兵庫県明石市西八木海岸
総合研究資料館、人類j部門
明石原人については様々な疑問が投じられ、今でも「謎」は残る。これには2つの要因が関係していると言える。第1には標本自身が消失しており、第2には開発により出土層の露頭が著しく縮小あるいは消失していることである。明石原人の発見地点近辺の近代的発掘調査が1九85年に春成秀爾らによって行われ、その成果は国立歴史民俗博物館の研究報告として1987年に出版された。また、発見および研究史は、1994年の春成の単行本に詳細に綴られている。形態研究に関する事項以外の多くの所見はこれらを参考にまとめた。
寛骨の発見直後に、直良は本学の松村瞭に実物を送付していた。松村は1931年5月から7月まで明石の寛骨を借用した。しかし、予備的な研究を推進したものの、所見を発表することはなかった。幸いであったのは、その間、型どりをし、石膏模型を作製したことである。この石膏模型が本展示標本である。
結局、明石の寛骨は発見当初は注目されたものの、人類化石としては認められず、大方、無視されたのであった。そして、本展示標本は、作製されて以来、理学部人類学教室にて保管されたが、松村瞭(1936年に急逝)の後任の長谷部言人はその存在を知らなかった。長谷部は1938年に人類学教室に赴任し、1943年に定年退官となったが、その後も教室で研究活動を長年続けた。そして、1946年11月6日に明石寛骨の模型を「発見」し、直ちに研究対象とした。
松村らが制作し、長谷部が「発見」した明石寛骨の模型は赤茶色に薄く着色され、表面形態は良好である。形態学的研究に十分活用できるものである。本模型標本は、まずは長谷部の研究に使用されたが、その後は再び特定の研究には使われない期間が続いた。そして、長谷部の死後、この石膏模型は一部破損した状態で、名誉教授室から再び発見された。これは修復され、遠藤萬里と馬場悠男が研究に使用した。その後、馬場悠男がさらに修復を改善し、現在に至る。
また、この間、1950年代には元祖模型からさらに複製が作られた。この複製は同一のものが2点あるが、いずれもが濃い色に、しかも厚く塗料が塗られ、表面形状の詳細は劣る。また、遠藤・馬場の研究では、色による視覚的影響を除外するため、明石標本を含め、全ての比較標本について新たに同色(黄色)の石膏模型を作った。また、これらについては、欠損部位を補い復元した。したがって、目下は、4通りの明石「原人」模型が本学に存在する(挿図1)。
34-1 明石人の模型(3組) |
長谷部は明石寛骨をジャワ原人、ペキン原人と同等の進化段階の化石人類とみなし、「学名ではなく」とことわりながら、Nipponanthropus akasiensis の「通称」を与えた。当時、原人の寛骨は世界で1点もなく、長谷部の結論は、明石寛骨がネアンデルタールより原始的である、という判断に基づく類推であった。また、出土層準からアカシゾウも伴出するため、更新世中期、アジアの原人と同時代のものである可能性に注目した。
長谷部の論点は以下の通りであった。明石寛骨は小さく、大座骨切痕が広く、女性的である。ところが、寛骨臼が大きく、腸骨の幅が狭く、腸骨翼の凹みが強く、座骨が比較的長いことにより、男性と判断される。そうすると、広い大座骨切痕は類人猿的となり、原始的と解釈された。これ以外にも、類人猿的特徴としては、寛骨臼が浅いこと、座骨結節が短く狭いこと、腸骨棘、座骨棘、腸恥隆起が弱いことをあげている。また、現代人と異なる点としては、稜結節から腸骨前縁への距離が大きいこと、腸骨前上棘が前下棘に近いこと、腸骨の前縁が直線的で外側へ開かないこと、としている。最も強調したのは、大座骨切痕の広さで、直立姿勢との関連を想定し、明石寛骨の持ち主は「前屈みな体幹を有した」と推論した。 長谷部の研究の最大の難点はネアンデルタール以前の化石人類の比較資料がなかったことである。そのため、形態進化の方向性について正しい予測がなされなかった。例えば、長谷部が最も重視した大座骨切痕の形状は、原人では決して浅くないことが今では知られている。
計測値としては、まず、長谷部が論じたものと同様なものを5項目調べた。この5項目を用い、ベクトル棄却検定法にて現代日本人集団への帰属を検定した。その結果、明石と縄文時代の寛骨は棄却されなかったが、港川人は完全に棄却された。さらに同じデータからペンローズの形態距離を算出し、これをもとに各標本を多次元尺度法で2次元に展開した。これにより、ベクトル棄却法の結果が確認されるとともに、明石が港川と反対に位置し、形態的には明らかに現代人的であることが示された(挿図2)。次に、猿人から現代人まで大きな進化傾向が見られる形態特徴6、7項目を選定し、明石が現代人的であることが示された(挿図3)。さらに、詳細な腸骨の計測法を考案し、同様な結果を得た。ここで重要なことは、いずれの結果でも、港川人が現代人とネアンデルタール・原人の中間的に位置するのに対し、明石は常に現代人的傾向を示すことである。
34-2 計測値5項目の多次元尺度法展開 |
34-3 非計測項目の多次元尺度法展開 |
これらの結果から、明石原人は原人でも旧人でもなく、完新世から現代までのいずれかの時代の日本人寛骨であろうと結論された。
次の論点は、遠藤・馬場の結果が正しいとしても、歴史時代から現代の日本人集団に属するとは限らない、というものである。すなわち、帰属が棄却されない他の集団があるかもしれないという。論争では原人および旧人集団へ帰属する可能性が特に主張されたが、これは事実上、あり得ないであろう。唯一可能性が残されているとするならば、それは新人段階の帰属である。しかし、遠藤・馬場はこれをも完全に否定している。彼らは、港川人と三ヶ日人の双方が現代人と旧人の中間的形態を示すことに注目する。一方、明石の寛骨は「超」現代人的で、しかも変異の分布の逆側に位置しているため、更新世サピエンスの集団に属すことはあり得ないとした。
第3の問題は化石化についてである。これは特に実物を知っている直良博人(信夫の息子)が主張している。明石の寛骨はとにかく化石化していた、との強い主張である。これに対し、遠藤は、化石化は時間とは一定の関係にないことを指摘し、すなわち、化石化した明石寛骨が完新世以後の新しい時代のものであってもよいとする。
明石寛骨が出土したとされる砂礫層(V層)は西八木層の下部にあたり、屏風ヶ浦粘土層(VI層)の上に不整合に接する。屏風ヶ浦粘土層はアカシゾウとシカマシフゾウを含み、あるいは火山灰層の対比などから約100万年前と推定される。これに対し、問題となる寛骨出土層準からはナウマンゾウが知られ、時代は更新世中期から後期と推定される。また、段丘の評価からは最終間氷期と判定され、十数万年前から7万年前までと市原実はしている。これに対し、八木浩司は約6あるいは8万年前とした。古地磁気の調査ではIV層がエクスカーションの対比により5〜6万年前と推定され、問題のV層はその直前となる。また、V層からは多数の木片が出土しており、炭素14年代では5、6万年前と測定された。
遠藤・馬場の明石寛骨の形態解析は完璧に近く、反論する余地はほとんどない。すると、問題の寛骨は化石ではなかったか、新しい骨が化石化していたか、どちらかである。いずれにせよ、崩れたばかりの砂礫層の中に、偶然、部分的に埋没していたことになる。
しかし、筆者のアフリカでの経験によると、表面採集といえども、とんでもないものがとんでもない場所にはそうあるものではない。あり得ないことではないが、どうしても他のオプションも考慮したくなる。そこで、可能性が低くとも、以下の場合を考えたい。明石の寛骨が新人段階の化石である、というものである。上述のごとく、遠藤・馬場は港川・三ヶ日人と明石寛骨との違いから、この可能性をすでに否定している。しかし、これは更新世サピエンスの小サンプルの比較に基づいており、特に本州では断片的な三ヶ日人の寛骨片だけである。これをもって、当時の集団の代表とすることはできない。
もし、明石の寛骨が実際に約6万年前の化石ならば、唯一可能性があるのは、寛骨形態が港川・三ヶ日よりは全体として現代人的な集団が存在したことである。これは港川での状況と矛盾するが、もし、旧人から現代人までの一定の進化傾向が存在しないならば、必ずしも更新世サピエンス集団のすべてが同一傾向を示す必然性はない。そして、現代型サピエンスの単元説が正しいならば、そうした可能性も増すのではないだろうか?
一方、6万年前の日本に新人段階の人類が生息していた、という必然性もまた、ない。もし、旧人段階の人類が生息していたならば、明石人がこの集団に属したとは事実上、考えられない。今となっては、謎の解決には日本の更新世サピエンスの化石をさらに発見するしかない。明石の寛骨の形態が「新し過ぎる」かどうかは、もう少々柔軟に見守りたい。
(諏訪 元)