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建築家としての小津安二郎

五十嵐太郎=文


家族

原節子の写真 1998年の春、磯崎新が召集した四人の女性建築家の設計による岐阜県営住宅ハイタウン北方の第一期工事が竣工した。その際、海外から参加したクリスティン・ホーリィは、日本の現代集合住宅の問題点を考えるために、どうしたらよいかを磯崎新に質問し、次のような助言をえたという。小津安二郎の『東京物語』(1953)と森田芳光の『家族ゲーム』(1983)を、すなわち「伝統的な日本の住居空間と今日の住まいのパロディ」を一緒に観ればよい、と。そして少なくとも後者の映画をみた彼女は、本当に参考になったと言っている。またこの集合住宅のレポートを書いた論者は、日本における住まいの変遷を「『東京物語』から『お早よう』を経由して『家族ゲーム』までの距離」とまとめている※1。ここに小津映画が2つも含まれるのは、彼が生涯独身であったにもかかわらず、戦後のほとんどの作品で家族の物語を扱っていたことを考えれば、当然なのかもしれない。 確かに現在的な関心からは、過去の家族像を読む模範的なテクストとしての小津映画が容易に想像されるだろう。ゆるやかな家族の解体を描く『東京物語』では、尾道に住む老いた両親が上京しても、下町で医者や美容院を営む兄姉はどこか疎ましく思っており、アパートに住む戦死した弟の嫁(原節子)だけが実の子ではないのに心からもてなす。しかし、それは戦後の問題ではなく、すでに戦前の『戸田家の兄姉』(1941)において、名門の大家族の父亡き後、裕福な兄姉の家をたらい回しになる老母と末娘によって描かれていた。『お早よう』(1959)では、小津作品に珍しいオープン・セットを用い、連続する建物の片側だけがつくられ、切妻の簡素な住宅群が整然と並ぶ風景を生む。そこでは同じような家のあいだを住民が互いの勝手口を出入りしながら交流するさまが描かれている。テレビを欲しがって反抗する子供が主題になっているせいか、小津作品に多い欠損家族は出てこず、強いてあげるならば、アパートで英語を教える佐田啓二のところに父が見あたらないぐらいか。なお、『お早よう』は、『早春』(1956)の通勤するための郊外住宅地の系譜にあり、さらにさかのぼれば、『生まれてはみたけれど』(1932)の郊外と『長屋紳士録』(1947)の居住形態を融合させたものとみなせるだろう。

一方、『家族ゲーム』は川沿いの高層マンションに住む4人家族に外部から家庭教師が侵入し、最初から壊れていた内部のコミュニケーションを顕在化させ、ときには父母の代理としてもふるまう。家庭の空間は過度に変形されており、家族全員が肩をすり寄せて一列に並んで座る細長いテーブルや、唯一のプライベートな個室空間として住居に接続する自動車がきわめてグロテスクである。さらに80年代の日本映画から、他の事例をつけ加えるとしたら、『逆噴射家族』(1984)と『砂の上のロビンソン』(1989)をあげてみたい※2。前者は、団地から郊外の建て売り住宅に引っ越してきた四人家族が、父親の過剰なマイホーム主義によって家族内戦争を起こす物語。住宅は家族を狂わせる機械であり、結局、それを放棄した家族は高架の下で分散型居住を選択する。後者は、モデルハウスに住むことになった五人家族が、理想的な「家族」を演じることの苦しみから崩壊し、父親は会社を辞めて段ボールハウスの生活に逃亡してしまう。いずれも表面的には普通の幸せそうな家族が、一戸建ての生活を始めたとたん、ささいなきっかけによって暴走していく。つまり、あらかじめ家族の一員を欠如し(それゆえ娘たちは結婚を躊躇するだろう)、すでに一戸建てに住んでいることが多い小津作品の家族が、懸命に共同体を維持しようとしながら、静かにそのほころびを受け入れるのとは対極的とさえいえる。

図1
工場の煙突(東京物語)
図1 工場の煙突(『東京物語』)
図2料理屋の二階のシーン(東京物語)
図2 料理屋の二階のシーン(『東京物語』)
さて、冒頭に紹介した集合住宅では、結果的に幾つかの示唆に富む計画が生まれた。特に妹島和世棟は一住戸ではなく、一部屋を一単位とし、ほとんどの部屋が直接廊下につながっている。そして家族に縛られず、部屋が浮遊した様子は、記号的な単位が反復する集合住宅のファサードにも表現された。今後、90年代の家族を題材にした映画に使われたとしても、不思議ではない建築である。こうした住宅のプログラムは、かつて黒沢隆が提案した個室住居群や山本理顕の設計した実験的な住宅に連なるものだ。しかし、小津映画の住宅は、美術担当の下河原友雄と『宗方姉妹』(1950)の打合せで吉田五十八風をやろうといった話しがあったにしても、基本的には奇抜なものではない。むしろ、その対象は「日本家屋のなかでの家庭生活として捉えられた凡庸な日常性である」から、背景としての建築がうるさいものであってはならないのだ※3。かといって、日本の住宅を必ずしもリアルに描いているわけではないことは後で検討することにしたい。

都市

なるほど小津の映画を詳細に観ていけば、住宅のみならず、有名な建築が瞬間的に登場している。設計者の名が特定できる都内の近代建築であれば、和光(『晩春』、『お茶漬の味』、『東京物語』)、ニコライ堂や東京国立博物館(『麦秋』)、国会議事堂(『東京物語』)、丸ビル(『早春』)、明治生命館(『お茶漬の味』)、東京駅や聖路加病院(『彼岸花』)、築地本願寺(『長屋紳士録』、『彼岸花』)、完成直後の東京タワー(『秋日和』)などがあげられよう。とはいえ、これらが物語の展開にとって重要な空間になることはない。あくまでも現在の位置を指し示すショットであり、例えば、待ち合わせの名所である和光は銀座の記号に過ぎない。一方、古建築であれば、円覚寺、清水寺、竜安寺(『晩春』)のほか、大阪城、京都の東寺(『小早川家の秋』)や尾道の浄土寺多宝塔(『東京物語』)が思い出される。『晩春』(1949)ではもう少し物語の内容に介入しており、清水寺では一望できる離れた2つの舞台が効果的に使われているし、娘を嫁にやる笠智衆の空虚感は竜安寺の縁側に座って石庭を眺めることで空間的に表現されていた。 だが、もっと深く視覚に刻み込まれるのは、むしろアノニマスな工場のシーンではないか。例えば、遠景で繰り返し登場する工場(『東京の宿』)、埋立地から眺める煙突(『一人息子』)、野原の向こうの煙突(『長屋紳士録』)、ガスタンク(『風の中の雌鶏』)、江東の工場の煙突『東京物語』、岡山の工場と煙突群(『早春』)、赤と白のストライプの煙突(『秋刀魚の味』)などがあり、しかも映画の最初と最後に頻出するために、より強い印象を与えている(図1)。1903年に深川で生まれ、そこで25年近く暮らし、松竹に勤め始めてから1936年までは蒲田撮影所に通った小津安二郎の経歴と生活圏を考えれば、日露戦争以後、近代の東京において工業化や郊外化が進行した地域とほぼ重なっており、当時、新しく建設された工場が原風景になったのは当然かもしれない。

図3 下河原友雄による蓼科の別荘計画スケッチ
図3 下河原友雄による蓼科の別荘計画スケッチ

ただ、工場の煙突は目新しい現実であるとか、懐かしいといったレヴェルだけで好まれたのではない。山小屋(『若き日』)や火葬場(『古早川家の秋』)の煙突のほか、いずれも冒頭に出てくる鉄塔(『お早よう』)、石燈篭(『東京物語』)、有名な灯台とビンのマグリッド風ツーショット(『浮草』)、また後楽園球場の照明(『お茶漬の味』)を考えれば、画面を縦に分割する視覚的要素を純粋に好んでいたようにも思われる。垂直方向にカメラを移動させるティルトはあまり使わなかったが、対象そのものがもつ垂直性は静物画風の構図を忘れがたいものにする。この問題は後でまた触れることにしたい。

小津安二郎が地方を主題とした作品(『浮草』など)は少なく、東京を東京ならざる西洋的な街並に変える『非常線の女』(1933)などの例外を除けば、多くの作品で東京を描いてきた。が、1963年に死去したために、彼にとっての同時代の東京と現在のそれでは決定的な断絶があり、それゆえ我々は小津の東京を単に懐かしいものだと感じている。なぜなら東京はまさに1964年のオリンピックに合わせた都市改造により不可逆的に変化したからだ。1960年代の東京では、交通と人口の急激な増加に対応するよう都内最大の構築物である首都高速が誕生し、同時に地下鉄、モノレール、歩道橋、埋立地、ニュータウンの整備が進行し、新たな景観の誕生を目撃した。メタボリズムの新しい都市像や丹下健三の「東京計画1960」など、建築家によるアーバニズムの提唱が盛んに行われた時期でもあった。またポストモダニズムの建築が登場するのも、1960年代以降のことである。 小津は郊外住宅地も近代的な空間の典型例として取りあげていたものの、都心と言えば、やはり原江戸の空間だった丸の内(オフィス街)・銀座(消費の街)が登場しており、彼の死後、ますます西に発展する東京の新しい核、新宿・渋谷にはもはや目が向かなかった。彼自身、急成長する東京を逃れるかのように、戦後は1952年に北鎌倉へ転居しており、新しい風俗や流行を映画にとり入れながら、すでにその東京へのまなざしはレトロスペクティブになっていたのかもしれない。とはいえ、そもそも小津はリアルに東京を描いていたわけではない。それが理想の故郷かどうかは留保するとして、佐藤忠男が指摘するように、小津の東京は「いずれは見られなくなるであろうせつない風景なのであり、……ある架空の抽象的な都市でもあった」※4。関東大震災の年に映画の世界に入り、シンガポールから帰って焼け野原を目にした小津は、失われていく東京を独特な手つきで抽象的な造形物に仕立てようとしたのではないか。小津を尊敬するヴィム・ヴェンダースであれば、それを「神話的東京」と呼ぶだろう。

図4小早川家の秋の絵コンテ、かくれんぼのシーン図5 小津新一による松阪旧宅スケッチ
図4 『小早川家の秋』の絵コンテ、かくれんぼのシーン図5 小津新一による松阪旧宅スケッチ

しかし、60歳で亡くなってしまうことがなければ、小津安二郎がどのように60年代以降の東京を描いたかを想像したくなる誘惑もまた禁じをえない。例えば、列車からの爽快な移動撮影を試みたり、『非常線の女』で走る車のサイドミラーを撮ったり、『東京暮色』(1957)で鉄道を見上げたショットを用いた彼だからこそ、東京に挿入されたダイナミックなインフラストラクチャーの首都高速道路ならば、どのように撮影したのだろうか、と。もしかすると、ヴェンダースの小津へのオマージュ『東京画』(1985)や、『都市とモードのビデオノート』(1989)にその映像の遺伝子が宿っているかもしれない。

建築

それにしても、映画と建築はいかにして出会うのか?ゴダールの『軽蔑』(1963)におけるマラパルテ邸や、テリー・ギリアムの『未来世紀ブラジル』(1985)とエリック・ロメールの『友達の恋人』(1987)の舞台になるリカルド・ボフィルの建築のように、突出したデザインの作品が使われていれば、異分野の個性の激突として語りうることもあるだろう。だが、小津の映画では、豪邸(『戸田家の兄姉』)から貧しい長屋(『長屋紳士録』)まで、様々な階層の住まいが登場しても、いわゆる建築家が設計したような特殊解としての住居は存在しない。では、いかに小津作品を建築に接続するのか?しかし、それは例えば、『秋日和』(1960)において、司葉子の結婚相手の候補となる東大建築学科卒の29歳の大林組社員といった説話的なレベルではあるまい(これ自体は単なるエピソードとしてしか機能しない)。あるいは、ドナルド・リチーの以下の指摘によってだろうか。 「小津は日本映画に建築の方法をもたらし、また、日本の大工のように基準寸法によって仕事をした。日本の大工が一定のサイズの畳や襖、同一の骨組みや横架材を使って家を建てるように、小津はいわば感情の基準寸法の映画を組み立てる時に、自分が使おうとする多くの画面のサイズ、そのイメージの輪郭を知っていたし、そしてこれらの画面はどの作品でも全く同じように繰り返し出てくるのである。大工のように、小津は彼の作品の仕上げに着手し、一連の構造上のアクセントとバランスで各場面をつなぎ、立ち寄る見物人のために完全な住居を作りだす※5」。

このように大工という職人芸を映画の方法論になぞらえることも出来るだろう。またヴェンダースと親交が深い建築家のジャン・ヌーヴェルは、しばしば組織論のレヴェルで映画と建築の類似性を語る※6。だが、これでは建築家としての小津安二郎をメタファーによってのみ思考することに止まってしまう。そうではなくて、彼を文字通りの建築家として考えること。つまり、彼は映画において、いかなる空間を設計したのかを明らかにすること。そのためには小津の映画に何が描かれているかを列挙することよりも、よく見慣れたものを彼がいかに描いているかを問うべきではないか。

筆者自身、この稿を起こすまでは、小津安二郎の表現が気になってはいたものの、決して多くはない数の作品を漠然としか見ていなかったことを告白しておこう。しかし、改めて空間を凝視しつつ、戦後のものを中心に小津映画を20本以上見続けることで、彼の作品はおろか、これまで映画そのものを見ていなかったのではないかと考えさせられた。いや、他のあまたの映画が空間を構築していなかったのではないかとさえも。それほどに小津の空間は強度をもつ。個人的な経験で言えば、それは建築学科に入り、初めて建築の透視図を描いた後の感覚に近い。目が痛いのである。透視図法という強力な空間の表現形式を知り、建築の細部にいたるまでを自らの手で作図した直後、それまで無意識に眺めていた何気ない街の建築さえも、はっきりと視覚に飛び込む。これは次第に慣れるものであるが、小津によって映画の知覚に関して喚起されたのは、まさにそうした感じであった。

視線

小津の手法として有名なローアングルは、畳の部屋であれば、料理や麻雀のパイがぎりぎりわからないぐらいの高さになっており、卓上の茶碗やビール瓶のフォルムが最も明瞭になるし、椅子式の部屋であれば、椅子よりは視線が高いものの机の上はもう見えない(図2)。小津安二郎がその大きな体をかがめて、低位置のレンズをのぞき込む写真を目にしたことがある人も多いはずだ。こうした低い視線での撮影を担当したカメラマンが、厚田雄春であり、ちょっとしたエピソードをさしはさむならば、彼の父は明治期に来日した建築家ジョサイア・コンドルに関わる会員制のコンドル協会に所属し、水道工事を行っていたことを付記しておきたい※7。厚田は、小津が室内の人間も屋外の建築物も、水平に狙ったことを証言している※8。実際、水平に撮影することによって、小津の映画に出てくる建築は、屋外であろうと屋内であろうと、上すぼまりや下すぼまりにはならず、画面に対する垂直性を維持している。その結果、屋外のシーンでは、高い位置からの撮影も試みているが、画面の下半分に大きく道路や野原が広がることがあるし、または垣根などで隠されていることが多い。ところで、こうしたイメージは、同じく90度に立ち上がる垂直線を守ろうとしている点において、いわゆる建築雑誌に掲載される建築写真と共通する部分が多い※9。すなわち、現実の空間よりは、建築写真が好む(透視図のような)虚構の空間に近いのである。しかしながら、全く同じというわけではなく、屋外の建築では小津の方がトリミングをしないで大胆に建築以外のイメージを手前に入れているし、屋内の建築写真は通常、天井と床面の両方が捉えられる高さを選ぶ。

図6 『秋刀魚の味』のセット図面、平山家一階平面図図7 『秋刀魚の味』のセット図面、◎の地点から見た平山家の室内パース
図6 『秋刀魚の味』のセット図面、平山家一階平面図図7 『秋刀魚の味』のセット図面、◎の地点から見た平山家の室内パース

小津が徹底してロケハンを行い、ライカで好みの構図を狩猟し、脚本にあった風景を探したことはよく知られている。むろん、映画監督であれば、多かれ少なかれやることなのだろうが、普通は助監督が行けばすむような『麦秋』(1951)のニコライ堂のショットの撮り直しも、本人が行かないと納得しなかったという。ここで建築史家のコロミーナが提示した新しいル・コルビュジエ像が想起されないだろうか※10。彼女によれば、ル・コルビュジエは頭の中で建築と眺めを作り、それから敷地を探す。もはや敷地とは風景が撮影される場所であり、「住宅は、この写真のためのフレーミングとして設計される」のだ。事実、ジュネーヴ湖のほとりの小さな家の建設では、先に決めたプランと眺望にあう敷地を探したことを自ら記している。近代建築家もメディアの中に生まれたとすれば、映画との類似性はゆえなきことではない。一方、小津もまた映画の中に住もうとしたのだろうか。脚本執筆のためにしばしば過ごした蓼科の地で別荘を新築しようとした1961年に、小津は彼の映画の美術を担当した下河原友雄と設計の相談をしており、そのときに描かれたスケッチも残されている(図3)。真正面から捉えたシンメトリックな構図は映画空間を思い出させるが、視点の高さは床と天井の真ん中ぐらいの普通のパースだった。ところでル・コルビュジエの場合、「目とは登録の道具であり、地上5フィート6インチに位置し」、彼が理想としたモデュロールの身体と同様、起立した姿からの視線が想定されている。 それでは小津の低い視線はいかなる空間を生むのか?なるほど、厚田が小津のことを「画面での畳を大変嫌った方だったんです。それでキャメラが低くなったんだと、僕は助手の時に感じた」と語ったように、画面に占める床の面積は消失していく※11。かといって、カメラは見上げているわけではないし、横長のスクリーンのために天井まで入ることは少ない。したがって画面に強調されるのは、縦の線ではないだろうか。水平的な要素の鴨居はせいぜい一番奥の部屋のものが入るだけで、画面を垂直に貫く柱、襖、窓、障子の方が存在感をもつ。これは視線の問題にのみ起因するのではなく、必ず画面の両側に襖や障子、あるいはちょっとしたオブジェを配して、小津が独特の構図をつくることにも関係している。しかし、ローアングルは『お早よう』のように、時として給食費を請求する子供が大きくなったように思わせる瞬間を生みだすだろうし、手前の畳に置かれたビンややかんなどの小物が高さをもっていたことを再認識させるのだ。平坦なものだと思われた日本家屋に立体感を取りもどすこと。いささか話しは脱線するが、かつて日本家屋に初めて畳が導入された平安時代は、床面全体に敷きつめられない置き畳だったのであり、それはわずかなレヴェル差を与えたに過ぎないとしても、階級の象徴的な表現にもつながっており、畳は空間に驚くべき垂直性をあたえていたはずなのだ。一方、われわれは現在の敷畳を平面としか認識できない。だが、間違いなく小津の空間は、物理的な高さではなく意識の上で高さの次元を与えている。もっとも『非常線の女』では、洋風の空間において異様に背の高いアパートの廊下やドアも確認されるだろう。

枠組

空間の立体感が必要ならば、単純に洋風の家を使えばいいのだろうか。そうではあるまい。地面から離して建てられる、日本の住居が本来的にもつ舞台的な特性とリチーが呼ぶものを、小津映画は効果的に引き出していたのであり、「彼は部屋を額縁舞台(プロセニアム)として使う」※12。1930年代の作品には、襖や障子をフレームとして両側に配し、部屋の手前から撮影する構図がすでに登場している。こうした手法は構図のシンメトリー性と共に洗練されていくが、住宅や会社の廊下でも、画面の両側が壁面になっており、似たような効果が追求された。抽象化かつ単純化された小津の絵コンテにおいても、フレームとなる線は省略されていない(図4)。屋外のロングショットでは塀のシーンなど、画面上で斜めに走る壁面が、縦の線の間隔をせばめて、より垂直性を強調する。ボードウェルがいうように、対角線上に配した人間や事物(バケツや桶など)が後退する「くい垣効果」は、遠近感を生む※13。例えば、『父ありき』(1942)では、親子や事物による相似形が頻出するが、その大きさの減衰が画面に奥行きをあたえている。

一方、『非常線の女』や『お茶漬の味』(1952)などに登場する洋風の部屋、また会社の空間では、スライドする襖や障子の代わりに椅子や家具を巧みに使い、同じような構図を作っており、屋外の風景を撮影するときにも同じ原理が用いられることがある。襖に関して、長年にわたり美術を担当した浜田辰雄は、「セットの日本間は二間が標準になっていて、間の襖が4枚あり、いっぱいに開けてあります。襖2枚分が開かれているのですが、フレームに入る襖の量分が多いと、人物にかかり過ぎたり、背景をかくし過ぎるので、半分の大きさの襖が何時も用意してありました」と回想している※14。つまり、画面内にもうひとつのフレームをつくる構図の探求が半分のサイズの襖を要請したのだ。ちなみに初期作品の『若き日』(1929)では、宿屋で二部屋続きのシーンがあるものの、襖は中途半端に開いているし、その襖も大きすぎるために、いわゆる小津風の構図にはなっていない。 周知のごとく、小津映画では少し離れた手前の部屋から室内シーンを撮影するのだが、壁の中の目のようなありえない視点を選択することはしないので、部屋はある程度大きくする必要がある※15。ゆえに六畳以上の大きさの部屋が二つ以上連続する空間構成が基本となり、四畳半のような小さい空間や単独の部屋を使う場合は、廊下の向こうから撮影することになる。ちなみに兄新一が描いたスケッチによれば、少年時代の小津安二郎が住んでいた松阪の旧宅にも、そうした六畳以上の部屋がまっすぐに連結する空間構成が認められる(図5)。また会話中に逆方向のショットを多用するので、セットは舞台のような三方の壁では足りず、四方の壁が必要となる※16。実際、『秋刀魚の味』(1962)の青焼きのセット図面を見ると、平面図に鉛筆で書き込まれたイ、ロ、ハ……の矢印に対応して、それぞれに簡単なパースが描かれているのだが、会話が行われる部屋には二方向の矢印がある(図6)。ただし、これらのパースは斜め方向に設定することで、二面の壁のデザインを一枚で指示しているし、視点は低くない(図7)。高さの寸法はパースに書き込まれており、他に立面図がないようなので、基本的に立面図はおこさなかったのだろう。

『東京暮色』のように、たとえ冬であってこたつを使っていても、常に襖が開いているのは不自然である。しかし、部屋は単に広ければいいのではなく、分節された空間を連続することが重要なのだ。それも雁行する部屋の単位ではなく、強い正面性も持って、まっすぐに並んでいること。ゆえに小津空間のローアングルは、基本的に隣の部屋からのぞいた視線となろう。だが、座って見る位置よりも低い、奇妙な高さによってわれわれはその視線と容易に同化することはできない。山中貞雄は低い視線を犬の見た目と語ったが、小津のそれは室内を中心に展開されるから、猫の見た目と言えるかもしれない。しかし、視点は固定されており、むしろ動かないモノの視線と考えるべきか。前田英樹が指摘するように、「身体という中心から放たれたあらゆる視線の下位に彼のキャメラは沈み、据えられている」のだ※17。ところで浜田辰雄は、こうした空間に低い視線が介入すると、「欄間はね、昔から小津さんのキャメラは低いもんですからね、向こうが透けて見えるんですよ。そいで天井を切りきれない場合もあるもので、透かし欄間とかそういうものも一切やめたんです」という※18。かつて小津は笠智衆に対し、「君の演技よりも僕の構図のほうが大事なんだからな」と言ったらしいが、小津がもつ空間のフレームもまた実際のセット・デザインを決定していく※19

住宅

図8 『宗方姉妹』の家(左)、『晩春』の曽宮家(右)、一階・二階平面図図9 『晩春』と『秋日和』の各家庭の障子を比較した図面
図8 『宗方姉妹』の家(左)、『晩春』の曽宮家(右)、一階・二階平面図図9 『晩春』と『秋日和』の各家庭の障子を比較した図面
図10 『秋日和』のセット図面、間宮家の一階平面図図11 『秋刀魚の味』のセット図面、料亭立花の二階断面図(下)、平面図(上)
図10 『秋日和』のセット図面、間宮家の一階平面図図11 『秋刀魚の味』のセット図面、料亭立花の二階断面図(下)、平面図(上)

下河原友雄はいう。「あの間どりと部屋の大きさは、シバイとシバイの間(マ)で出来てるんです。一方が立ち上がって何歩あるいたあたりに、片方のショットが入るんだから、何畳ないと何歩あるけないとか、玄関から入って来て誰かが二階へ上がって行って二階へ届くまでの時間というのは、このくらいだから、そうすると廊下が何尺なきゃいけないとかということがある訳ですよ。……それが、セットを全体的に、多少間のびさせましたが、ね」※20。つまり、空間のスケールは、生活の身体感覚から決まるのではなく、小津独特の映画の時間によって導かれる。彼が特製のストップウォッチでいつも演技の時間を計測していたことは有名な話である。そして現実的なスケールよりもやや大きめの空間ができるのだ。これらを踏まえると、住宅のマスタープランは以下のように設計される。「八畳か六畳のふた間つづきに、もうひと間長四畳みたいなものがついていて、その長四畳の一方に玄関、反対の端が台所、そこが細長い廊下のような所になる訳です。そこに二階へ行く階段がついていたり、片側に風呂場などがありそうなことになっているんです」※21。また家主が裕福なときは十畳と八畳になり、二階もしばしばふた間つづきであることをつけ加えておこう。玄関脇の応接用の洋間は基本的に存在しない。図面の知られているものでは『晩春』の曽宮家や『宗方姉妹』の大森の家、セットの図面資料で確認できるものでは『秋日和』の友人たちの家や『秋刀魚の味』の平山家と河合家は、ほぼこの原則に従っているし、戦後の他の作品の住宅も同様であることは映像からもうかがえる。そして夫婦は一階にいて、子供や来客は二階に寝泊まりする。男の聖域である料理屋の座敷と対応しつつ、家屋の二階が娘たちの聖域になっており、階段の不可視性によって奇妙に浮遊しているという蓮實重彦の指摘はよく知られていよう※22

社会的な地位も似ている『秋日和』の旧友三人は、驚くほどよく似た家に住む。だが、同じセットを使用しているのではない。松竹大船撮影所美術部と記された方眼紙に書き込まれた平面図を見ると、床の間や廊下の位置を入れ替えただけで、核となる空間構造が共通しているのだ(一マスが半間、すなわち襖や障子一枚の長さに対応)。浜田辰雄はセットの小道具で「住んでいる人々の経済力や趣味を表現するのは非常な楽しみでもありました」と述べているが、交換可能なほどに同型の住宅は襖や障子によって差異を示している。襖は戦前の作品(『戸田家の兄姉』の長男の家の扇模様など)からすでに派手な柄が使われており、昔風の襖が必要な場合、京都の古い紙屋に注文して作らせたものもあった。また各住宅の障子の桟のデザインやガラスをはめ込む位置を比較した図面も残っている(図9)。つまり、こうした室内の立面が住宅の違いを認知させるのだ。しかし、『小早川家の秋』(1961)にはマスタープランと異なる空間が登場する。佐々木の旅館では、中庭を挟む両側の部屋は視線が行き交うものの、向こうの部屋に移動するには、中庭に沿った廊下から迂回して入れなければならない。つまり、中庭を挿入することで、ふた間つづきのユニットを視覚的には連続させながら分割しているのだ。また小早川家は有名なかくれんぼのシーンのために、ふた間つづきのユニットが奥行きの方向だけではなく、横方向にも広がっており、より空間を流動的なものにしている。

ところで、小津映画の住宅を眺めていると不思議な気持ちに襲われる。これらの家には外観がないからだ。室内シーンはロケを嫌い、スタジオで撮影したことも一因なのだが、『秋日和』と『秋刀魚の味』のセット図面一式にも、窓の向こうのオフィスビルやバーのある路地を除けば、ファサードのデザインを指示するものはない。したがって、映画でよくあるような一家が同じ屋根の下に住むことを象徴的に示す住宅の外観のショットに、われわれが出会うことはない。唐突に玄関の格子戸が動き、住人は家の中に入るだろう。 さらに小津映画で特徴的なのは、眺めのない部屋である。住宅の開口部から見晴らしのいい風景が展開することはない。必ず塀や柵が視界をさえぎり、二階であれば、隣の家の瓦屋根がせまっている。だが、『早春』のラストで夫婦が二階の窓から鉄道を眺めてはいなかったか。これも二人の顔のショットの後に風景が続く、想像の上で接続された空間の連鎖であって、同一の構図に室内と豊かな眺望が存在しているのではない。当然、これは室内がセットでつくられたことに起因するのだが、こうした映像は開放的と言われる日本建築とは異質の閉鎖的な空間を生んでいる。セット図面を見よう。例えば、『秋日和』の各住宅の開口部がある場所に対してのみ、『秋刀魚の味』の平山の事務所は内部だけの空間であり窓に対してのみ、詳細に向こうの見えがかりが指定されている(図10)。これに注意を払っていたことは、『秋刀魚の味』で珍しく一枚の断面図が存在し、そこに料亭立花の二階座敷から肘掛け窓の方に視野の広がりを示す線が書き込まれていることからもうかがえる(図11)。窓の外には保留と記され、この図面の作成時は思案中だったようだが、最終的には大きな赤い提灯が置かれていたはずだ。

無人

図12 『秋刀魚の味』のセット図面、平山家の階段図面
図12 『秋刀魚の味』のセット図面、平山家の階段図面

しかし、小津の家屋が最もなまめかしい存在たりうるのは、住人によってその空間が充溢しているときではない。誰もいない空虚な風景の瞬間にこそ、はっと息をのむような美しさが顕現する。こうした無人の部屋を小津映画でわれわれは度々目にしてきたはずだ。場所の転換を示す空ショットの連続において、あるいは人が室内に入ろうとするその直前において、そして人々が過ぎ去った後にも余韻を残しつつ映しだされる映像において。これはとうてい生きられた空間と呼べるものではない。むしろ、それは不意にあらわれる死の風景であり、誰もいない空間なのだから、われわれもまた日常生活で立ち会うことができない。非人間的な存在だけがそこに居ることを許されるのであり、映画のカメラが最も人間の視線から遠いものになったときに撮影されるのだ。こうした無人の風景を思わず目にしたとき、われわれは見てはいけないものを見てしまったように感じる。

無人の風景は人が映っていないことが多い建築写真とも似ていよう。コロミーナは、アドルフ・ロースの住宅の写真が今まさに誰かが部屋に入ってこようとする雰囲気をもつのに対し、ル・コルビュジエのものはつい今しがたまで誰かがいて痕跡を残したかのような印象を与えると指摘していたが、小津の映像にはその両方が使われている※23。しかし、これから何かが生起するような部屋の風景よりも、すでに出来事が発生し、ときには廃棄されてしまった部屋の方に魅力を感じるのはなぜなのか。モラレス・ルビオーは、「何かしら一連の出来事が起こったのちの放棄された空虚な場所」に関心を向けた写真家に言及し、こうした都市の残余空間を空き地を意味するテラン・ヴァーグと命名している※24。娘が嫁いだり、家族の不幸によって空白が生じた小津の無人の風景も、家屋の中のテラン・ヴァーグではないだろうか。家屋の中心ではない、活動の停止した場所。かつて住人が生活していた部屋は、未知なるものに変容し、家屋の内部における他者の空間となる。

とりわけ、小津映画でも印象的な無人の風景は、『秋刀魚の味』で岩下志麻が嫁いだ夜に映されたものだろう。誰もいない台所のショット、二階の娘の部屋に続く階段のショット、そして暗闇の中で室内を映しだす鏡台が、住人の不在になった空間を強調する。蓮實重彦がその特異性を指摘するように、ここの階段は『風の中の雌鶏』(1948)のような妻の転落する劇的な舞台でもなく、『浮草』(1959)のような人の昇降する交通の場でもなく、ただ絶対的な不在を示すために階段のみの映像が使われている。『秋刀魚の味』のセット図面を調べていて気がついたことだが、平山家には一階平面図と二階平面図が準備されているにもかかわらず、わざわざ階段の図面も作成されていた(図12)。これは驚くべきことである。他の建築の設定図面を見ても、こうした部分だけを別に平面図にしたものがないからだ。おそらく、それだけ最後の階段のショットが重要なものと認識されていたのではないか。そして、はからずも、これが小津安二郎の遺作となった。彼の墓石には、「無」の一字が刻まれている。


※1 渡辺真理+木下庸子「nLDKよさらば」(『新建築』1998年5月号)
※2 拙稿「HOUSES for EXHIBITION」(『GA JAPAN』25号、1997年)
※3 G.ドゥルーズ「不変のフォルムとしての時間」(『リュミエール』4号、1986年)
※4 佐藤忠男『小津安二郎の芸術』(朝日新聞社、1971年)
※5 D.リチー『小津安二郎の美学』(山本喜久男訳、フィルムアート社、1978年)
※6 拙稿「ヴィリリオ/パランからジャン・ヌーベルへ」(『10+1』13号、1998年)
※7 厚田雄春/蓮實重彦『小津安二郎物語』(筑摩書房、1989年)
※8 前掲書、ならびにヴィム・ベンダース監督の『東京画』を参照。
※9 建築写真については、福屋粧子「建築はどのように伝達されるか」(『建築文化』1998年2月号)を参照。
※10 B.コロミーナ『マスメディアとしての近代建築』(松畑強訳、鹿島出版会、1996年)
※11 「小津作品の技術面と監督小津について語る」(『小津安二郎 人と仕事』蛮友社、1972年)
※12 ※5に同じ。
※13 D.ボードウェル『小津安二郎』(杉山昭夫訳、青土社、1992年、p.157)
※14 浜田辰雄「小津映画の美術30年」(『小津安二郎 人と仕事』蛮友社、1972年)
※15 ※11に同じ。
※16 ※7に同じ。
※17 前田英樹『小津安二郎の家』(書肆山田、1993年)
※18 井上和男編著『陽のあたる家』(フィルムアート社、1993年)
※19 ※4に同じ。
※20 ※11に同じ。T.SATO ‘CURRENTS IN JAPANESE CINEMA’(KODANSHA, 1987, p.191)にも、小津が秒数を計測し、それに従いセットをデザインしたという下河原の証言が紹介されている。
※21 ※11に同じ。
※22 蓮實重彦『監督 小津安二郎』(筑摩書房、1983年)
※23 ※10に同じ。
※24 モラレス・ルビオー「テラン・ヴァーグ」(田中純訳『ANYPLACE』NTT出版,1994年)
なお、I.WIBLIN‘THE SPACE BETWEEN’(“CINEMA & ARCHITECTURE”BRITISH FILM INSTITUE,1997)は、小津を写真家のベッヒャーやシュトルートに共通する視線の持ち主だと指摘している。
※付記 本論では特に参照しなかったが、小津安二郎の建築的な考察としては、他に富永譲「〈面〉と〈空ショット〉」やケイ・ニー・タン「映画と建築のひそかな関係」(いずれも『建築文化』1995年4月号)、そしてS. NYGREN‘THE SHIFTING ARCHITECTURAL CODES IN JAPANESE CINEMA’(“CINEMA & ARCHITECTURE”MERIDIENS KLINCKSIECK,1991)などがある。

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