塑壁着色、額装
ホータン地域
7世紀頃
伝ル・コック将来品
縦15.4cm、横24.4cm
東洋文化研究所
これら絵画や浮彫は、壁面を格子状に仕切り、そのやや長方形の区画毎に同形同大で正面向き小仏坐像一体を容れ、上下左右に連続して多数を配列することから千仏、あるいは千体仏と呼ばれている。
さて本図は、千仏壁画のわずか1区画半の断片に過ぎない。しかも全身をあらわす向かって右の1体が良好な保存状態とはいえず、また後述する若干のホータン千仏画と多くの共通項を持ちながら、同一作例を知らず、出土地、伝来ルートも明確ではない。しかし、ホータン千仏画の特異な面貌の、おそらく初発的な表現を最もよく示し、またその作画過程をうかがわせる痕跡を遺すなど絵画史上興味深いものがある。
左右2体を総合しながら概略を述べると、各仏は縦約15センチ、横14センチほどの区画内に着衣を通肩にまとい、両手を腹前において、伏弁花の台座上に坐す。頭光、身光を伴うが、敦煌をはじめとする石窟壁画千仏に通有の天蓋や、短冊形は見あたらない。印相については、ほぼ全身を遺す向かって右の仏の、特に両手部分の剥落が著しく明確ではない。白色下地上におおよその形、すなわちホータン地方千仏をはじめ殆どの千仏に共通する定印(禅定印)を結んでいたと推察され、両手先の大雑把な輪郭が茶色線で示されている。なおその輪郭とは多少ずれるが、さらに太い灰色線で偏平な五角形様の形が描かれている。この灰色は衣の緑(緑青)が剥落した下にも認められるが、緑の衣の下全面に塗られていたかは、大部分が剥落して、下地のみが見えている現状では定かでない。向かって左の仏の着衣は茶褐色(註1)である。
左の仏の頭部は概して保存がよい。朱ではなく茶色の力強い鉄線描によって、丸々とはちきれそうな面貌全体が輪郭され、そのカ−ブが三道の線、さらに通肩にまとった衣の、首下から左肩へと廻した衣端がつくるカーブへと連なり、ここにすでに量塊感豊かな造形がみてとれる。墨細線のゆるやかなカーブが作るいわゆる連眉も優美さを添え、また2本の鼻陵をあらわす線もやや中高の独特なもので、頭部をより球形にみせている。目頭から発して上瞼の上へとカーブする眼窩線と下瞼線を茶色で引き、小鼻は茶点を打つのみで強調せず、唇も簡略なタッチでしっかり結ばれ、面貌全体を引き締めている。長めに輪郭をとった中に、2、3の小点を打って耳を表わすのは、後述のカダリク出土の千仏と共通する。
体部は正面向きながら、顔をやや左に向け、さらにあたかも睨むかのような強い眼差しを左へと投げかけているのは右の仏も同様で、強い印象を与える。それは上瞼を丸味のある墨線でくっきり描き、思いきり左に寄せて打った瞳の黒点によるところが大きい。装飾的に並べられた千仏画一般とは異なり、若々しい溌溂さと同時に尊厳さをも備えたこの像は、生命感に溢れ、一断片に過ぎない本図に高い価値を付与している。
右の仏の衣の緑青彩色の残存部分、両膝、蓮台伏弁には墨線による描き起こしの輪郭線、衣文線が残る。しかしその描線は緊張感に乏しく、隣の仏の褐色線を太く使って通肩の衣を力強く輪郭し、細い美しい衣文線を見せるのとは対照的である。また右の仏の顔面中央やや右寄りに制作の初期過程における下当りと思われる2本の茶色線が縦に引かれ両手部分に到っているが、向かって左の仏の顔面中央を髪際から三道にかけて、縦に通る線(顔の各部分の線と同じ茶色でかなり太い)は、右仏のそれと比べ、下描線とは思えないほど謹直に引かれて、むしろ左仏の持つ斉整感を一層際だたせているかのようである。
以下着衣・台座伏蓮弁・頭光・身光・区画内背景地の各色についてを表にまとめてみた。( )内には想定し得る限りにおいて顔料名を記入した。また壁画面は、塑壁におそらく目の細かい塑土を薄く塗り、さらに白色(石膏(註2))で画面下地を作った三層構造とみられる。
向かって左の仏 | 向かって右の仏 | ||
面貌 | 身色 | ごく淡い茶色 | 同左 |
輪郭@BR>唇など | 茶色線で 描き起こす | 同左 | |
頭髪 | 濃青(群青) | 同左か | |
着衣 | 地色 | ごく薄い褐色 (当初は丹) | 緑(緑青) |
衣文s線 | 濃い褐色 (ベンガラ) | 黒線(墨) | |
頭光背 <内側から外側へ> | 灰青色/茶/抹茶 | 薄鼠色/茶/淡色 | |
身光背 <内側から外側へ> | 濃青(群青)/ 濃褐色(ベンガラ) | 茶/濃青(群青) 淡青色/淡茶 | |
台座蓮弁 | 淡青色、墨線で 描き起こす | ||
区画内地色 | 緑(緑青) | 茶 |
千仏は寺院とりわけ石窟壁画の主要な主題であると同時に各区画の小仏の身色・着衣・頭光・身光・台座などの配色に変化と規則性をもたせ、寺院内部空間を荘厳したのである。小仏の各部の配色を8通り、あるいは4通りなどに変化させ、各々を一定の順序のもとに並べて1つのユニットとし、横に繰り返し描くとともにその、上・下段では同配色の像が1コマずつ斜めにずらして配されるため、壁面全体に美しい斜め格子文様が表される(註3)。本壁画断片では、2体の仏の区画に隣接する区画の地色もわずかに見えており、上部の2区画の左が茶色、右が青色、右の仏のさらに右の区画では青色が認められる。従ってこの千仏画の区画地色は、少なくとも緑、茶、青の3色が用いられ、右方へ一段下がりの斜行線的に同色のものが配置されていることが判る。このように各区画地色の配色を変化させるのもまたキジル・ベゼクリクなどの石窟に通有の装飾的手法であるが、敦煌石窟においては、長期にわたる千仏画の歴史において、地色も区画毎に変化させず、常に茶系色(後に緑など)であることは興味深い。なお前表各部の配色を勘案しても本千仏が全体で1ユニット何体構成であったかは判じ難い。
ところで本壁画の千仏が顔を正面に向けず、斜め横を向いているのは、各地に広汎に流布した千仏画像中、以下に述べるスタインの発掘にかかるダンダンウィリク、カダリクなどホ−タン地域出土のもののみに見られることが注目される。しかも他はすべて右を向いており、左を向く本図はさらに特異な存在としなければならない。
ダンダンウィリク第2、第6寺址の千仏壁画は、スタインが第1回探検(1900年)で発見し、撮影している。Ancient Khotan(註4)中の図版によれば、いずれも6体を1ユニットとし、身光背が頭光背を包むアーチ状になっているが、顔の向きは判別し難い。西ベルリン国立博物館に所蔵されているダンダンウィリク出土千仏壁画断片(註5)では、通肩に衣をまとって禅定印を結ぶ各仏が、一様にややうつむき加減で顔を右方に向けている。本壁画のくりくりとした眼を表す上瞼の墨線や思いきり左へ寄せた瞳はみられず、ここでは瞳は目の中心に点じられ、焦点も定かではない。鋭く走る描線もやや粗略な趣があり、全体に類型化がみられ、これを8世紀とすれば(註6)、本図はそれを遡る可能性がある。
スタインは1906年、カダリクの大寺院址の回廊部分から、倒壊してはいるもののかなり大きな千仏画の壁面を発見し、写真に収めている(註7)。下から十数段は千仏が並び、上部には千仏に囲まれて、一坐仏二立脇侍菩薩の説法図を収める一画がある(註8)。これは敦煌莫高窟の最初期から初唐期頃まで盛行した窟内の南北両壁面に仏説法図を描き、それを中心に全壁面を千仏で埋める荘厳法と関連して興味深い。ここでも千仏の顔はいずれも斜め右方を向いており、発見当初の写真からみてあるいはこの寺院堂内本尊へと向けられているのではないか、ひいては寺院内部空間における千仏画にホータン地方独自の意義・機能が存在するのではないかとも考えたが、同壁画は回廊部のものということであり、今後の課題としなければならない(註9)。ここでは千仏は6体をユニットとしており、各区画内では仏の身光が大きく頭光をも包み込んでアーチを形成し、壁面をそれらがリズミカルに彩り装飾効果を高めている。
スタインはこの祠堂遺址をはじめホータン地方の千仏壁画をステンシル使用による大量生産的なものと断定している(註10)。松本榮一氏は、スタインの見解が本壁画断片にも当てはまるか否かの詳細な検討を行い(註11)、前述した両仏の顔面中央部を竪に走る「朱色」(松本論文)の直線が、千体仏を壁画に割り付け、さらに細部をも形造る「見当」の役をなすものであること、向かって右の仏の、現在は全く剥落しているが定印を結んでいた手の部分に一部見える薄鼠色は、当初は板型によって緑衣の下地全面に刷かれ、仏の概略の形を示すためのものであったらしいことなどを観察結果として述べている。
しかし本壁画は、単なる大量生産品と見なすわけには行かない。松本氏が「眉目を引く線や赤衣の衣文を仕上げる描線などに見る手に入った旨味」と述べ、また筆者も先に強調したように数多い千仏遺例にあってむしろ際立って優れた容貌を示し、千仏画像のあるべき様を今日に遺しているとも思われるのである。
さて本壁画断片は、ホータン地域の寺院址から発掘されたと断定してよいが、前記ダンダンウィリク及びカダリク出土のもの(註12)とは一線を画し、いくつかの特徴的で初発性の強い表現から現存ホータン千仏画中では最も古い時期、恐らく7世紀も早い頃のものと思われる。
(田口榮一)
註1 表面は茶褐色であるが、細かく剥落した箇所に明るい茶に近いオレンジ色が見えており、鉛系の丹の使用が推察される。