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[新聞錦絵の情報社会]

明治情報世界の中の『官報』

山本拓司


近世末期から明治初期において民衆が必要としていたのは、なにも天災や殺人事件などについての情報だけでなく、今日と同様、政治(幕府や明治政府)に関するものも、人々が知りたい重要な情報のひとつであった。しかし、江戸時代において幕府は、「民可使由之、不可使知之」という方針をとり、民衆が政治について議論したり、思想を印刷物として発表することは、堅く禁じられていた。つまり、政治に関する情報に当時の民衆が触れる機会は、極限られたものであったのである。

しかし、幕末の混乱期にはそうした幕府による統制力も弱まり、佐幕派と討幕派が争うなかで国内の戦局を報道する新聞紙が数多く発行された。だが新聞紙の発行元がどちらを支持するかによって記事の内容は大きく左右され、とても公平な報道と呼べるものはない状況であった。新政府としてはそうした状況を看過するわけにいかず、公式のメディアをもつことの必要性が強く意識されるようになった。その結果、慶応四年(一八六八)に『太政官日誌』が創刊され、その他数多くの日誌類が刊行されたのである。日誌とは当時の用例で公報の意味あいをもっていた(『大蔵省印刷局百年史』大蔵省印刷局一九七二年)。政府が出す法令などの通達は、この『太政官日誌』を通じて一般に流布されることとなったのである。しかしながら東京日々新聞をはじめ、いくつかの民間新聞紙がこの『太政官日誌』中の記事を掲載し、さらには国内の情勢が安定に向かうなか、『太政官日誌』には当初の必要性を見いだされなくなり、明治一一年(一八七八)を最後に休刊していた。

こうした状況に変化が訪れたのは、自由民権運動が盛んになる明治一〇年代であった。板垣退助による「民撰議員設立建白書」の提出以来、民権運動を中心とした言論活動が活発になると、再び政府の意図を明らかにし、広く民衆の理解を得る必要にせまられたのである。一時は福沢諭吉に、そうした政府新聞の刊行を託そうとする動きもあったのだが、明治一四年の政変を契機に、その計画も頓挫する(この後福沢は『時事新報』を発刊)。しかし、政府側にとって民衆の理解が必要であるという事情は変わらず、政府の公報メディア発刊の試みは、ついに明治一五年(一八八二)、山県有朋の建議に結実する。それによれば、「動モスレバ民権ト云ヒ、自由ト称シ、朝廷ヲ侮慢シ倔強不順以テ相誇リ、邪説暴行至ラサル所ナク、閭閻無知ノ民、目潤ヒ、耳熟スルヨリ遂ニ朝旨ノ在ル所ヲ知ラス、政府ノ主義ヲ覚ラス、…」とあり、民権運動が活発になる中、政府がいかに政治的混乱を憂れい、民衆の理解の必要性を強く感じていたことがわかる。やがて明治一六年(一八八三)七月三日、『官報』は創刊に至る。

政治の混乱期において民衆の理解を得るという目的をもって刊行されたものであったから、創刊当時から日刊であった『官報』は、一般庶民を意識した当時の新聞メディアに非常に近いものであった。『官報』に収録されていたのは、『太政官日誌』にも掲載されていた太政官布告類、勅語、各省の辞令をはじめ、さらには「農工商事項」(米の作柄など)「外報」「観象」(気象情報)「彙報」などの項目であった。ロイター社と最初に契約を結んだ日本のメディアが『官報』であり、海外の情報を得るための貴重なメディアであったということも興味深い。また、学校関係の行事を報告する「学事」、工場の業績報告や、後に述べる「衛生事項」など、非常に幅広い分野にまたがる記事が収録されていた。

こうした『官報』中の記事は、「各新聞紙ニ於テ其ノ文ヲ抄録スルコトヲ得」と、各新聞にはその内容を引用することが許されており、政府が、『官報』記事中の情報が広く民衆に流布されることを意図していたことがわかる。『官報』をめぐる当時の情報世界の一端を、『官報号外』(明治一八年九月六日)に掲載された「自己衛生予防ノ概略」の記事が各メディアへ広がる様子に着目して、探ってみよう。  幕末以降、諸外国との交易が盛んになると、国内においてそれまで経験してこなかった新しい伝染病がたびたび流行する。当時頻繁に流行したコレラもそうであった。その年、明治一八年(一八八五)においても八月下旬の長崎を皮切りに、各地でコレラ病患者が多数発生した。同年一一月に収束するまで、最終的には一三八二四人の患者および九三二九人の死者を出すに至った(山本俊一『日本コレラ史』、一九八二年)。連日の『官報』には、各地域における感染者および死者の数が記載されたが、混乱のただ中である九月六日、『官報号外』において、「自己衛生予防ノ概略」が掲載された。内容は二部構成となっており、まず「第一 身体ノ強健ナル時ニ於テ為スヘキ注意」とあり、日頃健康な時に注意すべき項目が書かれている。例えば「飲水」「菓実」(果実)「蔬菜」「酒類」「氷」「衣服」「疲労」「感冒」などについて注意すべき事項が書かれている。また「第二 発病ニ際シテ為スヘキ注意」には、発病して消化器系統に異常が表れた時の対処法や、嘔吐物の処理方法、便所の消毒方法などが記されている。

ほどなくこの記事は、『東京日々新聞』(九月七日午後の号)における「虎列刺予防の心得」と題する記事の中で、「虎列刺流行の際にハ先概略左の如く各自衛生予防に注意すべしと本年九月六日発兌の官報号外に記されたれバ左に抄録す」と紹介されている。ついで九月八日の『読売新聞』にも同様の記事が掲載される。『読売新聞』においては『官報』における記事にあった片仮名がすべて平仮名に直され、また漢字にはルビが振られ、適宜送りがなもわかりやすく施されている。

こうした記事の引用は、一般の新聞にはとどまらず、錦絵にも広がる。同年九月一二日の日付けがある「大日本通俗衛生会」と題された一枚の錦絵では、講演者が、「さてみなさん、コレラ病になるのがいやなら神仏にいのるよりこのとふりおまもりなされ」と人々に語りかけ、わかりやすい絵解きとともに、先の『官報』記事中にある内容を紹介している。例えば、『官報』で「飲水」の項目の中にある「虎列刺病流行ノ時ニ際シテハ井水河水ヲ論ゼズ慣用ノ飲水ト雖モ総テ汚染シタルモノト認メ煮沸シタルモノ用ウベシ」という表現は、「水をのむときハかならず一どにたてて飲むべし」と、平仮名を中心とした非常に平易な表現に改められ、紹介されている。

おそらく、当時まだ組織的にも未熟な民間新聞では、コレラ流行など専門知識を必要とする記事を執筆できる記者がいなかったと考えられる。もちろん『官報』記事が引用されたのは衛生に関するものだけではなく、数多くの記事が、前述の『東京日々新聞』や『読売新聞』中に引用されている。『官報』に掲載された記事は、大新聞や小新聞、さらには錦絵にまで引用され、それぞれの読者の識字レベルにあわせてその表記法や内容を微妙に変化させて広く民衆に享受されていったのである。

同じように行政側が出す情報が、民間の大新聞や小新聞、錦絵を通じて一般流布される例としては明治五年(一八七二)に出され、今日における軽犯罪法の先駆けと考えられている「違式違条例」の例にみることができる。東京府によって出されたこの条例は、『東京日々新聞』の付録として同年一一月八日に出され、やがて錦絵としても出されている。ここでも、錦絵版では「違式」の箇所に「おきて」とルビがふられ、それぞれのメディアが想定していた読者に合わせて文面が工夫されているのを看て取ることができるのである。  このように明治の社会における情報の流れの中で、上流に位置していたともいえる『官報』記事も、明治後半以降、次第に法令や叙任などの発表に特化したものになっていった。


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