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「作品外」資料の収蔵と公開
─ 映画研究の未来のために ─

松浦寿輝=文


完成した一篇の映画作品は、その背後に、多くの人々が費やした膨大な時間と労力を隠し持っている。誰かの脳に宿ったとりとめもない夢想や思いつきから始まり、何度も書き直され、推敲を重ねられた計画に添い、多くの調査や議論や準備が行われ、多くの失敗や徒労や試行錯誤を経て、最終的なフィルムが完成する。その過程で、スタッフやキャストをはじめとする数多くの関係者の間に生涯続く堅い友情が生まれ、ときには愛も芽生え、かと思うと陰惨な嫉妬や敵意で修復不可能な亀裂が生じたりもするだろう。観客が映画館で見る映画は、その制作のために注ぎこまれたこうした途方もない時間と労力と情熱の凝縮されたエッセンスなのである。

われわれが一時間半なり二時間なりの間に瞳で捉える映像、鼓膜に受けとめる音響は、それを作り出すために注ぎこまれた途方もない量の有形・無形の労働のほんの小さな一部分の顕在化でしかない。しかし、このささやかな成果は、実のところそうした膨大な労働の全体があってこそ初めて可能となったものなのだ。完成した映画の九十分の時間の持続は、制作の過程で切り捨てられてしまったり抑圧されてしまったりした多くの部分まで含めて、そこに注がれた莫大な労力のまるまる全体をめぐる記憶によって支えられていると言ってよい。

なるほど単にスクリーンに視線を投げているだけでも、そこには何か大変な作業が行われたのだろうと想像することができる場合もないわけではない。たとえばヒッチコックの『サイコ』のシャワー・ルームでの有名な殺人シーン。これは映画の視覚効果として驚くべき強度に達した画面連鎖から成り立っており、その後に撮られた無数の犯罪活劇やホラー映画のクライマックス・シーンの起源となり、きりもなく模倣され反復されて現在に至っているものである。さらにこうしたヒッチコック映画の衝撃的なスペクタクルを手がかりに、哲学者スラヴォイ・ジジェックはフランスの精神分析医ジャック・ラカンの理論の解説を試みたアクロバティックな知的言説を生み出してもいる。たとえ専門の映画研究者ならずとも、誰しもこの映像、この音響を支えているものが何なのか、撮影の現場においてキャメラの手前でどんなことが起きていたのか知りたいと思い、この映像と音響の背後に回りこんでみたいと考えるだろう。

そうした欲望に応えるために、「作品外」の事実を明かす資料がこれまで幾つも公けにされてきた。たとえばフランスの映画監督トリュフォーがヒッチコックに行ったインタヴュー『ヒッチコック/トリュフォー』(晶文社)があり、そこでヒッチコックはやや得意気に、創造の秘密と呼んでいいものの幾つかを明かしている。またこのシーンで殺されてしまう悲劇のヒロインを演じたジャネット・リーによる回想記『サイコ・シャワー』(筑摩書房)もあり、ヒッチコックの証言との間に多少の食い違いがあったりするあたりもなかなか興味深い。さらにヒッチコックの伝記も何種類か書かれていて、映画制作の背景を物語っている。

しかし、「作品外」の事実のうちには、作品そのもののうちにいっさいの痕跡をとどめていないものがあり、たとえば準備の段階で「ロケハン」が行われながら、結局撮影のためには採用されずに終った場所をめぐって費やされた労力の記憶などがそれに当たるだろう。そうした記憶は作品の可視的な部分からは完全に抹消されてしまっており、テストのために撮られた多くの写真は関係者にとっての個人的な思い出として私蔵されたまま眠りつづけることとなる。われわれは、そうした資料が存在していることすら知りえないのだが、にもかかわらず、ひとたびそれが作品の余白に位置する資料として公開されるや、作品内部の意味作用はそれと共振し合って増幅され、いっそう豊かなものとなってゆくだろう。もちろん単なる好事家(「映画オタク」)の趣味的な快楽に奉仕するだけであれば空しいけれども、われわれの共有の富となることでそれは、映画作品の意味作用の磁場のいっそうの豊饒化に貢献する可能性を帯びることになるのである。

このたび小津安二郎の撮影監督であった故厚田雄春氏所蔵の多くの資料が、東京大学総合研究博物館と総合文化研究科表象文化論専攻との共同作業として、このようなかたちで展示・公開され、わが国の大きな文化遺産というべき小津映画に関心を持つ多くの人々にとっての共有財産となる途が開かれたのは、まことに慶ばしいことである。単なる一過性の娯楽スペクタクルと見なされることの多かった映画は、今や、20世紀文化のもっとも重要な一翼を担ってきた分野として認知されており、真剣な文化史研究の対象となりつつある。映画は、依然としてジャーナリスティックな批評の対象でありつづけながら、しかし同時に、今日、アカデミックな研究の対象にもまたなりつつあるのである。

だが、長期的なスパンで遂行されるそうした堅実な研究のために何よりもまず必要なのが、作品それ自体へのアクセス可能性とともに(これに関してはヴィデオの普及によって状況は劇的に改善された)、「作品外」に位置する資料体の蓄積と収蔵、そしてその公開であることは言うまでもない。テクノロジーとしては「デジタル以前」に属する映画であるが、今回の企画のようなかたちでの資料の電子化とネットワーク化は、映画史や映画美学や映像理論を専攻する世界各国の多くの研究者を、測り知れないほど裨益することになるのは間違いないと思われる。「デジタル小津」展の実現のために惜しみのない労力を捧げてくださった多くの関係者の方々に心からお礼を申し上げたい。

小津厚田


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