ペリーを司令長官とするアメリカ東インド艦隊の軍艦四隻が、日本に開国を求めて、嘉永六年(一八五三)六月三日、浦賀に来航した。直ちに浦賀奉行をはじめ沿岸の警備を担当する各藩から幕府に報告が入り、翌日、老中らが登城、衆議して、江戸市中に対し、諸物価高騰の禁止や噂話の禁止が触れられた。九日、ペリーは久里浜で親書を日本側全権に渡し、翌春の来航を伝え、十二日、滞在九日間で退航。幕府は翌年の来航に備え、防備体制を整えるため内海に十一の台場を造ることを決定し、八月から建設を始めた。
翌七年一月十六日に浦賀に軍艦七隻で再来航したペリーは、六月四日までの約半年間日本に滞留した。二月からは横浜村での交渉が始まり、日米での贈り物の授受が行われた。三月三日に横浜で日米和親条約が調印されると、ペリーは開港が約束された下田、箱舘にも来航している。
ペリーの一回目の来航直後から、江戸ではかわら版が先に出た版を改変しつつ次々と売り出された。現在保存されているかわら版だけでも三百種を超えており、来航以前とはけた違いの情報量である。
江戸時代、ペリー以前の外国関係のかわら版は、漂着船や外国からの使節など来航船があった際に出され、その内容は、来航した船、人物、その国の言葉に関するものがほとんどであった。
ペリー来航の際のかわら版でも、船は主要なモチーフとして描かれた。その中心は蒸気船図である。一回目の来航直後の船図は、長崎絵に描かれた帆船を写したものであった。帆船に大きな煙突や外輪が描かれ、船腹片側に外輪が三つも描かれたものもあった。蒸気船について、煙突と外輪の二点が特徴として認識されていたことがわかる。その蒸気船図が、次第に新たな船図を形成していく。帆をたたみ、煙や旗を船尾側に吹流して進む形である。この新たな蒸気船の形は、風が無くとも進む、しかも速いという点の画像化であり、蒸気船についての当時の庶民の間での認識が反映されている。
人物に関するかわら版も多く作られた。大首絵を連想させる個人の肖像画も発行されたが、その中心は、提督ペリーと副官の参謀アダムスである。様々な顔に描かれたペリーに対し、アダムスは髭に囲まれた口を開け左斜め向きという状態にパターン化されて描かれた。ペリー肖像画が個性を示そうとしたものに対し、アダムスの肖像画は、アメリカ人またはアメリカ兵士とはこういうものだというモデルとして描かれたと考えられる。その姿は、きつくカールした髪や髭に日本人との違いを示し、前ボタンの黒い上着に最も身近な異国人、唐人像との違いを示すものとなっている。
日本語とそれに対応するアメリカ語の単語とを並べたものも多くつくられた。人物像等の他の主題のかわら版に組み込まれたものもあり、「めでたい」「うれしい」という意味の「きんぱ」「さんちょろ」という言葉が目に付く。紹介される言葉はどれも身近な単語で、調子のよい音である。日本語との違いが異国らしさを感じさせるが、ほとんどが実際の英語とはまるで異なっている。かわら版の作り手が実際にアメリカ人の話す現場に取材したものではなかったからなのだろう。
ペリーもののかわら版では、以前の外国もののかわら版にはみられなかった幕府の対応に関する情報も売り出された。そのほとんどは、江戸湾に通じる海岸沿いの各藩による警備、「御固(おかた)め」についてであり、点数はペリーもののかわら版全体の四分の一にもなる。当時の記録類には一回目の来航直後、来航から八日後には改訂版が売られた記事がみられる。御固めものの発行の早さには、混乱を抑えようとする幕府の情報操作の意図も想定されるが、それまで手に入りにくかった武家方、政治向きの情報が入手できるようになった際の庶民の情報収集のエネルギーの大きさが感じられる。
幕府の対応に関しては、横浜での交渉についても様々な種類のかわら版が発行された。蒸気機関車の模型等ペリー一行からの贈答品や、幕府から贈る米俵を船に運びながらその力を誇示する力士像、また幕府側役人とペリーとが対面している様を描いたものもみられる。その際の日本人役人は若武者風に凛々しく、幡印や陣幕の紋から、当時、強さを示す象徴であった源為朝を連想させるものもある。一方、対面するペリーの方は武士の前にひざまずいて礼を尽くすポーズが多く、「きんぱさんちょろ」と礼を述べるものもある。実際の交渉では、ペリー自身の記録によると、尊大に振舞う作戦のため椅子に腰掛けて対面したようだが、かわら版ではペリーも日本の武威に従う異国人として描かれた。
ペリーものでは、従来通りの船、人物、言葉という主題や、交渉の経過だけでなく、それらを元にした狂歌、見立て、絵花火等、遊びの要素の大きいものも多く作られた。以前の外国ものにはあまりみられなかった傾向である。
ペリー艦隊の蒸気船と茶の銘柄の上喜撰とを掛けた有名な狂歌、「泰平の眠りをさます上喜撰たった四杯で夜も寝られず」は少しづつ異なって何度もかわら版に登場する。百人一首をもじったもの、九つの漢字を特殊な順序で読ませる詩(野保台詩)、武鑑や引札に模したものなど、内容とともに技巧を楽しむかわら版が多い。全く新しいタイプのものが新たに生み出されたのではなく、それまでに蓄積されてきた、かわら版やそれ以外の分野の技法などの集大成の観がある。ペリー来航後の安政大地震ではより短期間に大量のかわら版発行がみられるが、それらにはペリーものにみられた技法も多い。ペリーものでの様々な種類のかわら版の発行が、安政大地震の際のかわら版大量発行の下地となったといえるだろう。
遊びの要素の大きいものは、既成のパターンを利用してそこに風刺性を帯びた言葉を巧妙に用いている。その内容は異国人を追い払うものよりも、庶民や武士の慌てぶりを笑ったり、海岸警備の武士の役目のつらさや、武具屋など儲かった人達の存在に目を向けるなど日本人を対象としたものが多い。ペリー来航という一つの出来事を多面的に捉える意識が存在していたことが分かる。御固めを含むかわら版の量の多さには、当時の庶民の関心の高さが現れている。そこには、未知のものへの好奇心だけではなく、相手の正体を確かめたいという不安感、恐怖感も潜んでいる。
様々な表現を持った情報がかわら版となったが、庶民は、依然として異国人に対する距離感を抱き続けた。異国人と交渉するのは武士の役目であって、庶民はそれを見物する立場である。その意味では、ペリー来航も庶民にとっては一種の見世物であった。これに変化が生ずるのは、横浜開港以降、庶民自身が実際に異国人とかかわり、かつそれまで異国との交渉役だった武士が武威を失落させていく事態を迎えてからであった。