東京大学植物標本室に関係した人々

大場秀章・秋山忍


明治一〇年四月一二日に東京大学が創設された。しかし、授業が開始されたのは新学期開始の九月である。

東京大学の分類学研究と植物標本室


 一 矢田部良吉

 この問教員の詮衡が行われていた。表1は明治一〇年度の理学部教授陣とその講義名である。特に理学では当時の日本人で専門教育に携わることができる人物は少なかった。この表からも判るように日本人教授はわずか三名であった。その中で植物学はいわゆる外国人お雇い教師によることなく、初めより矢田部良吉がこれを努めた。これは矢田部がコーネル大学において植物学を修めて帰国していたことが大きい。
表1
表1 明治10年 東京大学理学部教授

 矢田部は生物学科の「生徒」に対して植物学実験及講義という課目の授業を受け持っている。その内容について矢田部の報告が東京大学法理文三学部一覧従明治一三年度至明治一四年に掲載されている。大学の設立当初はほとんど設備もなかった。実験といっても植物の構造を肉眼や低倍率の顕微鏡で観察することがほとんどであった。観察に用いた植物はその都度小石川植物園からもたらされた。

 参考書目からも想像されるように矢田部の講義は、グレー、バルホール、ザックス著の各植物学教科書をもとに一般植物学を講じ、顕花植物の分類ではベンサムとフッカー、隠花植物はザックスによって講義を行ったものと考えられる。植物学がカバーする領域は広いが、まず最初に行われたことは植物の分類についての教育であった。矢田部は英語に堪能で、当時の風習によって英語で講義を行った。

 教育における矢田部の独創性や印象は薄いかにみえるが、矢田部がその植物学教育で従来の本草学と一線を画していたことは重要である。矢田部の植物学は分類学や形態学を重んじるものであったが、分類学においても江戸時代の本草学をふまえた講義を行ったのではない。矢田部の頭にあったのは日本の本草学や本草学者ではなくコーネル大学の植物学であり、その設備であったであろう。

 矢田部が行った研究は日本の植物相を構成する種の解析であり、未知の種に自ら学名を与え発表した。彼は数多くの新種を発表したが、中でも有名なものは新属キレンゲショウマ属の発表である。この発表では通常古典ラテン語の単語をもって命名されることの多い属名に、和名のキレンゲショウマをそのまま用いた。いわゆる土俗名による属名であり属の学名としては稀な例である。

矢田部良吉採集標本
1 矢田部良吉採集標本
矢田部はコーネル大学留学中に植物採集をしている。東京大学時代の標本には採集者名がほとんど記入されていないため、矢田部が採集者であることが明記された標本は少ない。ロシアのマキシモヴィッチはトガクシショウマ(メギ科)に矢田部を記念するYatabeaという属名を準備したが、それより先に圭介の孫である伊藤篤太郎が江戸時代の本草学者小野蘭山を記念したRanzaniaという属名を発表したため異名となった


標本室の建設と「帝国大学理科大学植物標品目録」の刊行
 矢田部の日本の植物学にとっての最も重要な貢献は何といっても彼が植物標本室を創設し、その充実に傾倒したことである。東京大学在職中に矢田部は数十回に及ぶ長日の国内採集旅行を行っている。足跡を残した県は一六に及ぶと松村は書いている。
時計台時代後半の植物学教室
2 時計台時代後半の植物学教室、明治29年頃
『東京帝國大學理學部植物學教室沿革』昭和15年より


 東京大学植物標本室に収蔵された高等植物の最初のものは明治一〇年に採集された標本であった(現在は他機関との交換によってこれ以前の標本が収蔵されている)。矢田部が採集旅行に出向いた主な地方を明治二一年まであげてみる。

明治 一〇年七月 下野日光
      十二月 相模江ノ島、熱海
一一年四月 秩父、三峰、武甲山、上野妙義山、八月高尾山、九月江ノ島
一二年三月 小笠原諸島、七月岩代磐梯山、飯豊山、十二月江ノ島
一三年七月 信州碓氷峠、浅間山、和田峠、下諏訪
一四年七月 箱根、富士山、白山、伊吹山
一五年七月 豊前岩岳、犬ケ岳、霧島、薩摩、嬉野
一六年 箱根
一七年 上野伊香保、信州戸隠、立山
一八年 不明
一九年 上野・越後境清水峠
二〇年 羽前・羽後
二一年 四国

 多くの旅行は後に矢田部の後任となる松村任三、大久保三郎、三好學、内山富次郎らと一緒であった。『明治十四年小石川植物園日誌』(附録一)の七月二〇日の「矢田部良吉殿来廿二日ヨリ四週間石川福井両縣江植物採集之為出張ニ付内山富次郎随行セシメ候事ニ相成リ・・・」はこうした事情を物語るものである。また、この時の矢田部らからの採集品は八月一日に植物園に到着して整理に当たっている。当時の日本は鉄道も発達しておらず、内陸の調査は困難をきわめたものである。このような状況下に標本は着々と収集され、大学の植物標本室として整備されていくのである。

 こうした植物標本収集の成果にかかる出版物が『帝国大学理科大学植物標品目録』であった。これは明治一九(一八八六)年に帝国大学編纂として、丸善から出版されたが、実際に編集に携わったのは松村任三であった。矢田部良吉が序を寄せ、その中でこのことを言明している。松村は緒言で、東京大学植物標本室誕生のいきさつを述べている。松村の記述から、明治一九年当時の標本点数が三、〇〇〇点ほどであったこと(現在は一七〇万点)、欧米諸国の学会や学者と標本の交換を行っていたことがわかる。国外産の植物標本はまだ多くはなく、中国と朝鮮産以外は小石川植物園にて栽培中の植物から作製された標本が多かった。中国の標本はイギリスのフォーブス(F.B. Forbes' 彼はヘムスレイ(W.B. Hemsley)と共に中国産植物の目録を出版している)と交換によって得た標本であり、朝鮮の標本は花房公使が採集し寄贈されたものであった。

サンショウバラ
サンショウバラ Rose hirtula(バラ科)
ヤマブキソウ
ヤマブキソウ Chelidonium japonicum(ケシ科)
サンショウバラ
サンショウバラ Rose hirtula(バラ科)
サンリンソウ
サンリンソウ Anemone stolonifera(キンポウゲ科)
3 東京大学植物標本室のおし葉標本



その生い立ちと生涯
 矢田部は嘉永四(一八五一)年九月一九日に静岡県田方郡菲山で生まれた。父は矢田部郷雲である。郷雲は、砲術家にして蘭学に詳しい江戸太郎左衛門に学び、幕府の講武所教授となり、医書砲術書等の翻訳に従事したが、後に江戸湾に築いた台場の設計にたずさわった。郷雲は良吉五歳の安政四年に没した。

 良吉は沼津で漢籍を学んだ後、慶応初年には中浜万次郎、大鳥圭介に英語を学んだ。開港後は横浜に出てさらに英語を修めた。明治二年五月良吉は開成学校教授試補となり、七月には小助教からさらに中助教になったが、転じて外務省文書大令使になり森有礼に随行して渡米した。しかし、明治四年八月に外務省を辞職する。辞職に際して外務権少録に任じられた。矢田部が辞職するに至った経緯は明かではないが、明治五年九月にコーネル大学の入学試験を受け、植物学を学ぶのである。日本政府は矢田部を官費留学生とすることになった。明治九年六月矢田部はコーネル大学を卒業して、帰国後ただちに、東京開成学校教授を命ぜられ、続いて東京教育博物館長となった。

 明治一〇年に東京大学が設立されるとともに理学部教授に任ぜられ、同時に植物園(事務)担当を兼務する。二五歳であった。明治一九年三月の大学令の改正によって矢田部は帝国大学理科大学教授兼教頭になり、同時に帝国大学評議官も命ぜられた。明治二〇年一〇月には東京盲唖学校長を兼任することになるが、さらに二一年三月には東京高等女学校(現、お茶の水女子大学)校長も兼任する。しかし、明治二四年三月に矢田部は帝国大学教授を非職となる。翌二五年四月に高等師範学校(前東京教育大学)教授に転じた。明治三一年四月には高等師範学校附属音楽学校教授兼理事となり、六月には高等師範学校長兼教授となったが、明治三三年八月八日に鎌倉にて亡くなった。

 矢田部の後、教授となった松村任三は、矢田部について、温和にして淡白、人と交わるに城府を設けず真に泰西理学者たるの風采を具えたり、而して性又磊落奇偉と記している。また、「識汎く理学の一般に及ぶ、故を以て平素の談論往々哲理に渉り時に音楽又は油絵等の品隲し來り、人をして意外の感に打たしめたるもの甚少ならざりき」という。

 松村が矢田部良吉と初めて対面したのは明治一〇年四月頃で、米国から帰国して日の浅かった矢田部の言動風采は米国人を防御とさせるものだったと述懐している。だが、松村は矢田部がすこぶる野放図で、植物園の事務担当になっていても実際は任せきりであったことや、採集した植物の整理もせずに放ったままであったことを書いている。内国での採集植物だけでなく米国で矢田部が採集した植物も放置したままだったという。

 矢田部が東京大学を突然非職となった理由ははっきりとしないが、大学教授にふさわしくない振舞によったものだとする風説もある。




「泰西植物学者諸氏に告ぐ」
 矢田部良吉らは、はじめ外国の植物学者が命名した分類群に精通するのに手間取った。外国に行かねばタイプ標本を見ることができないし、記載を入手することも困難だったのである。彼らが採集した標本についても、標本の植物が誰の記載した何の種に符合するや否やを検討するだけに終った。それが未記載種らしいと思われても、それを独自に学術的に公表することができなかった。比較すべき類縁種のタイプをはじめ、同定の信頼できる標本はなく、文献も不足していたためである。そのため、はじめは標本を外国の専門家に送って鑑定してもらうしかなかった。しかし、鑑定の必要な標本は増加するが、容易に解答が得られぬことが多くなった。日本植物について精密で注意深い研究を展開していたマキシモヴィッチは、ロシアの南下政策に伴ない、中央アジアの植物の研究へと興味を移していた。

 明治二三(一八九〇)年に矢田部は「泰西植物学者諸氏に告ぐ」(A few words of expla-nation to European botanists)と題した宣言文を植物学雑誌四巻第四四号に英文で発表した。矢田部の主張の趣旨は、次のようなものであった。

 自分が日本の植物を研究して一〇年になるが、その間に疑問の植物が少なからずあった。こうした植物の標本を欧米の学者に送って教えを乞うたが、十分な回答を得たことははなはだ少なく、失望した。自分は帝国大学に植物標本を収集し始めた。かつて日本には参照に足る一点の標本たりとも無かったし、文献も無い有様だったが、共に相当数これらを集めることができた。それで私は自分が新種と考察した植物は欧米の学者の手を煩わせずに自分で学名を与え、発表することを決心した。新種ばかりでなく新しく日本に産することが判明したものもある。この植物学雑誌に逐次このような論文が発表されることになるので、その理由を述べておくのがよいと考えた。自分がこうした厚かましい行動に出たのには二つの理由がある。ひとつは訓練することに喜びを覚える良き助力者たちがおり、自分自身の研究も急速に進歩していること、他の理由は種族誌(モノグラフ)を含む三つの著作を準備していることである。

 蛇足だが、この宣言文は日本の植物分類学の現況報告ともいえるが、外国の植物学者が十分な研究も経ずに日本の植物について論じて欲しくないという感情も含まれていたと私は想像する。フォーリーがかのレヴェイユに標本を送るのは明治三〇年以降のことだから、この時点で危惧の対象がレヴェイユであったとは思えない。それよりも明治六(一八七三)年から明治一二(一八七九)年にかけて「日本植物名彙」を出版したフランシェとサヴァチェのことが、矢田部良吉に失望をもたらした植物学者として念頭にあったと考えられる。サヴァチェをはじめフランスからのお雇い外国人技師たちは多数の標本を採集したが、一点も日本には残さなかった。その点は他の外国人も同じである。しかし、サヴァチェの採集した標本量は膨大である。東京大学植物標本室にはサヴァチェがヨーロッパで採集した標本が多数収蔵されている。多分矢田部らはサヴァチェに日本での収集標本の寄贈ないしは交換を希望して文通を行ったと思われる。しかし、彼の日本コレクションはそのすべてがパリの自然史博物館の管理するところとなってしまっていたのだろう。日本で採集した一点の標本も入手できなかったのである。

 フランシェとサヴァチェが「日本植物名彙」で報告した日本植物には今日においてもその正体が判然としないものがある。中井猛之進と小泉源一らはパリ自然史博物館の標本を検討して、その正体解明に努めたが、いまだ十分に研究されたとはいえないのである。さらなる研究が待たれるのである。

 矢田部はこの宣言を踏まえて、シチョウゲ、ヒナザクラの二新種を発表し、次いで新属新種キレンゲショウマを公表した。しかし、日本人として新種を最初に発表したのは矢田部ではない。英国在学中の明治二〇(一八八七)年にトガクシショウマを記載した伊藤篤太郎である。彼はトガクシショウマをサンカクレン属の一新種とする論文をロンドンのリンネアン・ソサエティ発行の学術雑誌に発表し、続いて翌年にはトガクシショウマを単型の新属とする論文をロンドンの植物学雑誌二六巻に発表した。この論文を発表した伊藤篤太郎は、シーボルトの指導を受け日本にリンネの分類体系を最初に紹介した東京大学員外教授伊藤圭介の孫にあたる。また、日本の出版物に最初に新種発表を行ったのも矢田部ではない。これは、「矢田部宣言」の前年に当たる明治二二年で、大久保三郎と牧野富太郎はヤマトグサを新種として発表した。

 このように「矢田部宣言」の後に日本人の植物学研究が開始されたわけではない。むしろ、この宣言は、東京大学における研究水準がようやく植物学といえる状態になったという自己評価であるといえる。「矢田部宣言」直前、当時大学院学生であった三好學もコウシンソウを新種として公表し、さらに翌明治二四年には牧野富太郎がコオロギランを新属として記載した。以降、矢田部良吉、松村任三、牧野富太郎らの植物分類学者により日本からの新植物の記載が盛んに行なわれ、全国規模で日本の植物相の全貌がようやく判明し始めたのである。

 矢田部の宣言文に欧米の学者がどれだけ注目したかは疑問である。研究は自由であり、明治になって創設された東京大学の植物標本室に数倍する日本植物のコレクションがパリの自然史博物館のみならず、ライデンの王立植物標本館、セントペテルブルクの現コマロフ植物研究所にあった。歴史的に重要なコレクションもウプサラ大学をはじめ、すべて海外に存したのである。この当時、東京大学の標本を研究しなくとも、日本植物についての研究を行うことは不可能ではなかった。創設まもない貧弱な植物標本室をさらに発展させた功績は、矢田部良吉を継いで教授となった松村任三にある。



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