新しい手法

竪穴住居址の小柱穴位置について

− 渋谷 文雄 −



1. はじめに

発掘された住居址にどのような形の上屋がかかっていたかを想像することは興味ある問題の一つである。原始住居の上部構造を想定するのに役立つものの一つに堅穴住居址の床面に掘られた“柱穴”がある。それも口径が大きく、深さの深い“主柱穴”が最も重要と思われる。しかし住居址内には主柱穴以外に多くの“小さな柱穴”が存在しており、この小柱穴については、今まであまり検討されていない様に思われる。この小柱穴についても詳しく検討すると、上部構造を考える手がかりが多く含まれているものと考えられる。

下総地方西部における縄文時代中期の堅穴住居址の床面に掘られた多くの柱穴のうち、主柱穴については、既に松戸市子和清水貝塚で発掘された住居址を中心に、整理し報告した(1)。即ち、住居址の実測平面図に炉址を中心に放射状の基準線を設定すると、主要な柱穴はその基準線に接する位置に掘られていたのである。それらの柱穴は、その住居址の中では、口径が大きく、深さの深い柱穴であり、炉址からの距離もほぼ同一のものが多く、規則正しく配置されている。この柱穴を『主柱穴』(以下、普通名詞としての主柱穴と区別をするため、上述の主柱穴には『 』を付した)と決めると、客観的に主柱穴を判別することが可能となる。放射状基準線に『主柱穴』が接するという関係は、住居址の平面形が円形あるいは楕円形に係わりなく対応出来、下総地方西部における縄文時代中期の住居址の殆どに対応できる関係で重要である。以上の関係について住居址の模式図を作成すれば、図1の如くである。

また、堅穴住居址の規模についても検討を加え、『主柱穴』の本数と住居址の規模とに一定の法則性が存在することも報告した(1)。即ち、堅穴住居址は円形部分と張り出し部分とで構成され、その円形部分の大きさは4本主柱の住居址では半径約2m、5本主柱では半径約2.6m、6本主柱では半径約3.2mほどである。主柱の本数が1本増すと住居址の円形部分の大きさは、その半径が焼く0.6m増すことがわかる。また、張り出した部分も約0.6mづつ増す傾向がある。以上の関係から住居址の実測平面図に放射状基準線と同心円で構成された“放射状基準格子”を設定し、主柱穴数と規模について各住居址毎に模式図を作成すると図2の如くである。住居址を主柱穴の本数と張り出し具合から客観的に分類することが出来たのである。堅穴住居址の床面に掘られた柱穴のうち『主柱穴』の位置については、整理できたが、住居址には、それ以外に多くの“小柱穴”が存在する。例えば、①堅穴住居の出入口に関係すると思われる支柱穴、②住居址の周壁に沿ってあけられた壁柱穴、③住居址の堅穴の外に掘られた壁外柱穴等がある。これらの小柱穴につてはあまり検討されていない。また、主柱穴と小柱穴との位置関係等については殆ど検討されていない。今回は縄文時代中期〜後期の下総地方西部の住居址(2)から、主柱穴以外の小柱穴について、主柱穴とどのような位置関係にあるのかを検討したところ、ある一定の法則性の存在することが浮かび上がったので、ここに報告する。なお、子和清水貝塚の発掘調査報告書のうち3冊は発行済(3)であり、残りは現在制作中である。その整理中に気付いた点のうち「堅穴住居址の柱穴位置について」、「堅穴住居址の規模について」の二点は既に報告したが(1)、本考察はそれらをもとに続編として報告するものである。


図1 図2 図3 図4 図5 図6 図7 


2. 堅穴住居の出入口の支柱穴位置

縄文時代中期の堅穴住居の出入口については、既に多くの考察がある。堅穴住居の出入口については、どのような構造であったか具体的な実例がないので推定する以外ないが、埋め甕の位置、炉の位置、周溝の欠如した部分、住居の突出部分などから推定しており、住居址の出入口に関連する柱穴についての記述も多くみられる(4)。例えば「支柱は一本又は二本で堅穴の壁面に接するか、また近接し主柱穴よりも小さく、堀立ての深さも浅い。住居内では、建物の長軸線上に位置し、炉と反対の壁面にある。…加曽利EⅣ期では壁柱形が主流となるので、出入口支柱の区別はつかなくなるが支柱二本の形式は柄鏡形平面の柄の付根に残存して引継がれている。」という考察など(5)もある。しかし住居址の出入口に関連する支柱穴の位置や、その支柱穴と主柱穴との関係について詳論したものはない。

下総地方西部の縄文時代中期の住居址では出入口に関連する支柱穴は2穴のものと、1穴のものとがある。前者には、上本郷1号址(6)、海老ヶ作11号址(7)、子和清水B-5号址、高根木戸34号址(8)、姥山A地点11号址(9)等がある。後者には、高根木戸38号址・3号址・71号址、子和清水161号・148号・34号址等がある。ここではこれらの住居址について実測平面図に放射状基準格子を設定し以下の如く検討を加えた。

2-1 子和清水貝塚B-5号址<松戸市> (加曽利EⅠ式期)

発掘調査概報(10)によれば、「4.5m×3.8m楕円形プラン」の住居址とある。住居址の大きさから主柱穴は4穴と考えられ、炉を中心に放射状基準格子を設定すると、その基準線に接したP1〜P4が『主柱穴』と判別出来る。半径約2mの円形部分と南西方向にやく0.6mほど張り出した形の住居址である。住居址のタイプは「4B」に分類出来る。P5・P6はその張り出た部分に存在しており、この一対の小柱穴は出入口に関連するものと思われる。放射状基準線に挟まれた位置にあり、ほぼ三等分する位置に掘られている。因みに放射状基準線の三等分線を引くとP5・P6は、それに接する位置関係にあることがわかる。上本郷1号址、高根木戸34号址、海老ヶ作11号址は、これとほぼ同一の形態である。なお、上本郷1号址、高根木戸34号址では一対になった小柱穴の中間に浅い堀り込みがあり、出入口部分を構成する施設の一つと考えられる(平面図には、放射状基準線を実線で、その三等分線を点線で示した。また、住居址のタイプを図の右上に「4B」の如く示す。以下に示す平面図も同様とする)。

2-2 姥山貝塚A地点11号址(9)<市川市> (加曽利EⅠ式期)

「プランは丸味を帯びた矩形で、深さ0.5m、階段を有する南方入口と目される所を除き周溝をめぐらし、炉は中軸上やゝ奥に在る。主柱6本、中軸に対称に配された周溝中には小穴を有す。周溝の部分には壁体が構成されたらしい。」と説明されている。住居址の大きさから、主柱穴は4穴と考えられる。炉を中心に直交する放射状基準格子(9)を設定すると、P1〜P4はその放射状基準線に接しており『主柱穴』と判別することが出来る。炉を中心に半径約2mの円形部分と約1.2mほど南側に張り出した形態である。住居址のタイプは「4C」となる。P5・P6はその張り出した部分にある。前述の子和清水B-5号址と同様に、放射状基準線の三等分線を引くと、P5・P6はその線に接した位置関係にあることがわかる。

同様な形態のものに子和清水51号・87号・265号址などがある。このうち87号・265号址には、一対になった小柱穴の中間に浅い堀り込みが存在しており、この掘り込みを堅穴住居の出入口を構成する施設の一つと考えることが出来る(図8〜10)。

2-3 高根木戸71号址<船橋市> (加曽利EⅠ式期)

住居址の大きさにより、主柱穴は4穴と考えられる。炉を中心に直交する放射状基準格子を設定すると、P1〜P4はその基準線に接しており『主柱穴』と判別出来る。住居址の形態は円形部分と張り出した部分で構成されており、前述の姥山A地点11号址とほぼ同一の形態であり、P5は南側に張り出した部分に偏在している。姥山A地点11号址のP5とほぼ同一の位置にあることから、放射状基準線の三等分線を引くと、やはり、それに接した位置に支柱穴が掘られていたことがわかる。この住居址と同様に張り出した部分に、1穴の柱穴が存在するものに子和清水161号・34号、高根木戸3号・38号址、向台10号址(11)などがあり、いずれも4穴の主柱穴に対して偏在した位置にある。これらは第12〜16図の如く、全ての住居址で放射状基準線の三等分線に接していることがわかる。なお、子和清水161号・34号址には主柱穴との中間にやや浅い掘り込みが存在する。この掘り込みが堅穴住居の出入口を構成する施設の一つとすれば、高根木戸71号址ではP3とP5の間が出入口となる。なお、5本主柱の子和清水86号址(図17)でも、4本主柱の住居址と同様に、放射状基準線の三等分線に出入口の支柱穴が接して掘られていることがわかる。また、その支柱穴と主柱穴の中間に浅い掘り込みが存在することも共通している。


図8 図9 図10 図11 図12 図13 図14 図15 図16 図17


2-4 小結—堅穴住居の出入口の支柱穴位置

以上、3軒の住居址についてそれぞれ検討を加えた。また12軒の平面図を示した。いずれも、共通して認められている点は、出入口に関連する支柱穴は、住居址の平面がいわゆる“楕円形”であり、その平面の張り出した部分に存在していた。住居址の実測平面図に炉を中心に“放射状基準格子”を設定した場合、楕円形の住居址は円形部分と張り出した部分とで構成されていることがわかる。『主柱穴』はその放射状基準線に接した位置に掘られている。また、出入口に関連する支柱穴は、その張り出した部分にあり、放射状基準線の三等分線に接した位置に掘られていたことがわかる。なお、主柱穴は炉からほぼ同一の距離に位置しているが、出入口に関連する支柱穴は、それよりやや遠い位置にある。また、支柱2本で一対になり出入口を構成した多くの住居址では、その中間にやや浅い掘り込みを持つものもある。これら浅い掘り込みは出入口を構成する施設の一つであろう。なお、支柱1本の場合は、主柱穴との間に同様の浅い掘り込みが在ることから、ここを出入口と考えることが出来る。支柱が2本の場合と1本の場合の相違は、次の様に考えられる。①出入口部分が基準線の三等分線の中央にある場合は支柱が2本に建てられ、②出入口がそれ以外の場合は、支柱1本と主柱1本とで一対になり出入口を構成したものと考えられる。

堅穴住居址の出入口に関連する支柱穴が、放射状基準線の三等分線に接する位置に存在することは、下総地方西部の縄文時代中期の楕円形の殆ど全ての住居址に適合できる関係である。以上から模式図を作成すれば図18の如くであり、堅穴住居の出入口は矢印の方向になる。

なお、支柱1本で入口部分を構成する住居址については、放射状基準線の三等分された部分のうち、住居址に向って右側が全て入口となっている。


3. 壁柱穴の位置について

下総地方西部における縄文時代中期の住居址には、主柱穴以外に住居址の周壁に沿って多くの小柱穴が掘られているものがみられる。また、周溝をもち、この中に掘られている柱穴もある。縄文時代後期の住居址が壁柱型になる事から、縄文時代中期の小柱穴が発展して壁柱型の住居址になったと考えられているが(12)、しかし具体的にどのように発展したかについては、あまり明確な説明がなされていない場合が多い。ここでは、①住居址の上部構造が数本の主柱で構成され、周壁に小柱穴の在るもの、②いわゆる柄鏡形の住居址、③壁柱型の住居址など、縄文時代中期から後期の住居址について、主柱穴とそれら①〜③の壁柱穴との位置関係などについて、以下の如く実測平面図を示し検討してみた。

3-1 海老ヶ作貝塚Ⅱ-4号址(3)<船橋市> (加曽利EⅡ式期)

住居址のおおきさは半径3.1mほどであり、その大きさから主柱穴は6穴と考えられる。口径が大きく、深さの深い柱穴が炉址を中心に6穴(P1〜P6)掘られている。炉址を中心に夾角60゜の放射状基準格子を設定すると、それら6穴の柱穴は図の如く、それぞれが放射状基準線に接する位置に在ることから、これらを『主柱穴』と判別できる。住居址のタイプは「6A」である。住居址のほぼ全周に周溝があり、周溝の中に小柱穴が8ヶ所ある。このうちP11・P13は放射状基準線に接して掘られている。南東方向の周溝の切れた部分を住居の出入口とすればP7・P8・P14・P15の4穴は出入口を構成した柱穴と考えることが出来る。前述の住居址と同様に放射状基準線の三等分線を引けば、出入口を構成した柱穴は、それに接した位置関係にあることがわかる。また、P9・P10・P12の位置についても基準線の三等分線を設定すると、それぞれが、よく対応していることがわかる。

また、姥山A地点1号址も『主柱穴』が6穴と考えられ同じ形態の住居址であり、周溝の中に掘られた小柱穴の多くは、放射状基準線あるいは、その三等分線に接して掘られていることがわかる。中峠2号址(14)や昭和37年に発掘調査された子和清水貝塚(15)の堅穴住居址も同様に基準線に接した位置に小柱穴が掘られている(図20〜22)。


図18 図19 図20 図21 図22


3-2 今島田遺跡6号址<市川市> (阿玉台式期)

発掘調査報告書(16)によれば、「長径4.7m、短径4.1mの楕円形プランをもつ。…主柱穴は5個でそれらの深さは各々60〜80cmを測る。壁柱穴は10個みつかっており、2個を1つの単位として使用していた。壁高は40cmを測る…」と説明されている。壁柱穴が2個を1つの単位として使用したとあるが、具体的な考察の記述がないので積極的に支持することは出来ない。

主柱穴は住居址の規模から4穴と考えられる。炉を中心に直交する放射状基準格子を設定すると、P1〜P4はその基準線によく対応しており、これらを『主柱穴』と判別できる。また、壁周に掘られた小柱穴のうちP8・P11・P14は放射状基準線に接した位置にある。その他の壁柱穴についてはP7を除き、放射状基準線の三等分線に全てが接した位置に掘られている。なお、南側周壁の下端線の切れた部分を住居址の出入口とすれば、P1・P5・P6は出入口を構成した柱穴と考えられる。住居址の建築時期については「盗掘をうけていたため、めぼしい資料もなく困難ではあるが、掘りあげた土器片等から推定すると阿玉台式期に極めて近いものとおもわれる。」(16)とある。

今島田4号・3号址にも多くの小さな壁柱穴があるが、放射状基準線とその三等分線を引くと、殆どの壁柱穴はそれに接して掘られていることがわかる。4号址については南側部分に掘られた小柱穴は炉から放射状に一直線に3穴づつが2列並んでおり、これらの小柱穴で出入口を構成したものと思われる。また、上本郷E地点1号址(17)も同様に壁柱穴の多くが、放射状基準線とその三等分線に接して掘られている(図24〜26)。

3-3 坂之台遺跡3号址<松戸市> (加曽利EⅣ式期)

発掘調査報告書(18)によれば「形状:柄鏡形、円形部は径4.2m、張り出し部は長さ2.4m、幅0.9m。柱穴:24穴。うち20穴は壁柱穴である。壁柱穴は部分的に周溝状に連なっており、深さ60cm以上のものが4穴ある。結合部の壁柱穴2穴は他の壁柱穴よりも内側に入っており、あるいは張り出し部の上部構造に関連したものかもしれない。時期:加曽利EⅣ式期。」と記されている。住居址の円形部分の大きさは半径約2mであるので主柱穴は4穴と考えられる。口径が大きく、深さ60cm以上の柱穴が4穴(P1〜P4)あることから、直交する放射状基準格子を炉址上に設定すると、それらの柱穴は基準線に接する位置に掘られている。なお、出入口部分にあるP5P6は放射状基準線の三等分線に接していることがわかる。なお、他の壁柱穴は放射状基準線の間に3穴づつ掘られていることから、四等分線を引くと深さの深い小柱穴の殆どは、それに接して掘られていることがわかる。

金楠台2号址(19)<松戸市>(加曽利E末期)では、円形部分が半径約2m程であり、その規模から直交する放射状基準格子を設定すると、口径が大きい柱穴は、その基準線に接して掘られている。出入口部分の柱穴は基準線の三等分線に接した位置にある。その他の柱穴は基準線の間に3穴づつ掘られていることから、坂之台3号址と同様に放射状基準線の四等分線を設定してみると、全ての壁柱穴は、それに接して掘られている事がわかる。坂之台址と金楠台2号址はほぼ同様な住居址であることがわかる。しかし、この二つの住居址には若干の相違がみられる。その違いは壁柱穴の深さにあり、前者は、基準線に接した壁柱穴の深さは70〜110cm程で、基準線の三等分線に接した柱穴は30〜60cm程である。後者の場合は全ての壁柱穴が70〜90cm程の深さになっている。第45図の②-2、②-3は両者の模式図を示したものであり、坂之台3号址は壁柱穴が住居の内側に掘られた主柱穴を取り込んだ形態になっている。また、金楠台2号址は壁柱穴がほぼ同一になっており、その差がなくなっており、より後期の住居に近いものになっている。

なお坂之台2号址は坂之台3号址とほぼ同様の柄鏡形の住居址で、口径が大きく深さの深い壁柱穴は放射状基準線に接した位置に4穴存在している。また、一の谷西貝塚1号址(20)は東側に「ハ」の字状に配置された対ピット及びその先端に埋甕があり、柄鏡形住居と認定される住居址である。入口部分の対ピットと柱穴の全てが基準線に接した位置に掘られている(図28〜30)。


図23 図24 図25 図26 図27 図28 図29 図30


3-4 鹿島前遺跡2号址(21)<我孫子市> (加曽利EⅣ式期)

発掘調査報告書には「プランは不整円形で、確認面からの掘り込みは25cmをはかる。壁は緩やかに鍋底状に傾斜する。炉跡は住居跡中央よりやや北東寄りに位置し…柱穴は大小が不規則に散在し、比較的大形で深さの深いものは炉を取り囲むように配列する。」とある。住居址の規模から主柱穴は5穴と考えられる。平面図に放射状基準格子を設定すると、壁際にある5穴の柱穴(P1〜P5)はそれに接して掘られていることがわかる。内側にある多くの柱穴は不規則な配置でどれが上部構造を支えた柱穴が不明である。

3号址も同様な形態の住居址で「壁は緩やかな傾斜で下がるもので、床面との区別が不明瞭である。…傾斜の緩やかな壁には口径が大きくやや深いピットが一定の間をもって配列されているが、これが柱穴かその他の目的のために設けられたかは不明である。」と説明されている。北東方向の住居の重複部分を除き壁際に放射状基準線に接し4穴の柱穴がある。

4号址は炉址を中心に半径約2m程にある柱穴群は、基準線およびその三等分線に接して掘られている。なお、6本の放射状準線のうち南側を除いた壁際に深さは比較的浅いが口径が大きい柱穴が5ヶ所掘られている。

以上3軒の住居に共通に現われた放射状準線に接した位置で壁際に掘られた柱穴が、加曽利EⅠ・EⅡ式期における『主柱穴』と同じ構造的機能を所持した柱穴とすれば、主柱穴が壁際まで移動したことになる。前掲の坂之台2号・3号址は壁柱穴が主柱穴を取り込んだ形態になっていた。この様に加曽利EⅠ・EⅡ式期の住居址では内側の4〜6本の主柱で上部構造を支えていたものが、加曽利EⅣ式期の住居址では壁柱が上部構造を支えた柱となり、縄文時代後期の壁柱型の住居に次第に変化し、発展する過渡期の状況を示している(図31〜33)。

3-5 栗ヶ沢貝塚1号址<松戸市> (称名寺式期)

発掘調査報告書(22)によれば、「柱穴群の配列が壁にそって大体等間隔に配置され、床面のふみ固めた状態が比較的よく残り、4.7m×4.4m、長軸はほぼ正南北方向をもつ楕円形のプランの堅穴を推定しえた。堅穴内には18のピットが検出でき、また、東北方に堅穴に近接して2穴を発見した。この内堅穴内の前述したような規則性をもつ外列群(P1〜P13)及び、炉の周囲の4穴(P14〜P17)は柱穴とみてよい。」と説明されている。縄文時代中期の住居址では、規模と主柱穴の数に一定の法則性があったが、称名寺式期の住居址にも、この関係が成立するとすれば、柱穴は4穴と考えられる。壁柱穴で構成されているので、直交する基準線とその三等分線を設定すると図34の如くで、全ての壁柱穴は基準線に接した位置にあることがわかる。内側にあるP14〜P16の3穴の小柱穴は直交する放射状基準線に接して掘られており、縄文時代中期における『主柱穴』の位置に在ることから、主柱穴の名残とも考えられる。

3-6 貝の花貝塚29号址(23)<松戸市> (称名寺式期)

住居址の大きさは炉を中心に3.8〜4.0m程で、ほぼ円形の住居である。縄文時代中期の住居址の規模と主柱穴とに一定の法則性があったことは既に報告したが、この関係が縄文時代後期の、この住居址にも適応するものとすれば、主柱は7本と考えられる。炉を中心に互いに等しい角度の7本の放射状基準格子を設定すると、住居址の内側にある柱穴の内P1〜P5は、その放射状基準線に接した位置にあることがわかる。南側については基準線に対応する内側の柱穴はみられない。住居址の周壁に沿って掘られた壁柱穴について、北側の部分に限ってみると、口径が大きな柱穴は放射状基準線およびその三等分線にそれぞれ接した位置にある。なお、南側の壁柱穴については放射状基準線の三等線に対応する柱穴の同定が難しい。なお、住居址の南東方向の壁の切れた部分に掘られたP1、P6の中間が出入口部分と考えられる。

さて、この住居址については、内側にある柱穴の口径が小さく、また、一部省略されていることから、堅穴住居の内側に建てられた主柱で上部構造を構成したものでなく、堅柱によって上部構造を支えたものと考えられる。堅穴住居址の上屋を支える柱の構造が、主柱型から壁柱型へ移行する過渡的な構造と考えることが出来る。なお、壁柱穴の位置は、縄文時代中期の小柱穴と同じ位置にあることから、縄文中期の住居址の周壁に存在した小柱穴が発展して、縄文時代後期における住居址の形態である壁柱型の構造に、次第に変化していったものと考えられる。

貝の花31号址も住居址の内側に放射状基準線に沿って掘られた数本の主柱の名残と思われる柱穴がある。殿平賀貝塚堅穴住居址(24)は全体の2/3ほど発掘調査された住居址で、その規模から5本の放射状基準線および、その三等分線を設定すると殆どの柱穴はそれに接している事がわかる。北側の壁柱穴の間にさらに小柱穴が掘られている。埼玉県庄和町の神明貝塚1号址(25)も同様に北側部分の壁柱穴の中間に小柱穴が掘られている(図36〜40)。


図31 図32 図33 図34 図35 図36 図37 図38 図39 図40

3-7 河原塚Ⅱ遺跡1号址<松戸市> (堀之内Ⅰ式期)

発掘調査報告書(12)によれば「住居の規模は凡そ4.8m×4.5mの略円形、柱穴は壁に沿って1m前後の間隔、大体は径20〜30cm、深さ80〜100cmを計るが、南側にあるものは浅い。」とある。住居址の規模から縄文時代中期の住居址においては、主柱穴は5穴と考えられた事から、縄文時代後期のこの住居にも、夾角72゜の放射状基準格子を設定すると、住居址の内側にあるP1〜P3の3つの柱穴は、放射状基準線に接して掘られている。前掲の貝の花29号・31号・18号址と同様に、主柱穴の名義とも考えられる。その他の壁柱穴は、放射状基準線およびその三等分線を設定すると、殆どの壁柱穴は、それに接して掘られていることがわかる。
また、曽谷M1号址(26)は半径約2m程の住居址である。縄文時代中期の住居址では、その規模から4本主柱の住居址と考えられることから、放射状の12等分線(縄文時代中期の住居址で用いた直交する基準線とその三等分線を、縄文時代後期の住居址には炉を中心に放射状の12等分線を基準線として用いる)を設定すると、多くの壁柱穴はその基準線に接して掘られていることがわかる。出入口は周溝の切れた部分であろう。

河原塚Ⅱ-2号址は周壁の1/3程が削除されているが、放射状基準線を設定すれば全ての壁柱穴は、それに接して掘られていることがわかる。また、北側部分については、さらにその中間に小柱穴が掘られており、前掲の殿平賀貝塚住居址、神明貝塚1号址と共通する(図42〜44)。

3-8 小結—壁柱穴の位置

以上、7軒の住居址について検討した。また、18軒の住居址については、平面図を示し、若干の考察を加えた。各時期ごとにまとめれば、①〜③の如くであり、その模式図は図45に示す。

① 加曽利EⅠ式期・加曽利EⅡ式期の住居  海老ヶ作Ⅱ-4号址、姥山A地点1号址、今島田3号・4号・6号址は、住居の内側にある4〜6数本の主柱で上部構造を構成した住居址で、壁際に多くの小柱穴を配しているものもある。

② 加曽利EⅣ式期の柄鏡形住居  坂之台3号址は柄鏡形住居址であり、壁柱穴のうち基準線に接した4穴は深さが深い柱穴で、他はやや浅い柱穴である。壁柱穴が住居址の内側にあった主柱穴を取り込んだ形態となっている。また、金楠台2号址は壁柱穴の深さは全てほぼ同一になっていて、その差がなくなっている。

また、鹿島前遺跡2号址などでは、外壁に接した位置に口径が大きく深さの深い柱穴が掘られており、主柱穴が壁際まで移動した形態になっている。

③ 称名寺式期・堀之内式期の住居  貝の花29号址、栗ヶ沢1号址、河原塚Ⅱ-1号址は、多くの壁周柱で上部構造を構成した住居址であり、内側に主柱穴の名残と思われる柱穴を持つものもある。

いずれの時期の住居址も、主柱あるいは、主柱の名残と考えられる柱穴は放射状基準格子を設定すると、その基準線に接する位置にあることがわかる。また、主柱穴以外の壁際に存在する小柱穴は、基準線あるいは、その三等分線に接した位置に掘られている。縄文時代中期の住居址と後期の住居址、即ち①と③を比較して壁柱穴と内側をみた場合、上部構造を支えた柱穴の構造的機能が、まったく逆の関係になっていることがわかる。


4. 壁外柱穴の位置について

縄文時代中期の住居址で堅穴の外側に小柱穴がみられるものもある。例えば、上本郷1号址、今島田7号址、坂之台1号址などである、堅穴住居址の掘り方の外側に周壁に沿って掘られた数個の小柱穴で、その住居に付随する柱穴であると思われる。この壁外柱穴について住居址内側に掘られた主柱穴等と、どのような位置関係にあるのか、上記の3住居址について検討する。

4-1 上本郷貝塚1号址(6)<松戸市> (加曽利EⅠ式期)

この住居址については、第2章で、出入口に関連した支柱穴の検討でも一部取り上げている。住居址には4穴の大きな柱穴と出入口に関連すると思われる一対の小柱穴を持ち、さらに堅穴の外側に壁外柱穴を廻らした住居址である。住居址の平面図に炉を中心に直交する放射状基準格子を設定するとその放射状基準線に接したP1〜P4の4穴が『主柱穴』と判別できる。この4つの主柱穴の深さは62〜70cmで、口径は45cm程である。また、P5・P6は基準線の三等分線に対応した位置にあり、その中間に浅いピットが掘られており住居址の出入口に関連する支柱穴であろう。

その他にこの住居址には堅穴の外に、周壁から80〜100cm離れて掘られた壁外柱穴が8ヶ所みられる。口径は10〜40cm、深さは20〜40cmほどである。このうちP11を除き全ての柱穴は放射状基準線あるいは、その三等分線に接した位置に存在している。放射状基準線を通してみると、内側にある『主柱穴』および出入口の支柱穴と、壁外柱穴は関連する位置関係にあることがわかる。

4-2 今島田遺跡7号址(16)<市川市> (加曽利EⅠ式期)

発掘調査報告書によれば、「阿玉台式期ににつくられた住居が加曽利EⅠ式期にいたって拡張された」と説明されている。住居址の大きさから主柱穴は4穴と考えられる。放射状基準格子を設定すると、その放射状基準線に接するP1〜P4が『主柱穴』と考えられる。また、堅穴の掘り方の外側にある壁外柱穴の全てが放射状基準線あるいは、その三等分線に接して掘られている。主柱穴と壁外柱穴とが放射状基準線を通して対応していることがわかる。なお、出入口を南側の周溝の切れた部分と考えると、P4・P5・P6・P7は出入口を構成した柱穴であろう。

4-3 坂之台遺跡1号址(18)<松戸市> (加曽利EⅣ式期)

発掘調査報告書によれば「住居跡内に48穴、うち39穴が壁柱穴である。比較的深い4穴が主柱穴と思われる。壁外にも本住居跡と関連すると考えられる柱穴が19穴ある。」と説明されている。住居址の大きさから主柱穴は4穴と考えられる。直交する放射状基準格子を設定すると、その基準線に接するP1〜P4が『主柱穴』と判別出来る。報告書で示された主柱穴4穴がこれにあたる。この主柱穴の深さは30cm程である。壁外柱穴のうちP5・P7・P10・P12は放射状基準線に接した位置に掘られている。また、その他の壁外柱穴は放射状基準線の三等分線に接して掘られていることがわかる。なお、壁柱穴については口径が小さく極浅いものが密に掘られているので基準線に対応する柱穴の同定は難しい。

4-4 小結—壁外柱穴の位置

以上、3例の住居址について示した。堅穴の外に掘られた壁外柱穴の殆どは放射状基準線および、その三等分線に接する位置に掘られていた事がわかる。住居址内部の主柱穴と壁外柱穴の位置とが、いずれの住居址でも放射状基準線を通してみると関連する位置関係にあることから、建物に付随する柱穴であることがわかる。壁外柱穴が住居址の単なる周堤の士留としての施設でなく、上部構造を構成した柱穴の一つであることが考えられる。上部構造を考えた場合、「サス」および「タルキ」が壁外柱穴の位置まで延びており、壁外柱穴に建てられた小柱にサスやタルキの末端が結束されていたことを示している。従って堅穴住居の屋根は少なくとも壁外柱穴位置まで広がっていたと考えられるのである。

図49は上本郷貝塚1号址の実測図をもとに上述の考え方を図示したものである。主柱・サス組・壁外柱の位置関係やそれぞれの上部構造の構成方法を示している。


図41 図42 図43 図44 図45 図46 図47 図48 図49 


5. 放射状基準線とその三等分線について

縄文時代中期の住居址について、主柱穴の位置と小柱穴の位置について検討してきた。『主柱穴』は既に報告した(1)如く、炉を中心に互いに角度の等しい放射状基準線に接して掘られていた。それ以外の出入口の支柱穴・壁柱穴・壁外柱穴の殆どが放射状基準線あるいは、その三等分線に接して掘られていたことが分かる。ここでは何故このような位置に小柱穴が掘られていたかについて検討したい。

放射状基準線が何を示しているかについては、既に報告した(1)。即ち、放射状基準線を上部構造である「サス」と考えたのである。サスが住居址の床面に水平投影されたものが基準線なのである。上部構造は数本のサスで構成された正多角錐フレームであり、サスに接して柱が建てられていた。サス組の交点の真下に炉が存在したことになる。なお、サスの交点が天井の一番高い位置となり、防火上有効な位置に炉が存在することになる。ここでは、放射状基準線の三等分線に接して小柱穴が存在したことから、各サスの間にそれぞれ二本、タルキ材と思われる斜材が存在したものと考えられる。サス材が堅穴住居址の床面に水平投影されたものが放射状基準線であり、タルキ材がその三等分線にあたる。縄文時代中期の住居址では、出入口の支柱穴、壁柱穴、壁外柱穴など小柱穴は掘り方が浅く口径が小さい事から、そこに建てられた小柱は、それ自体で自立していたとは考えにくい。即ち、それらの小柱は、柱脚が浅い柱穴に建てられ、柱頭が上部構造にしっかりと結束されていることで充分に安定していたと考えられる。

なお堅穴住居を建築する工程を考えた場合、放射状基準線やその三等分線に接して柱穴が掘られていたことから、正多角錐のフレームがまず先に存在しており、そのフレームに沿って二次的に主柱や小柱が建てられたことを示している。柱がサスやタルキの振れ止めの役割をしていたと考えられる。柱を掘建ててから梁や桁を架けるような上部構造の組立方法による建築順序とは別の建て方を考える必要があるだろう。この点で、サスとタルキで上部構造を構成したとする考え方は、主柱の本数が4〜6本の住居址でも対応でき、その構造原理は共通で、かつ原始的であり、構造的に堅固な建物が建てられることから有効な考え方であると思われる。


6. 放射状基準格子を通してみた住居平面形の変遷

縄文時代中期の住居では4〜6本の主柱と、周壁に沿って掘られた数本の小柱とで住居址の上部構造が構成されていた。この小柱が発展して縄文時代後期には壁柱型の住居址に変化する過程について考えてみよう。縄文時代中期〜後期の住居址の変遷については既に多くの検討がされており(22)、そのおおよその傾向は把握出来ている。ここでは、住居址の実測平面図に“放射状基準格子”を設定し、主柱穴や小柱穴の掘られた位置関係などについて、放射状基準格子を通して各時期の堅穴住居がどのように展開したかについて検討してみたい。

勝坂式期の住居  住居址の実測平面図に炉を中心に放射状基準格子を設定すると『主柱穴』は放射状基準線に接して掘られていた。子和清水貝塚や高根木戸遺跡などの住居址について検討すると勝坂式期のものは「3A」「3B」「4A」「4B」の4タイプに限定されており、比較的小規模な住居址が多い。

加曽利EⅠ式期の住居  住居址のタイプは「4A」「4B」「4C」「5B」の4種類がみられる。「4A」「4B」タイプは勝坂式期にも重複して存在しているので、この二つタイプについて詳しくみてみる事にする。炉を中心に掘られた主柱穴は勝坂式期の住居址に比較して、加曽利EⅠ式期の方が炉と主柱穴との間隔(O〜Pn)がやや長くなっていることがわかる。因みに子和清水貝塚の4A,4Bタイプの住居址をみると表1の通りである。勝坂式期では平均1.18m、加曽利EⅠ式期では平均1.45mとなっている。住居址の大きさがほぼ同一であるので、加曽利EⅠ式期になると主柱穴の位置が若干壁寄りに移動している事になる。またこの時期の住居址は、出入口に関連する支柱穴が多くみられ、住居址の周壁に数本の小柱穴が掘られている場合も多い。

加曽利EⅡ式期の住居  住居址のタイプは「5A」「6A」が主流となる。加曽利EⅠ式期の住居址はいわゆる楕円形であったものが、次第に主柱の本数が増え、住居址の規模が大きくなり、より円形の住居へと変化して行く様子をくみ取れる。

加曽利EⅢ式期の住居  遺構が少ないでの不明な部分が多いが、EⅡ期の住居址と、殆ど変化はないと考えられる。流山市の富士見台第Ⅱ遺跡(27)では、主柱の本数が4本(4B)、5本(5A)、6本(6A)の住居址が各1棟づつ発見されている。

加曽利EⅣ式期・加曽利E末期の住居 縄文時代中期の主柱穴は次第に放射状基準線に沿って外側に移動して、遂には壁柱穴と一体となる。壁柱穴が上部構造を支えた柱穴となるのである。この時はまだ、放射状基準線に接した柱穴は口径が大きく掘り方が深いが、その他の壁柱穴は三等分線に接した位置にあり、口径が小さく掘り方が浅い。この例は坂之台2号址や坂之台3号址である。

金楠台2号址では壁柱穴は、その口径や深さに差がなくなっている。前掲の坂之台遺跡の2棟の住居址と比べると金楠台2号址の方がより縄文時代後期の住居型である壁柱型の住居に近付いていると考えることができる。

鹿島前遺跡2号址などでは、内側に多数の柱穴が掘られているが、どの柱穴が上部構造を支えた柱穴なのか不明なものが多い。壁際に比較的口径が大きい柱穴が規制正しく掘られており、これが加曽利EⅠ・EⅡ式期の主柱穴と同じ機能をもつ柱穴とすれば、主柱穴は壁際まで移動したことになる。

称名寺式期の住居  栗ヶ沢1号址・貝の花29号址など、壁柱型の住居址である。前掲の金楠台2号址と同様に、放射状基準線に接する壁柱穴および、その三等分線に接する壁柱穴がほぼ同じ大きさとなっている。この事は上部構造である「サス」と「タルキ」とが構造的にその差がなくなったものと考えられ、縄文時代後期の壁柱型の住居がこの時期に完成するのである。

堀之内式期の住居  河原塚Ⅱ-1号址などがある。称名寺式期の住居址とほぼ同様に壁柱型の住居である。なお、壁穴住居の床面内部にある数本の柱穴は放射状基準線に接して建てられているものもある。この柱穴は口径が小さく深さの浅い柱穴で、縄文時代中期における主柱が建てられていた位置と同じ場所に掘られている事から、主柱穴の名残と思われる。称名寺式期の栗ヶ沢1号址・貝の花29号址などにも同様の小柱穴があり、主柱穴の名残と思われる。

以上、各時期毎に住居址の柱穴について示した。縄文時代中期の住居址においては、数穴の主柱穴と、壁際に掘られた小さな壁柱穴で構成されていた。この内、壁柱穴は次第に発展して遂には主柱穴より口径が大きく深い壁周柱に変化して行く様子が捉えられる。また、これと並行して住居址の内側に掘られた主柱穴も次第に壁際に移動して、壁柱穴と一体となるのである。縄文時代中期の勝坂・加曽利式EⅠ・EⅡ式期の住居が一連の変化によって、後期(称名寺式期・堀之内式期)の壁柱型の住居址に形成されてゆく変化の様子が窺える。

図52は各時期毎に主な住居址の規模と柱穴について示した。住居址平面図に放射状基準格子を設定し、それを通してみると、よりよくその変化を理解出来るのである。


図50 図51 図52 表1  


7. 縄文時代後期の住居址の壁柱穴と規模

縄文時代中期〜後期の住居址について、前述の如く実測平面図に“放射状基準線”を設定して柱穴について検討してきた。このうち縄文時代後期の住居址の検討においては、中期の住居に主柱穴と規模に一定の関係があったことを以て、後期の住居にもこの関係が成立するという仮定のもとで検討した部分が多い。

縄文時代中期の住居址について、主柱穴の数と住居址の規模に一定の法則性が存在したこと等は既に報告した(1)。即ち、

主柱4本の住居では 円形住居址の規模は、約半径2.0mである。
主柱5本の住居では 円形住居址の規模は、約半径2.6mである。
主柱6本の住居では 円形住居址の規模は、約半径3.2mである。

という関係があり、主柱の本数が1本増すとその規模がおよそ0.6m増すことがわかり、下総地方西部における住居址の一般的特徴で重要である。その模式図は第2図に示めす通りである。縄文時代後期の住居址にもこれと同様な法則性が看取できる。今回の報告で取り上げた住居址について、壁柱穴数毎にまとめれば、

① 直交する放射状基準線に対応した住居址(壁柱穴の数は12穴となる)

栗ヶ沢1号
址曽谷M1号址       は半径約2.0mの円に

② 5本の放射状基準線に対応した住居址(壁柱穴の数は15穴となる)

河原塚Ⅱ-1号
貝の花18号址
殿平賀貝塚竪穴住居址
貝の花25号址       は半径約2.6mの円に

③ 6本の放射状基準線に対応した住居址(壁柱穴の数は18穴となる)

神明貝塚1号址
河原塚Ⅱ-2号址       は半径約3.0mの円に

④ 7本の放射状基準線に対応した住居址(壁柱穴の数は21穴となる)

貝の花29号址        は半径約3.8mの円に住居址の外周がそれぞれよく符号していることがわかる。

即ち、縄文時代中期における主柱の本数と規模に相関関係が存在したことと同様に、縄文時代後期の住居址においても壁柱穴数と規模に相関関係を見い出すことが出来たのである。

ここでは壁柱1本がどの程度の負担をしているか、上述①〜④のグループ毎について見てみると、壁柱1本当りの屋根荷重の負担面積は4πr2/n本で表せる。

① 4×π×(2.0m)2÷12本= 4.19m2
② 4×π×(2.6m)2÷15本= 5.66m2
③ 4×π×(3.2m)2÷18本= 7.14m2
④ 4×π×(3.8m)2÷21本= 8.63m2

となる。①〜④の各壁柱本数毎のグループについて、壁柱1本当りの負担面積は①と④では2倍以上で、その数値に相当のバラツキがみられる。

また、壁柱1本当りの壁周長について見た場合、即ち壁柱穴の間隔は2πr/n本で表せる。

① 2×π×2.0m÷12本= 1.05m
② 2×π×2.6m÷15本= 1.09m
③ 2×π×3.2m÷18本= 1.11m
④ 2×π×3.8m÷21本= 1.13m

となる。①〜④の各壁柱本数毎のグループで壁柱1本当りの壁周長(壁柱穴の間隔)は、ほぼ一致している。即ち、住居址の規模に関わりなく壁柱穴の間隔は一定している事がわかる。この事から、縄文時代後期の住居の上部構造を考える場合、各柱穴数毎のグループで共通する壁周柱の間隔に注目する必要があるように思われる。壁柱穴の間隔は、壁柱上部を繋ぐ桁の長さに起因するものか、或いは、周壁の土留めの間隔に起因するもの等とも考える事ができる。

なお、縄文時代後期の住居址について、その規模と柱穴の関係を示す模式図を作成すれば第52図(称名寺・堀之内式期)の通りである。



8. おわりに

以上、下総地方西部の縄文時代中期〜後期の住居址平面図に“放射状基準格子”を設定して、小柱穴の位置などについて検討した。ここに要約すれば、次の如くである。

① 住居址の出入口に関連する支柱穴は、放射状基準線の三等分線に接する位置に存在する。出入口が支柱2本で構成された住居址は、その支柱穴の中間にやや浅いピットが存在するものが多い。また、支柱1本で構成したものは、支柱穴と主柱穴との間に浅いピットが存在するものも多い。この浅いピットについて出入口を構成した施設のうちの一つとすれば、出入口は第18図の矢印方向になる。

② 壁柱穴の殆どが、放射状基準線および、その三等分線に接した位置に掘られている。縄文時代中期の住居では、4〜6本の主柱と、数本の壁柱で構成されていたものが、縄文時代後期には壁柱で上部構造を支えた住居に発展する。一部の住居址では床面に数本の主柱穴の名残と思われる小柱穴を持つものもある。縄文時代中期と後期の竪穴住居址の柱穴について比較すると、上部構造を支えた柱穴の構造的機能がまったく逆の構造になっている。模式図を作成すれば第45図の通りである。

③ 壁外柱穴は放射状基準線および、その三等分線に接した位置に掘られている。壁外柱穴が主柱穴や壁柱穴に放射状基準線を介して符合する事から、住居址に付随する柱穴で上部構造を構成する柱穴の一つであることがわかる。

④ 住居址の上部構造は、数本のサスで構成された正多角錐のフレームで、そのサスの中間に、それぞれ2本づつ「タルキ」が架かっていたと考えられる。この場合、「サス」は放射状基準線、「タルキ」はその三等分線に相当し、それぞれが住居址の床面に水平投影されたものと考えられる。

⑤ 縄文時代中期の住居址では、主柱穴と周壁に沿って掘られた小柱穴とで構成されていたものが、縄文時代後期では、この小柱穴が発展して、壁際まで移動した主柱穴と一体になり、壁柱型の住居址に変化したものと考えられる。

⑥ 縄文時代後期の住居にも、壁柱本数と規模とに一定の法則性が看取出来る。なお住居址の規模に関わらず、壁柱穴の間隔はほぼ同一となっている。



渋谷文雄、堅穴住居址の小柱穴位置について、松戸市立博物館紀要5号、1998.3、 PP.27〜48、より再録



(1) 拙稿「竪穴住居址の柱穴位置と規模について」『考古学雑誌』第67巻第4号、昭和57年3月
拙稿「竪穴住居址の柱穴位置について(下総地方西部における縄文時代中期の住居址について-1)『日本建築学会関東支部研究報告集』昭和57年7月
拙稿「竪穴住居址の規模について(下総地方西部における縄文時代中期の住居址について-2)『日本建築学会学術講演梗概集』昭和57年7月
拙稿「竪穴住居址の柱穴位置と規模について」(『日本考古学論集』第2巻「集落と衣食住」吉川弘文館、昭和61年、所収)

(2) 取り扱う時代は縄文中期から後期まで、取り扱う地域は松戸市・市川市・船橋市などの下総地方西部に限った。

(3) 子和清水貝塚発掘調査団『子和清水貝塚 遺構図版編』昭和51年、『子和清水貝塚 遺物図版編-1』昭和53年、『子和清水貝塚 遺物図版編-2』昭和60年、松戸市教育委員会

(4) 宮本長次郎『日本原始古代の住居建築』中央公論美術出版、平成8年
都築恵美子「竪穴住居址の系統について−縄文中期後半から後期初頭の住居変遷と時期的動態−」『東京考古』8、東京考古談話会、平成2年
橋本 正「竪穴住居の分類と系譜」『考古学研究』23-3、昭和51年12月
自由学園『自由学園南遺跡』自由学園、昭和58年

(5) 宮本長次郎、前掲書

(6) 多川幸一ほか「千葉県松戸市上本郷貝塚の調査」『史潮』75、昭和40年

(7) 八幡一郎ほか『海老ヶ作』船橋市教育委員会、昭和46年

(8) 八幡一郎ほか『高根木戸−縄文時代中期集落址調査報告』船橋市教育委員会、昭和46年

(9) 村松 瞭ほか「下総姥山における石器時代遺跡」『東京帝国大学理学部人類学研究報告』第5、昭和7年

(10) 子和清水貝塚発掘調査団『子和清水 1972』概報、松戸市教育委員会、昭和47年

(11) 「向台遺跡」(市川市史編纂委員会編『市川市史』第1巻 原始・古代、吉川弘文館、昭和46年、所収)


(12) 関根孝夫ほか、河原塚貝塚第2地点発掘調査会編『河原塚Ⅱ遺跡』日本鉄道建設公団東京支社、昭和52年。
その他、註(4)に示す論文などがある。

(13) 岡崎文喜・新津健『遺跡研究論集Ⅲ』(下総地方における縄文時代中期貝塚集落址の−形態−海老ヶ作貝塚を中心として−)遺跡研究会、昭和58年

(14) 松戸市教育委員会『中峠遺跡・根木内遺跡』(『松戸市文化財調査報告』第9集)松戸市教育委員会、昭和59年

(15) 高橋良治・塚田光・小片保「千葉県子和清水貝塚調査概報」『考古学雑誌』第49巻第2号、昭和38年

(16) 市川市教育委員会『今島田遺跡』(『市川市文化財調査報告』第1集)市川市教育委員会、昭和44年

(17) 伊東信雄「下総上本郷貝塚の竪穴に就いて」『史前学雑誌』第1巻第1号、昭和4年

(18) 松戸市教育委員会『坂之台遺跡・東平賀遺跡第3次調査』(『松戸市文化財調査小報』16)松戸市教育委員会、昭和58年

(19) 柿沼豊『松戸市金楠台遺跡』千葉県都市公社・日本鉄道建設公団東京支社、昭和49年

(20) 前田潮・川名広文『千葉県松戸市 −の谷西貝塚発掘調査報告書』−の谷遺跡調査会、昭和59年

(21) 石田守一ほか「鹿島前遺跡」(我孫子市教育委員会編『我孫子市埋蔵文化財報告』第4集、我孫子市教育委員会、昭和59年、所収)

(22) 藤井功・前田潮「松戸市栗ヶ沢貝塚調査報告」『史潮』94、昭和41年

(23) 八幡一郎『貝の花貝塚』(『松戸市文化財調査報告』第4集)松戸市教育委員会、昭和48年

(24) 村上俊嗣「松戸市殿平賀貝塚調査報告」『考古学雑誌』第52巻第4号、昭和42年

(25) 庄和町教育委員会『神明貝塚』(『庄和町文化財調査報告』第2集)庄和町教育委員会、昭和45年

(26) 「曽谷遺跡」(市川市史編纂委員会編『市川市史』第1巻 原始・古代、吉川弘文館、昭和46年、所収)

(27) 流山市遺跡調査会『富士見台第Ⅱ遺跡』(『流山市遺跡調査会報告』Vol.3)流山市遺跡調査会、昭和58年