伊勢国大地震略図 嘉永七年(一八五四)
かわら版では、三重県伊賀上野、伊勢、滋賀県近江辺の山や川が損じたとだけ記されているが、家屋の倒壊も各地で激しく、被害は二万軒以上に及んだ。地図を使って地震の範囲を表しているが、被害については具体的な情報はほとんど記されていない。ここでも、天変地異は、陰陽二行の気の対抗関係で発生すると書き出している。
図16 伊勢国大地震略図
それ天地不時の変
動ハ陰陽混じて
天にあれバ雷雨と
なる地にあれバぢしんと
なすアア神仏のおかごも
これをおさむること
かたし
于時嘉永七寅年
六月十四日夜いせの
国にハかに大地しん
どうなし山々川は損亡
多く翌十五日明方ニ
至りやうやく鎮り
人々安堵のおもひを
なせしと也伊勢の国
・神路山・天照山・隠の山
・御もすそ川・すずか川
・五十鈴山・あこぎが浦
・あさくまがたけ
・ぬの引山・おとなし山
・あさか山・あひの山
伊賀の国
・風の森・たれぞの
森・こひのミなと
・かしハの・つけ山
近江の国
・あふさかの関
・いぶき山・三上山
・あね川・から崎
・かた田のうら
・田上川・まのゝ
入江・かがミ山
しがの
浦・わが立そま
・いし山寺・かとり
のうら・びわ湖
よつのミね関東大地震図 嘉永七年(一八五四)
嘉永七年(一八五四)一一月四日東海地方、続いて五日南海地方を、津波を伴う強い地震が襲った。この地震は、安政東南海地震津波と呼ばれている。広範囲にわたって、家屋倒壊、浪害、死傷者を出したが、近代社会と異なり、被害はそれぞれの国でまとめられたから、当初は、災害全体に対する認識は生まれにくかった。このかわら版は関東の太平洋沿岸の被害を報ずる。
図17 関東大地震図
嘉永七寅年十一月四日朝
五ッ半時過頃関東すじ大
地しん先南の方ハ伊豆国
下田のミなと御陣屋をはじめ
町家在々ハいふにおよバず家
かづ多くうちくづれ中にも海(うミ)
べきん辺ハ大づなミにて百けん
余も打ながされ夫よりにら山
御ちん屋其外あじろ伊とう
あたミまなづるへん外(そと)のかたハ
て石ひるが小島北(ほう)でうへんは
ことごとく打くづれ夫より駿河の
国ハいちゑん田中御城ハ町家とも
のこらずくづれ其上焼しつなり
府中の御城もやける町家大い
にそんじ出火なり江じりおきつ
大つなミ由井かん原ハ半やけなり
沼づ御城も焼しつ町家大そんじ
其外海道すじ在々迄大しんどう
又三島宿ハ皆くづれ其上出火
相模国ハ一ゑん箱ね山ちうハ
山々しんどうくづれ大石をふらし
ゆもとを初メ七とう共大いにうち
崩れ御関所きんへんこすいハ
大なミをかいどう迄うちあげる
夫より小田原手前ハ少々にて相
■むかいへんのかたハ本もくへん
相州うらが町々在々山中に
いたる迄大つ辺三崎辺ことごとく
しんどう東海道すじハ江戸
より品川しゆく大森羽田へん
川さき大しがわらかな川
ほどがや戸つかふじ沢へん
江のしまかまくら金ざハへん
ことごとくしんどう又むかい
ぢの方ハ安房かづさ下総
きんへんのこらずうミなかの
うミめいどう大なミうちあげ
大せん小せん多くそんじ
西北之方ハ上州一ゑん武州
熊ケや宿より中仙道江戸の
かた大いにそんじ又ちゝぶやま
ハしんどう大くづれ甲州かい
どうハ高井戸府中。郡ない八王じ
小ぼとけ辺甲府ハ焼しつなり
夫より身延富士手前より
相州路在々山ちう迄しんどう
凡七八ケ国ほどの大地しん
同日夜四ツ時過又々しんどう同時七ツ時ごろ二どほどしん
どう又々次之日夕七ツ時過
ころしんどう
所方にて人家人馬かづ
しれずそんず又かいへんは
船そんじ候事そのかずを
しらず先あらましをしるすさて大江戸ハまるの内どおりより
西のおん丸下通り日比谷御門うち外
近ぺん外さくらだへんハ南部様御長屋
ことごとくうち崩れ松平時之助様御屋
しき其外大小名御やしきうちそんじ
夫より南之方ハ久保丁兼ぼう丁へんを
初メ町方大きにそんじ夫よりあたごの下通り
御やしきあまたうちそんじ芝へんハ大いにしん
どう北之方ハ小石川ごくらく水きんぺん
町家多く御やしき方もうちそんじ又山の手
へんハ少々にてあいすミ東之方ハ大川すじ
本所ふか川木バヘん立川すじをはじめ
中にも釜やぼりきんぺんハ殊の外そんじ
又ふか川かいへんハ大いにしんどうミ中ハ
めいどうころしもひきしおの所又々
弐三ど汐うちかえし候其外にもつなミ候
ふねもおおくミづうちいれうちかえし又は水中へ
しづミ候ふねもあまた有之候其外近在ハ書つくしがたし大阪川口 大つなみ混雑記 嘉永七年(一八五四)
嘉永七年(一八五四)一一月五日に起きた安政南海地震津波での大坂の被害を報ずる。大坂市中の被害と、天保山沖の大船が津波によって川を逆流、川筋に掛かる一二の橋が落ちたことを挿絵を交えて伝えている。
図18 大阪川口 大つなみ混雑記
大阪川口 大つなみ混雑記
{上段}
摂津大地震二編
ざま宮絵馬とうくづる
いなり石とうろう同おたびのざしき
新町東扇やざしき
願きやうじまへ七八けん
なんば安如じつりかねどう
てんま妙見ゑまどう
南御堂北ノ辻角
四天王寺
しやかどう
こつ堂前の花たて石
諸堂大そんじ
梅田きんへんくつるる
花御やしき土蔵そんずる
さのやはし北つめうら長家くづれ
御池はし西つめにしかし高へい
町々かまや其外とうふやそんじ
下寺町浄国じ本どうくつれ
寺々はかしよ石ひこける
柏はら村家くづれ出火す
堺つなミニてつきぢはし落死人あり
さのつなミして大さハぎ
兵庫七八軒家くづれる
西みやなだ大坂同だん
奈良春日
社町家
大くづれ
鳥居
金とう
ろう
くづれ落
{下段}
于時嘉永七寅十一月
五日昼七ツ半時大地震
同暮六ツ時震ふ同時に
大坂天保山沖安治川
木津川尻なし辺大津
なミにて沖の大舩二千
石積以下三百石くらゐニ
いたる迄ことことく川口へ
打登し又ハ海岸へ打
上るもあり川岸などの
家を舟にて打くたき舩どうかこ夥しく溺死に
及ふ其数しれず其外上荷茶舩小舟等ハ大舩
の下しきとなり溺死のもの数しれず尚又町内
より舟にて地しんを避んと沖へこぎだし又ハ内
川につなぎ居もありしかるに波矢よりもはやく
して退く事あたハすついに数多込入舟におそふ
ハれ舟くたけ人死する事おびただしく又橋々を
帆はしら大舩の為に打くたく はし名
別ニ有 其騒動こん
さつなる事目もあてられぬありさまハ実に七難三災
かくやあらん誠に古今稀代の珍事也其外
新田天保山大あれにて筆紙ニ
つくしがたし
落橋
かめ井はし 安治川はし
国津ばし 並高はし
水分はし くろかねはし
日吉はし 汐見バし
幸はし 住吉はし
金屋はし
大黒はしにて
とまる
{袖}嘉永七寅十一月五日暮六ツ時諸国大地震 嘉永七年(一八五四)
安政東南海地震では、江戸には大きな被害が出ていない。その上、東海道が寸断されたため、当初は江戸には各地の被害情報が入って来なかった。しかし、徐々に大規模な災害であることが判明した。これは、全国規模の被害状況をまとめた最終段階のものと推定される。災害速報としてだけでなく、名所絵的な構図に被害地域の説明が描き込まれている。
図19 諸国大地震
地震之弁
抑地しんとは寒暑(かんしよ)温冷(おんれい)の平順(へいしゆん)なるとき
ハ安全にして
異変(いへん)震雷等有ことなしいん気陽(やう)に押いれ発(はつ)生
する事なりがたしきにより大小のぢしん在ハその気の
強ぢやくによるところなり惣してふじゆんのせつハ天雷
ぢしんのきう変あつて其気の甚しきところハ
([虫喰])をかい中へ引入大舟を山岳へ打上
([虫喰])を■ミあらたに泉わきて出地裂(さけ)て
火気([虫喰])とやく等在バ諸人心得あつてりんし
([虫喰])にて今度嘉永七寅年十一月四日
五ツ時大ぢしん大つなミの入し国々を委細しるす
東海道をはじめ先さかミの国ハ小田原大久保加賀守様
御城内少々そんじ宿中ハ土蔵三十余くづれ町
家大はんそんじけが人ておい多し箱根ハ少々
そんしけがにんすくなし山中ハ人家大はん
つふれ三ツ谷崩れ御関所そんじ山々しんどう
なし大石大木うち折湯もと近へん
はしめ人家大ひニつふれそんじける
三島宿ハ人家をたをし其上新町
はしきハより出火いたし明じん前
伝馬町久保町方へ三丁ヨやける
ぢしんハますますつよくなり死人
けが人七十ヨ人きり馬迄
やけしす又うつなり死するものも有
あハれといふるおろか([虫喰])国ハ
大しまかんず三倉三宅其([虫喰])しま
しま大いにゆれいろをかさき戸田河津
いなし東さハいとう北条にら山仁
田しゆぜんじあたミへん一同につぶれ
死亡のもの多くけがにん少なからず下田ハ
■■■■人家つなミにて押なが■■
あと十五軒程のこる人々大てい山上へ
にげあがりたすかるもの少なからすと云
あしろ大せん四十そうよ小舟かずしれ
ず又は山上へうちあけ破そんの舟おゝく候
しらすかも大あ([虫喰])てゆりつふす
人家五百ヨつなミにしかれ死亡けがにん
すくなからすふしのこしハ二三百石づミの船二
そう十二三丁ほどくうちへうちあけるするがの国
沼津水羽出羽守様御城下大そんじにて
家ハつぶれ出火となり又も浜手ハ大つなミに
人家のそんほうおびたゞしく凡このところにて
二百人よておいけが人ありあるひハ牛馬迄死
かん原宿由井おきつハ人家そんし出火
なし七分とふり焼失なす江しり宿ハ清水
のミなと町家不残つふれ大火となりてをい
けが人少からす老若男女八方へさんらんいたし
そのこへ天地にしひきまことめもあてられことなり
同日おなしこくケんふし川のがけくつれ二丁ヨ埋ル
川水わうくわんに流れるさつたとうげくずれ
([虫喰])よく吉田辺も同断なり
([虫喰])大はんそんじやけるなり弥■
へん([虫喰])にてとまる小島一万石
松平丹後守様御じんや下まりこ宿うつのや峠
ミね大あれにてくつれおかへ宿藤枝宿甚つよく
田中本多豊前守様御城下大そんし人家ハ
大はんつぶれ焼失に及ぶせと川まん水ニて留
三ケんやしまだ宿つぶれ大井川古今の大
水ためし少シ金谷大はんつぶれ日坂同断
さよの中山大地ごく小ぢごくことごとく崩れ
しんとうなすかけ川太田摂津守様御城
下大はんそんじ宿中大ひにつふれしゆつ火
となり六分どふりやける袋井宿見付宿ハ
同断池田いづれも大そんし大てん龍小てん龍
此川一ツになるにもたらず五百軒程つゝミ切
人家あまたそんする也横須賀西尾おきの守様
御城下大そんし人家つぶれうつまるなる袋井見
付宿ゆりくすし出火となり三分どふりやける
浜松井上河内守様御城内人家そんじる舞さか
あら井大はんつなミになかすなを又七里のうミハ大あれにて人家大はんなかすしらすか二川三分とふりそんし
吉田松平いづの守様御城内少々そんし町や大はん
つふれや多し御油あかさかふぢ川大あれ宿々ハそん
しなりおかさき御城下人家少々そんしる也
同こく田原三宅対馬守様御城内町家そん
しるなりちりうなるミ宮の宿長しまへんそんじ
桑名松平越中守様御御城少々人家もそんし
少々四日市つふれ家四十三げんはまて大つなミ
神戸本多いよの守様御城下白子上の
三分とふり大そんなり津藤堂いつミの守様
御城下大ゆれならどもそんじ少し
くもつ月本六ケん松坂くしだ小ハだ山田
丁ハ家蔵大ひにそんじ宇治ばし二見かうら
大はんそんじ恭も内宮外宮御別条近へんの
人々少もけなく恐れ尊べし石やくし庄の宿
亀山石川日向守様御城下そんし町家ハ
大ひにくつれ伊賀の国ハそんじすくな
([虫喰])大はんそんしる也
([虫喰])つふれ土蔵ハ
くづれ御役しよそんし
かめざき半田大つなミ
名古屋清須少々そんじ
摂津国大坂安倍川ぐち
すじあち川ばし大仏
じま九条崎このへん人家
大はんそんしる御舟奉行
御蔵御番所舟つばし大そん
山田町兵庫丁ミなとばし六
左衛門丁みななばし常安へん大つなミにて
ながす仁兵衛丁床村軒田之口丁次郎
へいてうふくしま天神正せんじ本町狐辻
あハち丁大ちわれすな水ふきあけ町屋ハ
二十けんほど([虫喰])とのまちかく川道
ふき丁江戸ほりしんさいばし三まいばし
二十けんよつぶれあぢ川大つなミにて大舟
小ふねおひたゞしく押上はしばし三十ハなかす
又ハ大黒ばし迄大船四五そうゆりあげ
てんまふね小舟とうハ大ふねにあたりて
大はんミちんと成死人けが人かず多し
天保山大そんしかいけたいたミよしの
之へん兵庫大そんなりあまがさき
松平とをとをミの守様御城下そんしる
三田九鬼長([虫喰])様御城下へんそんじ
あさ田青木かいの守様御しんや大そん也
山城国淀の御城下伏見京都大和河内ハ
大ぢしん也紀伊国ハくまのくら大つ浪
家々大ばんそんじるわか山紀伊様御
城下そんじる田辺安藤飛弾守様新くう
水野土佐守様御城下大ひにそんじる
人家大半つふれ惣て九十九浦黒江日方
藤代大つなミにてゆり下三尺斗り汐上
同広うらとふり流失いたし候河原箕
じまゆらのミなとながれる大しま有田の
加太目馬辺大そんし泉しうきしのわだ
大そんじさかへの丁大坂同やうニそんじ
([虫喰])御城下大そんしるなり
同([虫喰])波亀山同そのべ四こくぢ
([虫喰])しま御城下大
にそんじ其上五百らかんへんハ
大はんそんじ土佐のくにハ大そん
しるあハじ島大つなミ丸がめ
京極土佐守様御城下そんしる也
いよのくに少々播しうハ赤かう
森ゑつ中の守様御城下そんじる
びせんたの口下むらへんひつちうくら
敷玉しまへんひんご尾の道鞆ふく
山 阿部いせの守様御城下へんハ
少々そんじ鶴さきそんじ少肥後の
くま本御領分大ちしんつなミにそんじるなり
日向のなた大ひに海あれる肥前之国少々そんし唐人やしき内
この外同時しんしうわた峠辺下のすハ福しま
御関所へん上ケまつすハらの尻へんいたつてつよく
そんし飯田の御城下大そん也松本御城下大はん松代御城下
つふれ家多しなかなか筆紙につくしがたくこゝに略す
{袖}嘉永七甲寅十一月新板東海道筋並上方筋大津波大地震之事 嘉永七年(一八五四)
安政東南海地震は、東海道を寸断した。このため、一時江戸・大坂間の三度飛脚は途絶えた。これは、大坂三度飛脚問屋島屋佐右衛門(在江戸)による東海道各宿場の被害状況を伝える摺物で、附紙に九州地方の被害を続報として刻し、得意先に配ったと推定されるもの。売買されたものではないが、現在残されている災害を伝える摺物のうちにはこうした類のものも少なくない。
図20 東海道筋並上方筋大津波大地震之事
十一月四日辰上刻よりゆれ始メ
夫より十日頃迄折々ゆれ申候
{上段}
江戸より小田原迄 格別之義
無之候
箱根 御関所損し宿内
過半つぶれ
三島 人家潰れ新町橋際より
出火明神前迄三丁程焼
沼津 損し宿過半潰レ
怪我人有
原 無難
吉原 人家過半潰れ
出火有
大宮 大つぶれ
富士川 洪水ニて山くづれ
怪我即死多し
岩淵 過半潰レ出火ニて
三十軒程焼怪我多し
蒲原 人家過半つぶれ
出火ニ成
由井 過半つぶれ
沖津 大潰れ過半出火ニて焼
津浪ニて大損し
江尻 大潰レ之上出火
伝馬町不残焼
清水湊 過半潰レ出火
津浪
府中 損し町家大潰
大火ニ成
丸子岡部 此両宿少々
つぶれ
藤枝 大つぶれ之上出火
怪我人死人有
田中損し
島田 半つぶれ出火大井川 水川幅一ぱいの
満水
{中段}
金谷 半つぶれ出火
少々
日坂 普請新敷故歟
ゆれ候得共無難
小夜中山 飴餅や皆潰れ
懸川 損し人家皆つぶれ
大火ニ成怪我死人多し
横須賀 損し人家
皆つぶれ出火
袋井 皆つぶれ大火ニ成怪我
死人有
見附 皆つぶれ怪我死人多し
欠塚 半つぶれ之上津浪
天竜川 堤ゆれ込無跡形大地
割れ泥水吹出し
浜松 半つぶれ
損し
舞坂 大津浪ニて過半
押し流し
新居 御関所人家共つぶれ
其上大津浪
白須賀ニタ川 半つぶれ
吉田 人家つぶれ
御油赤坂藤川
此三宿ハ格別損し不申候
岡崎 人家少々損し矢作橋
六ケ所ゆれ込候得共通路
あり矢作村大損し
池鯉鮒鳴海 此両宿格別
之義無之
宮 大つぶれ之上津浪ニて
大損し
名古屋 少々損し{下段}
桑名四日市
右 両宿とも少々損し浜手
津浪
白子 神戸 津
松坂 山田
何れも少々づゝ損し浜
方ハ津なミニて損し
石薬師宿より京都迄ハ
格別之損し無之候
大坂 寺社方諸々
損し市中も諸々損し
大坂は同五日卯刻又々ゆれ
出し又申刻ゆれ出し諸々
潰れ家有之所沖の方雷之
ごとく鳴響キ候と即時ニ大
津浪ニ成安治川口木津川
口より大小之船押し上ケ阿治
川橋亀井橋始メ十ケ所
余落橋天保山近辺人
家え波押上ケ死人夥敷
御座候兵庫灘伝法
尼ケ崎辺余程損し候
紀州ハ津浪ニて若山湊より
川々ニて死人沢山有之黒江日高
藤代辺ハ浪人家え押し上ケ死人
沢山有之候
丹波亀山園部辺播州
高崎明石しかま奈良
皆々地震ニて損し家沢山有之候
{奥貼紙}
同日地震ニて豊後府内四百軒余潰れ同別府弐百軒余つふれ
阿州徳島豊前小倉芸州広島同宮嶋右之外周防
長門肥前肥後何れも大ゆれニ御座候尤十日頃迄日々ゆれ申候
右之通上方より申来候間此段申上候 島屋佐右衛門
{袖}嘉永七年寅年