インゴット
(鋳貨と見る見方もあり、その役割も担ったものの、本来はインゴットとして作られたとする見解を採る)
中国
制作地は銘中の「上郡」であろう。後漢の上郡は、現在のほぼ陜西省北郡ならびにそれ以北の地。
郡治は、今の楡林県南の定河と楡林河の合流点近くにあった。この地で鋳造されたと考えられる。
後漢時代、建和2年(西暦148年)
制作者は後漢の銀匠、王升・王□・呉□
縦5.95cm、横4.0cm、高さ1.66cm
重さ174g
昭和6年10月20日、東京の古美術商より購入。学院閉鎖に伴い東洋文化研究所に移管。
東洋文化研究所
中国古代において、銀が一般的に用いられるようになったのは、春秋戦国期であろうと考えられている。戦国式青銅器にみえる金銀錯(金銀象嵌)がこれである。西アジアにおいては金属技術発展の初期段階から金銀の知識・利用が見られるのに対し、中国では、殷代以降、青銅技術が一般化したにも拘らず、金銀は殆ど知られなかった。銀について言うと、春秋戦国期を溯るほとんど唯一の例外として甘粛省玉門火焼溝遺址より銀器が発見された(未報告。文物編集委員会編『中国考古学三十年』、平凡社、1981年、142〜3頁参照)とされるが、これは新石器時代の中国でのこれまでに知られる孤例である。したがって、この時期にすでに、中国に銀の冶金技術が存在したと見るには無理があり、この遺例は西アジアからの製品の流入であったと見るべき可能性がある。戦国時代以降、中国では急速に銀の使用が増大した。
当には、銘文があり、
建和二年 銀匠王升
上郡亭長 銀匠王□
□造公行 銀匠呉□
と読みうる。この読み方に異説がないわけではないが、それについては、後引の松丸、李論文を参照されたい。「建和二年に、上郡の亭長たる□(人名)が造り、公行せしむ。〔鋳造者は〕銀匠王升、銀匠王某、銀匠呉某である」の意であろう。「亭長」は、『漢書』百官志に、「亭有亭長、以禁盗賊」とある亭長か。「公行」は、かならずしも判然としないが、公(ひろ)く発行する、の意かと思われる。
同類の遺物は、あまり数多くないが、奥平昌洪『東亜銭志』巻8に、器形、銘文等が基本的に同一のものが1個、収載されている。但し、重量は95匁(即ち、356g)とあるので、当のほぼ正確に2倍の重さがあることがわかる。
この重量は、後漢時代の何を意味したかを考えてみる。当時の重量単位は、
1斤=16両 (1両=13.92g)
である。したがって、当は、
174(g)÷13.92(g)=12.500(両)
また『東亜銭志』所載の銀は、
356(g)÷13.92(g)=25.574(両)
となる。このことは、おそらく、当時は百両が基本単位で、その半(=50両)、又その半(25両)、さらに又その半(12.5両)……といったきざみ方で銀が作製されていたことを推測させる。銅のインゴットの場合にも、同様のことが推測され(松丸『西周時代の重量単位』東洋文化研究所紀要117冊、1992年参照)、鋳造の便宜のための配慮と考えられ、貨幣の刻み方とはシステムの異なっていたことが考えられる。
当時の銀はどの程度の価値をもっていたであろうか。後漢時代の銀相場についての文献は見当たらないが、『漢書』食貨志下に王莽の幣制として、
朱提銀重八両爲一流、直一千五百八十。它銀一流、直千。
(朱提銀は重さ8両を1流とし、その値は1580〔文〕である。それ以外の銀は1流あたり、値1000〔文〕である)
とされている。つまり、
8両=1,000文
15571両=125文……(a)
に相当する。一方、比較すべき金は、同様の王莽の幣制において、
黄金重一斤、値銭萬。
(黄金の重さ1斤は、銭1万〔文〕に値する)
とあるので、
1斤=16両=10,000文
15571両=625文……(b)
となる。したがって、(a)、(b)より、
金:銀=625(文):125(文)
=5:1
となって、王莽時の銀は、金の1/5の価値をもっていたことが判明する。この割合は、後漢時代でも、それほど大きく変化してはいるまいと思われる。
(松丸道雄)