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デジタルと小津

坂村健=文


図1ステレオグラム
図1 ステレオグラム

遠くを眺めるような視線で図の上の2つの○を見ると、だんだん左右にずれて二重にみえるようになる。○と○が重なったら視線を下にずらす。すると画像上に文字が浮かび上がる。これが裸視での平行法による立体視である。 小津映画は不思議な映画である。何の知識もなく小津映画を見た大部分の人の感想は、あまりに当たり前のことがずっと連続してる、という印象ではないだろうか。無礼を恐れずにいうならば、そのどの部分でもいい——数分間だけ見るならば、退屈だと思う人が多いだろう。その意味では、変化——といっても、単なる動きだけのことが多いが——を求めるテレビ時代には、まったくもって向かない映画である。リモコンで、いわゆるザッピングをしていて小津映画が映ったとして、そのまま見続ける人は、そもそもの小津ファンだけだといったら言いすぎだろうか。

しかし、その映画を頭から見ていると不思議と引き込まれるようになる。まるで突然テレパシーの能力が備わったように。簡単な言葉の裏にある登場人物たちの心の動きが見えてくる。そして「ああ、そういうことあるな」という、共感のようなものがわき上がってくる。

最初から見るにしても、いいかげんに見ていてはいけない。それでは、やはり表層的な印象しか得られない。集中して見ているとやがて、精神が小津映画にチューニングされる。そのチューニングがすんだとたんあらわれるものは、けっしてケバケバしくはないが、全ての人が日々の生活のシチュエーションの中で感じている感情——「かすかに不満があるが、それを相手にいうのははばかられる、でもそれだからこそ、かすかな不満がより意識され、もてあましている」といったおだやかだが決して無視できない波立ちである。

若き日の小津と厚田の写真 このときの感覚を例えるなら、まるで一時流行したステレオグラムのような感じだ。表面的に見ているとなんの変哲も無い繰り返しの写真が、注意して見ていると急に深い奥行きを感じさせる(図1)。見えてくる立体物は、コンピュータの3Dで作られたのっぺりした塊だが、とにかくその立体感が不思議な生々しさを与える。多分、経験した人でないとわからないだろう。それほど、個人的な不思議な体験である。

小津映画が観る者に引き起こす共感だけについていえば、いわゆる「おもしろい」普通の映画では得られないほど深い。「おもしろい」シチュエーションで「おもしろい」と人々が感じている——このように、観客が受け取ることを期待される——感情は「恐怖」とか「勇気」とか「正義感」とか「自己犠牲」とか、普通の人が朝起きてから寝るまでに——というより、一生のうちにもほとんど感じないような感情ばかりである。それらはいわば「毒薬」とラベルのついた薬瓶を見ているようなもので、観客にとっては記号としてしか処理されない——もしくは、生理的・本能的感情が反射神経的に反応しているだけのものである。あまりに抽象的なものもしくはあまりに動物的なものの両極端であり、ともに普通の人間の精神の日々の働きとはかけ離れたところにある。確かに強い感情かもしれないが、あくまで外から来る異物であり、小津映画が引き起こす「ああ、そういうことあるな」という、内側からの共感にはなりえない。

ステレオグラム

小津安二郎の写真 話は少しそれるが、実際の写真をベースにした美しい滑らかなステレオグラムが作れるようになったのはつい最近のことである。左右の目が一つ飛びで別の部分を観るように一定の周期で繰り返しているパターン化された画像がまずベースとなる。それに、微妙なゆがみを加えると同じ部分を観ていると錯覚させながら、左右の目が別の部分を観ているため、その左右の目からの像の微妙な差が立体感を作り出すのである。徹底的に計算に基づいた微妙な操作の積み重ねであり、コンピュータがあってはじめて可能になったものである。

小津の映画についての分析、解釈、評論はいろいろある。初期の「単なる職人」的批判は論外として、主に海外からの再評価においても、同じフレーズが目につく。今回の機会にそれらを読んで気がつくのは、「繰り返し」「限られた簡素な手法」「精密な計算」といったフレーズだ。それらの評論では日本的な——いかにも日本的な引き算の美学という捉え方につながることが多い。俳句のような、はたまた禅のような。「限られた規矩の中に無限を」という、いささかステレオタイプな「日本の美」のフレームで小津映画を捉えることとなる。

しかし、筆者のような映画を専門としない門外漢にとって、「繰り返し」「限られた簡素な手法」「精密な計算」そして、チューニングしたとたんに見えてくる「作り物でありながら、不思議と生々しいもの」ということから、浮かんだのは卑近なこのCGステレオグラムだったのである。

もちろん、このような粗雑なアナロジーは危険なもので、わかった気になるだけで差異に目をつぶらせる弊害は、俳句や禅を持ち出すのと五十歩百歩だろう。しかし、その危険をわかった上で、理科系の門外漢の視点にも、少しは新しい視点としての価値があると考えていただけるなら——このアナロジーはなかなか興味深い展開を生む。

つまり、「繰り返し」や「限られた簡素な手法」や「緻密さ」は「ムダな要素を切り落とした」結果とか「日本的な引き算の美学」などではなく——ステレオグラムがコンピュータによる緻密な計算なしでは成り立たないように——小津の映画が機能するための必須のものだった…ということである。

グローバルスタンダード

実際、近年の小津映画評論では、ステレオタイプに小津を捉えることに対しての批評も多く、実際それは正しいと思う。小津映画を「日本的な美」というフレームで捉えることは、そこに収まらない多くの要素を、それこそ「切り落として」しまうことになる。

例えば、厚田氏の遺品から見えてくる小津組の仕事振りは、日本的な感性主義とは対極にある徹底した事前の計算と文書化である。もちろん、映画というものは多人数の共同作業であり強い予算管理の必要性がある以上、事前の計画と文書化が他の芸術分野と比べ大きな比重を持つ。しかし、小津組の仕事について言えば、台本の時点で、ショットの時間まで計算していたともいわれ「それだけ準備にコストはかかったが、仕上がりのフィルムの長さなどが寸分たがわなかったので、かえって営業的には予測が立ってよかった」という話があるぐらい、当時の日本の監督の中では突出して非現場対応主義でプリプロダクション重視であったことは確かであろう。「現場でキャメラを覗いていて突然天啓を受けて、セットを全部作り直させる」的な、巨匠神話の方がいかにも「芸術家」的である。その逆に予算通り仕上がる小津を低くみる。こういういかにも日本的な「芸術指向」の批評家の感性が、初期の「単なる職人」という批判の背景にあったのであろう。

しかし現在の目で見れば、小津監督も小津組も現在のハリウッドへ行っても通用するような「グローバルスタンダード」な仕事の仕方をしていたということになる。小津も小津組を作り、黒沢も黒沢組を作ったが、その理由は180度違っていたのではないだろうか。黒沢の黒沢組はツーといえばカーの日本的「気心の知れた」スタッフである。それらを使えなかった晩年の海外進出作品はことごとく失敗であったともいわれている。これに対し小津の小津組は、小津の緻密な組み立てを実現できる——当時の日本では珍しい——プリプロダクション重視の仕事の仕方が身についたグループだったのではないだろうか。

厚田氏の手帳
厚田氏の手帳
厚田氏も小津亡き後、他の監督とも仕事をしているが結局肌があわず一線の仕事から引いていく。これをローアングルなどが染み込んでいて他の監督に指示された手法がこなせなかったと考えるのは、氏の能力からいっておかしな話だ。むしろ、高いアングルでもいいし、パンでもいいが「このカットではこういう意図があるから、パンはこの角度から毎秒何度の角速度でここまで」といった綿密な事前の打ち合わせと設計なしに「はい、ここパンしてね」的に指示しておいて、現場で「なんか違うから、もっと早めにパンね」的な他の監督のやり方と、厚田氏の仕事の仕方が合わなかったと考える方が自然である。その印象は、厚田氏の遺品の資料などを見るとより強くなる。緻密なたくさんの事前調査の記録がある。実際厚田氏のロケ手帳などを拝見してわかるのは、氏が小津のさらに上をいく緻密さ指向で、事前準備を重視していたということである。

ノイズ

映画監督には、まず表現したいことがある。それはどの監督でもそうであろう。その次に、どうするかである。多くの監督は自分の過去の作品で成功した経験や観た作品などの記憶からなる大量の手法のストックの中から、適切な手法を選択する。とはいってもこの部分は意識的というより多くの監督——特に当時の小津以外の監督では「感性」によって選択していたのではないだろうか。この感性的やり方は、気にしなければ気にならない、まさにコンピュータが人間にかなわない部分であり、いわば将棋の定石のようなものである。

しかし、人間観察を徹底した小津にとっては、そのようなプロセス自体を意識しないで行うことができなかったのではないか。実際、「定型的な言い回しやシチュエーションへの反応で深く考えないことで世の中の生の現実から自分を守っている日常」を切り取って、その普段意識しない部分を見せることが、小津の——特に後期の小津映画の主題の一つであったと思う。そのように人間の定型反応の仕組みが「見えて」しまった小津にとって、自分自身の選択についてもそれを定石に頼った無意識のレベルのプロセスとしておくことはできなかったのではないか。

微妙な感情の動きを伝えるという、感性的な表現の目的にもかかわらず——いや、むしろだからこそ、小津は感性を分析せざるを得なかったのだろう。それはしぐさやイントネーションまでおよぶ徹底した人間観察に基づいたものであり、だからこそ「悲しみの表現ならこれ」というような定石を感性的に選択するような安直なことができなかったのである。

まず表現したいことがある。それをどう表現するか徹底的に意識的に考える。そして、ゼロから必要な要素を一つずつ足していく。詰め将棋の問題を作るように理詰めで全体を組み立てていく。それが小津のやり方の基本だったのではないか。

このような仕事の仕方は、まさに戦略レベル→戦術レベルとトップダウンに緻密な事前計画を立て、それをグループ内で徹底するために文書化してから本番に望むというアメリカ的なプロジェクトのやり方に近い。近年のハリウッドはCG(コンピュータ・グラフィクス)の利用が多くなるにつれ、より徹底的にプリプロダクション重視となっている。どのカットでだれがどう動くかということまで、事前にフレーム単位で設計しておかないと、CGと実写を並行して進め最後に合成することなどできないからである。

その意味で言えば小津監督も小津組も、日本的でもなく、さらに言えば1950年代的でもない。意識的に分析され、「切り捨てる」のでなくむしろ「蒸留された」微妙な感情の動きは、——当時ですらリアリティのない——人工の極致であった。しかし、時代という不純物をふりすてたからこそまさに生々しくありつづけられたのである。例えば「引き上げ者」とか「進駐軍」とか、そういった社会背景や政治的なものを排除しているといって、それを小津の限界とする批評もあった。しかし、それは見当違いの批評であろう。それらを持ち込むことは、当時の昭和20年代という時代に縛りつけられた感情を持ち込むことであり、それは小津の表現したいことにとってノイズでしかなかったのだから。

小津が描く感情——例えばジェネレーションギャップは「明治生まれと昭和生まれのギャップ」ではなく「世代Aと世代A+20のギャップ」であろう。それが理想であり、彼は映画という表現の限界の中でできる限りそれに近づこうとしていた。だからこそ、小津の映画は海外でも受け入れられているのだろうし、現代の若者にも熱狂的ファンがいるのではないだろうか。

コントロール

演技指導を受ける原節子と笠智衆
カットじり写真
カットじり写真
小津がそういう仕事の仕方をしていたとしたら、例え、湯のみ一つにしろ、単に茶の間のシーンだからそこにあるというものでない。ある意図のもとにそのちゃぶ台の上にあるべきものであり、意識してそこに置く以上、必要十分な役割を果たすモノでなければならない。過度に装飾的であってはいけないのはもちろん、観客がそこから監督の意図しない情報を得てしまうようなものであってもいけない。

セットの小道具で使う提灯や看板などの文字は基本的に全部自分で書いたというエピソードも伝わっている。セットの小道具にもこだわりがあり、「あの品でないとだめだ」と撮影の最中に自宅からこだわりの一品をもってこさせたこともあった。

モノも、セットも、役者もセリフもすべてが、監督が計算した情報を過不足なく観客に伝えるためのメディアでなければならない。だからこそ、コントロールできないものは持ち込まないということになる。フィルムもワイド登場時代にもかかわらず、端の部分がゆがむのを嫌って、35ミリスタンダードサイズにこだわったという。それもこれも、カメラのパンを嫌ったのも、観客の視点の位置を固定したのも、すべて観客が監督の意図しない情報を得ることを恐れたからだとすれば、理解できるのではないだろうか。

芸術家には往々にして、この両方の人種が存在する。「自然とのコラボレーション」などと称して、自分の作品を自然の中にほうり出し「意図しない」出合いが何かを生むことを期待するという「オープン指向」タイプ。自分の作品の独立性を維持するために、その周辺に意図しない情報があることを徹底的に嫌う——展示については台座にまで注意し、自然石を使うことはもちろん不可だし、作品ごとに決まった大きさと比率の完全な直方体の台座の製作を要求する彫刻家を知っている——「コントロール指向」タイプ。どちらがいいとも言えないし、それを論ずるのは本稿の主題ではない。しかし、小津が後者であったことは、確かなのではないだろうか。

メディア

ここで映画という芸術分野の特殊な制限について考えてみよう。小津が自分の表現のために、完全にコントロールできるメディアを求めていたとしたら、映画というのははなはだ不適切なメディアというしかない。

映画のメディアとしての制限は、いわば俳句の制限とはまったく別方向の制限である。つまり、言葉なら白紙の原稿用紙の上に作家が完全なコントロールのもとにつづることができる。ただ、その表現にルールがあり、作家は自分の意志でそのルール——規矩の中で表現をすることを選んでいるだけである。

絵画も作家のコントロール性は高い。白紙のキャンバスの上に作家が意識して色を置いていく。もちろん画材の持つ物理的制約はあり、完全に思い通りなコントロールは不可能である。筆より小さい点は描けない。キャンバスより明るくすることはできないし、絵の具にない色はだせない(小林秀雄の色彩論はあるにしても[1]、モネの点描ももしかしたら一点一点を完全に支配下に置きたいというもっと根元的な支配願望と当時の画材との妥協の産物だったのかもしれないとも思う)。

そして、写真になると、その制約はさらにきつくなる。ライティングなどで演出するにしても、実際に存在する形を捉えることしかできないからである。

メディアとしての具象性が上がれば上がるほど、作家のコントロールできない部分が増えていく。いわばあたりまえのことであるが、その極限に存在するメディアがムービーである。

小津は、本来作家が最も少ないコントロール性しか持たないメディアを選び、なおかつそこで、コントロールを求めたのである。

だから、小津作品と他の作品の違いを、絵画のジャンルの中でのカディンスキーかゴッホかのように比較することにはあまり意味がない。小津は決して、要素を単純化したかったのでも、より要素を少なくというミニマリズムを求めたのでもないと思う。むしろ、小津の求めたのはコントロールである。いわば写真というジャンルを選びながら絵画のコントロール性を求めたのである。

小津が、俳句のような意味での表現に対する規矩を自らに課したとすれば、まさに最初に映画というメディアを選んだということ自体なのではないだろうか。それ以降は、その制約のあるメディアの中で、どこまで自分のコントロールを実現できるかという戦いであり、決して「切り落とした」のでも「制限した」のでもなかったのである。

小津ファンには有名な、豆腐とトンカツの議論がある[2]。しかし、小津にとって豆腐かトンカツが重要なのではなく、自らの表現したいことに必要なら幕の内弁当でも彼は作ったと思う。ただ、作るとしたら小津の幕の内はそこに盛るご飯の粒の揃い方にまで気を使った幕の内弁当でなければ気がすまなかったのではないか。

しかし、当時の技術ではそれは不可能である。厚田をはじめ「コントロール指向」タイプで固めたスタッフの力を持ってしても、人間がコントロールできる複雑さには限度が有る。だから豆腐である。豆腐ならコントロールできる程度の複雑さに収まる。家族のちょっとした感情の波立ち以上の、社会全体の変化を描くような大作も作りたかったかもしれない。しかし、予算よりなにより、そのような作品でコントロールしなければならない複雑さはどんな人間の集団の限界をも超えている。そういうことだったのではないだろうか。

コンピュータ

RESTORATION PROCESS ところで、実は絵画や写真に対する作家のコントロール性はここ十年ぐらいで大きく拡大している。これもコンピュータ技術の進歩による変化だ。デジタル絵画や、コンピュータのフォトレタッチソフトにより、作家は必要ならピクセル単位で光をコントロールできるようになっている。物理的には不可能な筆先やフィルターもコンピュータアルゴリズムとして実現できる。

同じ変化の波は映画にもおよんでいる。それが先に述べたCG(コンピュータ・グラフィクス)技術の映画への利用である。

小津の映画の特徴を「技術的にコントロールできる複雑さの程度」としてとらえる筆者の視点も、実はこのCGの歴史を下敷きにしている。過去のCGではコンピュータの計算能力の限界から、描けるものに限度があった。ボールは完全な球体でないといけなかったし、人間の手足も円筒の組み合わせだった。しかし、コンピュータの計算能力があがるにつれ、より複雑なモノが取り扱えるようになってくる。この違いは、1982年の映画『トロン』と1998年の映画『Antz』を見比べればよくわかる。『Antz』ではアリ達が性格俳優をしのぐ微妙な表情を、皮膚下の筋肉も含めたシミュレーションで見せてくれる。

CGによる映画では意図しない限り汚れもボケもブレも表現されない。映画『トロン』のようにまったく幾何学の世界である。汚れもボケもブレもすべて制作者が意図して持ち込まないといけないものである。むしろそれらを持ち込むと計算量が増えるという意味で、制作者側はつねにそれらがそのシーンに必要かどうかの意識的判断を求められる。意図しない汚れやボケやブレを持ち込まないために小津が苦労した通常の映画とは、困難さの向きがまったくの逆方向である。

その意味では、小津が——そして厚田氏をはじめとする小津組が、いまのハリウッドにいて十分な予算の元にCG映画をつくったらと考えるのはなかなか楽しい夢想である。「日本的な——あまりに日本的な」という小津像が本当の小津像なら一蹴されたかもしれないが、そうでないとすれば案外CGを気に入ってくれたのではないだろうか。

ノイズフリー

意図しない情報——いわばノイズを嫌った小津にとって、当然映画が完成してから持ち込まれるノイズも嫌ったであろうことは想像にかたくない。

注意して作った水の一滴の音、何種類ものイントネーションとアクセントで細かく分類された「そうか…」のセリフ——それらに雑音がかぶったら。すべての食器まで注意を払ったちゃぶ台のシーンに斜めの傷がかぶったら。誰よりも、自分の意図しない情報を排除しようとした小津にとって——そして厚田氏らの小津組にとって、これら文字通りのノイズは悲しみ以外のなにものでもないだろう。

他のメディアと異なり、映画は再生されなければ鑑賞してもらえないという制限を持っている。制作時のコントロールの困難さに加え、映画は再生時の条件のコントロールの困難さといういわば二重の不利を持つメディアなのだ。そして、映画フィルムは長期間——現在のフィルムは一世紀といわれる——保存が可能とはいえ、その原理的な化学的不安定性による劣化は避けられない。特に1930年代以前のサイレントフィルムの9割、1950年代以前のフィルムの5割は失われているという[3]。小津の作品も54作品のうち36作品しか残っていない。そのためフィルム修復が必要となる。

主な作業としてほこり取り、傷の修復、退色の再生などがある。従来はフィルム洗浄、傷の補填(ひっかき傷の部分にフィルムと光学的特性が同じ物質を注入)などで対処、だめならば転写により行われてきた。だが転写の度にコピーの世代が上がるので画質はどうしても劣る。また音も大きく劣化しているのでなんらかの修復が必要な場合が多い。しかし、これらのアナログ的手法では限界があった。

ここでもデジタル技術の進歩が新しい波をもたらしている。

コンピュータによるフィルム修復はもとをたどれば、1960年代よりのデジタル画像処理にある。当初はリモートセンシングなど衛星画像の補正や改善から研究が始まった。映画のデジタル修復はコンピュータ能力の発達と記憶メディアの低価格化により1990年代になってはじめて実用になった。それまでは記憶メディアのコストが高く、動画像データの保存のためになどとても使えなかった。

デジタル修復では、まずフィルムを高精度スキャナーで読み取り、デジタル形式にする。デジタル化してしまえば、以降のコピーは同じ品質を保つことができる。だが映画は35mmでは各フレーム45MB、毎秒24フレームとすると一時間で86400フレーム、3.9TBにもなる[3]。これをコンピュータ画面上であっても人手のオペレータがリタッチして修復するのでは非常に労力がかかる。できるだけ自動化が求められる。

完全デジタル修復はディズニーの1937年作品「白雪姫」が最初とされる。

1950年以前のフィルムはナイトレート(硝酸エステル)ベースなので劣化がひどくフィルムとして使えなくなっている。そこで転写するなりして全面的に修復する必要があるとされる。白雪姫50周年の1987年には、評判の高い修復作業所に頼んで従来の光化学的修復方法がとられたが、ディズニーはビデオ作品程度の性能しか得られないと判断した[4]

Kodakが同社のCineon Digital Film Systemを用いて、1992年に試しに白雪姫の中から1分間デジタル修復をしてみて、ディズニーが白雪姫の全面デジタル修復を決断した。3シフト制で40台のワークステーションを24時間、週7日動かして18週間かかり、700万ドルかかったとされる[3]。同作品は1993年に公開されて多くの観客が集まり、修復により作品の商品価値が高まったのである。

しかし、まだまだコストがかかるのが難点である。たとえばUCLA(米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の映画アーカイブでも、保存の予算が年100万ドルしかないので一本の映画もデジタル修復できないのだそうだ[5]

アメリカでもこういう現状なのだから、日本ではよりコスト的には厳しい問題がある。今回の特別展では、一部小津映画の復旧を試みてみた。この試みをきっかけとして映画のデジタル修復技術分野に注目があつまり、多くの失われつつある映画がこの恩恵を受けられるようになってほしいと切に思う。

もっとも、デジタル修復は自由度が高いので文化の保存としては懐疑論も強い。1980年代にコンピュータで白黒映画に人工的に色をつけた時は映画界から強い拒否反応が出た。白雪姫の修復のときも、観客からみて気になるほこりなどは取り去ったがオリジナル作品の性格を保つためにそのままに残した部分もあったとのことだ[4]。傷などは単純な補間でなく作品の他の部分から持ってきて埋めた。デジタル修復もリタッチの度が過ぎると批判をうけるようだ。

しかし、やはりこの技術を知ったら「ノイズから開放」ということを小津も厚田氏も喜んでくれたのではないだろうか。いやぜひ、そうであって欲しいと思う。


参考文献
[1] 小林秀雄,「近代絵画」, 新潮文庫, 1968年
[2] 「例えば豆腐のごとく」東京新聞昭和28年12月9日
「しかし、ぼくは例えば豆腐屋なんだから次の作品といってもガラッと変わったものをといってもダメで、やはり油揚とかガンモドキとか豆腐に類したものでカツ丼をつくれたって無理だと思うよ。」
[3] Film Restoration in General (http://www.vcpc.univie.ac.at/activities/projects/FRAME/General.html)
[4] Rohrbough, Linda,"Massive effort restored Snow White to theater quality. (Eastman Kodak Co.'s Cinesite digital film center)", Newsbytes, July 9, 1993
[5] Turner, Dan,"Engineers developing technology to restore Hollywood movie classics.
(Special Report: High Technology)", Los Angeles Business Journal, August 7, 1995 v17 n32 p30


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