情報化社会における博物館展示の可能性
青柳正規
いまから117年前の明治10年(1877年)に設立された東京大学には、その歴史の長さに比例するかのように約400万点にのぼる学術資料が収集保管され、教育研究に活用されている。これらの学術資料には自然科学系の標本資料や考古学資料、それに美術品などさまざまな分野と性格をもつ資料が含まれている。この資料群のすべてを概観することが可能なら、東京大学全体の学問の枠組みとその展開の歴史についての、すくなくとも視覚的に把握可能な分野に関してはおおよその全貌を知ることができるであろう。その意味できわめて貴重な資料群(コルプス)なのである。
400万点にものぼる資料群が形成されるまでにはさまざまな経緯をへている。明治時代に招聘されたお雇い外国人教師たちは、西洋近代科学をわが国に定着させるためさまざまな教材、標本、実験器具を携えてきた。また、植物、動物、人類、鉱物など分類学の進展にともない関連資料と標本の充実がはかられた。大正、昭和にかけては、博物学への関心から世界各地の資料が積極的に収集され、戦後再開された海外学術調査がもたらした資料も膨大な数にのぼっている。
これらの経緯からわかることは、資料群を形成するそれぞれの資料グループが次のような異なる動機や目的、あるいは結果によっているということである。つまり、範囲の明確な一定分野の教育に必要とされる教材標本としてのグループ、分類学関係資料に見られる系統的組織的収集によって形成されたグループ、研究者もしくは研究集団の活動結果としてのこされたグループ、行政府の方針によって本学におさめられたグループ、現地調査の成果資料としてのグループ、篤志家等の寄付によるグループなどである。このような性格の異なる資料グループの集合体である本学資料群の総体としての特徴は、歴史的に形成されたコレクションと見做すことができよう。
今回の企画展示のために選択された48点の展示品は、上記グループのいずれかに属する。たとえば、縄文、弥生、古墳時代の展示品は、発見当時の行政府の方針によって本学におさめられたものであり(図録番号1〜9)、中国、朝鮮でつくられた展示品の多くは、本学の研究者が、戦前、研究調査旅行によってもたらしたものである(図録番号13、14、18〜20、27、28、36、38、41)。一方、陶器や絵画資料の多くは篤志家の寄付によっている(図録番号21、42、44〜47)。
展示されている資料がそれぞれに属するグループの性格は、資料自体にとってはいわば後天的に付与された属性でしかない。後天的であるから将来変わる可能性が皆無とはいえない。資料に付与されたこのような後天的属性を通常、「区分」「分類」「来歴」などと呼んでいる。後天的属性を有するのであるから、個々の資料は当然のことながら先天的属性をそなえている。それぞれが生成した、もしくは創出された契機、環境、時代、文化などによって付与されている属性であり、いわば出自と称することのできるものである。この属性は決して変わることがない。唯一変わるとすれば、以前縄文晩期に属すると考えられていた土器が、研究の進展によって弥生前期に同定されるといった事柄であるが、実はこの属性は考古学という近代科学が付与した時代分類、文化分類としての後天的属性であり、先天的属性としての時代、文化ではないからである。 個々の資料が先天的属性である時代や文化をわかりやすい名称や言葉で語ってくれるわけではなく、まして標本ラベルのようなものを独自に携え、明示しているわけではない。研究者たちによって分析、比較、検討が加えられ、しかるべき時代や文化の区分法にしたがって分類された結果として、たとえば、ある土器が縄文前期に属することを知り得るのである。さいわいなことに時代や文化に関する後天的属性は、多くの研究者によってさまざまな角度から検討が加えられ、見直しが行なわれてきただけでなく方法論も確立しているので、一度付与された後天的属性が変更されることは次第に稀なケースとなりつつある。このため、後天的属性があたかも先天的属性であるかのような、あるいは後天的属性だけが資料のもつすべての属性をあらわすかのような受けとめ方をされるようになるのである。
後天的属性をあらわす言葉や名称は理解されやすいように、あるいは認識しやすいように工夫されているので、速やかにしかも広く普及する性格をもつ。適切な区分法であり分類法であるなら、研究者のなかだけでなくその分野に関心をもつ一般の人々のあいだにも浸透していく。つまり、個々の資料や類似の資料群の特徴をさす言葉や名称が、それ自体の表現価値をもって普及するようになり、「縄文的感覚」というような曖昧な使われ方さえされるようになる。資料を理解するために付与された名称や用語は、つねに資料と密接な関係を維持してこそ本来の意味と価値を有するものであるが、その相関関係がないがしろにされていくことによって名称や用語が資料とは別個の価値をもつようになる。このような状況を情報化と称することができよう。研究者にとっては明確な輪郭と定義をもつ用語であっても、それ以外の人々にとっては異なる内容や意味をもちはじめ、受けとめる側によってさまざまに解釈され得る状況だからである。
博物館における展示は、このような情報化した状況のなかで直接資料に接し、関連する情報のなかから適切と思われるいくつかの情報を選択する、つまり情報の再検証もしくは知識化をうながす機会の提供といえるのではないだろうか。研究者は資料と情報の相関関係を検証できるからであり、一般人にとっては多くの情報からより具体的に確認された情報だけを選択して記憶する、つまり情報が知識となるからである。資料が読み取ることのできる情報は今後とも増大することは間違いなく、その意味での情報化はさらに進展する。この増大する情報の質を向上させるには、できるかぎり資料に直接接する機会を増やすことであるが、そのことによってさらに情報化の状況が進捗することも考慮しておく必要がある。
自然史関係の資料、技術史関係の資料もこの情報化の傾向にさらされてはいる。しかし、もっとも顕著な傾向を示すのは文化史関係の資料、つまり文化財である。ある地域、ある時代、ある文化に属する人間が創出したものであるから、自然史資料などと比較するならより多くの後天的属性を付与することができるからであり、その結果、より冗舌になるからである。研究の進展によって個々の文化財はより多くの情報を伝えることが可能となり、それ故に資料と関連情報の緊密な相関関係が崩れ、関連情報のみがひとり歩きをする危険性がある。ある文化財に関する定評、評判はその典型的な例である。この危険性を避けるためには、さまざまな分野の人々が異なる関心とレヴェルにおいて文化財をできるかぎり頻繁に再検証することが必要なのであり、そのことによって情報の質の向上がはかられるのである。しかも、展示された文化財を直接目にすることによって、情報の主体的知識化が促進されるだけでなく、それらの総体と鑑賞者の個としての総体が合体したうえでの判断、つまり感性的判断を下すことも可能となる。この感性的判断こそは、展示品と鑑賞者とを直接結びつける絆であり、そのことによって個人の文化基盤をより具体的、確実なものにするだけでなく、個々人が属する現代の社会と文化の基盤をより強固なものにするからである。
(総合研究資料館長)
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