第一部

学問のアルケオロジー


大学の誕生—御雇外国人教師と東京大学の創設

エドワード・シルヴェスター・モースの遺品 エドワード・シルヴェスター・モースの遺品「日本陶磁器コレクション」
エドワード・シルヴェスター・モースの遺品

「モールス(モース)氏大森介墟編」(原稿図)日本人画工木村がモースの指導で実測し、製図したもの。モース自身のメモが鉛筆で記入されている。モースは左右どちらの手でも字や図が書けたというが、その悪筆ぶりは有名であった。
全18の紙挟みに総計255枚の原図が収められている。
【大森貝塚発掘報告書図版実測原図/理学系研究科人類学図書室】
エドワード・シルヴェスター・モースの遺品
「日本陶磁器コレクション」

「モールス(モース)氏大森介墟編」(原稿図)
モースはわずか二年足らずの日本滞在中に北海道から九州まで国内を広く旅行し、その間に3千点以上の日本陶磁器を蒐集している。明治12(1879)年8月、それらの陶磁器を本国に持ち帰り、明治15年6月の再来日のさいにはビゲローやフェノロサとともに人力車、駕篭、帆船、汽車を使って関西方面への旅行を行い、陶磁器の系統的な収集を精力的に行っている。この数も3千点近くに及んだという。
【総合研究博物館人類先史部門】
佐々木忠次郎の遺品「(農学校動物実験場)昆虫飼養日誌」(含永斎筆虫図) 「野村重次郎スケッチ集」
佐々木忠次郎の遺品

「(農学校動物実験場)昆虫飼養日誌」(含永斎筆虫図)
【明治12(1879)年-19(1886)年/農学部3号館農学部標本室】

「野村重次郎スケッチ集」

野村重次郎は明治13(1880)年から明治18(1885)年まで東京大学理学部に勤務した初代動物写生画工として知られる。モースの後任となった教師チャールズ・オティス・ホイットマン(1842-1910)博士に請われ、明治18年頃に渡米。博士の許で水蛭他の動物を写生し、数年後フランスに渡り、南仏の街マントンで米人魚類学者アルリスの助手兼画工となって、1920年に同地で没している。
【明治16(1883)年-18(1885)年/洋紙に鉛筆、
淡彩/理学系研究科動物学図書室】
エドムンド・ナウマンの遺品「ナウマン象の化石」 エドムンド・ナウマンの遺品「コンパス」
エドムンド・ナウマンの遺品
「ナウマン象の化石」(Stegodon Cliftii Falconer & Cautley)
【総合研究博物館地史古生物部門】
エドムンド・ナウマンの遺品「コンパス」

「この磁器は余が滞欧中当地質学教室に於て保存される可く、フランクフルトのセンケンベルク博物館よりR・リヒター教授を経て貰い受けたるナウマン氏日本地質踏査当時の衣鉢である。即ち我国地質構造論の第一頁が本器と共に起稿せられたのである。余は之を見る時、地形図さえ完備せざる当時、僅かに集められたる地質学的観察事項を綜合して、日本地質構造論を樹立されたる氏の洞察力に感服せざるを得ない。」(小林貞一の箱書より)
【明治初期/ドイツ製/理学系研究科地質学教室】
工科大学機械工学科「井口式特許丸棒ゲージ」 工科大学電信学科「海底電信線見本」
工科大学機械工学科「井口式特許丸棒ゲージ」

【明治29(1896)-大正12(1923)年頃/
機械工学教授井口在屋製造/工学系研究科産業機械工学】

工科大学電信学科「海底電信線見本」

(大西洋インディヤラバー被覆海底線5千マイル4本組見本)当時のケーブルの絶縁には殆ど例外なくガターパーチャ
(おもにマレー半島に生長する木の樹液から得られる)が使用されていたが、この原料は高温や乾燥で変質し易いため、温度の高い海域や空中に露出するところにおいては不適当であった。明治3(1870)年にW・フーパーは硫化弾性ゴム絶縁のケーブルに成功。彼の会社は明治4(1871)年に長崎・上海間に敷設したケーブルを製造している。
【明治5(1872)年/フーパー電信会社製/工学部13号館】
工科大学電信学科「台湾海底電信線見本」 工科大学電信学科「ガルバノ・スコープ」
工科大学電信学科「台湾海底電信線見本」

浅野応輔(明治14年卒)は電気試験所(現電子技術総合研究所)の初代所長に就任し、九州・台湾間(約1400キロ)の海底ケーブル敷設に寄与した。当初はすべて英国に委託する予定であったが、浅野自ら工事責任者となり、明治30年にケーブル敷設を成功させている。ただし、ケーブルと敷設船は英国より輸入した。
【明治36(1903)年5月/グッタ・パーチャ&テレグラフ製/浅野応輔寄贈/工学部13号館】

工科大学電信学科「ガルバノ・スコープ」

微小電流を測定する計器。当時は電信線に使用される碍子の良否の判定やケーブルの試験のための高感度の検流計が必要であった。
【明治22(1889)年4月以前/エリオット・ブラザース社製/工学部3号館第1制御室】
工科大学電信学科「エジソン・ランプ」(50燭光) 工科大学造家学科「引手・釘隠コレクション」
工科大学電信学科「エジソン・ランプ」(50燭光)

明治23年3月購入。100燭光4.0円、50燭光2.5円、32燭光1.6円。東京電燈会社(東京電力の前身)より標本として購入しているが、東京電燈もまたエジソン電燈会社より輸入していた。T・A・エジソンは1879年に木綿糸を炭化させた炭素フィラメントを使用し実用的な白熱電球の発明に成功した。その後も世界各地に人を派遣してフィラメントの素材をもとめ、6千種以上の素材を試験した。その中でわが国の京都八幡村の竹がもっとも良好であった。
【アメリカのエジソン社製】

「藤岡式電灯球」(2フィラメント、3極口金、右から2番目)
工部省工学寮電信科の第3回卒業生であった藤岡市助は、明治19(1886)年に東京電燈の技師長となり、国内の電気事業の確立に寄与した。彼がとくに力を注いだのは白熱電球の国産化事業であり、明治23年には「白熱舎」(株式会社東芝の前身)を興す。本電球は藤岡の考案になるもので、明るさを切り替えるためであろうか、2組のフィラメントと3極の口金からなっている。
【明治25(1892)年3月/藤岡市助寄贈/工学部13号館】

工科大学造家学科「引手・釘隠コレクション」

横河電機の創設者にして東洋陶磁器の大コレクターとして知られる横河民輔(1864-1945)が、大正13年と15年の二度にわたって大学へ寄贈した貴重なコレクション。総数569点に上る引手と釘隠のコレクションのなかには、天皇家や徳川家の伝来品が含まれている。
【徳川時代初期-大正時代/工科大学造家学科卒業生横河民輔の
収集による/工学系研究科建築学専攻】
工科大学「工科大学看板」 工科大学造家学科「唐招提寺鼓楼模型」
工科大学「工科大学看板」

【明治21(1888)年以降/工学系研究科】

工科大学造家学科「唐招提寺鼓楼模型」

唐招提寺鼓楼模型は大正6年5月4日に購入された。縮尺は20分の1。唐招提寺鼓楼は仁治元(1240)年に建立された建築で、和様を基調としながら頭貫など細部に、中世初頭に東大寺再建に用いられた中国的建築様式大仏様を用いている。全体模型であって、他の模型群とは異なった性格を持つ。明治43年、ロンドンで開催された日英博覧会に出陳された建築模型のなかに「唐招提寺鐘楼」があってこれに該当する可能性がある。イギリスに対して、日本の古建築の紹介を行なうために制作されたので、全体を造ったのであろう。
【大正6年/工学系研究科建築学専攻】

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