− 今村 啓爾 −
アメリカで貝類の研究をしていたエドワード・モースは(Edward Sylvester Morse)は、腕足類の研究のため、それが豊富な日本での研究を計画し、1877(明治10)年5月29日にサンフランシスコを発ち6月18日に横浜に到着した。6月20日横浜から東京に向かう汽車の窓から、大森駅をすぎてほどなく線路左側の崖に貝殻の層が露出しているのを見て直感的にそれが古代の貝塚であると思った。
このモース到着の2ヶ月前、明治10年4月に東京大学は開設されている。上京したモースは思いがけずこの東京大学理学部動物学生理学の教授になることを依頼された。この幸運は彼の腕足類研究ばかりでなく、大森貝塚の発掘調査を実施するうえでの有利な地位と資金の確保を保証することになった。
大森貝塚の発掘は同年9月から11月にかけて数回にわたって行なわれた。その詳細の記録はないが、地主に対する保証が50円という大金であったことから、その規模が相当大きなものであったことが推定される。
発掘された資料は土器類を主とし石器、骨角器、獣骨、人骨があり、1879年新設の大学博物館に陳列された。土器は現在の分類では、堀之内式、加曾利B式と安行式であり、縄文時代後期から晩期の初頭にわたる。
採集された資料の報告書は、英文編Shell Mounds of Omoriが明治12年(1879)7月に東京大学理学部紀要1巻1号として、和文編『大森介墟古物編』が同年12月に理学部会粋第1帙上冊として刊行された。
報告書の遺物の図は、できるだけ客観的に示そうとする意図のもと、統一した縮尺の投影図で描かれた。土器についてはその作り方を細かく観察復元し、その用途を推定し、用途ごとに個体別を数え、使用痕を観察するなど多くの新しい試みが見られる。その後の日本考古学でこのような方法や視点は引き継がれず、その重要性が認識され、意識的に行なわれるようになるのは昭和に入ってから、多くは第二次大戦後しばらくしてからのことである。また人骨の観察から脛骨の断面が扁平であるという特徴を指摘し、その破砕状態から食人の風習があったことを推定した。とくにモースの専門である貝の研究は詳細を極め、それを組成する貝類の違いから年代の古さと環境の変化を推定している。大森貝塚の特徴を世界の貝塚と比較しその個性と共通性を論じた。また文化財保護の必要性を力説し、多くの貴重な文化財が海外に流通することを嘆き、当時の日本人以上に日本文化を尊重した。
モースは報告の英文編発刊後まもなく日本を去るが、1882年再び来日して半年ほど陶器と民俗資料の収集にあたった。彼は1880年以来マサチューセッツ州セーラムのピーボディ博物館の館長を務めたが、日本でもっとも早く収集された民具資料は現在の日本民俗学にとって重要な資料となっている。
モースは終生日本と東京大学を愛した。1923年関東大震災で東京大学図書館が壊滅したことを知ると、自分の蔵書をすべて寄贈することを遺言した。現在でも総合図書館蔵書の中でモース寄贈の印が押された本に出会うことがある。
1929年になって品川区大井六丁目に「大森貝塚」の碑が、翌年大田区山王1丁目に「大森貝墟」の碑が立てられた。モースが発掘したのは前者の地点である。その後両地は国の史跡に指定され、現在東京大学総合研究博物館人類先史部門に収蔵される標本類は1975年国の重要文化財に指定された。
大森貝塚の発掘は日本における科学的な考古学・人類学の開始を告げるばかりでなく、世界における貝塚調査としても初期のものである。モースがワイマンについてフロリダで貝塚調査に携わった経験を有していたことは不思議な偶然である。この調査はまた東京大学にとっても創立初期の学術活動を代表するものであるが、室内における文献による研究ではなく、野外で実際の研究対象を選び、それを精密に観察記録考察する方法が体系的に行なわれたことは、学問の分野を超えて近代的な科学のありかたを示すものであった。