 和田維四郎が鉱山局長として成し遂げた最大の仕事は、わが国最初の近代的な鉱業法制の制定であった。明治維新の直後から、政府の鉱業法制はめまぐるしく変わったが、明治6年になって最初の鉱業法である「日本坑法」が制定された。しかし民間の鉱業への資本投下に対して多くの制約があるため、抜本的な改正が必要であるとの認識が高まっていた。和田は、このような状況で鉱山局長に就任し、就任1年後の明治23年8月、わが国で始めての鉱業法制に関する研究書である「坑法論」を著した。わが国で最初の近代的鉱業法典である鉱業条例は明治23年9月25日、法律第87号として公布され、25年6月から施行された。この鉱業条例の基本的な部分は今日の鉱業法に引き継がれているという。和田の鉱山局長としての仕事は、法律成立の後の施行法規の作成や各地方に鉱山監督署を設けるなどの鉱業行政の整備まで及んだ。明治26年地質調査所長と鉱山局長を辞任した。

 その数年後、明治30年和田は製鉄所長官となり、官営製鉄所(八幡製鉄所)の建設に係わらなければならなかった。八幡製鉄所は明治29年に発足したが、建設計画は確定していなかった。建設地は北九州に決められていたが、和田は日本人が誰も手がけたことのない銑鋼一貫の東洋一を誇る大規模な製鉄所の建設を指揮しなければならなかった。和田は、既に明治25年に農商務大臣の下に設置された製鋼事業調査委員に任命されていた。和田は明治35年まで製鉄所長官を勤めが、その間に製鉄所の規模の拡大計画をまとめ、建設から操業開始までこぎつけ、さらに原料の安定供給のために大冶鉄鉱との契約を締結した。和田の超人的な努力で、明治34年に操業開始に至った。明治35年2月4日、和田は非職を命じられ、これ以後二度と官職に就くことはなかった。

 このころから、上に述べたように和田は鉱物学との関連を再び持ち、鉱物誌の出版が行われた。和田の晩年の鉱物学以外の最大の貢献は、膨大な和漢の古書籍の収集を行い、書誌学者として大家をなしたことである。由緒ある古書籍の散逸を憂慮して、岩崎久弥と久原房之助のバックアップで収集を始めた。その収集した古書籍は、現在、東洋文庫と静嘉堂文庫に収められており、総数45000点を越え、重要文化財クラスのものが数多くあるという。彼の書誌学に於ける眼力は、和田が晩年著した「訪書余録」に垣間見ることが出来る。

 このように、幕末に若狭小浜藩に生まれ、14才で上京した和田維四郎は、類い希な資質を多方面で現し、鉱物学者・教育者・行政官・書誌学者として超一流であることを示した。また、同時に類い希な収集家であり、「鉱物学」と「書誌学」に関するコレクションが失われることなく現在に残されていることは、和田維四郎にとっても、また我々にとっても幸せなことである。


文献
佐々木亮(1980):和田維四郎—日本鉱山学の先駆者—、若狭人物叢書8、小浜市立図書館
清水正明(1997):東京大学創立120周年記念東京大学展 学問の過去・現在・未来、日本に於ける鉱物学の夜明け—明治初期の鉱物レファレンス標本、学問のアルケオロジー、東京大学



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