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未来の建築家に宛てた書簡

坂村 健


空間はコンピュータを意識し、コンピュータは空間を忘れようとしていた

建築家の著作を読むと、コンピュータの発達の初期から、その建築に対する影響について考察してきたことに驚かされます。

これに対して、コンピュータサイエンスの側にはそのような意識はありませんでした。むしろネットワーク技術に見られるように、物理空間を無視できるような抽象性の獲得を目指してきたのです。実際に計算しているコンピュータがどこにあるのか、実際のデータがどこにあるのかといったことを知らずに作業できる——そういう純粋に論理的な環境を求めつづけてきました。

それは、いわば論理の徹底的な純粋性の追及ともいえるものでした。現実世界の持つ矛盾、拘束、ヨゴレを持たない純粋論理の世界の追求とは、まことに西洋的なモチベーションとしか言いようがありません。

そして、バーチャルリアリティが生まれ、MUDなどのマルチユーザ仮想空間の研究が行われるようになりました。いわば、コンピュータの側で再度、空間の必要性に目覚めたのです。

この背景には、コンピュータ利用者の拡散に対応する動きがあったと思います。コンピュータハッカーではないものにとっては、グラフィカルインタフェースは福音でした。そして、インターネットがWWWのグラフィカルインタフェースによりブレイクしたように、マルチユーザ仮想空間は、ネットワーク世界でのコラボレーションワークをエンドユーザに利用させるためのキーとなると思われています。

ネットワークのバンド幅の問題などは残っていますが、早晩、サイバーパンクSFの描いた世界を現実にすることが可能になるでしょう。

「(非)建築」の「可能」と「不可能」

そして、今やそのようなサイバースペース内部での機能性空間をデザインすること——それも「建築」の範疇であるとする一つの解釈が、建築の世界の一部に生まれてきているようですね。

それは、容易にわかるようにマンマシンインタフェースやゲームのデザインに近いデザイン分野のはずです。では、その世界での「(非)建築」の「可能」と「不可能」を分けるものは何なのでしょう。

ハッカーたちは、コンピュータの世界でのマジックを利用する鍵は、まさに0/1の呪文であり、現実のハードウェアに対する深い理解であるといいます。ならば、道家の混沌論(混沌に目鼻を付けたら死んじゃったというあれです)のように、サイバースペースとはコンピュータの無限の可能性を殺すものでしかありません。それでも、サイバースペースを押しつけるとしたら、それは【大多数】の利用者にとっての【認識の限界】のためとしか言いようがないでしょう。

サイバースペースの中での「(非)建築」をそもそも想起する時点で、すでに設計者の【認識の限界】があります。よしんば「超えた」ものが設計できたとしても——さらに考えにくいことですが、それがサイバースペース中に構築できたとしても、それはやはり「存在」できないでしょう。他人に認知されなければ——さらには【大多数】に利用されなければ、それは存在しないのと同じ——サイバースペースの世界はそういう「観測者の原理」に支配される世界だからです。 この文脈で、よくマクルーハンの「新メディアの初期には前時代のメディアの真似になる」という言葉が上げられますね。つまり慣れれば認識の限界も広がるという意見でしょうが、私は決してそう思いません。

人間の脳は、実際の物理空間で生活するためにチューニングされ、そのための多くの回路やアルゴリズムが遺伝的に用意されているといわれています。そして、意識はしていないにしても生まれた時からの全生涯を通して、その中での活動方法を学んでいるのです。キーボード入力が難しいといっても、たかだか数カ月学習すれば十分なことでしょう。ピアノの比ではないし、ましてや鉛筆で字を書くなどという難関とは比べようもありません。

現実生活という恐ろしく難しいことをこなすために人間の脳の大部分の能力が使われている以上、それ以上を求めるのは酷というものです。このせっかくの出来合いの世界認識システムを無視して、別の新しいそれを持ってくれと求めるというのは無理でしょう。

ならば、【大多数】にとって身体に発する【認識の限界】はやはり頑として存在し、それこそが「(非)建築」を規定すること——つまりは身体の再発見に終わるのではないでしょうか。

建築をコンピュータのようにしたい

私が1984年から続けているTRONプロジェクトでは仮想空間と別のアプローチを提唱し、研究開発を続けてきました。それは端的に言えば「リアルへの密着」ということです。

住宅を構成するあらゆるモノの中にコンピュータが入り、それらがネットワークで結合される。そしてそれらが相互に情報をやり取りしながら、快適な環境を提供するという一つの目的に向かって協調して分散処理を行う。インテリジェントビルがこのように構築されたら…。すべてのビルや住宅がこのようになり、お互いに接続されたら…。道路にもコンピュータが埋め込まれ、自動車の中のコンピュータと交信するようになったら…。さらに都市全体ではどうなるか——などなど応用イメージはどんどん広がります。

このような環境の実現こそが1984年よりの一貫したTRONプロジェクトの目標です。このアプローチを私たちは「どこでもコンピュータ」環境と呼んでいますが、最近は “Computer Augumented Environment” とか “Ubiquitous Computing” とか “Enbedded Virtuality” などの名で同様の研究が世界的に行われるようになり、最新のコンピュータ研究の分野として認知されはじめています。

しかし、私にとってこのアプローチの背景にあるものはと言えば、環境を「プログラマブル」にしたいという思いなのです。それはコンピュータインタフェースだけでなく、融通のきかないハードワイヤードな機構(設備だけでなくお役所仕事のような組織まで)によって、社会全般で効率のためということで切り捨てられている部分——社会的弱者や異質として排斥される文化を、コンピュータネットワークの情報能力を浸透させることにより救えるのではないかという思いです。

自分の思い通りになるバーチャルリアリティに逃げ込むのではなく、逆にソフトウェアの入れ換えによって何にでもなれるコンピュータの柔軟性を建築に——ひいては社会全体に埋め込みたい。

スウェーデンの住宅基準法では、すべての住宅を高齢者向け住宅に改造できるように定めていますが、そのようなことをより汎用的に技術サイドからアプローチして実現したいと思っています。

では「プログラマブル」な建築とはどのようなものでしょうか。私は、それをメモリ空間のように均質で、モジュールの組み合わせでどうにでもなる空間としてイメージしています。極端に言えばスタートレックのホロデッキです。

私は以前 “Room within Room” というコンセプトを提唱しました。これがまさにそのイメージで、内装していない大スパン空間内に、電源と情報ケーブルとコンピュータチップを埋め込んだパネルを使って、必要に応じた部屋を作ろうというものでした。

コンピュータが要求することを引きずり出したとしても、残念なことに、そこから建築に対して新しいユニークなフォルムを生む理由になるような要求仕様は出ないと思います。むしろ、モダニズムの極北のような純粋の空間への還元と均質化への圧力となってしまうようです。

説明する建築

では、そういう均質な建築こそサイバースペース時代の建築家の建てるべきものだ。芸術的ユニークさへの欲求は害の少ない「(非)建築」ではらして欲しい(冗談ですよ)。そう願っているのかというと——少なくとも私はそうではありません。

建築は一度建てたら容易に変われません。「それは空間的な幅を持つのと同じように時間的にも幅を持つ時空間の中の存在だ」と誰かが言っていましたが、まさしくそのとおりです。建てられた時の評価だけでなく、そのライフタイムを通しての評価を積み上げないと建築の評価は定まりません。人間といっしょで「棺桶の最後の釘」というわけです。そして、そのライフタイムの中で、ストーリーを積み重ねていくのが建築なのではないでしょうか。

その固体性こそが、容易に変われるコンピュータの中のソフトウェアと比べた建築の短所でもあり、同時に長所でもあります。その固体性こそが建築であるといってもよいと思います。「流体建築」や「(非)建築」はその長所を捨てたことで——何か別の芸術かもしれませんが——すでに建築ではないのではないでしょうか。

むしろ建築は戦って欲しいのです。 情報化からの均質化/シンプル化の要求をはねのけ、ユニークな形を作ってください。ただ、同時にそこにはアカウンタビリティも求めらるのを忘れてはいけません。クライアントをプレゼンテーションの間だけ満足させればいいというものではないでしょう。

なぜそこにその形が、空間が、素材が、恒久的な形であるのか、あらねばならないのかということを、常につきつめ、時代の言葉で社会に向かって説明し続けること——逆に言えば建築の持つライフタイムに渡って常にそれが説明できるような建築——そういうものを作ってもらいたいのです。

そのための社会へのチャンネルはコンピュータが提供します。建築を作ったら、同時にサーバーを設置するのがそのうち普通になると思います。その中のホームページで自分はなぜこういう形なのかを、最新の言葉で説明(弁明?)し続ける建築なんて、なかなかいいじゃないですか。サイバースペース時代の建築とはむしろそのようなものではないでしょうか。

これからの情報化社会では、建築家の生涯にわたる説明も含めて一つの建築なのだと私は思います。


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