かわら版は、一般には、事件を逸早く伝えるために摺られた江戸時代の粗悪な木版の摺物と理解されている。かわら版という呼称は、元禄頃の文献に「土版木」という語があるように、半乾きの瓦に文字を刻したものが使われたことに由来するとする説もあるが(小野秀雄『かわら版物語』雄山閣、一九六一年、鈴木秀三郎『本邦新聞の起源』ぺりかん社、一九八七年)、瓦に文字を刻して摺れば、文字の部分が掘りこまれネガフィルム(陰刻)のようになるから、実際には使われていなかったとする説もあり(林美一『珍版、稀版、瓦版』有明書房、一九六六年)、一定しない。しかし、江戸時代も極く末期にならないと、「かわら版」という言葉は登場しない。実際には読売とか、摺物などという言葉が頻繁に使われていた。かわら版を売る二人連れの読売の姿がそこに集まる大勢の聞き手や買い手を予測させるように(図1、6)、かわら版は人々が集まる江戸、大坂、京都などの街角あるいは絵草子屋や、また宿場町などでも売られていた。もちろん、江戸時代のはじめからこうした光景が見られたわけではない。
では、かわら版は江戸時代のいつ頃から登場するのだろう。
これまで、大坂夏の陣(一六一五年)で炎に包まれ落城する大坂城と、落ち延びる女房たち、大坂方の敗色濃い戦いの様子を描いた木版摺りの一枚絵が、江戸時代におけるかわら版の嚆矢と位置付けられてきた。しかし、こうした摺物が当時実際に作られ、売られていたのかという点については、かわら版を論じたほとんどの書物は、存在したと断じたものはなかった。理由は現在多数残る大坂夏の陣のかわら版は後世摺られたものであり、当時出版されたと推定されるものは残されていないからであった。そして、なによりも、戦国期より続く戦闘が漸く終わりを告げた元和期は、政治的にもなお多くの不安定要因を残しており、後の時代に巷に流布するかわら版の買い手市場が想定できるような社会的条件が整えられてはないと考えられたからである。
しかし、本展示のための調査を通して、大坂夏の陣の摺物が江戸時代かわら版の嚆矢と唱えられてきた事情が多少判明した。このことは、江戸時代かわら版が生み出されてくる社会的事情について述べることにもなり、また、本展示でのかわら版に対する考え方を述べることとも繋がるので、以下に多少の説明をしておきたい。
大坂夏の陣のかわら版は実在したか?
まず、大坂夏の陣のかわら版を調べるきっかけとなったことについて触れておこう。本展示の基本となる小野コレクションには、大坂夏の陣に関するかわら版が八点ある。「大坂安部之合戦之図」系統三点(図2)、「大坂卯年」系統三点(図3)、布陣図二点である。このうち、江戸時代兵学者の間に流布したという布陣図を除いても、大坂夏の陣の情景を描くものが六点ある。しかも、小野秀雄はこれらを大枚を叩いて購入している。小野がどうしてそれほどに執着したのか、この点について多少踏み込んで調査することで、小野のかわら版に対する考え方がわかってくるかもしれないという期待が持たれたのである。
では、小野自身は、これら大坂夏の陣のかわら版についてどう考えていたのだろうか。小野みずから収集したかわら版をもとに著した『かわら版物語』での小野の関心はもちろん、これらが大坂夏の陣当時発刊されたものかどうかを検証することにあった。小野は江戸時代以来これらのかわらの存在に論及した書物(『甲子夜話』、『塩尻拾遺』、高畠濫泉『好古麓の花』、朝倉亀三『本邦新聞史』)に基づいて、大阪夏の陣の直後売り出された絵草子があり、これらの摺物もその一部だと推量した上で、今となってはその絵草子の名はわからないとした。
ところで、「大坂物語」という戦記物がある。大坂冬の陣の後一ヶ月を経ない段階で京都で出版された仮名草子で、その後夏の陣についても続いて下巻が刊行された。これらは、元和古活本といわれる、木活字版のものであった(図4)。
古活字本の仮名草子とは、それだけで時代の限定を受けたものであることを表現しているという(新日本古典文学大系『仮名草子集』渡辺守邦解説、岩波書店、一九九一年)。古活字本とは、一六世紀末ヨーロッパと朝鮮から入ってきた活字を組む新しい印刷技術によって開拓された印刷本をいい、外来のものは金属活字であったが、日本では木活字で、数丁分の活字を組みつつ印刷するものであった。新奇を好むこの時代の風潮に合い、寛永前期頃まで流行した。また、仮名草子は、中世の御伽草子と、西鶴にはじまる町人の世態を描く浮世草子の興隆に挟まれた時代の草子類のことを指す。この時代に語りものが文字化されて売られる冊子となった。印刷文化の一翼を担う文芸が登場してきたのである。しかも、この「大坂物語」は人気が高く、古活字印刷の時代が終わりを告げた後も木版刷りで享保期まで数回刊行されたという。
さて、この元和古活字本のなかに、「大坂城之画図」と題される木版刷りの付図が収められている(図5)。この事実はすでに、川瀬一馬『増補古活字本之研究』(一九六七年)において明らかにされ、異版が二種あることも指摘されていた。図5に明らかなように、これを一見すれば、「大坂安部之合戦之図」との近似性は誰でも思いつく。しかし、付図は古活字ではないから、この方面の研究者の言及がなかったのだろうし、この近似性についてかわら版の研究者の側からの指摘もなかった。
それでは、くわしく図5「大坂城之画図」をみてみよう。これは、大坂城内に篭る大坂方の軍勢とそれを攻める徳川方の軍勢の内容から、冬の陣の図と推定される(参謀本部編日本戦史『大坂役』村田書店、一八九七年)。これに対して、大坂城に火が掛かり、女たちが逃げる姿を描く図2、3は、明らかに夏の陣に関するものであるから、もちろん、図5は図2、3と同一だとはいえない。
しかし、図2、3は、夏の陣後作られたと考えてよい「大坂物語」の下巻に対応する内容であるから、冬の陣を物語る付図を利用して夏の陣の内容に相応しい付図が作られたと考えることはできる。それらが図2、3の元になったものだとは短絡的にいうことはできないが、そうした可能性も全く否定はできない。現に、図2の「元和古写本の表紙の裡」から見つけ出したという注記は、まさにその事をいっているのである。恐らく、これを版刻した田口某は「大坂物語」という書名を憚ってここに記さなかったのだろう。そして、「其頃売りあるきしもの」という言葉がかわら版のはじまりということの有力な根拠になったのではないか。この注記を素直に読めば、大阪夏の陣のかわら版とは、まさに「大坂物語」下巻に付されていたであろう図を指していたとしてよいことになる。
したがって、結論からいえば、小野の推量は当たっていたということになる。つまり、小野が分からないとした絵草子は、この「大坂物語」なのである。
もちろん、原図がない以上、「大坂物語」の下巻の付図が、従来かわら版の始まりといわれてきたものだとは断定はできない。しかし、この物語は、文字としてのみ読まれたものではなく、語りの世界と共有する要素を持っていた。すべてが五七調ではないが、その文体からして読み聞かせられる物語であった。現に「大坂物語」上巻に刻された●印が息継ぎ箇所を指示する読点であるのは、そのことをなによりも有力に物語る(図4)。物語後半、夏の陣のくだりは、徳川の代を寿ぐ言葉で綴られるが、逃げ落ちる大坂方を語る口調は図が描く内容に即して溢れる哀切の念を押し留めがたい。だから、やがて付図が独立して、それ自体で物語りを始める役割を担うという筋道を立ててみることも不自然ではないだろう。そのことは、かわら版が無届けの出版で、しかも戦場で、読み売られたとすれば、これらをかわら版の嚆矢とすることを否定する材料はなにもない。
その後、圧倒的な物語性を持つ大坂の陣を超えるような大事件は存在せず、徳川の世が安定する。一七世紀の後半出版業界に対する統制が敷かれ、徳川政権誕生の正当性に言い及ぶような出版物は厳禁された。それが時代を超え、大坂夏の陣のかわら版が孤立して存在する理由である。ただし、もちろん、ここにあるものは、模刻版であって、当時読み売られたものではない。
かわら版の情報世界落書・落首・かわら版
かわら版は、アンダーグラウンドの世界を代表するものではない。しかし、もちろん、表に見えてこない世界を背後に背負っている。それは落書、落首の世界である。この背後の世界は、厳しい出版統制とそれらが本来持つ匿名性の故に、かわら版のようにマスプリ化にされて表に現れることは、長い間なかった。しかし、この世界は、記紀の時代の童謡(わざうた)にまで遡ることができる長い歴史を持つ伝統文芸だという(井上隆明『落首文芸史』高文堂新書、一九七八年)。そして、文字通り落書きとして、今に、私たちの身辺世界に繋がる長い命脈を保っている。
さて、伝統文芸としての落書・落首とは、どのように定義されているのだろうか。時代や人物を風刺する、作者不明の歌や評言で、衆目の集まるところに貼り置かれたもの。落首は、落書のうち、和歌形式で読まれたものを指すという(吉原健一郎『落書というメディア』教育出版、一九九九年)。この落書・落首の世界にもさらに奥の世界があった。それは、写本の世界である(吉原前掲書)。江戸時代は、時代が下ると共に、読み書き能力を備えた人々が大都市ばかりでなく、町や村にも広がった。彼らは、かわら版の世界に直接接することがなくても、また、落書をその現場で直接読まなくても、写本から写本へ、人との繋がりを介して伝達される言説を写し置く慣習と情熱を持っていた。このように考えると、ここで問題とするかわら版の世界はそうした深く広がる世界の一部が表出したものに過ぎないという構図が見えてくる(平井隆太郎「江戸時代におけるニュース流布の一様相」『新聞研究所紀要』二号 一九五三年)。
しかし、かわら版が印刷されたものとして表の世界に属するとはいえ、作者も版元も刻さない無届出版である以上、表裏二面を供えたものであることはこれを創る人々が一番よく心得ていた。だから、彼らは、印刷という表の世界に足をかけている以上、保守しなければならない出版統制の枠組に敏感であった。災害かわら版は一八世紀の後半数多く出版されるようになるが、この分野においては、風刺や批判はまずみられない。むしろ、災害も修まり、世が安泰に復したことを称える言辞が、災害の経過や被害を綴った後にいかにも不調和に付け加えられるのが常套である。この領域はかわら版の作り手に確保された安定した市場であった。しかし、また、仲間統制や検閲といった規制の網の目を潜り抜けていかにして新手の趣向を出版までこぎ付けるかは、絶えず模索された課題でもあった。だから、かわら版と落書・落首との表裏の領域は絶えず侵し侵される関係にあったといってよい。それを左右したのは、出版統制の在り様である。
この緊張関係が弛緩し、裏の世界の落書が表の世界のかわら版として登場してくるのは、天保改革の失敗以降、嘉永期(一八五〇年代)頃からだという(吉原前掲書)。これ以降幕末に至る間、災害、ペリー来航など大事件が頻発し、かわら版には多様なものが多くなる。また当然、それ以前の時期に比べ、量的にも飛躍的な増加をみる。
この頃になると、さらに民衆に人気の高いメディアである錦絵がかわら版と同じようにニュース性を織り込みながら活発に刊行された。とはいえ、錦絵の表現世界は絵であって、文字ではない。だから、絵解きがニュースの解読に重なる。このことはかわら版の世界の広がりだともいえるし、錦絵世界の拡大ともいえる。
幕末維新の内乱は、さらに一層メディアの活躍を促した。しかし、注意すべきことは、なお封建社会であり、出版統制が弛緩したとはいえ、基本的には出版の自由はなかったということである。しかし、これまで統制を潜り抜けてきた知恵の蓄積が変化の激しい政争を複雑で多様な方法で表現する力となって発揮された。百花繚乱の観のある幕末・維新期のかわら版・錦絵の渾然一体となった世界は、語るべき事件の多さとそれを直接語ることを押しとどめられた人々の抗し難い表現意欲の昂まりとみることができる。
小野コレクションかわら版について
小野コレクションの由来は、他の論考に譲る。コレクション全体は未整理のものが含まれ、全貌は掴みがたい。このうち、今回分類、整理が終了したかわら版類約五七八件、新聞錦絵約三〇〇点を中心に展示が企画された。この他、コレクションのうちに含まれる錦絵約一二〇点は今回整理の対象とはしなかったが、展示展開に必要なかぎりにおいて、図録に掲載した。ここでは、コレクションのうちのかわら版類についての簡単な説明をしておこう。
小野コレクションかわら版分類
分類 分類 % 項目集計 地震 124 21.5 火事 113 19.6 噴火 7 1.2 風雷水害 14 2.4 44.6% 政争 70 12.1 対外関係 11 1.9 将軍関係 16 2,8 朝延関係 6 1.0 武鑑 11 1.9 世相風刺 18 3.1 22.8% 養生 14 2.4 神仏祈願 7 1.2 施行付 3 0.5 珍事奇談 26 4.5 8.7% 敵討 5 0.9 歌舞伎番付 14 2.4 引札 7 1.2 見世物 24 4.2 祭礼 36 6.2 番付 23 4.0 18.9% その他 29 5.0 5.0% 合計 578 100.0 100.0% まず、小野コレクションで、「かわら版」と称するものは、一般的な定義を逸脱した多様なものを含んでいることを断っておかなければならない。かわら版の一般的な定義とは、違法な無届出版で、売ることを目的に出版される有料の、ニュース性の濃い一枚刷り、時に簡易綴じの小冊子を含む情報紙ということである(中山栄之輔『かわら版選集』人文社、一九七二年)。
しかし、このコレクションでは、以下に説明するように、出版届けをした違法でない出版物(祭礼番付、武鑑、歌舞伎の興行番付、)や、無料で配られるもの(引札、飛脚問屋の摺物、見世物の広告)、明治以降の発行人、発行所、発行期日の明記された印刷物などを含めたものを総称して便宜的にかわら版とした。その理由は、すでにこのコレクションについて大まかな分類がなされていたことによるが、厳密な分類を立てることにあまり重きを置かず、むしろ、社会情報の総体を捉える枠組みを失わないようにすべきだという発想によっている。以上のような前提を踏まえて、本コレクションの概略を以下に説明しよう。
かわら版を分類すると、次表のような構成になる。災害関係が全体の四割以上を占める。次ぎに多いまとまりは、幕末・維新期の内乱に関わるもので約二割強、番付、祭礼番付、歌舞伎興行の番付類などの庶民生活にとっての年中行事類などが併せて約二割弱、同じく庶民生活での日常的な関心事である健康や日々の安泰を願うものなどがこれに続く。
災害かわら版は小野コレクションのなかで約四割以上を占め、圧倒的に多い。小野は、収集を始めた大正五年頃、東京大学地震研究所の石本巳四雄と相携えてかわら版を集めようとした。両者が収集品を融通し合う関係にあったことも想定されるから、一定程度災害ものの比重が多くなったということも考えられる。しかし、ここでは、そうした収集過程に作用したであろう特殊な条件を勘案しても、江戸では災害かわら版は実際に出版された量も大きかったという立場を採る。その点についての説明は災害とかわら版の項に譲る。
また、庶民生活を色彩る年中行事に関わる出版物、庶民世界のなかで好奇の対象となり、広く流布された奇談や事件を刻したかわら版などを一括すると、これまた一大塊をなす。こうしたコレクションの構成をふまえ、かわら版部の展示を構成した。