磐梯山噴火之顛末 明治二一年(一八八八)
一八八八年七月一五日の磐梯山噴火後出たかわら版。ただし、この時は出版条例に基づいて、発行人の住所、氏名などを明記することなった。内容は、読売新聞の記事をそのまま写したものである。発行人岡田常三郎は、当時、書籍行商社を営んでいた。江戸時代のかわら版業者の系譜を感じさせる。
図25 磐梯山噴火之顛末
去ル
十五日
午前七時
三十分頃福
島縣下岩代国
耶麻(やま)郡磐梯(ばんたい)山
ガ軣(こう)然タル一声ノ
物音ト共ニ破裂(はれつ)シ
噴(ふん)火ノ口ハ其大キサ二里
四方ニ及ビ近辺六里四方ニ砂石ヲ飛バシ火ノ雨ヲ降(ふ)
ラシ此災害(さいがい)ノ為ニ埋没(まいぼつ)セシ戸数百九十五戸即死(そくし)者五
百三十余名負傷(ふしやう)者九百五十余名ニ及ビ其内山腹ナル沼尻横向
川上等ノ温泉場ノ浴客百五十名程死亡セリ右ノ次第ニ付近郷近
在ノ者共ハ皆家財道具ヲ取片付遠方ヘ逃退(のがれしりぞ)キタリ元来此磐
梯山ハ一名ヲ会津山ト云ヒ耶麻郡ノ東猪苗代(ゐなへしろ)湖ニ臨ミ磐梯村ニ属
シ山脈漸ク西ニ延ビテ猫摩山廐山等ニ連ナリ更ニ北ニ走リテ「アララギ」峠
ニ亘ル海面ヨリノ高サハ五百六十五丈麓(ふもと)ヨリ山頂ヘノ里程ハ四里三十五丁
{下段}
若松市街(しがい)ヲ距ル三里本宮「ステーション」ヨリ八里ノ所ニアリ今ヲ去
ル三百年程以前慶長十六年此地方ニ大地震アリシノミ之迄一度
モ破裂セシ事ナキ山ナリシガ不意ニ此度ノ事変有リシハ
実ニ前代未聞ノ事ト云フ可シ
右ニ付福島県庁ヨリハ数多ノ官吏出張シテ夫々
救助ニ尽力(じゆんりよく)中ナリ又此電報ノ東京ニ達スルヤ
農商務省地質局長和田稚四郎氏ヲ始メ数
多ノ人々ガ実地取調ノ為ニ出張サレタリ
付テ云磐梯山破裂ト同日ノ九時頃信州浅間山ガ俄(が)
然(ぜん)鳴動(めいどう)シタレバ最寄ノ人々ハ大ヒニ恐怖(きやうふ)セシガ午後
四時頃ニヤヤ鎮マリシト云フ或ル地震学者ノ説
ニヨレバ我国ハ三十五六
年目毎ニ大地震一回ノ割合ナリト安政二年
ヨリハ三十四年目ナリ
ノ[イカ]ヅレノ人モ地震ノ
用心此一二年△
△ノ内忘ルベカ
ラズ
{袖下}明治二十一年七月廿日印刷
同年七月廿三日出版
印刷著作兼発行人
神田区末広町三十五バンチ
岡田常三郎諸人安堵乃為火事場急報
明治一三年(一八八〇)一二月三十日神田鍛冶町出火の火事のかわら版。警部巡査や、消防隊の「御ほねおり」で、まもなく鎮火したという。明治一〇年代以降も依然として、版元も明記されない江戸時代的なスタイルのかわら版が発行されていた。
図26 諸人安堵乃為火事場急報
諸人安堵乃為火事場急報
明治十三年十二月三十日午前第九時ごろより
神田かじ丁より出火いたしおりふし西北
風はげしく同丁中程より大通りへもへだし両
かわへうつり西福田丁ぬし丁東今川丁本銀丁
三丁目又一ト口ハたて大工丁より新石丁千代田丁
西今川丁本銀丁二丁目一丁目半やけ本石丁
二丁目一町目より川岸へもへたし金吹丁本丁
一丁目二丁目かわや丁両替丁するが丁品川
丁同うらがし北さや丁一石ばしきわまで又
大通りハ室丁西がわ一丁目二丁目三丁目うら
通りともやける警部巡査
方ヲはじめ消防隊消防組
御ほねおりニて日本ばし
釘店ニて午後第二時にけし
留市中の人々安堵の思ひ
をなし諸人安心の為諸
県まで一枚紙ニてしらす岐阜罹災之統計略表 明治二四年(一八九一)
一八九一年一〇月二八日の濃尾地震は、岐阜・愛知両県で七千人を超える犠牲者を出す大災害であった。岐阜市は、倒壊率が甚だしかった上に出火して、壊滅的打撃を受けた。しかし、震災後わずか二日にして、銅版刷りの被害図が印刷されている。元図となったフランス式ケバを用いた地図は、既成のものを利用している。
図27 岐阜罹災之統計略表
岐阜罹災之統計略表
岐阜市戸数 六千○三十五戸
同焼失戸数 二千二百三十五戸
家屋全潰 千九百戸
同 半潰 三千九百十六戸
岐阜市人口 三万二千百十余人
死亡人口 二百五十人
負傷者 九百人
定価三銭五厘
岐阜市街全図
符号
鉄道
堤防
耕地
沙磧
橋梁
{袖}明治二十四年十月三十日印刷
岐阜市白木町百八番
戸寄留同年十一月五日出版
著作兼発
行印刷者
長瀬寛二