東京大学植物標本室に関係した人々

大場秀章・秋山忍


三 大久保三郎およびその他の人々


 松村任三と並び矢田部教授を補佐したのが、大久保三郎である。大久保は明治初年東京府知事となった幕臣大久保一翁の子として、安政四(一八五七)年五月二三日に生まれた。明治四年以来米国ミシガン大学にて植物学を修め、さらに明治九年には英国に渡り研鐙を積み、帰国した。明治一一年内務省及び宮内省に勤めたが、明治一四年、東京大学御用掛となり植物学教場助手となった。また小石川植物園にて植物取調を行った。明治一六年一二月に松村任三とともに助教授に任ぜられた。大久保二七歳のときである(松村は二八歳だった)。明治一九年一〇月には帝国大学理科大学助教授に任ぜられた。明治二八年にそれまで一講座であった植物学科に新たに第二講座が設置されることになった。その担当教授となったのが明治二八年四月にドイツ留学から帰国した三好學であった。大久保は同年四月三〇日をもって非職となった。その後、大久保は高等師範学校の教授となったが、東京大学を辞した後はまったく植物学に関係した論述を行っていない。大正一三(一九二四)年五月二三日に死去した。

 大久保も東京大学在職中はよく矢田部を補佐して植物標本室と植物園の充実に努めた。大久保は明治二〇年四月に臼井光太郎、斎田功太郎などと伊豆諸島に植物調査と採集に出かけている(大久保、一八八七)。伊豆諸島は東京から目と鼻の先の島々であるが、大久保らの調査は植物標本室に初めてこの島々からの植物をもたらしたのである。

 明治三〇年に東京帝国大学となった頃から、松村の指導のもとに分類学を専攻した松田定久や矢部吉禎、服部広太郎が中国、対馬、小笠原など各地で植物採集を行った。

 明治三八年度に雇いとなった中原源治は明治三九(一九〇六)年に動物学の飯島魁教授らの調査隊に同行を命じられ、樺太で植物調査を行った。中原は六月から八月の三ヵ月を樺太で調査採集して、およそ三〇〇種の高等植物を採集した。当時松村教授のもとで研究中の小泉源一(後に京都大学理学部の初代分類学担当教授となる)はこの採集品の分類学研究を行い、『中原氏採集樺太植物』(Plantae sachalinenses Nakaharanae)をまとめ、東京帝国大学理科大学紀要二七巻(一九一〇)に発表した。

 また明治三九(一九〇六)年には松村教授は植物園の早田文藏助手とともに、『台湾植物名彙』を前出の紀要二二巻に発表している。

 日清戦争の結果、明治二八年に台湾は日本領となった。翌年大学は台湾学術探検隊を組織し派遣することになり、植物では牧野富太郎助手、学生の大渡忠太郎、植物園の内山富次郎が選ばれて参加した。

 明治三一(一八九八)年、松村は、伊藤圭介の孫で、英国で植物学の教育を受けた伊藤篤太郎と共著で、『琉球植物予報』(Tentamen florae Lutchuensis)を紀要一二巻に発表した。なお伊藤は明治三三年六月に東京大学から理学博士を授与されている。松村教授時代の後半には、琉球、台湾、樺太と日本周辺の植物相についての研究が発展できる状況になっていた。新たな標本の収集が植物標本室のコレクションの一層の充実に寄与したのはいうまでもない。

伊藤篤太郎
伊藤篤太郎(1868−1941)
大久保三郎
大久保三郎(1857−1924)
田代安定
田代安定(1856−1928)
宮部金吾
宮部金吾(1860−1951)
13 創設期の植物標本室に貢献した植物学者


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