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古物

(中国・朝鮮)


11 孫鼎買冢


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甎、陽文
中国
浙江省杭縣
三国(呉)時代、神鳳元年(西暦252年)
縦12.8cm、横9.5cm、高さ2.8cm
東洋文化研究所

中国の墳墓には文字資料を多く伴い、墓碑や墓誌の類が重要な歴史・伝記資料として、或いは文学遺産や書法芸術の宝庫として重視されてきたことは周知の通りである。本文の対象とする墓券(買地券や鎮墓券の類)も、こうした文字資料のひとつである。碑誌にくらべればはるかに小型のめだたぬ存在であり、研究者の注意をひくようになったのは20世紀以降といってよい。以下、「孫鼎買冢」を解説する前に、研究史をたどり問題点を整理しておこう。

晋太康5年(284年)、大男楊紹買地は竹のわりふを本義とし、後に券をも意味する)が、明の万暦元年(1573年)会稽で出土し、徐渭ら文人に珍物としてもてはやされ、のち清朝金石学者銭大らの攷証を経てその墓地買得証書としての性格が闡明されたのが、旧中国におけるほとんど唯一の墓券研究であった。ところが清末から民国時代にかけ、出土品の増加と金石学の進歩につれて墓券も注目の対象となり、端方(1861〜1911年)の豊富な蒐蔵をほぼ網羅著録した『斎蔵石記』(1909年10月序)には数点の収載をみ、後漢・北魏・唐・明の買墓券の実体がひろく学者に知られた。中国石刻研究の記念碑的著作と目される葉昌熾『語石』(1901年序、09年又記)には買地(巻5)が含まれ、買墓券の概念と典型的事例がここに簡潔に示され、他方孫詒譲(1848〜1908年)の南宋地券に加えた跋には民間信仰の側面に対しても相当の注意を払っている。

以上の背景をふまえ、墓券の理解を確立しその事例蒐集、製拓、録文刊行等に最も貢献したのが貞松老人羅振玉(1866〜1940年)であった。かれは『蒿里遺珍』(1914年9月序)に自ら所蔵する拓本の逸品を考証を付して影印したのに続いて、『地券徴存』(1918年10月序)を著わし、後漢から明に至る歴代地券18種に高麗の1点を加え精確鮮明な録文を公刊した。また墓券中金属に刻された数例を苦心模録して『貞松堂集古遺文』及び『貞松堂吉金図』に収め公刊した。今日に至るまで他の墓券に関する専書は未だ出ていないので、『地券徴存』と『貞松堂集古遺文』中の関係諸例を見ることが、今でも墓券認識の第1歩である。羅氏の鑑識と見通しの基本的正しさは、羅書中に偽物の疑いのあるものが1点も含まれていない点、および同書所収諸例を各時代の典型的なものと認めてほぼ大過ないことに明らかといえよう。かれは更に知見を拡め『蒿里遺文目録』10巻・補遺1巻(1924年5月編、26年7月序)を編し、後『続編』(1929年9月跋)を加え、碑誌以下塚墓にかかわる金石文2千数百点の目録を完成した。墓券の類はその中で1/100程を占めるにすぎぬけれども、他の諸類と区別して「地券徴存目録」(蒿里遺文四)を立てている所に、かれの地券に対する立場を認めることができる。

中華人民共和国成立以後、考古学の飛躍的発展普及を通じ、墳墓から墓券の発掘される事例は数を増し、公表され管見に入ったものだけでも後掲録文に明らかなように『地券徴存』の数倍の点数に達しており、未公表のものは更に夥しいであろうと想像される。ただ目下の所中国でもそれらを集録した書は出来ていないようである。

墓券の内容的研究は、大きく2つの流れに分けて考えるのが適当であろう。その第1は墓券の土地売買証書としての性格に着目し、法制史、社会経済史の貴重な資料としてこれを取り上げるものであり、わが国の仁井田陞先生の『唐宋法律文書の研究』第2編第1章第2節、土地売買文書(東方文化学院東京研究所、1937年)・「漢魏六朝の土地売買文書」(『東方学報東京』第8冊、1938年、同著『中国法制史研究土地法取引法』、東大出版会、1960年所収、補訂版1980年)はその代表的成果と目され、買墓券の法的性格が解明されると同時に、漢六朝の墓券原文の難解な表現もその担保文言にかかる点などがみごとに説き明かされ、羅氏らの釈読を数等進めた功績も忘れられない。中国においても土地売買の実例は土地私有制の実態を示す史料として重視され、地券の紹介・研究に朱江「四件没有発表過的地券」(『文物』1964−12)、方詩銘「从徐勝買地券論漢代“地券”的鑒別」(『文物』1973−5)「再論“地券”的鑒別」(『文物』1979−8)等の諸論考が貢献する所少なくない。

他方墓券を喪葬習俗の一環として、漢民族の葬制、死生観、死後生活信仰等をうかがう屈強の資料として注目する研究者も少なからず、「民俗資料としての墓券——上代中国人の死霊観の一面」(『フィロソフィア』5、1963)、「墓券文に見られる冥界の神とその祭祀」(『東方宗教』29、1967)、「魯迅の死生観の片影」(『東方宗教』33、34、1969年)、「中国人の土地信仰についての一考察」(『洪淳旭博士還暦記念論文集』、1977年)等一連の研究で思想・習俗を追求されている原田正己氏を日本の代表的研究者にあげることができる。中国においても考古学者の宿白・徐苹芳氏が、『白沙宋墓』(文物出版社、1957年)や「唐宋墓葬中的“明器神”与“墓儀”制度」(『考古』1963−2)で、北宋官撰の『地理新書』や『永楽大典』所引の『大漢原陵秘葬経』といった稀覯文献を活用し、実際の発掘諸例と綜合検討の上宋代の葬俗における墓券とその背景を闡明されたものをはじめ、臺静農「記四川江津県地契」(『大陸雑誌』1−3、1950年)、方豪「金門出土宋墓買地券考釈」(中国歴史学会史学集刊三、1971)・陳槃「於民俗与歴史的間看所謂‘銭’与‘買地券’」(『国際漢学会議歴史与考古組報告』、1980年)等、著名な歴史家達により様々の角度から地券は取り上げられている。また後漢の鎮墓文に対し適確な見通しを与えた呉栄曾「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』1981−3)も墓券を扱う者にとり最良の手引きとなる。

なお買地券に関しまとまった論考として、湯浅幸孫「地券徴存考釈」(『湯浅教授退官記念中国思想史論集』、1981年)、呉天穎「漢代買地券考」(『考古学報』1982−1)、冨谷至「黄泉の国の土地売買——漢魏六朝買地券考」(『大阪大学教養部研究収録 人文社会科学』36、1987年)を参照されたい。

以上を通じ墓券が古墳考古学や葬制史、墓葬習俗の基本史料であることはいうまでもないが、更に法制史、社会経済史、民俗史、思想史等の各方面からも注目に値する貴重史料たる点が認められよう。1980年ごろまでに知られた墓券については、拙稿「中国歴代墓券略考」(『東洋文化研究所紀要』第86冊、1981年12月)に概観を試みたので、御参照願いたい。 以下に「孫鼎買冢」について簡単に説明しておきたい。

(本文)
會稽亭侯井領錢唐水軍・綏遠
將軍、從土公買冢城一丘、東・南極
鳳凰山巓、西極湖、北極山盡。直錢八
百萬、即日交畢。日月爲證、四時爲任、
有私約者、當律令。
大呉神鳳元壬申三月、破大吉。
(左側)
神鳳元壬申三月六日、孫鼎作
(訓読)
會稽亭侯并びに錢唐水軍を領す綏遠將軍、土公従より冢城一丘を買う、東・南は鳳凰山巓に極まり、西は湖に極まり、北は山盡に極まる。直は錢八百萬にして即日交し畢る。日月を證と爲し、四時を任と爲し、私約有らば律令に當らん。 大呉神鳳元壬申三月、を破し大吉。
(左側)
神鳳元壬申三月六日、孫鼎を作る。
(語解)
會稽亭侯 會稽は郡名と重なり、今日の浙江省紹興市の地。侯は爵で會稽亭に封ぜられた侯。
錢唐水軍 錢唐は呉郡に属し、東海の杭州湾に臨む要地、今日の杭州市にあたる。長江下流の建業(今日の南京)に都した呉王朝は、水軍を重視し錢唐水軍もその一環をになうものであったとみられる。 綏遠将軍 呉の将軍号で、孫瑜(呉志六)・張昭(呉志七)・陸凱(呉志一六)等がこれに任じたことが伝わる。
土公 土地の神。
冢城一丘 墓を造るためのひとやま。
孫鼎 呉志には見えぬようであるが、宗室につらなる者であった蓋然性は大きい。
神鳳 呉の太元2年(252年)2月に神鳳と改元され、同年4月建興と改元されたから、僅か2、3カ月しか存続しなかった元号。すなわち呉の大帝孫權の最後の元号で、4月に71歳で帝は崩で太子亮が即位して建興に改めたのであった。
甎のは、後漢建寧元年(168年)正月〜8月5風里番延寿の墓5個(浙江省蕭山県出土、「循園金石文字跋尾」上收)、晋太康五年(284年)九月大男楊紹買地(浙江省会稽出土、葉昌熾『語石』5・羅振玉『蒿里遺珍』等收)などが知られており、当該地方にひろく行なわれていたことが窺われる。

「日月爲證、四時爲任」の句は楊紹にも見え、両者は文言に類似が多い。又「有私約者當律令」の句は番延寿と合致する。

黄立猷、『石刻名彙』14
仁井田陞「漢魏六朝の土地売買文書」『東方学報東京』9冊、1938(仁井田陞、『中國法制史研究土地法取引法』、1960年、422頁)


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