江戸上野大火の説
江戸上野大火(うへのたいくわ)の説(せつ)
図197
時に慶応
四年辰五月
十五日山下辺(へん)にて
戦争(たゝかひ)はじまり砲(ほう)
戦(せん)はげしくよつて
出火いたし折ふし西南
風にて北ハ根津(ねづ)ミのハ辺
まで焼行しが四ツ時上野ニて
火手をあけ大ひに戦(たゝか)ふゆへに
宮様御立退(たちのき)に相成しかハ官軍
十分に戦ひがゆへに浮浪子(うろうし)大はいぼく
して或(あるひ)ハ打れ或ハ手負(おひ)等おびただしく
大半(たいはん)うたれて残(のこ)りすくなになりて何国とも
なく逃(にげ)のびけるよつて上野堂塔(うへのとうとう)からん不残(のこらす)
焼失(せうしつ)いたし候其火谷中西ハ湯しま天神下
東ハ浅くさ菊やばしまで南ハ御成道(なりミち)迄焼行しか
火勢(くハせい)つよくよく明六ツ時いまた火しつまり不申候誠に江戸のさう動
上をしたへとさハきける尚追々御しらせ申候
右江戸表より到来(とうらい)のまま書写(かきうつ)しぬ
太政官日誌第一 慶応四年(一八六八)二月二三日
『官報』の前身といわれているが、当初は新政府が発刊した政治宣言の広報紙の性格が強い。発行所は京都の御用書肆村上勘兵衛で、木活字が使用されている。大坂以西の新政府側の諸藩はこれを購入したというが、江戸では、佐幕派の新聞が出され、新政府の広報紙は利用されなかったという。
図198
中外新聞外篇二〇<上野戦争風説入>
『中外新聞』は、開成所教授柳河春三らが会訳社を興し、慶応四年二月に発刊した新聞で、横浜の外字新聞など外国新聞の記事を翻訳紹介した。外篇には、これに洩れた記事を拾うとして、同年四月に第一号を出した。このグループは、他に『公私雑報』も発刊し、市井の雑事を扱おうとした。つまり、あらゆる方面の出来事をニュースにしようという姿勢であったものと思われる。六月五日新聞紙類の無許可発行禁止令で発刊が中止された。
図199
御触書之写
慶応四年(一八六八)三月
江戸時代には、町触が木版摺りで出されたという記録はみられないが、新政府の御触が木版摺りで発刊されるようになった影響があらわれたものか。江戸に新政府軍が入ってくるという大事件であるから、出された特殊なケースであろう。活字が政治宣伝として有効な媒体であることが、政変の過程で実践的に展開されている。
図200 御触書之写
此度御征討使(せいとふし)御差下ニ相成今十五日御討入
風聞有之候ニ付御歎願(たんくわん)[左のルビ(なげくねかい)]ニ相成候様
大総督府(そふとくふ)[左のルビ(ありすかハさま)]江伺済(うかかいすミ)迄打入之儀見合
之旨参謀(さんほう)西郷吉之助御答ニ付屋鋪
市中とも猥ニ動揺いたし意(い)外之
不都合相生(しやう)じ候ては以之外之儀ニ付
諸事静穏(せいおん)[左のルビ(をたやか)]ニいたし
御沙汰相待候様可致候
右之通書付出候間町中不洩様可被觸候
辰三月
彰義隊戦争(仮)
慶応四年(一八六八)五月一五日
図197、201はともに彰義隊の上野での抵抗を伝えるものであるが、図197は、「江戸表より到来のまゝ書写しぬ」とあるところから、江戸以外の地、京阪で出版された親新政府軍の立場によるもの。図201は、戦闘のことには一切触れず、単なる火災として報ずる。
図201 彰義隊戦争(仮)
頃ハ慶応四年
辰五月十五日朝五ツ
時より下谷広かうじ
辺より出火いたし
折しも南風はげ
しく池のはた
仲丁のこらず
きんたんゑ
んまでやける
しり火にて
元黒門丁
二ケ所御すきや丁四丁北大門丁三丁ゆしま
天神下同明丁上の丁二丁目のこらず
やける同一丁目四丁目六あミだやける仁
王門前丁のこらず上の御けらいやしき
くろ門まえ役人やしき五条天神同所
前丁下谷丁一丁目二丁目はいりやう