精子発見とその意義

加藤雅啓


 東京大学理学部附属植物園の正門を入って坂道を登り、桜林を抜けたところに、一本のイチョウの木(雌)が立っている(図1)。イチョウの木の根元には、精子発見六〇周年記念碑(一九五六(昭和三一)年建立)と説明板が立てられている。イチョウの精子発見は植物園に植えられていたこの雌株を用いた研究によって達成された。


精子の発見と植物園
 今から一〇〇年前の一八九六(明治二九)年九月九日、当時帝国大学理科大学(東京大学理学部)植物学教室の助手であった平瀬作五郎(図2(a))は、イチョウの精子が胚珠の中で泳ぐのを観察したという短い報告(和文)を「植物学雑誌」第一〇巻第一一七号(同年一〇月発行)に発表した。発見の予兆は既にあった。平瀬らはそれより以前に、精子にマイマイに似た渦巻き構造があることを観察している。しかし、事が事だけに慎重を期して、それが実際泳ぐのを見るまでは、精子を観察したことを公表しなかったのである。この段階の研究がいかにわくわくと心躍り、興奮するものであったかは想像に難くない。この精子発見は、種子植物としては初めてのことであった(図3)。イチョウの精子発見とほぼ同時にソテツの精子が池野成一郎(当時、農科大学(農学部)助教授)(図2(b))によって発見された。その精子発見のソテツの株が鹿児島県立博物館から東大植物園に分譲され、正門近くに植栽されている(図4)。このように、学術史上記念すべきこれらの裸子植物が同植物園に系統保存されているのである。

 イチョウとソテツの精子が発見された当時は文化・政治などあらゆる面で西洋に学び、追いつこうとした時代であった。国立の大学も東京大学があるのみであった。植物学の分野では、精子発見の一〇年ほど前に東京植物学会(のちに日本植物学会となる)が発足したばかりで、精子発見の論文が掲載された学会誌「植物学雑誌」も創刊間もない頃であった。このような日本の近代科学の黎明期において、平瀬作五郎と池野成一郎の発見は世界的に大きな反響を呼んだ研究であった。後年、一九一二(明治四五)年にイチョウとソテツ精子発見の功績に対して平瀬、池野両氏に第二回の学士院恩賜賞が授与された。

 イチョウの精子発見は植物園に植えられていた大樹を用いて達成された。樹齢は二八〇年ほどであるから、発見された一〇〇年前は二〇〇年近かった。植物園は約三一〇年前、徳川幕府によってつくられた小石川御薬園に由来する。精子発見のイチョウの木は開園間もない頃からあったことになる。平瀬の身近にこの木があったことも幸いであった。植物園は植物を系統立てて収集・保存する施設である。それらはいつかは研究教育に役立つもので、平瀬によって研究に用いられたこのイチョウは典型例である。植物園のこのゆとりが画期的な研究を生んだともいえる。

精子発見のイチョウ
1 精子発見のイチョウ
池野成一郎
2(b)池野成一郎
平瀬作五郎
2(a)平瀬作五郎
精子の描画
3 精子の描画
(左)平瀬作五郎が描いたイチョウの精子(Hirase(1898)東大理紀要一二巻より)
(右)ザミアの精子(Webber(1897)Bot.Gaz.二四巻より)


精子発見のソテツ
4 精子発見のソテツ



精子発見に至るまで
 平瀬作五郎と池野成一郎という二人の日本人研究者がどのようにして世界に先んじて精子を発見するに至ったのであろうか。話は一〇〇年以上も前に遡る。一八二七年あるいはそれより前、ブラウン(Robert Brown)はソテツ、球果類(針葉樹)などの胚珠がむき出しの状態(裸子)で、子房に包まれていないことを観察し、胚珠(種子)が子房(心皮)によって包まれていないか、包まれているかという点で、裸子植物と被子植物が異なっていることをつきとめた。これは、それまで隠花植物を除いたすべてを顕花植物として分類してきた当時の分類体系に大改正を求めたばかりか、同時にそれぞれの植物が形態的に、発生的にどのように関連しあっているのかを研究する端緒にもなった。

 この頃陸上植物として初めて、動物の精子と同じような運動性の精子がコケ(セン類)で発見された。続いて一八四四年、シダの前葉体で鞭毛をもった精子が発見された。当時は、シダの胞子は種子と同等視され、それが発芽すると前胚(前葉体)に成長し、それから新個体(胞子体)ができると考えられていた。前葉体上の造精器と精子の発見、およびそれに続く一八四八年の造卵器の発見は、シダ植物の生殖についての当時の常識を覆すものであった。同年代に、ラン(被子植物)では花粉が発芽して花粉管ができ、それが胚嚢に到達して、胚嚢の中の卵細胞から胚が発生することが確かめられた。

 このような状況で、ホフマイスター(Hofmeister)はそのような発見の重大性を見抜き、植物の「世代交代」という概念をふくらませた。彼は一八五一年、名著『高等隠花植物(コケ、シダ、トクサ、水生シダ、イワヒバ)の成長、発生と胚形成および球果類の種子形成に関する比較研究』を著し、その中で、植物には有性世代(配偶体)と無性世代(胞子体)が交互に起こることを示したのである。結局、両世代の間には胞子、または配偶子の接合(受精)によって生じる接合子(受精卵)という単細胞が介在し、それぞれの世代はその単細胞から発生することが確かめられた。

 当時一般に受け入れられていた分類体系では、裸子植物は球果類(針葉樹)とソテツ類の二群に分類され、イチョウは球果類に含められていた。ホフマイスターは、生殖的にシダ植物と種子植物の中間に位置するとみなされていた異形胞子をもった水生シダなどに、広く精子が見つかっていたので、球果類でも精子がつくられるかもしれないと述べている。このホフマイスターが示した可能性は当然、平瀬と池野の念頭にあったであろう。

 イチョウの生殖については、著名なドイツの植物学者ストラスブルガー(Strasburger)による研究(一八九二年)が平瀬の研究に先行していた。ストラスブルガーは結果的には精子発見には至らなかったけれども、花粉発芽から花粉管成長を精子の形成前まで詳しく観察した。しかも、ギンナンを定期的に採集して経時的観察を行ったという。平瀬も、精子発見の一八九六年の前に、受精と胚形成が九月初旬に起こることを経時的観察によって確かめている。




他のソテツ類の精子発見
 平瀬作五郎と池野成一郎は精子発見という偉業をほぼ同時に達成したのであるが、ストラスブルガー、ウェバー(Webber)ら世界の研究者もこぞってこの時期に裸子植物の生殖という共通の研究課題に取り組んでいた。イチョウとソテツの精子発見の翌一八九七年、ウェバーはソテツ類のザミア(Zamia)でも精子を発見した。ウェバーがこの年発表した二つの論文のうちの最初のものが印刷中の段階で、「糖分添加培地で精子が二時間四四分動いているのを観察した」というウェバーの報告を編集者のノートとして論文の末尾に記した。二番目の論文で精子が花粉管の中でつくられていることをはっきり図で示した(図3右)。

 他の種類のソテツ類の精子はそれから約一〇年経ってから発見された。一九〇七年にミクロシカス(Microcycas)で、一九一〇年にディオーン(Dioon)で、一九一二年にケラトザミア(Caratozamia)でなど、精子が相次いで発見された。これら一連の研究によって、一種しか現存しないイチョウ類はともかく、一一属二〇〇種余りからなるソテツ類には広く精子が存在していることが明らかとなった。平瀬と池野の先駆的な発見はウェバー以降の研究の原動力になったのである。




裸子植物の系統と進化
 進化的にみて、裸子植物はシダ植物と被子植物の中間に位置する中継ぎであった。裸子植物は、古生代に出現した原始的な維管束植物(シダ植物)の出現・繁栄に引き続いて生まれ、中生代に一世を風びしたが、白亜紀以降現在まで続いている被子植物の繁栄とともに、衰退した。現生の裸子植物は、過去に栄えた多種多様な植物のわずかな生き残りである。その端的な例がイチョウで、裸子植物の四綱の一つ、イチョウ綱の唯一生きている種であり、「生きた化石」と呼ぶのに相応しい。

 裸子植物はいうまでもなく種子で殖える種子植物の甘貝であり、胞子で殖えるコケ植物やシダ植物よりも繁殖の媒体の点で進化している。一方、すべての被子植物と一部の裸子植物(球果類、グネツム類)、つまりほとんどの種子植物の雄の生殖細胞が運動性のない、特殊化した精核(精細胞)であるのに対して、イチョウとソテツ類の裸子植物および隠花植物(シダ植物、コケ植物、多くの藻類)では鞭毛または繊毛をもって運動性のある精子をもつ。イチョウとソテツ類の精子発見は、これらの裸子植物が雌の生殖器官として胚珠(種子)を進化させながら、雄の生殖細胞としては原始的な精子を保持し、原始的な特徴と進化した特徴を合わせもっていることを明らかにしたのである。

 シダ植物やコケ植物が精子をもっていることは生殖上不可欠なことであるといえる。これらの植物は受精するとき、露とか雨水のような外界の水の中を精子がかなりの距離を泳いで、卵に到達する。一方、裸子植物では花粉は珠孔と呼ばれる穴を通って胚珠の中(花粉室)に入ってから発芽するので、精子または精細胞と卵細胞の距離は比較的短い。球果類では卵細胞は胚珠の中心にある珠心の奥にあるため、花粉管は長く伸び、精細胞によって受精が起こる。被子植物では、めしべの柱頭で花粉が発芽した後、花粉管が非常に長く伸長して、卵細胞にたどり着く。イチョウとソテツ類では花粉管は珠心に固着するはたらきがあり、そのため少し伸長する程度である。卵細胞は珠心の表層近くにあって、放出された精子が泳いで卵細胞に達する。このように裸子植物では、被子植物と同様、植物体内の水を利用して受精が起こる。しかし、なぜ、またどのようにして、イチョウとソテツ類が精子のままとどまったのに対し、球果類や被子植物などでは鞭毛がなくなって精細胞になるという生殖上の進化が起こったのかは、はっきりとはしない。    (かとうまさひろ)



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