肖像のある風景

木下 直之
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では博士とは何か

  博士(はかせ)とは王政復古の産物である。歴史事典にせよ国語辞典にせよ、「博士」を引いたなら、古代と近代の博士についての解説しかないことに気がつくはずだ。明治維新では、武家から政権を奪い返した天皇が直接政治を行うこと、すなわち天皇親政が建前として打ち出された。そこで、新政府の官庁や官職に古代の律令制下のそれらが復活した。

  一八六九年に設置された大学校(半年後に大学となる)は、幕府の昌平坂学問所を母体としたものだが、すぐに洋学中心へと方向を転換し、開成所の流れを引く大学南校、医学所の流れを引く大学東校が最高教育機関となった。この両者が合流して、一八七七年に東京大学が発足する。

  この大学校設置時に博士という官職が設けられた。生徒の教授、国史の編纂、洋書の翻訳、病院や医薬関係をつかさどる役職で、大・中・少の三階級に分かれた。

  大学といい博士といい、すべては古代の律令制にモデルがある。七〇一年に制定された大宝令は、大学寮に官吏養成の最高教育機関として大学を設置し、博士一人、助教二人が学生(がくしょう)四百人に明経を教えることとした。さらに音博士、書博士、算博士がそれぞれ二人いて、教養課程を担当した。大宝令は、ほかにも、陰陽寮に陰陽博士、暦博士、天文博士、漏刻博士、典楽寮に医博士、針博士、咒禁博士、按摩博士などを置いた。彼らも学生を教育するのが職務であった。いうまでもなく、こうした教育体制の一切が中国のそれをモデルにしていた。

  一八六九年に大学東校に勤めた石黒忠悳が語る次のエピソードは、当時、博士がどのようなポストだと受けとめられたかを伝えて興味深い。医師佐藤尚中が大学東校の大博士に任じられた時、大学南校の漢学者たちが大いにこれに反対した。「今日、博士の称号を有する者は、いずれも中博士以下で大博士はまだないのに、独り佐藤氏を大博士とするは、怪しからぬ。そもそも医は膿を啜り、尿を舐る小技術である。何んぞこれに大博士の高位を占めしむべけんや。」などと憤慨したという(『懐旧九十年』岩波文庫)。

  このころの博士は職名であった。それが現在のような学位に変わるには、一八八七年の学位令を待たねばならない。この前年に帝国大学が創立され、大学院の修了者または学術上の功績顕著な者に文部大臣が博士学位を与えることになった。当初は博士の上に大博士という学位も用意されたが、該当者がないまま九八年に博士に一本化された。

  こちらの博士は「はくし」と読ませた。そして、法学博士・医学博士・工学博士・文学博士・理学博士の五種類のカテゴリーを設けた。一八八八年五月七日に誕生した最初の博士は、次の二十五人である。

法学博士 箕作麟祥・田尻稲次郎・菊地武夫・穂積陳重・鳩山和夫
医学博士 池田謙斎・橋本綱常・三宅秀・高木兼寛・大澤謙二(七四図参照)
工学博士 松本荘一郎・古市公威(一二六図参照)・原口要・長谷川芳之助・志田林三郎
文学博士 小中村清矩・重野安繹・加藤弘之(一三六図参照)・島田重禮・外山正一
理学博士 伊藤圭助・長井長義(二四図参照)・矢田部良吉・山川健次郎(四三図参照)・菊池大麓
太字は帝国大学教職員・以下同)

さらに、翌六月七日にも次の二十五人に博士学位が与えられ、わずかひと月の間に五十人の博士が生まれた。

法学博士 井上正一・木下廣次・熊野敏三・岡村輝彦・富井政章
医学博士 田口和美(一図参照)・佐藤進・緒方正規(五図参照)・佐々木政吉・小金井良精(二図参照)
工学博士 高松豊吉・谷口直貞・平井晴二郎・辰野金吾(一二一図参照)・巌谷立太郎
文学博士 黒川真頼・川田剛・中村正直・南條文雄・末松謙澄
理学博士 寺尾寿・小藤文次郎(一〇七図参照)・松井直吉(一一二図参照)・箕作佳吉(二五図参照)・桜井錠二(一〇九図参照

  一八九八年からは、これに薬学博士・農学博士・林学博士・獣医学博士の四種が新たに加わった。それから数年のうちに、東京帝国大学教授はほとんど全員が博士になってしまったというから、本書で紹介する肖像は、厳密な意味でも「博士の肖像」なのである。

  一八八八年の秋から冬にかけて、『絵入朝野新聞』が附録として配布した「博士十二氏肖像」(六一図)は、最初の博士たちを紹介するものだった。それは、子弟間で贈呈される肖像とはまったく別の場所で、マスメディアによって、博士という名称とともに肖像が流通を始めたことを意味していた。おそらく、これら印刷された「博士の肖像」は、博士が学問の場ではなく、広く社会の中でどのようなイメージを与えられたかを示している。それはまた、肖像画や肖像彫刻において、博士がとるべき身振り、浮かべるべき表情、生やすべき髭(髭のない博士を探すのは難しい)、着るべき服装、持つべき道具(書物が多い)、居るべき場所となって跳ね返ってくるはずのものだった。



博士の肖像

  学内に現存する最古の肖像は一八九四年に描かれた「田口和美像」(一図)だが、それを最初の肖像と断定することはできない。

  一九〇〇年に発行された写真集『東京帝国大学』(小川一真撮影)では、図書館の学生閲覧室に四点の肖像画(ただし一点の図柄は見えない)、理科大学の地質学実験室に一点の肖像画を確認できる。

図書館学生閲覧室

理科大学地質学実験室


写真集『東京帝国大学』(小川一真撮影,1900年)より


  また、「松村任三像」(三二図)の作者松岡寿の遺品『揮毫控』では、ほぼ年代順に記された肖像画の受注メモの中に、「濱尾新氏肖像帝大依頼明治三一年十一月五〇」と、その九行前に、「渡辺洪基氏像帝国大学依頼五〇円」を見つけることかできる。松岡のいう「帝国大学依頼」が、大学からの公式の依頼なのかどうかは確認できない。ただ、渡辺は一八八六年に創設された帝国大学の初代総長で、濱尾は第三代総長である。あるいは、総長の公的肖像画制作という、現在では行なわれていないことが当時はあったのかもしれない。

  渡辺洪基と濱尾新の間をつなぐ第二代総長が加藤弘之だった。実は、加藤には、現存する肖像彫刻(一三六図)のほかに、もっと早くから肖像画が描かれていたとする証言がある。

  動物学教師として理学部で教鞭をとったモースが、いったんアメリカに帰国し、再度来日したのは一八八二年のことだ。この二度目の日本滞在はもはや東京大学とは関係のないものだったが、東京に到着するや早速大学を訪問した。当時は大学綜理だった加藤をはじめ、菊地大麓、箕作佳吉(二五図)、矢田部良吉(六三図)、外山正一らが待ち構え、モースとの再会を喜んだ。それから箕作は、帰国後に建設された理学部の博物館へとモースを案内する。以下はモースの語る印象である。

  私の設計は徹底的に実現してある。私が最初につくった陳列箱と同じような新しい箱も沢山出来、そして大広間に入って、私の等身大の肖像が手際よく額に納められ、総理の肖像と相対した壁にかけてあるのを見た時、私は実にうれしく思ったことを告白せねばならぬ。私の大森貝墟に関する紀要に、陶器の絵を描いた画家が、小さな写真から等身大の肖像をつくったのであるが、確かによく似せて描いた。この博物館は私が考えたものよりも、遥かによく出来上っていた。(『日本その日その日』第三巻、石川欣一訳、東洋文庫、平凡社、一九七一年)

  等身大の肖像画を飾ることまでがモースの指示であったかどうかは不明だが、少なくとも、大学綜理の肖像画を理学部の博物館に、その施設創設の貢献者として飾るという発想は、当時の日本人のものではなかっただろう。モースが目にしたものは、東京大学におけるもっとも早い「肖像のある風景」である。

  モースのいう「紀要に、陶器の絵を描いた画家」とは、木村静山と思われる。平木政次の『明治初期洋画壇回顧』(日本エツチング研究所出版部、一九三六年)によれば、木村は長崎の出身、外国人の注文に応じて綿密な博物画を描く画家であった。とくに昆虫の写生を得意とした。大学と上野にあった教育博物館(理学部博物館とは別組織)の画工を兼務していたが、一八八〇年に大学の専任となったので、教育博物館のあとを平木が継いだという。平木はまた、これよりも以前に、「暑中休暇の頃理科の教授、米国人モールス氏の依頼を受けて、一ツ橋外の大学理学部の教室へ、大森より掘出したる土器の石版摺の図へ、実物を見て着色した」とも書いている。

  こうした画家が、「小さな写真から等身大の肖像」を描くことができたのだろうか。実は、平木は、教育博物館の画工になった理由を、「午前八時に出頭すれば、午後三時で退出出来て、時間に余猶があって、画の勉強も出来た訳です。」と打ち明けている。平木には油絵の勉強が本分であり、もしそれで立とうとすれば、肖像画家になることが最も現実的な道だった。

  つまり、油絵という当時としてはまだ珍しい絵画を、自分の家に飾ろうなどと考える人は稀で、それは博覧会や見世物で見るものにすぎなかった。ただ一種、肖像画だけが油絵を普及させる可能性を持っていた。それは、油絵の普及を目論んだ側が、故人追慕のために肖像画を飾るという習慣に目をつけたからだ。

  当時の洋画家高橋由一の遺した文書に、肖像画を奨めるものが数多くある(東京芸術大学図書館所蔵『高橋由一油画史料』)。

  たとえば一八七一年の「油画開業規則書」では、油絵の利益をこんなふうに説き始める。「油画の利益大なる事は文明国の例を聞て識るへし、西洋各国、上帝王より下士庶人に至る迄、生涯に一度肖像を画かせ置て子孫に伝ふ」(同史料番号三−九)。

  あるいは、執筆時期不詳の「肖像油絵の説明」に次のようにいう。「吾人一回絶息する時は再ひ其肉態を見るへからす、悲しからすや、故に在世中、無異安泰の形貌を千歳不朽の油絵に写して子孫に遺し、子孫に於ては、亡父兄の肉身に等しき油絵の肖像に対して、在世間の恩恵を追報するの感念を起し、厚く愛慕敬礼するの具と為すへし」(同史料番号三−三二)。

  料金表も数種伝わっている。一八八四年のものの一部を引用しておこう。

弊師肖像油絵 現人ハ肉顔真写
故人ハ撮影復写
全身半身随意応求
横壱尺壱寸
竪壱尺五寸 金拾五円
同壱尺七寸
弐尺壱寸 同弐拾円
同弐尺三寸
弐尺七寸 同廿五円
(以下略・同史料番号三−三一)

  「故人ハ撮影復写」、すなわち故人の肖像は写真から描いたことがわかる。小さくて不鮮明で、色彩がなく、すぐに褪色してしまう欠点だらけの写真をすべての点で凌駕している(「千歳不朽の油絵」)、というのが油絵のセールスポイントだった。したがって、モースが帰国して日本にいない以上、小さな写真から肖像画を描くのは当時の常套手段であり、また、それが洋画家にとって稼ぎの種だったのである。このように一八八〇年代には、油絵による等身大の肖像画制作は技術的に十分可能だった。

  一方、ブロンズ鋳造による肖像彫刻は、そう簡単には実現しない。藤田文蔵(六七図)や大熊氏廣(一一一図)など、工部美術学校でイタリア人教師ラグーザに就いて西洋彫刻を学んだ彫刻家、あるいは長沼守敬(六五・六六・六八・一〇八図)のように、直接イタリアに渡って学んだ彫刻家の登場を待たねばならなかった。油絵よりも十年から十五年は遅れた。大熊が靖国神社前に「大村益次郎像」を竣工させた一八九三年以後、肖像彫刻はようやく姿を現わし始めた。

  それなら田口和美の肖像画(一図)とは異なり、一八九五年竣工の「ミュルレル像」(六七図)は、学内最古であるとともに、学内最初の肖像彫刻でもあると見なすことができそうだ。





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