− 岩本(木原)昌子・川口 昭彦 −
生きものは、その細胞のひとつひとつの中に一揃いの遺伝子DNAをもっている。そこには、大腸菌であれば大腸菌の、ヒトであればヒトの体を作って維持するための色々なタンパク質の設計図が書かれている。また、体のどの部分の細胞で、どんなときにどの設計図のタンパク質を作るかという情報が書かれている部分もある。それらの情報を、通常G、A、T、Cの4つの文字の配列として表すことにしている。遺伝子DNAに書かれているそのような情報こそ我々が生きていくために重要なのだが、一方で、文字の配列から、いろいろな生物種の間の進化の関係を調べたり、あるいは、現代の日本人の祖先は誰なのかを考えることもできる。
遺伝子のほとんどは父親と母親から半分ずつ受け継いだもので、細胞の中の核という部分に収納されている。このほかに、ミトコンドリアという、細胞内でエネルギー生産にあずかる部分にも小さなミトコンドリアDNAを持っている。核にある遺伝子を父親と母親から約半分ずつ受け継いだ約60億の文字が書いてある長大な読み物とすると、ミトコンドリアの方は約1万7千文字の短い読み物で、しかも母親からしか受け継がないという特徴を持っている(図1)。ま た、ミトコンドリアDNAには比較的短い期間に変異(突然変異)が起こりやすいという特徴があり、このため、現代の日本人の祖先はどこから来たのか、他の民族との関係はどうなのか、あるいは縄文人や弥生人とはどのような関係にあるのかを知ることができると考えられている。そこで、縄文人のミトコンドリアDNAの配列を調べるために、出土した縄文人の古い骨の細胞よりミトコンドリアDNAを抽出して、そこに書かれている配列を読む必要がある。ところが、そのような細胞に含まれているDNAの保存状態は非常に悪いので、詳しい解析を行うことは以前は不可能だった。
しかしながら現在では、技術の進歩によって、ごく少量のミトコンドリアDNAを試験管内で大量に増やすことができるようになった。まず、縄文人の骨の内部にある骨髄細胞をていねいにかきだしDNAを抽出する。次に、PCR法と呼ばれる方法を用いて、ミトコンドリアDNAのある領域を連鎖反応的に複製する。大量に増幅したコピーからDNAの文字配列を読んで、縄文人はアイヌの人々の一部と近縁であり、現代日本人の一部や東南アジア人の一部と同じ祖先に由来していることがわかった。また、同様の方法を使ってマンモスの細胞や古代の植物の化石からある遺伝子部分を増幅して情報を取り出した例も報告されている。もちろん、新鮮な血液や細胞から任意の部分を増幅することもできる。今では、PCR法は遺伝子を扱うほととんどの技術で利用されている。
PCR法は、発見者のK. B. マリス博士によれば、ある4月の週末のドライブ中に思いついたアイデアだそうで、原理は実は単 純なものである。遺伝子DNAは、長い鎖状の二本の分子がらせん状により合わさったもので、長さに沿って、G、A、T、Cの文字の配列として表される遺伝情報が書かれている(図2)。このような二本鎖のDNAは、試験管の中で95℃ぐらいに熱すると2本の一本鎖にほどけてしまう性質を持っている。次に、ここにプライマーと呼ばれる短い一本鎖のDNAを加えて低温にする(プライマーという短いDNAの鎖は、ほどけた一本鎖の、増やしたい領域の端に結合するような配列にデザインされている)。すると、プライマーが結合したところから、DNAポリメラーゼという酵素のはたらきによって新しい鎖が伸び始める(図2)。さて、新しく作られた二本鎖の文字の配列は、もともとの二本鎖DNAの配列の完全なコピーである(図2)。したがって、「二本鎖をほどく→プライマーを結合する→新しい鎖を伸ばす」というサイクルを繰り返して行えば、二本鎖のDNAを、連鎖反応的に一サイクルあたり二倍ずつ増やすことができる(図3)。20サイクルから30サイクルの反応がだいたい2、3時間でできて、ごく微量のDNA試料から同じ情報を持った100万倍量の遺伝子のコピーを得ることが可能である。
この方法では、数百文字から一万文字程度のDNA配列を増幅することができる。ところが、ある生物の完全な長さの遺伝子DNAはもっと長い。たとえば、ヒトの染色体のうち最も短い22番染色体だけで3400万文字の情報があり、大腸菌の全遺伝子配列でさえ400万文字の長さがある。だから、ある生物の遺伝子を一度にすべて増幅するということはできないし、また、化石や古い骨に含まれている遺伝子DNAは短く断片化してしまっているので、全部の遺伝情報報遺伝情報を写し取ることは今のところは不可能である。